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コスプレ?

    2


 月日が経つのは早く、気がつけば16を迎えていた。翼はより大きく成長し、羽根は鋭利さを増し、羽毛はより光沢を放っていた。海原や木の生い茂った森に翼を広げて立ったなら、光沢が鏡のような役割を果たして、ある種の迷彩的な遊びもできたかもしれない。


 13歳のあの日に何も持たずに研究所を飛び立ち、この歳まで健やかに育つことができたのは、自然が私を受け入れてくれたからだった。




 小さな世界から逃れて、夜空に紛れたあの日から、ただ大空を泳ぐだけの日々を過ごしていた。身体の器官と生理的欲求は深く関連してるものだが、私にとって翼というのは性器や胃袋と同じだけの価値を持つ身体の一部品であった。しかし研究所では翼を広げることも大気の雄大さを感じることも難しく、ずっと抑制されて育ってきた。加えて、あの頃の私は第二次成長期を迎えており、それが私の飛翔欲をより高めていたのだろう。


 その欲求を満たすことは本能に従うことと同義であって、何も考えずあるがままに空を滑空する生活というのは楽園のようでもあった。私はどんな有能なスポーツ選手よりも、どんな万能な科学技術の飛行機よりも、世界中のあらゆる鳥よりも高く飛んだ。


 食事をするときだけ地上に降り立ち、魚を捕まえたり、森の生き物を捕まえたりして、乾いた枝を拾っては翼の鏡で太陽の光を集めて火を熾した。最初の頃はなれなかったが、そんな習慣も少しずつ当たり前になっていった。


 ただ、他の人間と関わることだけはずっと避け続けていた。研究所を抜け出したあの日から私の棲む世界は一変したが、それは周囲が変わったというだけで、私自身はどこも変化していなかったし、相変わらず異形の化け物のままだった。どこに行ったところで迫害されて悲惨な末路を辿ることは目に見えていたし、ならば今みたいにほとんど野鳥のようにして一生を消費するのも私らしいといえるのかもしれない、と思っていた。


 しかし未練はどうしても残っていて、ときおり都市の上空を遊泳すると、下界に目を落とすこともあった。脱走の日から3年ほど経った頃、その様相に徐々に異変が生じてるのに気づいた。都市部に向かうほど、その変化は顕著に現れていた。何が起こってるのかはわからなかったが、異変に気づいてから3カ月後には都市部の人口が1割まで減っていた。車の交通量も同じくらいめっきり減っていた。


 調査のために、4カ月後にようやく田舎町に降り立った。商店街を歩くのも住宅街を歩くのもそのときが初めてだった。降りる前は不安が胸のうちを埋め尽くしていたけど、いざ入ってみると、活動してる人々は一人もいなかった。商店街ではどこもシャッターを下ろしていて、住宅街ではどの住宅もカーテンを締め切っていた。


 路肩や路側帯には水気の抜けた落ち葉が風で吹き寄せ集められていて、歩道は綿毛のような灰色の塵埃で薄く覆われていた。落ち葉の上を歩けばシャカシャカが音が鳴ったし、塵埃の上を歩けば二列の足跡が点々と残った。


 両脇の建物と地面に太陽の光が反射して四方から照らされた。夕方に近づくと、光彩はオレンジ色に変わって、その色の霧の中を歩いてるような気分だった。


 それだけの時間をひたすら進み続けて、ようやく視界の左に目新しい建物を見つけられた。『タナカ電気』と表記されてる看板の下に大きなガラスが嵌まっていて、その後ろはシャッターで閉ざされていたが、その手前には稼働中のテレビがあった。


 放送されてるニュースの日付は1カ月前のもので、画面に映った都市部の映像もおよそ1カ月前のものだった。テレビ局の人間も、アナウンサーや記者たちもきっと今はこの街の住人と同じように家に籠りきりの生活を送っていて、それで目の前のテレビも毎日同じ映像を飽きることなく吐き出し続けてるのだろう。


 ニュースによると、最初のパンデミックが起こったのは4カ月前のことだという。


 中国で発生したAPHウイルスは、潜伏したまま世界中に渡った。当の中国で、発症が始まったのが4カ月前のことだった。、その情報が日本に入って、ウイルスの存在と事態の深刻さに気がついた頃にはすでに一手遅れていた。


 APHウイルスは凶悪で、日本の人口はすで半分まで削り取られてしまった。画面上の放送日から現在まで、無期限の自宅待機命令が発令されていて、


「――また皆さんの日常が戻りました頃に再会できたらと思います」


 とキャスターの挨拶を最後に、何度目になるのか、また冒頭からニュースが流れ始めた。


 私は自分が数ヵ月前までいた研究所に思いを馳せる。数ヵ月まで私の世界のすべてだった。あの堅牢で閉鎖的な建物ならウイルスなんて寄せつけずに、パンデミックとは無縁でいられるのではないだろうか。それは疑問というより願望だった。半分にまで人口が削り取られてることからもわかるように、感染者の死亡率はかなり高いのだ。感染してしまった場合、あの不健康そうな渡嶋さんの無事は期待できなかった。私の脱走に手を貸したことで渡嶋さんの処遇がどうなったのかは知らないけど、もしあそこに留まって勤務を続けてるなら……胸の内だけで静かに願った。


 そうでいて欲しかった。おばさんの顔を思い浮かべようとすると、その顔はいつも笑っている。それだけ笑顔が似合う女性だった。太陽よりも、私の翼よりも明るく輝いてるのが彼女の笑顔だった。その笑顔が、この世から消え去ってしまった可能性なんて考えたくもなかった。


「おい、何をしている」


 アスファルトを叩く足音が聞こえたかと思うと、力強い口調で突然呼びかけられた。


「はい何でしょう」


 振り返ると、紺色の制服を着た警察官の男性がいた。口と鼻を魚眼レンズに使えそうなほどに分厚いプラスチックのマスクで覆っていた。男性の息がこもってるようで、透明のマスクは白く曇っていた。


「何でしょうじゃない。今がどんな状況かわかってるのか」


 男性警察官は私から必要以上に距離を取るようにして、大声を浴びせてくる。


「感染のことを仰ってるのでしょうか?」


「当たり前だろう。命令が解除されるまでは自宅待機。これは法律だ」


「しかしAPHウイルスは接触感染なんですよね。あなたを除けば現状私の周りに人はいません」


「個人個人の問題を追及してるのではない。一人がルールを破ったらまた別の人間もルールも破る。結果感染は止まらなくなり、さらに死者が出る」


 警察官はようやく私の翼に気づいたようで、話をやめて、訝しむような視線を向けた。私はもっと早くから気づいていた。化け物だと罵られ発砲でもされようものなら、その瞬間飛び立って逃げるつもりだった。


「コスプレという奴か?」


「コスプレとは……」


 私の知識にはコスプレという語彙がなかった。


「紅白での小林幸子もその一種だろうって……そんな無駄話はいいんだ。やけにキラキラ輝ているが、作

り物なんだろう?」


 警察官はどうやら都合の良い勘違いをしてくれてるらしかった。


「そうなんです。自画自賛ですが、中々に精巧な作り物でしょう」


「うん、そうだな。中々の出来栄えだ。しかしそれだけの荷物を背中に背負っていては重くはないのか?」


「中身は空洞でできてますので」


 私がそう言ったとき、一陣の強烈な風が吹いて、ポールの上に置かれていた空缶がすっ飛んできた。風に乗ったその空缶は、警察官の横顔を狙ってるようだった。直後、私は考えもせず反射的に翼を伸ばして、空缶を弾き飛ばしてしまっていた。


 カ、カッ、コロン、カラン。


 けったいな音を鳴らしながら空缶は着地して、道路に転がった。しかし二人の注意は今や空缶のほうには向いてなかった。警察官の視線は顔の横にある翼に完全に釘づけになっていた。あれだけ間近で観察すれば、一枚一枚の羽根を形作る細かい毛や隆々とした骨格の形がはっきり判るはずだ。私の翼がコスプレとやらでないことが彼の中で確定してしまった。


 逃げるなら今だと決意したとき、


「よく出来たコスプレだなあ」


 いかにも感心したように言うので、私は思わず「えっ」と声を漏らした。彼は心外だと言うように眉を曲げて、


「コラ、きみ。年寄りが皆審美眼を曇らせてると思ったら間違いだよ。私にだって素晴らしいものとそうでないものの区別はつく。なるほどなあ、最新のコスプレはここまで進化していたのか」


「……………」


 勘違いは留まることを知らないようだった。




 素晴らしいものを見せてもらったからという理由と、このご時世に厄介な仕事を増やしたくないという理由から、補導の書類手続きは勘弁してやるから、家の位置を教えなさいと言われた。送り届けてくれるつもりらしかったが、生憎研究所育ちの私には家と呼べるものがなかった。


 上手い言い訳も思いつかず、曖昧に言葉を濁していた。すると、彼はまた一つ誤解をしたようで、私を家出少年だと思ったのか、


「数日くらいなら私の家に泊めてやるからついてきなさい」


 それが職務の一部だと確信してるような口調で言った。


「そんなことまでして頂くのは申し訳ないです。この町から出てけというなら今すぐ出ていきますので」


「いいんだよ、遠慮なんてしても仕方ない。どうせどこに行っても警察官がうろついてるだろうし、きみなんてまた捕まるのが落ちだ。恐らくそのときには私のように見逃してはもらえないだろうよ」


 空へ避難しますので心配要りません、とは言えなかった。翼を見られたときは問答無用の差別と虐待を覚悟していた私だから、その想定が裏切られて安心してしまっている自分がいた。今さら本当のことを明かすのは怖かった。


 だから代わりに、


「このご時世ですので。潜伏してるだけで、私だってすでに感染してるかもしれませんし、家に泊めたらあなただって不安な思いをするだけでしょう」


「はあ? お兄さんはもしかして世間知らずという奴なのかな?」


「………………………」


 小さな研究所が世界のすべてだった私には、確かに世間なんて知る機会はなかった。しかし彼が言ったのはそういう意味ではなかったらしく、


「APHウイルスの感染力を思えばこの距離でマスクをつけて話していても感染してしまうだろう。数ヵ月前まで流れてたニュースではマスクの有効性が散々語られていたけど、本当はそんなもの尻の突っ張りにもならないことくらい皆理解している。友人や家族や周りの人間が感染してるのを見てれば言われなくてもはっきりわかる」


「…………ですけど、やはりそれだってあなたが泊めてくれる理由にはならないでしょう」


 それでも食い下がると、警察官は最後に本音を漏らした。


「こんな世の中だから、人と話すのは久しぶりなんだ」


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