前半 13
これまで、誰かとケンカした経験がほとんどないため、孝太はファイティングポーズを取っただけで、妙な違和感を覚えた。
「それじゃあ、始めろ!」
鉄也の言葉を合図に、孝太と和義の「ケンカ」が始まった。
ただ、孝太はどうすればいいか判断できないまま、その場で固まってしまった。一方、和義は先ほどと同じようにステップを踏んだり、その場でターンしたり、またウォーミングアップをしているようだった。
少しだけそんな時間があった後、和義が動きを止めた。
「それじゃあ、行くよ?」
和義はそう言うと、一気に距離を詰めてきた。孝太は改めて警戒するように、構えた腕に力を入れた。
すぐ近くまで迫ってきたかと思うと、和義は軽く膝を曲げた後、体を回転させながらの飛び蹴りをしてきた。咄嗟に孝太は両腕で防御したものの、そのまま和義が着地すると同時に回し蹴りをしてきて、それが孝太の脇腹に当たり、吹っ飛ばされた。
孝太はすぐに立ち上がろうとしたが、脇腹への攻撃により、呼吸することすら辛く、しばらくしゃがんだまま呼吸を整えた。
「孝太、負けないで!」
心配した様子の千佳の声。千佳の言うとおり、孝太は弱いと自覚していたものの、こんなすぐに圧倒されてしまい、ただただ悔しかった。
「やるまでもなかったな。和義の勝……」
「まだ終わってねえ!」
孝太は叫ぶと、無理やり立ち上がった。呼吸はまだ整っていないし、脇腹も想像以上に痛い。それでも、ここで終わらせるなんてできるわけがなかった。
「じゃあ、続けようか」
和義はそう言うと、その場でまたターンをした。思えば、翔を相手にした時も和義は同じような動きをしていた。そして、そんな和義を相手に、翔は最初こそ苦戦していたものの、途中から上手く対応していたように感じた。そのことを思い出しつつ、ここから切り替えようと、孝太は首を振った。
あの時、翔は防御と回避を優先していたように感じた。ただ、ついさっき孝太は和義の様子を見ようと思い、自然に防御と回避を意識していたはずだ。それにもかかわらず、ああなってしまったのは、明らかに自分の実力不足だ。
そんなことを考えている間に、また和義が迫ってきた。咄嗟に孝太は距離を取ろうと、後ろに下がっていった。
「おい、どこまで下がるつもりだ?」
そんな声が聞こえて振り返ると、そこには孝太達の周りを囲むようにしていたダークのメンバー達がいて、追い返すように背中を押された。そうして前に出されたと同時に、和義が回し蹴りを繰り出してきたため、孝太は両手でそれを抑えつつ、また吹っ飛ばされた。
単に下がるだけだと、こうなってしまう。そのことを学びつつ、孝太はまた立ち上がった。
その間も、和義はウォーミングアップをするようにクルクルとターンを繰り返していた。それは、ダンスを踊っているかのようだった。
「そんな踊りなんかして、孝太をバカにしないでよ!」
急にそんなことを千佳が叫んで、和義は動きを止めた。
「別にバカにしてないよ。俺は趣味のダンスを自分の格闘スタイルに入れただけだし」
そう言いつつも、和義は千佳の言葉を少し気にしている様子だった。それを見つつ、孝太は和義の言葉をヒントに、ある考察を始めた。それは、サッカーで学んだことを、何か活用できないかというものだ。
サッカーはチームプレイなものの、個人の技術が問われる場面もたくさんある。翔とやったワンオンワンなども、一対一を想定した個人プレイの練習だ。そこまで考えたところで、孝太は過去のある場面を頭の中でシミュレーションした。
それは中学時代、最後の試合であったことだ。お互いにディフェンスを優先したチームだったため、前半も後半も点が一切入らず、アディショナルタイムに入った時点で0-0だった。
その時、孝太はボールをキープしていたものの、決して良い状況ではなかった。誰かにパスを出そうと思っても、全員が相手の選手にマークされていて、とてもパスを受け取れそうな者はいなかった。つまり、自分がゴールに向けてボールを運ばないといけない。そんな状況だった。
そんな孝太の前に立ちはだかったのが、緋山春来だった。これまで何度も対戦してきたものの、孝太は負け続けだった。ただ、今回こそは勝てるかもしれない。ここで決めてしまおう。そう決心すると、孝太はゴールを目指した。
しかし、ボールは緋山春来に奪われ、必死に追ったものの、そのままゴールを決められてしまった。そうして、孝太の中学時代最後の試合が終わった。
あの時、無理にゴールを目指さなくて良かったかもしれない。あのままボールをキープして、延長戦に持ち込むことができたら、勝てたかもしれない。孝太は、そんな後悔をこれまで何度もしてきた。
「孝太、負けないで!」
そこで、また千佳の声が聞こえて、孝太は目をやった。千佳はこんな状況にもかかわらず、孝太を信用した様子で、真っ直ぐな目をしていた。そんな千佳を見ていると、改めて孝太はどうにかできると思えた。
それから、孝太は構えた腕を下ろすと、両脚を少し広げた。それは、サッカーで相手と一対一の状況になった時、いつも孝太がしている構えだ。
「孝太、何のつもり?」
「和義と同じで、自分のしていることを格闘スタイルに入れただけだよ」
今、自分は和義と「ケンカ」をしている。自分が勝てば、ダークの協力を得られるものの、今はそれを考える余裕などなかった。それより、自分が負ければ、千佳は何をされるかわからない。ただ、それだけを考えていた。
そして、和義が迫ってきた瞬間、孝太は和義の左側に向かって地面を蹴った。和義がターンをしながら回し蹴りをする時は、左回りが多く、和義から見て右から左に蹴りが繰り出される。つまり、和義の左側に対する攻撃は自然と遅れるため、孝太は簡単に和義の背後に回ることができ、そのまま距離を取れた。
これを繰り返せば、少なくとも和義の攻撃を回避することはできる。そう考えていると、また和義が迫ってきたため、孝太は同じように和義の左側から抜けようとした。しかし、和義はこれまでと逆に、右回りで回し蹴りを繰り出してきた。このままだと真面に蹴りを受けてしまう。そう判断した瞬間、孝太は自らの身体をぶつけるように、和義に体当たりした。
試合をしていると、時に不当な判定を受けることがある。特に練習試合で相手の学校に行った時などは、審判が相手に有利な判定をすることが多く、普通なら反則になるラフプレイを相手がしてくることも頻繁にあった。
そのため、孝太はラフプレイの対策も練習してきた。そうして、自らがラフプレイをする技術すら、自然と覚えてしまった。
その経験から、孝太は咄嗟に体当たりをした。それは効果的だったようで、和義はバランスを崩すと、その場に倒れた。それを確認しつつ、孝太はまた距離を取った。
「孝太、いい感じだよ!」
「僕もそう思う」
千佳の言葉を受け、孝太は自分のしていることが正しいと自信を持てた。
「僕は、絶対に負けねえ!」
それから、自らに気合を入れようと、孝太は叫んだ。
「和義、何をやってる!? 早く倒せ!」
「オッケー。俺が勝つから、そんな声出さないでよ」
鉄也の言葉を受けて、和義は多少焦った様子を見せつつ、距離を詰めてきた。ただ、先ほどと違い、ターンをすることなく、真っ直ぐ向かってくると、そのままパンチを放ってきた。
咄嗟に孝太は防御しつつ、距離を取ってから、自分のすることは変わらないと気持ちを落ち着かせた。
そして、和義が距離を詰めようとしてくると、孝太は和義の周りを移動しながら、一定の距離を取り続けた。また、不意に和義が近くまで迫ってきても、孝太は自分の身体をぶつけつつ、和義の後方に抜けていった。
そんな状態が続き、いつの間にか和義は肩で息をするほど疲れている様子だった。ただ、孝太はサッカーをしている時に比べれば大したことないと、現在進行形で呼吸を整える余裕があった。
そんな孝太に観念した様子で、和義は両手をあげた。
「ごめん、鉄也。俺、降参するよ」
和義の言葉に、その場にいた全員が息をのむような、そんな反応をした。
「ふざけるな! 早く、そいつを倒せ!」
「ちょっと俺だと厳しいかな。このまま続けて、俺が負けることはないけど、俺が勝つこともないよ。鉄也だって、見ててわかるでしょ?」
和義は呆れた様子で、孝太に顔を向けた。
「孝太、何だよそれ?」
「サッカーの試合を想定して、ボールを奪われねえようにするにはどうすればいいか。それだけ考えて、いくらでも延長戦にしてやろうと思った」
「俺の思ったとおりだね。孝太は鉄也と一緒で、諦めが悪いんだよ。だから、俺が鉄也に敵わないように、孝太にも敵わないよ。こんな方法、よく思い付いたじゃん」
和義からそんなことを言われて、孝太は千佳に目をやった。
「千佳が『負けないで』って言ってくれたから、負けねえようにするにはどうすればいいか考えて、こうなった。千佳、ありがとな」
「え? 別にそんなつもりで言ってないんだけど……どういたしまして!」
「いや、それはねえだろ!」
「だって、私は孝太が急に強くなって、一発で倒すみたいなことをしてくれないかなって期待してたよ?」
「千佳はそういう奴だよな……」
呆れつつも、千佳のおかげで助かったのは事実だ。孝太は強くそう感じていた。
同時に、こんな形で相手が納得するわけがないというのもわかっていた。
「ふざけんな! だったら、交代しろ! ここからは俺が相手だ!」
鉄也はそう言うと、和義に近付いた。
「和義、グローブを渡せ」
「鉄也、俺からもお願いするよ。ここは……」
「うるせえ! とにかく交代しろ!」
この状況で、鉄也を相手にするのは、恐らく難しいだろうと孝太は自覚していた。
和義は動きに派手な部分があり、多くの隙があったように今更ながら感じた。だからこそ、回避に専念するという孝太の作戦が上手くいった。
しかし、翔と鉄也の戦闘を思い返した時、鉄也にそうした隙があったようには、とても見えなかった。そのため、鉄也を相手にすれば、負けないようにするのも難しい。そんなことを孝太は考え、それこそ絶体絶命だと思った。
「交代すると言うなら、俺達も交代させてもらうぞ」
不意にそんな声が聞こえ、そちらに目をやると、周りを囲っていたダークのメンバーが倒れたり、逃げるように移動したりするのが見えた。そうして、こちらに続く空間ができた。
そこにいたのは、圭吾と光と可唯、それに篠田だった。
「何でここに来れたんだ!? 近くの監視はどうした!?」
「悪いけど、僕が情報操作して、気付けないようにしたよ。和義君が監視から外れていたのも助かったよ」
光は挑発するように、笑顔でそう言った。
「この辺りの情報を、私と可唯君が持っていたのも大きいわね。どこに監視システムがあるか、簡単に予想できたわ」
「わいがここにいるさかい、人数差は関係ないで?」
これだけ頼もしい人達が来てくれた。そのことに安心すると、孝太は急に力が抜けて、その場に座ってしまった。
「来てくれないと思いました」
「悪い。孝太達を見つけるのは、俺達だけだと無理だったぞ。ただ……二人とも、いい友人を持ったな」
圭吾がそう言うと、怯えた様子で大助が前に出てきた。
「大助?」
「偶然、おまえらを見かけて、ここに入ったことを報告してくれたんだ。それがあったから、俺達はここに来れた」
大助は何を言えばいいか迷った様子を見せつつ、口を開いた。
「僕は弱いので、こんなことしかできませんけど……」
「大助、ありがとう!」
千佳は大助に駆け寄ると、握手をするように両手で大助の右手を握った後、ブンブンと乱暴に腕を振った。それから、孝太も立ち上がると、大助に歩み寄った。
「本当に助かった。大助、ありがとう」
「……どういたしまして」
大助の性格を考えれば、孝太達のことを知らせるのも、こうしてここに来ることも、相当勇気のいることだっただろう。それもわかるからこそ、本当に心から感謝しかなかった。
「勝手に終わらせるな! まだ決着はついてねえ!」
すっかり安心していたものの、鉄也の叫び声を聞き、緊張感が戻ってきた。
「ああ、鉄也の言うとおりだ。だから、決着をつけるぞ」
圭吾の言葉で、孝太は今の状況を理解した。
まだ、ダークと接触するという最初の目的を果たしただけだ。つまり、これからが本番だった。