試合開始 12
美優は剣道場に入ると、竹刀を手に取った。それから、翔は大丈夫だろうかといった不安がまた生まれて、少しの間、その場で立ち尽くしていた。
しかし、考えても仕方ないし、孝太達を待たせるのも良くないと考えると、美優は剣道場を出た。
「こんにちはー。水野美優ちゃんだよねー?」
剣道場を出たと同時に、美優を待っていた様子の女性が話しかけてきた。彼女は不気味な笑みを浮かべていて、どこか酔っ払っているかのような語尾を伸ばす喋り方だった。
「そうですけど……何か用ですか?」
「私、『ケラケラ』って言うのー。何で、ケラケラって言うかわかるかなー?」
「……いえ、わからないです」
「それはねー。私に殺される人、みんなケラケラ笑いながら死ぬからだよー」
その言葉で、美優は全身が鳥肌になるほど寒気を感じた。同時に、自らが危険な状況だと気付くと、急いで逃げようと地面を蹴った。しかし、ケラケラと名乗る女性に腕を掴まれると、そのまま剣道場の壁に押さえつけられた。
「安心してよー。最高の快楽を与えてあげるからー」
ケラケラの右手には注射器が握られていた。そして、その注射針がゆっくりと美優に近付いてきた。美優は必死にもがいたものの、女性とは思えない強い力で押さえつけられ、どうにもできなかった。
「いや、やめて!」
必死に叫んでもケラケラは手を止めなかった。そうして、美優の胸元辺りに注射針が触れるほど近付いたところで、どこからか飛んできた石が注射器に当たり、破裂するように割れた。
ケラケラは驚いた様子で、右手に残った注射器の破片を見ていた。次の瞬間、ケラケラの顔に蹴りが当たり、ケラケラは吹っ飛ばされた。
「美優、大丈夫か!?」
そこにいたのは、翔だった。まだ警察から事情を聞かれているはずなのに、何故いるのかわからず、美優は言葉を失ってしまった。
「美優、何かされたのか!?」
「あ、大丈夫だよ。翔が助けてくれたから……」
「あいつの相手は俺がする。美優は……孝太! こっちに来てくれ!」
翔がそう言ったため、視線をそちらにやると、孝太が走ってきた。
「やっと追いついたよ。てか、どうなってんだよ?」
「孝太、美優を守ってくれ! あいつは俺が何とかする」
「いや、だからどうなってんだよ?」
「悪い、説明している暇はないんだ」
翔はそう言うと、いつもと同じように足首を回しながら手をブラブラとさせた。その間に、ケラケラはふらつきながら立ち上がった。
「お姫様を守る王子様かなー? でも、女の顔に蹴りを入れるなんて、ひどい王子様だねー」
「女だろうが容赦しない。ハンデなしでいかせてもらう」
そう言うと、翔はケラケラに向かっていった。そして、ある程度距離が近付いたところで、翔は構えた。
相変わらず、ケラケラは酔っ払ったかのようにフラフラとしていて、普通に見れば翔が圧倒的に有利に感じた。しかし、先ほど女性とは思えない力で押さえつけられているため、美優は翔のことが心配だった。
「翔、気を付けて! その人……ケラケラって名乗っていたんだけど、すごい強い力だったの!」
「ケラケラ? ふざけた名前だな。だが、大丈夫だ、安心しろ」
そう言うと、翔は一気に距離を詰めてパンチを繰り出した。しかし、ケラケラは体を反らせながら翔の攻撃をかわすと、不安定な姿勢のまま蹴りを繰り出し、それが翔の脇腹を捉えた。
それからケラケラは倒れそうな勢いで前に踏み込むと、そのまま右手を突き出し、それが翔の喉元付近に当たった。その直後、翔が左足で蹴りを繰り出したが、ケラケラは座るように体勢を低くしてそれをかわすと、体を捻るように回転させながら足払いをした。それが当たり、翔が体勢を崩すと同時に、ケラケラは両手の掌を突き出すように前へ出し、翔の胸に当てて吹っ飛ばした。
「翔!」
「王子様、どうしたのかなー? お姫様が心配してるよー?」
ケラケラが挑発するような言葉を投げかける中、翔は立ち上がると、集中しようとしているのか、目を閉じて深呼吸をした。それから目を開けると、翔は構えた。ただ、その構えは先ほどまでと違い、前に出した左腕をブラブラと振っていた。ダークのリーダーである鉄也を相手にした時にも似たようなことをしていたが、今度は右腕でなく、左腕を前に出していた。
「何それー? ブラブラ振って、催眠術でもかけるつもりー?」
バカにした様子で、ケラケラは距離を詰めると、またフラフラと体を振りながら、翔と距離を詰めた。次の瞬間、翔は鞭のように左腕を振ると、それがケラケラの顔を捉えた。それも一発だけでなく、翔は何度も左腕を振り、そのほとんどがケラケラの顔に当たった。
その時、ケラケラはまた体勢を低くすると、翔の攻撃をかわしながら距離を詰め、そのまま前に突き出した右手を当てようとした。それに対して、翔は体を横に移動させてかわすと同時に右ストレートを放ち、それがカウンターのような形でケラケラの顔を捉えた。
ケラケラは自分から攻撃することで不利になると感じたのか、翔からの攻撃を待つように攻撃を止めた。それは罠のように見えたが、翔は構わず左腕を……振るふりをした。そのフェイントに騙されたのか、ケラケラが体を反らすと同時に翔は左足で蹴りを与えた。そうしてケラケラは吹っ飛ばされると、倒れたまま立ち上がらなかった。
「翔、すごい……」
「これ、俺に合っているみたいだ。鉄也に感謝しないとな」
そんな冗談のようなことを言うほど翔が余裕な様子で、美優は安心した。
「やっと見つけました。水野美優さんですよね? 僕は園内信弘です」
そんな声が聞こえて振り返ると、そこには自分と近い年齢に見える男性が立っていた。また、その男性は一見して気弱そうに見えた。
「えっと、何の用ですか?」
「美優に近付くな!」
翔はそう言うと、信弘の前に立ち、構えた。
「おまえはオフェンスか? ディフェンスか?」
「え、あ、僕はディフェンスですよ!」
「本当か? 証拠を見せろ!」
「えっと、これでいいですか? ディフェンスで参加って案内に書いてあるじゃないですか?」
信弘はスマホの画面を翔に見せた。すると、翔は安心した様子で構えを解いた。
「わかった。美優を守ってくれ。俺は引き続きあいつの相手を……」
そこで、翔が驚いたような表情を見せたため、美優は翔と同じようにケラケラの方へ視線を送った。すると、ケラケラは自らの胸に注射器を刺していた。
「何をしているの?」
「わからないが、引き続き俺があいつの相手をする。全員下がっていろ」
そう言うと、翔はまたケラケラと距離を詰めた。ケラケラは自らに刺した注射器を投げ捨てると、また不気味な笑みを浮かべていた。
「何をしたんだ?」
「この薬、『デーモンメーカー』なんて呼ばれてるけど、すごいんだよー。でも、肌に悪いんだよねー」
そう言った次の瞬間、ケラケラは一瞬のうちに翔の目の前まで近付くと、乱暴に腕を振った。咄嗟に翔は両腕で防御したものの、そのまま数メートルほど吹っ飛ばされ、地面を転がった。
「翔!?」
翔の心配をしているうちに、ケラケラは一気にこちらまでやってきた。
「美優に手を出すんじゃねえ!」
慌てた様子で、孝太と信弘が美優を守るように前へ出てきてくれたものの、二人もケラケラの攻撃を受け、吹っ飛ばされてしまった。そうして、今ケラケラは美優のすぐ目の前に立っていた。
その時、翔は背後からケラケラに近付くと、膝の裏に蹴りを与えた。その直後、体勢を崩したケラケラの首元に回し蹴りを与え、ケラケラは倒れた。しかし、すぐにケラケラは立ち上がると、また不気味な笑みを浮かべた。
「こんな弱い王子様で、かわいそうだねー」
何をしたかわからないものの、化け物のような力で迫ってくるケラケラを前に、美優はどうすればいいかわからなかった。恐らく、翔も同じ気持ちだろうと思ったところで、翔が後ろに顔を向けた。その視線は、美優ではなく、美優の後方に向けられていた。
「伏せろ!」
そんな声が聞こえると同時に、翔が美優を抱きしめつつ、地面に倒した。次の瞬間、「パン」という音が響くと、ケラケラの肩から血が噴き出し、そのままケラケラが吹っ飛ばされた。
それから、美優は視線を動かすと、視界に男性の姿が映った。その男性は、刑事ドラマのように両手で銃を持ち、構えていた。それだけでなく、千佳、篠田、それからヒーローのような姿をした人物もそこにいた。
「こんなの多勢に無勢だよー」
そんな声が聞こえて、視線を戻すと、ケラケラは肩を撃たれたにもかかわらず、先ほどと同じように笑みを浮かべていた。
「だから、ここは一旦引くよー。水野美優ちゃん、待たねー」
そう言い残すと、ケラケラは想像以上のスピードで走り去った。
「美優、大丈夫か?」
翔は険しい表情でそんな質問をしてきた。それに対して、美優は笑顔を見せてから頷いた。
「うん、大丈夫だよ。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
その時、千佳が心配した様子で、孝太の方へ向かった。
「孝太、大丈夫!?」
「大丈夫だよ。めっちゃ痛いけど」
孝太も無事な様子で、美優は安心した。その間に信弘と名乗っていた人も無事な様子で立ち上がった。
「翔は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ」
そう答えた翔の表情は、相変わらず険しいものだった。それを見て、美優は自分が何か想像もつかないことに巻き込まれてしまったのだろうと、心のどこかで理解した。