試合開始 01
できることがあるって、特別なことだよ。だから、少しずつでもできることをしようよ
7月10日(火)
翔は目を覚ますと、いつもどおり日課のストレッチを始めた。
それから少しして、ドアをノックする音が聞こえた。
「翔様、朝食はどうされますか?」
伊織からいつもの質問がきて、翔はドアを開けた。
「いつもどおり……」
そして、翔もいつもの返事をしようと思ったところで、昨夜着けたミサンガが目に入った。それから、翔は少しだけ間を置くと、口を開いた。
「伊織、おはよう」
「え……あ、おはようございます」
「今日は伊織と一緒に朝食を食べようと思う。付き合ってもらっていいか?」
「はい、かしこまりました! もうできていますので、いつでも食べられます!」
伊織は嬉しそうに笑顔を見せた。そんな伊織を見ると、翔も嬉しくなり、自然と笑顔になった。
「わかった。じゃあ、行く」
そうして、翔は伊織と一緒にリビングへ向かった。
「団司様もお誘いいたしましたが、今朝も一人で食べられるようです」
「まあ、そうだろうな」
思えば、団司とはもう半年以上会っていない。そう考えると、自分ではどうしようもできないほど、異常な状態なのは変わらない。それでも、何か少しずつ変えられることがあるはずだと翔は思った。
「でも、翔様と朝食を取るなんて、久しぶりで嬉しいです。すぐにお出ししますので、テーブルに着いて、待っていてください」
伊織はそう言うと、二人分の朝食をテーブルに並べた。いつもどおり、朝食はトーストとベーコンエッグだ。
「じゃあ、いただきます」
「はい、いただきます」
翔は一口だけトーストをかじり、そして気付いた。
「……美味しい」
「ただのトーストですよ? でも、ありがとうございます」
いつもはトーストを食べても何の味も感じないのに、今日は味がした。そのことに驚きつつ、翔はベーコンエッグも食べた。
「伊織、いつも料理を作ってくれてありがとう。それと、あまり一緒に食べられなくて悪かった」
「急にどうしたんですか?」
「いや、伊織はどう思っているかわからないが、ここは異常な環境だ。だから、俺はそれを避けようとしていた。だが、それだと何も変わらない。それなら、できることから何か変えようと思ったんだ」
そう言いながらも、翔自身、自分の心境の変化に驚いているところだ。
「話せる範囲で構わない。伊織はどういった経緯でここにいるんだ?」
翔がここで暮らすようになった時、既に伊織はここにいた。そのため、伊織が何故ここで暮らすようになったのか、その経緯を翔は知らない。
本来なら、もっと早く聞くべきだったが、なるべくかかわりたくない気持ちもあり、これまでは聞かないでいた。ただ、今後は少しずつでもかかわっていこうと翔は心に決めた。
「私は幼い頃に両親を亡くしまして、児童養護施設で育ちました。そんな私を団司様が引き取ってくださったんです」
「学校には行かなくていいのか?」
「はい、私は団司様のお手伝いをすることができれば、それで幸せです」
この時点で、翔は異常だと感じたが、もう少し伊織の話を聞くことにした。
「普段、団司は何をしているんだ? 俺はもう半年以上会っていないし、部屋から出ないで何をしているのか、全然わからないんだ」
「団司様は他の人がしない、特別なことをしています」
「……具体的には、何をしているんだ?」
「どう言えばいいのか、難しいですね。ところで翔様、時間は大丈夫ですか?」
思えば、いつも朝食はろくに時間もかけずに済ませていた。しかし、今日は伊織と一緒で話もしたため、すっかり時間が過ぎていた。
「まずい、遅刻しそうだ」
翔は急いでトーストとベーコンエッグを食べ終えた。
「ご馳走様。伊織、今度また話を聞かせてくれ」
「はい、今度があったら、お願いします」
翔は急いで部屋に戻ると、美優に遅れるから先に行くようメッセージを送った。ただ、すぐ後に翔が来るまで待っているとメッセージが返ってきて、翔は尚更急いで制服に着替えた。
そして、荷物をまとめると、早足で玄関に向かった。そこには、いつもどおり弁当を用意してくれた伊織がいた。
「翔様、お弁当です」
「ああ、いつもありがとう。じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
伊織に見送られ、翔は家を出ると、駆け足で学校へ向かった。
そして、昨日と同じ場所で、翔を待つ美優に会った。
「翔、おはよう」
「悪い、遅くなった」
そこで、翔はある疑問を持った。それは、ここに美優しかいないことだ。
「他のみんなはどうしたんだ?」
「えっと、孝太も千佳も大助も、みんな遅刻しそうだから、直接学校に行くみたいで……」
明らかに翔と美優を二人きりにしたい意図を感じて、翔はため息をついた。
「翔、ごめんね」
「いや、別にいい。俺も遅刻したし、そういう日なんだと解釈する」
それから、美優は少しだけ気まずそうな表情を見せた。
「あと、昨日は本当にありがとう。遅い時間の電話にも付き合ってもらって……」
そんな美優を前にして、翔は自然と左の手首に着けたミサンガを右手で触った。
「それって、ミサンガだよね?」
「ああ、昨夜着けたんだ。それより、俺の方こそ、昨夜は話を聞いてくれてありがとう。というか、遅刻するから早く行こう」
「あ、そうだね!」
そうして、翔は美優と一緒に学校へ向かった。ただ、少しの間、お互いに何も言えなくなってしまった。そんな状況を変えようと、翔は軽く息を吐いた。
「昨夜、美優と話して、少しずつでも変えていこうと思ったんだ。今朝も手伝いと一緒に朝食を取って、少しだけ話ができた」
「そうなの?」
「そのせいで遅くなって、悪かった」
「ううん! それでいいと思うよ!」
「まあ、まだ大したことはできていないが……」
「できることがあるって、特別なことだよ。だから、少しずつでもできることをしようよ」
その言葉は、過去にある人が言ってくれた言葉だ。
「私もできることをするから、一緒に頑張ろうね!」
そんな美優の言葉を聞いて、翔は自然と笑顔になった。
「ああ、そうだな」
翔は自身が変化しているのを感じていた。それは、確実に美優の影響を受けてのものだ。そのことにまだ驚きを感じつつ、それ以上に温かい何かを感じて、翔はこの変化を受け入れることにした。