ウォーミングアップ 29
翔は家に帰ると、風呂に入るなどして、もういつでも寝られる状態になっていた。
しかし、今日は様々なことがあったため、すぐには寝付けそうになかった。それだけでなく、今後どうするか考える必要もある。そこで、翔は可唯に電話をかけた。
「ラン、こないな時間にどないしたんや?」
「今日、ダークの連中が金銭を要求しに襲撃してきたんだ」
今夜、襲撃してきた不良達は、ダークに所属する者達だった。自分がランだと知られてしまったわけでなく、金銭目的でダークが襲撃してくるなど、完全に翔の想定外だった。
「それで少しの間、可唯にボディガードをお願いしたいんだ」
「うーん、明日から用事があるんや。てか、わいが守らへんでも、ランは大丈夫やろ?」
「俺一人なら大丈夫だ。だが、周りの人まで守れる自信はない。だから、助けてほしい」
この時、翔は美優達のことを考えていた。単に美優達を巻き込まないようにするには、かかわらないようにすればいいだけだ。しかし、美優達はそれを望まないし、今日のようなことはまた起こるだろう。だからこそ、翔は可唯にお願いしたかった。
「ラン、ええ友達ができたんやな」
「別に、そんなんじゃない」
「素直やないね。せやけど、わいはさっき言うたとおり、明日から忙しいんや」
「行き帰りだけでいいんだ。他の誰よりも可唯がダークを相手にできる。俺だけだと……」
「まあ、ランの頼みやし、そんだけ言うならええで。わいが力になったるさかい、安心せえや」
その言葉は、翔の求めていたものだった。
「こんで、わいとランも友達やな」
「悪いが、俺は可唯を本当に信用しているわけじゃないからな」
「そりゃないで。そないなこと言うなら、助けへんで?」
「俺に信用してもらいたいなら、まずそのエセ関西弁をやめろ。自分を隠すためだろうが、そんなことをされても信用できない」
「それはお互い様やで?」
翔と可唯は、お互いに自分のことを隠している。そして、そのことをお互いに認識もしている。そう考えると、自分達は似た者同士なのかもしれない。ふとそんなことを翔は感じた。
「まあ、ええわ。こっちの用事より、ダークを相手するんも楽しいやろ。わいはランに協力するで」
「ありがとう、助かる」
「せやけど、ラン、随分と変わったやないか」
「そうか?」
「自覚ないんかいな? たった一つのことだけできればええって感じやったのに、今はもっと大切なもんを見つけたんやろ?」
可唯の言葉に、翔は上手く返すことができなかった。それは、可唯の言うとおりで、翔にある変化が起こっている証拠だった。
「……話は終わりだ。もう遅いから切る」
「何や急やな。せやけど、わかったで。ほな、さいなら」
電話を切ると、翔は一息ついた後、引き出しからミサンガを取り出した。
自分にはしたいこと――するべきことがある。そのためだけに翔は生きると誓ったはずだった。
しかし、今日あったことを振り返ると、翔はただ「楽しかった」という感想を持った。そして、今後も美優達との時間を大切にしたい。そんな考えを持ち始めていることに気付いた。
そのことを改めて自覚したところで、翔は口を開いた。
「大丈夫だ。復讐は必ず果たす。それだけは約束する」
それから目を閉じると、今日の楽しい記憶を上書きするように、「あの時」のことを思い出した。それは忘れられない記憶であり、忘れたくない記憶でもある。
悲しみ、苦しみ、そして怒りといったマイナスの感情が心を侵食していくようで、翔は胸元を強く掴んだ。長い間、こんな感情にとらわれていたら、自分は悪魔になってしまうかもしれない。ただ、それでも構わなかった。
その時、電話が鳴り、翔は目を開けた。それは、美優からの電話だった。
翔は一瞬だけ間を置いた後、電話に出た。
「もしもし?」
「あ、翔、今大丈夫かな?」
「大丈夫だが、どうしたんだ?」
「ごめん、何だか眠れそうになくて……少しだけ話してもいい?」
「……ああ、大丈夫だ」
断ることは簡単だった。そのはずなのに、翔は自然と承諾していた。
「今日は本当に色々なことがあったね。翔と一緒に登校できたし、昼も一緒だったし、嬉しかった。それに翔のサッカー、本当にすごかったよ! ぬいぐるみも取ってくれてありがとう! 夕食も美味しかったし、不良達に襲われたのはビックリしたけど、それも今思い返すと楽しかったよ」
美優は今日あったことをただただ楽しそうに話した。それを聞いているだけで、翔も楽しくなった。先ほどまで、心を侵食していたマイナスの感情も、すっかりなくなってしまった。
そして、翔はそれでいいのかと、大きな迷いを持った。
「翔?」
「ああ、悪い」
「ごめん、私ばかり話して、こんなのつまらないよね?」
「いや、そんなことない。楽し……」
手に持ったままだったミサンガに目をやり、翔はこのミサンガをくれた人のことを思い出した。その人は、こんな今の自分を望んでいるだろうか。そんな疑問を持つと、翔は何も言えなくなってしまった。
「翔は一人じゃないよ!」
その時、美優の大きな声で、翔は心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。
「きっと、翔には何か言えないことがあるんだよね? それは話してくれなくてもいいよ。でも、一人にならないで! 一人で悩まないで!」
美優の言葉に、翔は胸を打たれたような気分だった。しかし、少しだけ考えた後、ため息をついた。
「……俺には、やらないといけないことがあるんだ。そのためには……俺は悪魔になってもいい。そんなものにみんなを巻き込みたくない」
やはり、自分は美優達とかかわるべきじゃない。改めてそんな決心を翔は持った。
「だから……」
「翔は悪魔になんてならない! だって、私が絶対に止めるから!」
そんな美優の言葉を聞いて、翔は何を言えばいいか悩んだ。
「……何もわからないのに、何でそんなことが言えるんだ?」
「翔は優しい。それだけはわかっているからだよ」
「そんなの……何の答えにもなっていないだろ」
そう言いながら、翔は自分が笑っていることに気付いた。そして、手に持ったミサンガにまた目をやり、翔は決めた。
「美優と話していると、何をやらないといけないか、わからなくなってくる。だから……ありがとう」
「……どういたしまして」
恐らく、美優はほとんど何もわかっていないだろう。それでも、嬉しそうにそう言った。そんな美優と話して、翔は心が温かくなるのを感じていた。
そして、しばらくの間、二人とも何も話さなくなり、お互いの息遣いだけが聞こえた。それは美優の言うとおり、自分は一人じゃないと感じられる時間だった。
「……ありがとう。もう大丈夫だ」
「……うん、良かった。あ、ごめん、こんな時間になっちゃったね。そろそろ切った方がいいかな?」
「俺の方こそ悪かった。美優はもう眠れそうか?」
「それはわからないけど……翔と話せて良かった。本当にありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ。ありがとう」
「じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
そして、電話が切れると、翔は改めて手に持ったミサンガに目をやった。
「俺、変わってもいいと思うか? いや、違うな……」
これまで、このミサンガをくれた人の考えを知りたいと思い続けたが、それはいくら望んでもわからないことだ。そのことをはっきり自覚したうえで、翔は自らの考え――願いを伝えることにした。
「俺、変わりたいんだ。応援してほしい」
翔はそう言うと、ミサンガを左の手首に巻いた。そして、右手を使って器用に結んだ。
何が正しいかなんてわからない。本当のところ、自分がどうしたいのかもわからない。頭の中はグチャグチャで、何の答えも見つかっていない。そのうえで、翔はミサンガを着けた左手首を右手で強く握った。
「俺は、もう大切な人を失いたくない。そのために、力を貸してほしい」
翔は目を閉じると、そんな願いをミサンガに込めた。