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後編

「まだ…………恨んでいるのですね」


 王都唯一の女子修道院の内側、応接室として使われる一室で。

 ジュリアン第二王子は、白い頭巾をかぶった紺色の上下の女性に独り言のように語りかける。


「貴女の恨みは、私の落ち度です。私があの時、もっと早く駆けつけていれば…………」


「いいえ、殿下」


 修道女クロエはジュリアンの目を見つめて、きっぱりと言いきる。


「殿下は、できる限りのことをしてくださいました。あの日、殿下が駆けつけてくださればこそ、私はこの程度の傷で済ますことができたのです。殿下が助けてくださらなければ、私は絶望に自ら命を断っていたことでしょう。どうぞ、ご自分をお責めにならないでくださいませ。――――すべての責任は、ダルトン公爵令嬢にあります」


 一瞬、灰色の瞳に熱い憎しみが宿る。

 けれどすぐにその熱は引き、修道女は第二王子から視線を外した。

「すべては終わったこと」、そう語るかのように。


「クローディア。ディア…………」


 青年の唇からこぼれた懐かしい愛称に、ほんのわずか、クローディアの瞳と心がゆれる。

 それをごまかすためか、あえてしっかりした口調で修道女クロエは話題を変えた。


「それにしても、不思議です。ダルトン嬢は何故、ご自分から不正の証拠となる書類を、私に預けたのでしょう。それも、最終的には国王陛下に届けてほしい、だなんて」


 ディアナ・ダルトンがクロエに渡した『聖女の不正の証拠』。

 それは、実は()()()()()()()()()()()不正の証拠だった。


 コート枢機卿やモット卿と手を組んで大神殿への寄付を横流ししていたのは、聖女ではなくダルトン公爵令嬢だったのだが、あの書類を渡された時のクロエの動揺と疑念は、彼女の生涯でも屈指の衝撃だった。

 なにしろ罪人が、自らその証拠を渡してきたのだから。

 第二王子も「医師の推察ですが」と前置きして語る。


「ダルトン嬢が愛読していたという小説の中に、同じような場面があるそうです。悪辣な聖女に命を狙われていた主人公の公爵令嬢が、聖女の不正を入手して、それを国王陛下に渡して、逆に聖女を告発する――――そういう展開だったとか。自分を小説の主人公と重ねていたダルトン嬢は、その筋書きをなぞったつもりで、自身の不利となる書類を貴女に渡したのではないか。それが彼女を診察した医師の見解です。小説の中でも、主人公は自分の恋敵であるキャラクターに、報酬と引き換えに証拠を預けていたとか。ダルトン嬢にとって、そのキャラクターと重なったのが貴女だったのでしょう、と」


「…………なるほど」


「おかげで、こちらは労せずして彼女の不正を暴くことができました。皮肉なことですが」


 ジュリアン王子は淡々と語る。

 ディアナ・ダルトン公爵令嬢との婚約破棄は、ジュリアン王子の一存でも、ましてや心変わりが原因のわがままでもなんでもない。国王および重臣一同が正式な会議の末に決定した、正式な王命だ。

 理由と原因はダルトン嬢の行状。

 ディアナ・ダルトンは寄付金の不正流用ばかりか、聖女に対する数々のいやがらせ行為により、聖女だけでなく、聖女を預かる大神殿をも敵にまわしていた。

 それでなくとも、数年前から平民の娘達に対する残酷な行為で評価を落としていた人物だ。

「将来、王妃の座に据えるには危険すぎる」という結論で、第二王子はむろん、国王や大臣達も一致したのである。

 約束されていたはずの栄光の未来を奪われ、焦ったディアナはその不安や恐怖から一気に阿片の吸引量が増え、それにより、愛読していた本の影響をうけた妄想が進んで現実と同一視した結果、「自分はディアナとは別の人格、リナである」と思い込み、悪辣な聖女や浮気者の婚約者による断罪を逃れるため、そして真実、自分を愛する王太子との結婚のため、聖女の不正の証拠と思い込んだ己の不正の証拠を、クロエに預けたのである。

 現実には、聖女セリナは民への奉仕に邁進する慈悲深い女性で、ジュリアンと彼女の仲もディアナが勘ぐるようなものではなく、まして王太子はすでに隣国の王女との婚約が整って、ディアナのことなどなんとも思っていなかったにも関わらず、だ。

 すべてはディアナの妄想、いや、願望だったのだ。

 己の不正の発覚を恐れる心が、聖女の人気を妬む心が、自分を罪人と責める第二王子を憎む心が、王妃の地位を求める権力欲が、聖女や第二王子達こそ悪人であり、自分は憐れな被害者である、という妄想を信じ込ませたのである。


「ダルトン嬢は()()のため、ダルトン公爵領に移りました。おそらく王都に戻ることはないでしょう。ーーーー貴女も、どうか心安らかに」


 ジュリアン王子は席を立ち、修道女に騎士として第二王子として丁重に礼を述べて別れの挨拶をかわしてから、王家の馬車に乗って去っていった。

 クロエはそのうしろ姿をしばらく見守る。


『まだ…………恨んでいるのですね』


 彼の問いがよみがえる。


(ええ、もちろん)


 口に出せなかった答えを心で返す。

 修道女クロエは、スワン男爵の娘、クローディア・スワンとして、父と共に王宮に出入りしていた。父からピアノを習うジュリアン殿下の、合奏相手として。

 しかしクローディアとジュリアンの間にはなにもなかった。

 あるはずがない。相手は王子だ。

 たとえ練習中でも、教師である父は言うに及ばず、護衛や侍従や扶育官がさり気なく練習室の隅にひかえて見守り、一休みのお茶菓子をいただく時も侍女や女官達が侍って、授業の様子は扶育官から逐一国王や王妃に報告される。間違いなど、起きる隙もない。

 二人の仲を疑う噂があったのは事実だが、それはあくまで、そういう王族の暮らしを知らない下級貴族だからこそ生じたのであり、実情を知る上流貴族は、むしろそのような噂を信じることこそ下流の証とばかりに、つまらない噂を鼻で笑っていた。

 では何故、名門中の名門であるダルトン公爵令嬢が、クローディアとジュリアン殿下の仲を怪しんだのか。

 これは彼女が生来猜疑心が強くて、自身のものを奪われることを許さない強欲な性格であったことも影響しているだろうが、とどのつまりは口実だろう。

 ダルトン公爵令嬢はクローディアを貶める理由がほしかったのだ。

 それで「クローディア・スワンはディアナの婚約者である第二王子を誘惑する、不埒な女である」という色眼鏡で見て、それを真実と思い込んだのである。


――――あの日のことは、今も鮮明に思い出せる。


 三年前、クローディアはダルトン公爵の別荘でディアナが催した、小規模なパーティーに招待された。ごていねいに、高価なレースをふんだんに用いた贅沢な絹のドレスまで添えられて。

「これを着てパーティーに来てほしい」、そういう言伝だった。

 自身は貴族の身分を持たないクローディアは当然、遠慮したが、公爵令嬢に重ねて招待されれば、固辞することもできない。

 クローディアは父にジュリアン殿下への報告を頼んだうえで、贈られたドレスを着て別荘に赴いた。

 はたして、そこで起きたのは。


「まあ、なんて無作法な! 公の場で絹のドレスを着ていいのは、貴族だけよ! 成り上がり男爵の娘ごときが、勘違いもはなはだしい!!」


 パーティーがはじまって早々、ディアナはクローディアを非難した。大勢の招待客の前で。


「で、ですがこれは、ダルトン嬢が用意してくださった…………」


「まあ! 平民が許しなく公爵令嬢たるわたくしに話しかけるなんて! とことん礼儀知らずだこと! スワン男爵も、どうして娘をしっかり教育しておかないのかしら!!」


 反論も弁解も許されなかった。

 周囲からは、くすくすと嘲笑の声と視線が送られてくる。

 そうか、こうやって笑いものにするために、公爵令嬢は自分を呼んだのか。

 理解したクローディアはいてもたってもいられなくなり、


「失礼します」


 と、ただ一言、頭をさげて広間を退出しようとした。


「お待ちなさい。話はまだ済んでいなくてよ」


 ダルトン公爵令嬢はクローディアを呼びとめた。


「貴女のように礼儀を知らない思い上がった恥知らずは、他の方にも()()していただくべきだわ。幸い、今日は名だたる高貴な方々ばかりをご招待しているのよ?」


 …………あの日、あの時、起きた出来事を、クローディアは生涯忘れることはない。

 クローディアは追われたのだ。

 ()()()()()として。

 集められた十人ほどの貴族の男達――――コート枢機卿やモット卿といった面々は、絹地用の断ち切りばさみを手に、クローディアのドレスを切り刻みはじめたのだ。

『悪い子だ』『身分をわきまえぬ恥知らずな娘には、我々貴族からお仕置きだ』『庶民は絹を着てはならないよ? そのドレスは脱がなければね』

 そう、口々に言いながら。

 耐えきれずクローディアが逃げ出すと、男達は笑って彼女を追いかけてきた。

 名門出身の、世間では枢機卿だの高級官僚だの大臣補佐だの、立派な肩書を背負った男達のにやにや笑う、おぞましいほど醜悪な顔は、今でも一人ひとり思い出すことができる。

 あとから知ったことだが、ダルトン嬢は何人もの下々の娘を餌食に、高位の男達の下劣な趣味を満たすことで、独自の人脈を作りあげていたのだ。

 クローディアはドレスを切られ、髪や下着にまではさみを入れられ、半裸状態で壁へと追いつめられた。

 そのままなら、クローディアもこれまでの被害者達同様、とりかえしのつかない傷を負っていたに違いない。

 だがクローディアは、父から事情を聞いて飛んできたジュリアン殿下が寸前で間に合い、かろうじて救われたのである。

 ジュリアン殿下は本気で婚約者を責め、厳しい口調でダルトン嬢を叱り、非難した。

 だがダルトン嬢は殿下の言葉が理解できなかった。

 彼女は本気で、ジュリアン殿下が怒っていた理由がわからなかったのだ。

 真顔できょとんと首をかしげるディアナの姿は、クローディアの目には異質な怪物にしか見えなかった。

 招待主と招待客が高位貴族ばかりだったため、第二王子の懸命の嘆願にも関わらず、この件は不問に付された。

 当時、政治的な理由から、国王には筆頭貴族であるダルトン公爵家と強く結びつく必要があり、公爵にディアナ以外の娘がいない以上、平民の娘一人のために、公爵家や有力貴族達との関係を悪化させることはできなかったのである。

 ただ、事情を考慮して、クローディアにはダルトン公爵から慰謝料という名目の口止め料――――山のような宝石とレース類が贈られたし、スワン男爵にも王立音楽院の学院長の座と、王都の一等地に公爵が所有していた小さいが瀟洒な館が譲られた。

 一方で肝心のダルトン公爵令嬢は、国王と公爵の命令で監視役の侍女の数が増やされたものの、第二王子の婚約者という立場は守られたし、ディアナ自身はこの件について、


「わたくしは不作法な平民に注意しただけ。ちょっと厳しい内容になって、大勢の前で恥をかかせてしまったかもしれないけれど、間違ったことは言っていないし、わたくしは悪くないわ。なのに、男爵の娘と懇ろだったジュリアン殿下が大げさに騒ぎ立てて、わたくしを非難したのよ。わたくしという婚約者に対して、殿下は不誠実だわ」


 という理解に落ち着いたらしかった。

 一見、身分やそれにからむ政局を理由に、ダルトン嬢の地位は守られたかに見えたし、ディアナ自身がこの件で懲りて学習して行状をあらためていれば、彼女の地位も安泰だったかもしれない。

 だかディアナは懲りなかった。

 阿片の影響もあったのか「わたくしは悪くない」「わたくしは被害者よ」と確信した彼女は、今度は聖女を標的にした。

 聖なる力を揮って民を助け、大勢の人々に慕われる聖女を自分の『敵』と認識し、「わたくしから婚約者の殿下を奪う悪女」と決めつけて様々な嫌がらせをくりかえし、ついには聖女の後ろ盾である大神殿を敵にまわすにいたったのである。

 国王も公爵も、今度はディアナを庇わなかった。

 神殿と関係の悪い王子妃は政治的にも価値が下がるし、まして民衆の絶大な支持を得て、強い力も有する聖女を敵にまわすなど愚の骨頂だ。前歴もある。

 クローディア達の件は不問に付されたが、事実がなくなったわけではなく、ただ「責められずに終わっただけ」にすぎない。

 状況が変われば、蒸し返されるのは当然の帰結だった。

 端的にいえば、ダルトン公爵令嬢より聖女のほうが政治的価値が高いと判断されたのである。

 かくて、ディアナ・ララ・ダルトンは『第二王子妃には不適格』の烙印が押され、正式な発表の前にジュリアン王子から内々に知らせをうける。

 あるいはそれは、ジュリアン王子からの婚約者への最後の優しさだったのかもしれない。

 だが己の正しさを常に信じるディアナは、その決定に対して「わたくしは被害者だわ」という信念をあらためることができず、「自分の栄光が不当に奪われる」としか理解できなかった結果、聖女の失脚を狙って今回の墓穴を掘ったのだ。


「本当に…………どうして私が協力すると思ったのかしら」


 クロエは心底腹立たしく、一方で心から不思議そうに吐き捨てる。

 阿片の作用があったとはいえ、協力を持ちかけてきたということは、しょせんディアナはクローディアに対して、本気で悪いことをしたとは思っていなかったのだろう。

 彼女にしてみれば「あの程度のことで、いまだに怒っているはずがない」「報酬をちらつかせれば引き受ける」、その程度の内容だったに違いない。

 だがディアナが提示した報酬は、クロエにとって価値のないものばかりだった。

 ドレスも宝石も、修道女には不要だ。還俗も必要ない。ましてや縁談など。

 ディアナに陥れられた、あの日から。

 クローディアは男性に近づけなくなっていた。

 まったくの別人と頭では理解していても、男性を見るだけで、あの時のあの男達のいやらしい笑顔がちらついて、おぞましさと恐ろしさで動けなくなってしまう。

 例外は父と、あのとき助けてくれたジュリアン殿下だけ。

 男と暮らすくらいなら、一生一人でいたほうがマシだ。まして結婚など。

 だからクローディアは修道院に入った。

 ダルトン嬢は、クローディアが「ジュリアン殿下との仲を国王陛下や貴族達に咎められ、王宮を追い出されて実家にも居づらくなり、修道院に行くしかなかった」と解釈していたようだが、現実にはクロエは自ら望んで修道女となったのである。

 今、クロエは、ダルトン公爵から支払われた巨額の口止め料の半分を寄付したおかげで、修道院では厚遇され、専属の侍女をつけることが許され、掃除や洗濯といった下働きも免除されて、一日中ピアノを弾いて過ごしても怒られない。

 なにより修道院(ここ)には男がいない。

 出て行く選択など、あるはずもなかった。

 還俗は、クロエにとってもっとも価値のない報酬だったのだ。

 ふと、クロエの脳裏に一つの仮定が生まれる。

 もし、ディアナ・ララ・ダルトンが心からあの時の罪を詫び、そのうえでクロエに協力を求めていたら。

 自分は彼女に協力していただろうか。

 クロエは沈思黙考する。

 そして結論を出した。


「いいえ。していないわ」


 何故なら、ディアナ・ダルトンはそれだけのことをクローディアにしたから。

 かろうじて純潔は守られたが、あの時の恐怖や絶望、おぞましさは一生、忘れることはできない。男性に対する恐怖はクロエの中に残りつづけ、傷は死ぬまで疼きつづけることだろう。それだけのことをされたのだ。

 謝られたところで、許すことなどできるはずがない。

 ましてディアナ・ダルトン自身が「謝罪する気はない」と宣言し、それを「無駄なこと」とまで言いきったのであれば。

 仮に真実、阿片の作用で別の人格が生まれていたとしても。

 それがなんだというのか。

 たとえ世界中の人間がダルトン嬢に味方して「もう許してあげたら」と言っても。

 天の神すら令嬢を愛して、クロエを「不寛容だ」と責めて不幸を送りつけたとしても。

 クロエもクローディアも一生、ディアナ・ダルトンを恨みつづけて、後悔しないだろう。

 クロエの耳に一つの言葉がよみがえる。

――――あなたのわたくしへの憎しみが本物なら、なおさら今ここで謝ったところで、あなたの溜飲は下がらないでしょう――――


「言葉の通じないお姫様だったけれど…………ただ一つだけ、真実を知っていたわね」


 くすり、と嘲笑とも冷笑ともつかぬ笑みをこぼして。

 修道女クロエは白い頭巾を夕暮れの色に染め、修道院へと戻っていった。






 後年、歴史書には「ジュリアン第二王子の最初の婚約者、ダルトン公爵令嬢ディアナ・ララ・ダルトンは不治の病を得て、婚約を解消。実家の公爵領に戻った数ヶ月後、療養の甲斐なく死亡」と記され、ジュリアン王子妃には別の女性の名が記録されている。

 スワン男爵は名ピアニストとして、娘である修道女クロエことクローディア・スワンも数多くの優れたピアノ曲を遺した作曲家として、共に音楽史に名を刻んだ―――――

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[良い点]  ある意味最も現実的で誰も幸せにならない「異世界転生」。  おクスリダメ、ゼッタイ。 [気になる点]  己が己ではなくなる恐怖と快楽を天秤にかけた上でおクスリを取るってどんな感覚何でしょう…
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