試合開始 08
翔はリラックスするように、足首を回しながら手をブラブラとさせた。それから左足を前に出すと、右手を頬に当て、左腕を軽く曲げつつ前に出した。そして、軽くステップを踏んだ後、足を止めた。
一方、鉄也は右足を前に出すと、左手を頬に当て、右腕をブラブラと振り始めた。
翔は警戒しつつも、少しずつ鉄也に近付いていった。そして、お互いの射程圏内まで近付いたところで、鉄也が右腕を鞭のように振ってきた。翔は体を反らすようにして、それを避けたが、鉄也が距離を詰めると同時に放ってきた二発目は避けられず、顔面にパンチを受けてしまった。咄嗟に、翔は両腕で顔をガードするように構えると、ステップするように下がり、何とか鉄也の攻撃射程から離れた。
鉄也の構えは、デトロイトスタイルと呼ばれるもので、フリッカージャブという鞭のようなジャブを武器にしている。それだけでなく、鉄也は右利きだが、左利きの人と同じように右足を前に出す、いわゆるサウスポーの構えをしている。そのどちらも翔は相手にしたことがなく、どう対処すればいいか、頭を働かせた。
鉄也は一定の距離を取りながら、ステップを踏むように左右に移動している。ボクシングの経験があるという話は聞いていたが、鉄也の動きはボクサーの動きそのものだった。
そこで、翔はボクシングで禁止されている蹴りを繰り出した。しかし、鉄也の右腕に弾かれ、翔はバランスを崩してしまった。そこでまた鉄也のフリッカージャブを数発受けつつ、翔はあえて距離を離すことなく、鉄也に近付くと、何発かジャブを放った。
しかし、鉄也は体を左右に振ると、翔のジャブをすべて避けた。それでも翔は攻撃を繰り返したが、途中で鉄也は翔のジャブを避けつつ、フリッカージャブを放ち、それがカウンターのような形で翔の顔面を捉えた。
結局、翔はまた両腕を上げて、防御と回避に専念するしかなかった。そうして、鉄也の動きに少しでも対応しようとしたが、一向に鉄也の動きが読めず、防戦一方になり始めていた。
そんな状況を打破しようと、何とかジャブを繰り出しても、回避されるどころか、カウンターを受けてしまう。次第に鉄也は蹴りも使い始め、パンチと蹴りの応酬に防御も回避もできないまま、ついに翔は鉄也の蹴りを腹部に受けて、大きく吹っ飛ばされてしまった。
「俺の勝ちだ」
「いや、まだだ!」
翔は肩で息をしながら、何とか立ち上がった。しかし、鉄也の動きは相変わらず読めず、何をしていいか一切わからない状況だ。鉄也の言うとおり、自分は鉄也に勝てない。そんな考えに翔は支配され始めていた。それを消すために、翔はとにかく頭を働かせ、何か状況を打破する方法はないかと必死に考えた。
「翔、頑張って!」
そんな声が聞こえて、翔は顔を向けた。そこには、泣きそうな表情の美優がいた。
「あ、私がこんなこと言っても、邪魔なだけだよね……」
「そんなことない。ありがとう」
翔は深呼吸をすると、何を考え過ぎていたのだろうかと反省した。そして、わからないなら、あえて何も考えないことにした。
それから、翔は右足を前に出すと、左手を頬に当て、右腕をブラブラと振った。
「ふざけんな。どういうつもりだ?」
「ふざけていない」
鉄也の動きに対して、どう対処すればいいかはわからない。そのうえで、翔は鉄也と同じことをしようと考えた。それが無謀だということも理解しつつ、何も考えないで思い付いたことをしようと翔は決めた。
「だったら、とどめを刺してやる」
鉄也は構えると、少しずつ距離を詰めてきた。そこで、翔は見様見真似で鉄也と同じように、右手を鞭のように振った。すると、鉄也は警戒した様子で足を止めた。
「フリッカージャブ、こんな感じでいいのか?」
鉄也の様子を見て、翔は挑発するようにそんな言葉を伝えた。それは効果的だったようで、鉄也は怒りや焦りを感じているような表情を見せた。
「ふざけんな!」
そこで鉄也が距離を詰めてきたため、翔はフリッカージャブを繰り出した。それは鉄也の頬をわずかながら捉えた。
先ほど、フリッカージャブを放った際、翔は自分の攻撃射程がどこまでか確認した。その結果、フリッカージャブをするだけなら、わずかに鉄也よりも射程が広いと認識していた。その認識は正しかったようで、鉄也の攻撃射程外から攻撃することができた。
そのことを鉄也も理解したようで、距離を取ると、かく乱しようとしているのか、左右にステップを踏んだ。
そんな鉄也に合わせ、翔もステップを踏んだ。そうしていると、鉄也と一緒にダンスでもしているかのような気分になり、翔は何だか楽しくなっていた。
「ふざけんな! 笑うんじゃねえ!」
鉄也の言葉で、翔は自分が笑っていることに気付いた。
「悪い、今楽しいから、笑っているんだ」
その言葉が鉄也の逆鱗に触れたようで、鉄也はフリッカージャブを何発も繰り出してきた。それを翔は右手ですべて弾いた。
実際に自分でやった結果、翔はフリッカージャブを理解すると、鉄也のフリッカージャブを自らの右腕で弾けばいいという結論を出した。そして、その結論をそのまま実行することができた。
そうして、防御面で少しずつ対処ができてきたところで、翔は反撃に出ることにした。
まず、鉄也の攻撃射程外から一方的に攻撃することは可能だ。しかし、それでは軽いダメージしか与えられないだけでなく、鉄也に距離を取られてしまえば何の攻撃も当たらなくなってしまう。
だからといって近付けば、鉄也の攻撃を受けるだけでなく、カウンターを受けるリスクも大きくなる。初めに比べれば、どうにか鉄也を相手にできているものの、まだ苦戦している最中だ。そのため、どうすればいいか頭を働かせようとしたところで、翔は思考を止めた。
そうして、先ほどと同じように、翔は何も考えないで思い付いたことをしようと改めて決めた。すると、翔はターンをするようにその場でクルクルと回った。
「ふざけんな! 何をしている!?」
「別に、思い付いたことをしているだけだ」
そして、翔はターンを繰り返しながら、回し蹴りを繰り出した。それは、先ほど相手にした和義の動きを参考にしたものだ。単なる思い付きだったものの、翔の回し蹴りは鉄也のフリッカージャブを弾きながら、鉄也の頬に当たった。
鉄也は翔の攻撃を受けて倒れたものの、すぐに立ち上がり、また構えた。
「俺は負けねえ!」
「俺も負けるつもりはない」
これは長期戦になりそうだと思ったところで、ダークの一人が慌てた様子でやってきた。
「鉄也さん、警察が来ました! すぐ逃げましょう!」
「俺は逃げねえ! ランと決着をつける!」
「鉄也、さすがにやばいって。決着は今度付ければいいじゃん」
和義の言葉を受けた後も、鉄也は興奮した様子で構えを解かなかった。しかし、少しずつ冷静さを取り戻したのか、ゆっくりと構えを解いた。
「全員、ここから離れろ!」
「オッケー。みんな、警察をかく乱しながら逃げるよ」
そんな和義の言葉を受け、不良達は次々と教室を出ていった。
「ラン、今度決着をつけるからな」
鉄也は最後にそう言うと、和義と一緒に教室を出ていった。
そうして、翔は一息つくように深呼吸をした後、グローブを外した。そこで、鉄也達がグローブを忘れていったことに気付いたが、翔は構わないとグローブを投げ捨てた。
「ラン、わいも行くで」
「ああ、可唯、助かった。ありがとう」
「ほな、さいなら」
可唯はそう言うと、窓から飛び降りた。
「翔、大丈夫!?」
それから、美優達が心配した様子で駆け寄ってきた。
「ああ、大丈夫だ。みんなも大丈夫か?」
「大丈夫だよ! 私のスタンガンに、みんなビビッて近付いてこなかったもん!」
「それ、マジで怖いから今すぐ仕舞ってくれ!」
「これのおかげで助かったのに、そんなこと言わないでよ! 大助だって、これのおかげで……って、大助いないんだった!」
いつもと同じ調子の千佳を見て、翔達は笑った。
「おい、これは何だ!?」
その時、南波先生が警察と一緒にやってきた。思えば、南波先生は生活指導もしているそうだ。そのため、こうしたトラブルの対応となると、南波先生が担当になるのかもしれない。
そんなことを思いつつ、翔は何があったか、自分から話すことにした。
「ご迷惑をおかけして、すいませんでした。事情は俺から説明します」
「翔は何も悪くないよ!」
「美優、ありがとう。だが、こうならないようにする手段はあったはずなんだ。今後、こうしたことがないよう、警察にも相談させてもらう」
翔がそう言うと、美優は少しだけ安心した様子で頷いた。
そして、翔は南波先生と警察に事情を説明するため、教室を後にした。