前半 16
圭吾はマットの感触を確認するように、軽くステップを踏んだ。マットの材質は、それこそボクシングのリングに近い感触で、自分の全力を出せる環境だと感じた。
「たく、いらねえ邪魔が入った」
ただ、圭吾にとって全力を出せる環境ということは、鉄也にとっても同じことだ。
「最初からマットを用意すれば済んだことだぞ」
「ここで『ケンカ』をする想定などなかったんだ。しょうがねえだろ」
「そんな言い訳しかできないのか?」
「言い訳じゃねえ!」
「まあ、いい。光、再開の合図をしてくれ」
このまま言い争いがいつまでも続く気がして、圭吾は光にそんなお願いをした。それを受け、光は頷いた。
「それじゃあ、再開するよ。……始め!」
光の合図を受けると同時に、圭吾は突進するようにして鉄也に迫ると、右ストレートを放った。しかし、鉄也がかわすと同時にジャブを打ち、それが顔面に当たった。
「そんな奇襲にひっかかるわけねえだろ」
鉄也はそう言いながら、回り込むように圭吾と距離を取った。再開と同時に行った圭吾の奇襲は失敗に終わり、むしろ手痛い反撃を受ける形になった。
「圭吾、やっぱりなまってるんじゃねえか?」
「それは俺の台詞だぞ。鉄也、随分とパンチが弱くなったな」
「そんなわけねえだろ!」
「現に、俺はダメージを受けてないぞ?」
今のところ、致命打になる攻撃は受けていない。ただ、見なくてもわかるほど顔が腫れてきていることに、圭吾は気付いていた。それは、鉄也の攻撃がフリッカージャブを含め、脱力した状態で放つため、表面的なダメージになっているのだろうと判断した。その一つ一つは、動きを鈍らせるほどのダメージにならないものの、腫れが広がっていけば、視界が悪くなったり、呼吸が苦しくなったりするため、少しずつ不利な状況に追い込まれていってしまう危険があった。
「それは俺の台詞だ。圭吾のパンチが真面に当たったのは何発だ?」
一方、鉄也の方にダメージがないかというと、そういうわけでもないようだ。圭吾が真面に当てたのは、一発のボディブローだけだ。ただ、それだけで鉄也のフットワークは少しだけ悪くなっていた。それは攻撃にも影響しているようで、ほぼ完璧なタイミングでカウンターを合わせられたはずなのに、しっかり足を踏ん張れなかったのか、単なるジャブを受けるだけで済んだ。
そうしたダメージは、お互いに理解しているはずだ。そのうえで、お互いに強がりを言い合っている。思えば、圭吾と鉄也は最初からこんな感じだったかもしれない。
圭吾は小学生の頃から格闘技に興味を持っていたものの、完全に独学で、筋トレと素振りのパンチをするといった、偏ったトレーニングをしていた。
ただ、大学で光と知り合った後、ちょっとした手合わせをするようになってから、本格的に何か習いたいと思うようになり、その時に選んだのがボクシングだった。そして、通いやすい所にあったボクシングジムを訪れた際、出会ったのが鉄也だ。
鉄也は幼い頃からボクシングを習っているそうで、フリッカージャブなども、長年の努力によってできるようになったものらしい。元々、器用だったようだが、そこに努力を重ねて、今のスタイルになったと聞いている。
圭吾が初めてボクシングジムを訪れた時、お試しといった形でスパーリングをやらせてもらった。その際、同い年だからという理由で、圭吾のスパーリング相手に選ばれたのが、鉄也だった。
そのスパーリングは、素人だからと甘く見られていた圭吾のパンチがあまりにも強過ぎたことと、それを受けて驚いた鉄也が本気を出したことが原因で、すぐに止められた。
そして、それは圭吾がボクシングジムに通うようになった後、時々行われたスパーリングでも同じだった。そもそも、スパーリングは練習が目的のため、お互いに怪我などの危険がないことを最優先にするべきものだ。しかし、圭吾と鉄也のスパーリングは、お互いムキになってしまい、相手を倒すことが目的になっていたため、いつもすぐに止められていた。
それは、先ほど光がスパーリングを止めた理由も同じだ。ただ、光はダウンした時の危険を考慮して止めただけで、マットを敷いたうえでの続行という形にしてくれた。それはつまり、これまで止められてできなかった、鉄也との決着をつけることができるということだ。そんなことを思いつつ、圭吾は真っ直ぐ鉄也に目を向けた。
そして、圭吾は距離を詰めると、先ほどと違い、隙の少ないジャブを何発か打った。しかし、それは鉄也が対処を得意とするもので、ほとんどのジャブは回避され、他の数発もガードされた。それだけでなく、何発かまた顔面に攻撃を受けてしまった。ただ、そこまで全部圭吾の想定どおりだった。
圭吾は攻撃を受けつつ、鉄也の懐に飛び込むと、アッパーをするような軌道で腹部を狙った。それは、習ったものの、今まで使っていなかったものだ。
自分が不器用なことや、頭もそこまで良くないことを、圭吾は自覚している。そのため、常にパンチは真っ直ぐな軌道で、相手に読まれやすいという弱点があった。ただ、圧倒的なパンチ力で、相手のガード越しでもダメージを与えることができるからと、それだけを伸ばしていた。
そんな中、秘策として別の軌道のパンチも習っていて、その一つが相手の顎を狙うアッパーだった。ただ、相手の顎を狙ったところで、簡単に回避されてしまうため、圭吾はアッパーをほとんど使ってこなかった。
今、そのアッパーを鉄也の腹部に向けて放った。それは、腹部への攻撃は単純に回避しづらいため、これなら当たるかもしれないという期待からだ。そんな圭吾の適当ともいえる攻撃は、鉄也の腹部をしっかり捉えた。
鉄也が苦しそうな声をあげたため、このまま一気に攻めようと圭吾は思ったが、その直後、腹部に衝撃を受けて、真面に呼吸ができなくなった。そして、気付いた時には鉄也との距離が離れていた。
咄嗟の判断なのか、鉄也は圭吾にボディブローを与えつつ下がっていったようだ。そして、仕切り直しといった形で、またステップを踏んでいた。ただ、確かなダメージを与えられたようで、鉄也のフットワークは先ほどよりもさらに悪くなっていた。とはいえ、圭吾のダメージも大きく、真面に足を動かすことすら厳しい状況だった。
そう判断すると、圭吾はほとんどその場から動かずに、鉄也を正面に捉えるためだけに足を使うことにした。
反対に、鉄也はステップを踏むようにしながら圭吾の周囲を回るように移動し始めた。そして、一定の距離に近付いては鉄也がフリッカージャブを振ってきて、それを圭吾が防ぐ展開が続いた。
鉄也のフリッカージャブを、ほとんど圭吾はガードで防いでいる。しかし、時々ガード越しにもかかわらず、圭吾の頭が揺れることが増えてきた。そんな状況をまずいと思い、苦し紛れにパンチを放ったが、その結果、鉄也からカウンターを受ける形になった。
鉄也は本当に器用で、攻撃してはすぐに離れるといった、いわゆるヒットアンドアウェイを徹底し始めた。それに対応しようとしたところで、このまま自分だけがダメージを受け続けるだけだ。そう判断すると、圭吾は攻撃を受けるタイミングで、一切ガードをすることなく、適当に腕を振った。すると、それが鉄也の身体のどこかに当たった感触があった。そのまま、圭吾は乱暴に両腕を振ったものの、どれも空を切った。
そして、圭吾は鉄也がどこにいるのかと確認した。すると、鉄也は少し離れた場所で、苦しそうに肩で息をしながら、自分に怒りの目を向けてきていた。
「相変わらず適当な奴だ。圭吾は何も学ばねえんだな」
「確かに、俺はバカだ。だから、学んだことも学んでないことも全部やるぞ」
今なら鉄也の動きも鈍り、こちらの攻撃が当たるかもしれない。そんな期待を持って、圭吾は鉄也と距離を詰めようとした。しかし、鉄也はフリッカージャブでなく、ストレートに近いジャブを放ってきて、それが真面に圭吾の顔面を捉えた。
フリッカージャブと違い、表面的なダメージでなく、脳が揺れるような感覚を圭吾は持った。どうやら、鉄也は勝負を決めようと、単にダメージを与えるだけでなく、こちらを倒す攻撃に切り替えたようだ。それは、早く終わらせたいといった焦りを感じさせた。
ただ、それでこちらが有利かというとそんなことはなく、このまま倒されてしまってもおかしくないほどのダメージを既に受けている。そのため、圭吾はガードを上げたが、そうするとガラ空きになった腹部を打たれ、思わず声が出た。その直後、顔面にパンチを受け、圭吾は後ろへよろめいた後、そのまま座り込むようにダウンしてしまった。
「俺の勝ちだ!」
鉄也はそんな勝利宣言をしたが、肩で息をしていて、限界が来ていることは明白だった。
「いや、まだ終わってないぞ!」
圭吾は立ち上がると、音を鳴らすように強く足踏みをした。そんな圭吾の様子に、鉄也はまだ続くのかと、うんざりした様子で息をついた。
「相変わらず、打たれ強い奴だ」
鉄也はデトロイトスタイルをやめると、L字ガードと呼ばれる、ストレートに対応しやすく、カウンターも狙いやすい構えに変えた。それに対して、こちらが無理に攻めれば、容易にカウンターを受けてしまうだろう。そう考えつつも、圭吾はまた突進するように距離を詰めた。
鉄也がフリッカーではない、真っ直ぐな軌道のジャブを放ってきたが、圭吾は体を横に振るようにして、それをよけた。ただ、ここで普通にストレートで攻撃しても、カウンターを受けるだけだ。
その瞬間、圭吾は何かストレート以外の軌道でパンチを繰り出そうと考えた結果、ボールを投げるような軌道で腕を振った。そのパンチは、咄嗟にガードした鉄也の左手を挟みつつも、顔面を捉えた。そして、鉄也は吹っ飛ばされるようにして、ダウンした。
それから、圭吾は必死に呼吸を整えることに努めた。それは、まだ終わっていないとわかっていたからだ。
「変なパンチをやりやがって」
鉄也はフラフラと立ち上がると、また構えた。
左手を挟んだとはいえ、圭吾のパンチを顔面に受けて、立ち上がれるわけがないはずだった。しかし、圭吾はパンチを打つ瞬間、上手く足を踏ん張ることができず、それによって威力が半減してしまった。そのことは、パンチを当てた際の感触で、はっきり自覚できた。
そして、圭吾は構えると、ゆっくりと鉄也に近付いた。一方、鉄也もステップなどを踏むことなく、同じようにゆっくり近付いてきた。それは、お互いに足も使えなくなっていることを表していた。
そうして、一定の距離まで近付いた時、不意に鉄也が右ストレートを打ってきて、それを真面に受けてしまった。ただ、そこまで威力がないと判断すると、そのまま反撃するように圭吾もパンチを繰り出した。すると、鉄也はよけることなく、そのパンチをそのまま受けた。しかし、こちらもほとんど威力のないパンチしか打てなくなっているようで、鉄也をダウンさせることはできなかった。
それからは、お互いに威力の落ちたパンチを当て合う、もはやボクシングでも何でもない、ただの殴り合いになった。苦しそうな呼吸の音と、パンチが当たった時の音。それだけがこの空間に響いていた。それは、まるでここに圭吾と鉄也の二人しかいないような感覚だった。
そして、ふとした瞬間にお互いのパンチが相打ちになった直後、圭吾と鉄也はその場に倒れた。