ウォーミングアップ 25
夕食を食べ終えると、美優達は会計をして、店を出た。
これまでの人生を振り返って、今日が一番幸せな一日だったかもしれない。そんな風に美優は思っていた。
初めて人を好きになり、現在進行形で混乱しているものの、今日はその相手――翔とたくさん一緒に過ごすことができた。
翔と一緒に登校して、翔と休み時間に話して、翔と昼食を食べて、翔のサッカーを見て、翔とゲームセンターに行って、翔と夕食を食べる。こんなことを今日一日だけで全部やってしまって、美優は今すぐ死んでしまってもいいと思えるほど、幸せだった。
「じゃあ、さすがに遅くなってきたし、そろそろ解散かな」
そんな千佳の言葉を聞いて、美優は悲しいとか寂しいといった感情を持ち、その感情が自分の心を侵食していくような感覚を持った。そして、美優は見られたくないと、顔を下に向けた。
「今日は楽しかった。また誘ってほしい」
そんな声が聞こえて、美優は顔を上げた。そこには、笑顔の翔がいた。
「うん、私も翔と一緒にいられて、楽しかった! また誘うから!」
翔の顔を見たら、自然とそんな言葉が溢れ出した。そして、また変なことを言ってしまったと自覚して、美優は顔を下に向けた。
「えっと……」
「ああ、また誘ってほしい」
自分のしていることは、翔にとって迷惑なんじゃないか。そんな疑問を美優は持っていた。しかし、翔の笑顔を見ると、自分は間違っていないと強く思うことができた。
「うん、ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ。今日も誘ってくれてありがとう」
「……どういたしまして」
美優は、自分が今どんな顔をしているのかと気になりつつ、とにかく翔に顔を向けた。きっと、真っ赤な顔になっていると自覚しつつ、翔から目を離せなかった。
「美優、それじゃあ、帰りは翔に送ってもらいなよ」
「ちょっと、翔の家と私の家、全然方向違うよ?」
「いいじゃん! 私達はお邪魔になるから、二人で仲良く帰ってねー」
「いや、僕の家、美優の近くだから、せめて僕も一緒に帰りてえんだけど……」
「もう孝太、二人の邪魔しないでよー」
「千佳、翔にも迷惑だし、ここで解散しようよ」
「そっかー、残念」
「いや、もう少し一緒にいた方が良さそうだ」
翔が意外なことを言って、美優達は固まってしまった。
「何? 翔も美優とまだ一緒にいたいとか?」
「不良達に囲まれている。今はこっちも人数がいるからいいが、別れると危ない」
翔の言葉で、周りに目をやると、十人ほど柄の悪い人がいるのを美優は確認した。
「どうしよう?」
「みんなで帰れば大丈夫だよね?」
「目的が何かによるな」
こちらがずっと警戒していたからか、不良達は様子をうかがうのをやめると、ゆっくり近付いてきた。
「一人になってから話そうと思ったけど、しょうがねえな。堂崎翔だな?」
その言葉で、彼らは翔に用があるとわかった。
「そうだが、何の用だ?」
「俺達、金がなくて困ってんだよ。だから、大金持ちの翔君に恵んでもらおうと思ってね」
随分とメチャクチャな言い分で、美優は怒りを感じた。しかし、翔は冷静な表情だった。
「金で解決するなら、それでいい」
「翔!?」
「その代わり、みんなに危害を加えるな」
「翔、そんなことする必要ないよ! こんなのおかしいし……」
「うるせえ!」
不良の一人がこちらに殴りかかってきて、美優は目を閉じた。しかし、それから少ししても何も起こらなくて、美優はそっと目を開けた。すると、翔が不良の腕を掴み、美優の目の前で拳が止まっていた。
「みんなに危害を加えるなと……」
「こいつ、何やってんだ!」
そう言うと、孝太は美優を殴ろうとした不良を殴り飛ばしてしまった。
「孝太、落ち着け!」
「落ち着いてられるかよ! こいつら、ふざけやがって!」
「金で解決できるなら、それでいいだろ!」
翔と孝太の間で考えが違い、翔は金を渡して解決できるなら、それでいいと考えているようだ。一方、孝太はこんな馬鹿げた要求に従うべきでないという考えのようだ。
そして、美優は孝太と同じ考えだった。
「ううん、こんなのやっぱりおかしいし、翔はお金を渡す必要ないよ」
「私もそう思う。大助もそう思うよね?」
「えっと……そう思います」
「うん、そうだよね! だから、こんな奴らの言うことなんて、翔は聞かなくていいよ!」
千佳と大助も賛同してくれて、美優は嬉しかった。ただ、状況はむしろ最悪だった。
孝太が不良を一人殴り、さらには翔が金を渡すことを美優達が反対している。そして今、美優達は十人ほどの不良に囲まれている状態だ。
「こうなったら、しょうがないな。孝太、美優達を守ってくれ。俺が何とかする」
「いや、僕も戦うよ」
「三人を狙われたらまずいだろ。そっちに行ったのを対処してくれ」
翔はそれだけ言うと、一瞬のうちに一人の不良に近付くと、パンチを繰り出した。その一発の攻撃で、その不良は気絶したのか、倒れたまま起き上がらなかった。
「ふざけんな!」
それを合図に、不良達が一気に迫ってきた。翔は相手の攻撃を避けつつ、パンチやキックを繰り出して、順に不良達を倒している。一方、こっちは孝太が不良の相手をしているものの、苦戦しているし、そのまま美優達の方へ迫ってくる不良がいた。
そこで、美優は普段から持ち歩いている竹刀を出すと、構えた。
「守られているだけなんて嫌だ! 私も戦う!」
そんな美優を見て、不良達はどうしようかと警戒するように距離を取った。その間も、翔は不良達を順に倒していき、気付けば残った不良は二人だけになっていた。
あれだけの人数を相手にしながら、気付けば有利とすらいえる状況にしてしまった翔に驚きつつ、まだ安心はできなかった。
「おい、こっちだ!」
応援を呼んだのか、また何人もの不良がやってきた。翔はその間にも一人倒すと、こちらに近付いてきた。
「さすがに分が悪い。逃げよう」
「うん、そうしよう」
翔と孝太がそう言ったため、美優は慌てて竹刀をしまった。
「美優、急げ!」
「うん、ごめん!」
既に孝太と千佳と大助は走り出し、少し距離が離れていたが、翔だけは最後まで美優のことを待っていてくれた。
その時、翔は美優の手を握ると、引っ張るように走り出した。こんな状況だが、美優は翔と手を握り、胸が高鳴るのを感じた。
「美優、翔、急いで!」
「こっちは別のところであいつらを振り切る! 孝太、千佳と大助を頼んだ!」
「大丈夫かよ?」
「ああ、大丈夫だ!」
翔はそう伝えると、孝太達がいる方とは別の道へ進んだ。すると、不良達は少しだけ迷った様子を見せた後、二手に分かれた。そうして多少は人数が減ったものの、まだ多くの不良達が追ってきていた。
「相手にするのは厳しそうだ。美優、こっちに来てくれ」
そう言うと、翔は薄暗い道に入っていった。そこは廃墟が多くあり、人通りの少ない道のため、美優はほとんど歩いたことがない。こんな状況で、あえて人込みを避けた翔の意図がわからず、美優は少しだけ戸惑ってしまった。
「翔、本当にこっちでいいの?」
「廃墟を利用して、あいつらを振り切る。昨夜も同じことをしたから大丈夫だ」
「昨夜も?」
唐突に翔が変なことを言っていて、気になったものの、それを確認する余裕は美優になかった。
「こっちだ」
翔は美優の手を引いたまま廃墟に入ると、一気に階段を上がっていった。
「ここに入ったぞ! 上に行った!」
不良達も追ってきていて、このままでは廃墟の奥に追い込まれてしまう。そんな美優の心配をよそに、翔は途中で廊下に出ると、そのまま非常階段の方へと向かった。
「美優、こっちだ」
翔はそう言うと、非常階段から隣の廃墟に飛び移った。
「え?」
そこまで距離はないものの、バランスを崩すなどして落下すれば、無事では済まないだろう。そう思うと、美優は戸惑ってしまった。
「大丈夫だ。俺が絶対に落とさない」
しかし、翔が強く手首を握ってくれて、美優は自然と安心できた。そして、意を決すると、翔の方へ飛び込むようにジャンプした。
そのまま翔が抱きしめるように支えてくれて、美優は心臓の鼓動が高まるのを感じた。
「よく頑張ったな。このまま、二つ隣の廃墟まで行こう」
翔は、この周辺の廃墟について熟知しているのか、慣れた様子で進んでいった。そして、今度は窓から隣の廃墟に飛び移った。しかし、ここは先ほどと違って少しも助走ができず、美優が飛び移るのは難しそうだった。
そんな美優に対して、また翔は手を伸ばした。
「さっき言ったとおり、絶対に落とさない」
翔の顔を見ると、美優は自然と不安がなくなった。そして、お互いに強く腕を掴むと、美優は窓から飛び出した。当然、途中で宙ぶらりんになるような格好になったものの、すぐに翔が引き上げてくれた。
「もう一つ隣の廃墟に移る。大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
胸の鼓動が高くなっているのは、怖い体験をしたからなのか、翔と一緒にいるからなのか、美優はわからなかった。ただ、相変わらずこんな状況であるにもかかわらず、翔と一緒にいられて嬉しいと感じていることだけは、はっきりしていた。
そして、また隣の廃墟に飛び移る際も、翔のことを信用して、すんなりと飛び移ることができた。
「よく頑張ったな。このままここを離れる」
「え、外に出るの?」
「ここの外の道は、最初に入った廃墟がある道から相当迂回しないと行けないんだ。あいつらが廃墟の中を探索しているうちに、離れよう」
気付けば、不良達の声も聞こえなくなり、完全に逃げ切れたようだ。改めて、翔がこの周辺の廃墟について詳しい理由が気になったものの、それよりも気になったことがあった。
「孝太達は大丈夫かな?」
「連絡してみる」
翔はスマホを出すと、孝太の声が美優にも聞こえるように、スピーカーにして電話をかけた。
「翔、そっちは大丈夫か?」
「ああ、もう大丈夫だ。このまま美優を家まで送る」
「え!?」
「その反応は何だ? あんなことがあったんだ。一人で帰すわけがないだろ」
これまでの人生を振り返って、今日が一番幸せな一日だった。そんな確信を美優は持っていた。それほど、今日は翔と一緒に過ごすことができた。
でも、これから翔が家まで送ってくれると聞き、美優は不良達に襲われたことなど忘れて、さらなる幸せを感じていた。
「私、幸せ過ぎて、今日死んじゃうかも」
「何を言っているんだ?」
「あ、声に出ちゃった! そういう意味じゃなくて……」
その時、翔はどこか寂し気な表情を見せた。
「……勝手に死ぬな。残される方は悲しくなる」
そう言った翔は、今にも消えてしまうんじゃないかと心配になるほど、弱く見えた。そんな翔を見て、美優は自然と言葉が溢れた。
「私は死なない! だから安心して!」
言ってから、また変なことを言ってしまったと自覚して、美優は顔を下に向けた。
「ごめん、また……」
「ああ、死なないでほしい」
そんなことを言われ、美優は顔を上げた。その時の翔の表情は、どういうものなのか、美優にはわからなかった。ただ、そんな言葉を自分に向けて言ってくれたことが嬉しいという思いだけはあった。
「何だかラブラブしてるみたいだし、そっちは心配ないね」
そんな千佳の声が聞こえて、今は孝太達と連絡している最中だったことを、美優は思い出した。
「ちょっと! そうじゃなくて……」
「こっちは千佳と大助を送ってから帰るよ。翔、美優のこと、頼んだよ」
「美優、引き続きラブラブしてねー」
「千佳!」
「あー、ごめん。孝太、電話切って」
千佳は怒られるのが嫌だったようで、そこで電話は切れた。
「じゃあ、帰るか。家はどこなんだ?」
「あ、うん……」
先ほどの会話を気にする様子もなく、翔は歩き出した。
今、美優は翔を抱きしめたいという、自分でも理解できない思いを持っていた。しかし、結局抱きしめるという行動を実行することはできないまま、美優は翔の隣を歩くことしかできなかった。