前半 32
冴木は、ショッピングモールの駐車場に車を止めると、車に乗ったまま、しばらく待機していた。
ショッピングモールの駐車場を選んだ理由は、ある程度の車が止まっているだけでなく、長時間駐車していても、不審に思われづらいためだ。そんな冴木の思惑どおり、今のところ襲撃を受けることもなければ、監視の目なども受けていない。とはいえ、このことは翔のおかげとも考えられた。
やったことといえば、車とスマホを変えただけだが、そんな単純なことがむしろ効果的だったのかもしれない。冴木はそんなことを感じて、翔の提案に乗って良かったと思えた。
ただ、自分達と別行動を取った翔が無事かどうかという心配はあった。それは、美優の方が当然強いようで、翔と別れてから、ずっと不安げな表情を浮かべている。そんな美優を、冴木は特に言葉をかけることなく、見守っていた。
そんな時、メッセージが来たことを伝える通知音が、冴木と美優の持つスマホ両方から聞こえた。このスマホは、冴木と美優、そして翔の三人だけで連絡するために用意したようなもので、こうしてメッセージが来た時点で、翔からだとすぐわかった。冴木と同じように、そのことを知る美優は、慌てた様子でスマホを操作し、それから笑顔を見せた。
「翔、無事みたいです!」
嬉しそうな美優の顔を横目に見つつ、冴木もスマホを操作し、翔から来たメッセージを確認した。そこには、今も無事であること。和義に車とスマホの確認をお願いしたこと。今後は光などの指示を聞きながら、美優を襲撃する危険がある者を排除すること。そうしたことが簡潔に書かれていた。
「翔が無事で、俺も安心した。まあ、何かしらかの無茶をしていそうだがな」
「そうですね……。それに、翔には少し休んでほしいというか……それこそ、このまま何もないなら、翔には何もしてほしくないです。私を襲う可能性がある人を排除するとか、そんなことしてほしくないです」
美優の思いを聞き、冴木は少しだけどう言おうかと考えてから、口を開いた。
「そうした美優の思い、そのまま翔に伝えればいいと思う」
「……私は伝えたつもりです。翔はTODに復讐したいと言っていますけど、それも私は反対で、そうしたことも伝えました。でも、難しいですね……」
「本当に伝えたいことは、何度も伝えればいい。美優も気付いているかもしれないが、翔は確実に変わり始めている。それは、美優のおかげだ。だから、今はまだ伝わらなくても、いつかきっと伝わると信じろ」
冴木がそう言うと、美優は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。はい、そうします」
その時、今度は冴木のスマホにだけメッセージが届いたことを伝える、通知音が鳴った。自分にだけ伝えたいことがあるのかと察して、冴木は美優に見えないよう、メッセージを確認した。
そこには、篠田が殺されたと書かれていた。刑事の浜中から聞いたもので、まだしっかりとした確認は取れていないとしたうえで、恐らく悪魔によるものだろうといった、現状わかっていることが簡潔に書かれているのを見て、冴木は美優の前で動揺しないように努めた。
「冴木さん、どうしたんですか?」
ただ、心配した様子の美優を見て、表情に出てしまったのだろうと冴木は察した。
そもそも、篠田が殺されるなど、冴木の想定外だった。というのも、篠田は美優と別行動をしているため、巻き込まれる形で殺されたわけじゃない。また、美優と近い関係でもないため、ターゲットの家族や友人が殺されたといった話とも違う。そう考えると、悪魔は直接的にディフェンスの篠田を標的にしたことになり、そこまでするのかといった驚きが強くあった。
それだけでなく、突然目の前に現れ、付きまとってきた篠田に対して、冴木は迷惑に感じつつも、過去と向き合うきっかけをくれたと、内心感謝していた。篠田の様子を見る限り、自分に気があることを察していて、その気持ちに応えるつもりはなかったものの、何かしらかの礼をしたいといった思いや、TODが終わった後も何かしらかの理由で付きまとわれるのだろうと考えていた。
そんな篠田が殺されてしまったという事実を、受け入れるのは難しかった。しかし、冴木は一息ついて気持ちを落ち着けると、真っ直ぐ美優を見た。
「美優にメッセージを送らなかったということは、伝えるべきかどうか、俺に判断してほしいということだろうな。俺は、伝えることを選択する。落ち着いて聞いてくれ。……篠田が殺された」
「え?」
美優は、冴木の言葉を理解できないようで、固まってしまった。それから少しして、美優は落ち込んだ様子で顔を下に向けた。それを見て、冴木は美優の腕を掴むと、無理やりこちらに顔を向けさせた。
「篠田が死んだのは……それだけじゃない! セーギや担任の須野原、それに自害した桐生真の件もそうだ! 全部、美優のせいなんかじゃない! だから、自分を責めるな!」
美優は驚いた表情だった。それは、冴木の言ったことが、図星だったことをわかりやすく表していた。
「一年前、緋山春来もそうだった。家族やディフェンスが殺されたことを自分のせいだと責めて、そんな彼に俺は何も言えなかった。あの時、悪いのは家族やディフェンスを殺した悪魔で、君は何も悪くない。そう言葉をかけるべきだったと、ずっと後悔していた。だから、今度は同じ間違いをしない。何度だって言う。美優のせいじゃない。自分を責めるな」
「……ありがとうございます」
まだ、気持ちの整理がついていないようで、美優は複雑な表情だった。ただ、先ほどのように自分を責める思いは和らいだように見えて、冴木は息をついた。そして、美優の腕を掴んだままでいることに気付くと、慌てて離した。
「すまない。痛かっただろ?」
「いえ、大丈夫です」
それから、お互いに何も言えなくなってしまい、少しの間、沈黙が走った。こんな時、何か話題を振るべきなのか、このまま見守るべきなのか、冴木はわからず、結果的に何もせずに見守るという選択を取ることになった。そうしていたら、不意に美優がこちらに目を向けた。
「冴木さん、私は守られているだけなんて嫌なんです。自分自身を守れるよう、私にできることはないですか? そうだ、空手や合気道を……ここで教えるのは、難しいですよね。何か、他にできることはないですか? それを教えてほしいです」
美優の真っ直ぐな目を見て、冴木は様々な思いを持ちつつ、何か教えられることはないかと考えた。そして、すぐに一つ見つけると、精一杯の笑顔を作った。
「それなら、車の運転を教えておく」
「車の運転ですか?」
「例えば、襲撃を受けて、俺に何かあって運転できなくなった時、美優は自分の足で逃げるしかなくなる。だが、車が運転できれば、それで逃げればいい」
そんな提案をしたが、美優はどこか納得していない様子で、複雑な表情を見せた。
「それは……冴木さんに何かあった時、私だけで逃げろということですか? そんなの、嫌です」
「そうじゃない。俺は俺自身を守るだけの力がある。だが、誰かを守りながら、俺自身を守るだけの力はない。この意味がわかるか?」
冴木の質問に、美優は少しだけ考えた後、どこか悲しげな表情を見せた。
「それは、私が足手まといということですか?」
「いや、そういう意味じゃない! 誰かを守るというのは、本当に大変だという話をしているんだ! だから、美優が誰かから守られる状況を減らすことができれば、それは俺や翔を守ることになる! そういう話をしているんだ! 美優は足手まといなんかじゃない!」
思わず、大きな声が出てしまい、冴木は美優から顔をそらしつつ、落ち着きを取り戻した。
「すまない。だが、何度も言わせてもらう。美優は足手まといなんかじゃない」
「……私の方こそ、すいません。その……車の運転、教えてくれませんか?」
美優がそう言ったのを聞いて、視線を戻した。そして、美優の強い目を見て、冴木は頷いた。
「わかった、早速教える。別に、上手な運転をしろなんてことは要求しない。襲撃する者から少しでも離れることができれば、それでいいんだ。だから、とにかく車を動かせればいいとか、そんな気楽な気持ちで聞いてほしい」
「はい、わかりました」
「そうだな……実際に運転させる方がいいだろうが、ここではやめておこう。少し移動するから、俺の運転をよく見ていろ。まず、鍵をこうやって……いや、その前にブレーキを踏むことを意識した方がいいかもしれないな」
冴木は、普段何気なくしている動作も含め、運転する際に意識していることを順に説明していった。そんな冴木の言葉を、美優は真剣な様子で聞きながら、冴木のちょっとした動作を集中した様子で見てきた。
そこまで集中して見られるのかと思うと、少し緊張したが、冴木は一つ一つ説明しながら、車を走らせ、その場を後にした。
そして、冴木は大きな公園の駐車場を見つけると、そこに入った。平日の今日は、車もそんなに止まっていないため、十分に広いスペースがあり、練習をするには最適だった。
「さっき言ったとおり、実際に運転した方が覚えられるだろう」
「そんないきなりで、大丈夫ですか?」
「最初は怖いかもしれないが、心配するな。こっちに移れ」
冴木はエンジンを止めた後、一旦後部座席に移ると、美優を運転席に座らせた。それから、冴木は助手席に座った。
「シートを少し前にやった方が良さそうだな。調整はこうやるんだ」
「えっと、こうですか?」
「ああ、それでいい。それと、先に大切なことを言うが、自分の想定どおりに車が動いてくれない時は、とにかくブレーキを踏め。最初、エンジンをかけるところでも、ブレーキを踏むようにしろ。この辺は後で詳しく教えるが、ブレーキを踏んでいないと、勝手に車が進んでいくことがある。そうなっても、驚かないでブレーキを踏むんだ」
「はい、わかりました」
「それじゃあ、ブレーキを踏んだままで、セレクトレバーはPに合わせてあるから、これでいい。それとサイドブレーキは、これでかかった状態になっているから、大丈夫だ。この状態で、エンジンをかけてみろ」
「はい、やってみます」
美優は恐る恐るといった雰囲気で、鍵を回すと、エンジンをかけた。
「それじゃあ、セレクトレバーをDに合わせろ」
「セレクトレバー……」
「これのことだ。こうすれば動かせる。そうしたら、サイドブレーキを解除するんだ。この時も、ブレーキは踏んだままだ」
「はい」
美優は戸惑いつつも、冴木の指示したとおりに操作した。
「これで、ブレーキから足を離すと、車は勝手に進んでいく。ゆっくりブレーキから足を離して、それからすぐにまたブレーキを踏むんだ」
「はい、やってみます」
美優は緊張した様子でブレーキから足を浮かせると、ゆっくり車が動いた。その直後、美優は勢いよく踏み込むようにブレーキを踏んだため、車が大きく揺れた。
「あ、ごめんなさい!」
「大丈夫だ! 落ち着け! 悪い、言い忘れていたな。ブレーキやアクセルを踏む時は、もっと優しく踏むんだ。そうしないと、今のような急ブレーキになってしまう。それを意識して、もう一度やってみろ」
「はい、わかりました」
そして、美優は深呼吸をした後、またブレーキから足を浮かせた。それから、今度は優しくブレーキを踏み、ゆっくりと車は止まった。
「それでいい。飲み込みが早いな」
「本当ですか?」
「それじゃあ、アクセルを踏む前に、ハンドル操作を覚えよう。曲がる時は、曲がりたい方向に視線を送るように意識するといい。まあ、これは曲がる時に限らず、進みたい方向を常に意識するといいだろう」
「えっと、ハンドルはどう回すのがいいんですか?」
「それは人によって多少変わる部分でもあるが、ブレーキを踏んだ時と同じように、ハンドルもゆっくり回す意識を持つといい。勢いよくハンドルを切ると、車の制御が難しくなって、ひどいとスピンする危険があるんだ」
「わかりました。それじゃあ、やってみます」
それから、美優はアクセルを踏まないまま、いわゆるクリープ現象でゆっくり動いている状態で、ハンドルを操作した。しかし、どれぐらいハンドルを操作すればいいかわからないようで、車がグネグネと蛇行し始めると、すぐにブレーキをかけた。
「えっと、何がおかしいんでしょうか?」
「さっき言ったとおり、ハンドルを操作し過ぎだ。それと、難しいだろうが、もっと肩の力を抜いて、リラックスするんだ」
「……わかりました」
それから、美優はまた車をゆっくりと走らせながら、ハンドルを操作した。すると、今度は自分の進みたい方向へ進めたようで、少しだけ嬉しそうな表情を見せた。
「いい調子だ。本当に美優は飲み込みが早いな」
「冴木さんの教え方が上手なんです」
「それじゃあ、今度は……」
免許を取る際、合宿などでも二週間程度かかるため、こんな短時間教えただけで、美優が車の運転を覚えられるとは思っていない。ただ、美優の真剣な顔を見ると、冴木は少しでも自分の知識や技術を伝えたいと思った。
ふと、冴木はこれまでほとんど一人で過ごしてきたことを思い返し、ほとんど何も残せていないかもしれないなんて思いを持った。しかし、今からでも残せるものがあるかもしれない。そう考えると、今この瞬間が、それをする機会と捉え、美優の真剣な思いを、冴木は真剣に受け止めようと決めた。