ウォーミングアップ 18
多くの人が予想したとおり、昨日のことが話題になり、朝のホームルームが始まるまでの時間だけでなく、休み時間になるたび、翔は多くの人に囲まれていた。その中には、他のクラスから来る人までいた。
そして、こちらも予想したとおり、翔は半ば無視するような受け答えだった。そんな翔を、美優は複雑な気持ちで見ていた。
「うーん、美優の恋を応援するとなると、このまま翔が人を避けてくれた方が、むしろいいかも。そうすれば、ライバルが減ると思うしね」
「いや、別に私は、翔がみんなと打ち解けてくれる方が嬉しいよ?」
「ちょっと、そんなんじゃ他の人に取られちゃうよ?」
「それでもいいよ。私なんかより、もっといい人いるし……」
「もう! 美優はネガティブだし、翔はぶっきらぼうだし、見ててじれったいんだけど!」
千佳が自分以上に悩んでくれて、美優はただただ嬉しかった。そのうえで、千佳の言うとおり、美優も自分を変えたいと感じた。
そして、美優は勇気を振り絞るように大きく息を吸うと、席を立ち、翔に近付いた。
「翔、いいかな?」
近くにまだ人がいる中、割り込むように話しかけると、当然ながら妙な視線が集まり、美優は少しだけ戸惑った。
「何だ?」
「えっと……お昼って、いつもどうしているのかな? 翔はいつもどこかに行っちゃうけど……私は孝太と千佳と大助の四人でいつも一緒に食べるんだけど、今日は……翔も一緒に食べないかなとか……やっぱり何でもない」
「いや、そこまで言っておいて、何でもないはないだろ。別にいつも一人だし、昼食ぐらい付き合う」
「本当!? すごく嬉しい!」
思いのほか嬉しくて、美優は自然と笑顔になった。
「美優、翔と仲いいの?」
「てか、翔の態度、美優に対してだけ違くない?」
急にそんなことを言われ、美優はどう返そうか困ってしまった。すると、そんな美優を助けるように孝太がやってきた。
「美優は僕の幼馴染、翔は僕の相棒なんだから、当然じゃん」
「俺は孝太の相棒になったつもりなんてない」
「そんなこと言わねえで、一緒に全国優勝目指してくれよ。そういえば、今日の放課後はサッカー部の練習、出てくれるよな?」
「予定が入らなければ考える」
「おいおい、だったらサッカー部の練習を予定に入れてくれよ」
「俺には他にやらないといけないことがあるんだ。悪いが、それを優先させてもらう」
「それじゃあ、予定が入らねえことを祈るよ」
そこで、孝太は周りに顔を向けた。
「こんな感じで、翔は人付き合いが得意じゃねえけど、決して悪い奴じゃねえんだ。その……わかってやってくれねえかな?」
その言葉は、美優が伝えたい言葉だった。
「そうそう! ちなみに、私達は、もうすっかり翔の仲良しだから! ほら、大助も何か言って!」
「えっと……」
「うん、大助も仲良しだよ!」
そこに千佳も加わり、美優は笑った。
「……やっぱり、無視するべきだった」
「そんなこと言わないでよ。翔が『勝手にしろ』って言ってくれたこと、私達が絶対後悔させないから!」
「……わかった」
その時、一瞬だけ翔が笑みを浮かべたように美優は感じた。ただ、周りの人が何も言わなかったため、自分にだけ見えたか、単なる勘違いかと思い、触れないでおいた。
「そういえば、あの犬は元気か?」
「え?」
一瞬、何を聞かれたのかわからなくて、美優は少しだけ慌ててしまったが、すぐに何のことかわかると、笑顔になった。
「うん! ミューは……あ、ミューって名前を付けたんだけど、すごい可愛いし、お利口だし、とにかく癒されるし、私の大切な家族だよ!」
大きな声でそう言ってから、翔が質問したことはミューが元気かどうかだと理解して、美優は顔が熱くなっていった。
「……あ、ごめん。ミューは元気だよ」
恥ずかしくなり、美優は顔を下に向けた。
「やっぱり、美優に任せて良かった。ミューって名前を付けたのか? いい名前だな」
しかし、翔からそんな答えが返ってきて、また美優は顔を上げた。
「私のイニシャルがMになるから、それに近い名前にしようと思ったら、ギリシャ文字でMを表すμを知って、それを付けたの! ミューって響きが、私の美優って響きにも似ているし……」
少しずつ冷静になって周りを見ると、いつの間にか美優と翔の二人きりになっていた。それだけでなく、孝太や千佳と同じように、多くの人が温かいというか、応援してくれているような視線を送っていた。
「どうした?」
「あ、その……ミューは翔にも懐いていたし、良ければ今度、遊びに来てよ」
「ああ、予定が合ったらな」
翔の返答は適当なもので、美優の提案を受けないことは、すぐにわかった。そのうえで、美優は自分の席に戻った。
今、この教室にいるほとんどの人が自分に気を使ってくれた。そのことを美優は感じていた。それは、美優の翔に対する思いを、ほとんどの人が知ったという意味になる。それを認識して、美優は鼓動が高鳴るのを感じた。
「美優、やるじゃん!」
そんな声をかけてきた千佳を前に、美優は自分の思いを抑えられなくなった。
「わわ……えっと……」
「大丈夫!? とにかく、呼吸しよ!」
千佳に言われて、美優は自分が呼吸していないことに気付いた。呼吸することすら忘れるなんてあるのかと思いつつ、実際にそれを体験して、どうしていいかわからず、パニックになってしまった。ただ、とにかく美優は息を吸い、吐くことを意識すると、自然に落ち着いていった。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
そう言いながら、美優は翔に目をやった。
「人を好きになると、死にそうになるんだね」
「いや、それおかしいから! 命大事にだよ!?」
千佳の慌てた様子を見て、美優は笑った。
美優はこの時、翔が幸せになるなら、自分は死んでもいい。そんな考えを持った。ただ、それを言えば否定されると思って、その思いを美優は心の中に仕舞った。