ウォーミングアップ 17
7月9日(月)
翔は目を覚ますと、日課にしているストレッチを始めた。
昨日はサッカー部の練習試合に出ただけでなく、「ケンカ」にも参加し、その後はダークから逃げるために走り続けた。そこまでのことをしたにもかかわらず、特に筋肉痛などもなく、翔の身体はいつもと同じ状態だった。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「翔様、朝食はどうされますか?」
そんな伊織の声が聞こえ、翔はドアを開けた。
「いつもどおり、一人で食べる」
「……そうですか。それでは、持ってきますね」
いつもと変わらない異常な家。それに慣れてしまった自分も異常なんだろう。そんなことをまた思いながら、翔は引き出しからミサンガを出して、それを両手で握った。
こうすることで、自分を保つことができる。何の根拠もないが、そんな風に翔は思い、頻繁にこうしている。
「翔様、お待たせしました」
伊織はトレイに乗せて朝食を持ってきた。それを受け取ると、テーブルに置いた。
いつも朝食は、トーストにベーコンエッグといった、一般的なものだ。ただ、使われている食材が豪華なもので、それこそホテルなどで出てくるようなものになっていることを、翔は知っている。
この家の料理は、伊織が担当していて、不味いものが出てくることはない。ただ、こうして一人で食べると、何の味も感じなかった。
早々に朝食を食べ終えると、翔は食器を乗せたトレイを廊下に置いた。こうしておくだけで、伊織が回収してくれるからだ。
それから歯を磨いた後、翔は制服に着替えた。二年生で転校してきた翔にとって、この制服――特に夏服は少ししか着ていないため、まだしっくりこないというのが本音だ。もっとも、本当にしっくりこないのは、制服よりも、その上にあるものだった。
それを拒否するように、翔は目を閉じた。そして、今日も人を避けつつ、いつもどおり過ごそうと心に決めた。これについては、昨日サッカー部の練習試合に出ているため、これまで以上に話しかけてくる人がいることを考慮したうえで、とにかく無視しようと決心した。ただ、そこで翔の頭に美優のことが浮かんだ。
翔はそれを消すように目を開けると、また鏡の中の自分に目をやった。そして、深呼吸をすると、カバンを手に取り、部屋を出た。
いつの間にか回収してくれたのか、廊下に置いた食器がなくなっていることを横目で確認しつつ、玄関を目指すと、そこに伊織がいた。
「翔様、こちら、お弁当です」
「ああ、ありがとう」
「行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
それだけ言って、翔は家を出た。家から高校までは近く、歩いて二十分もかからない。一応、自転車通学も認められているが、わざわざ自転車を使うまでもないと考え、翔はいつも歩いて学校へ向かっている。
いつもと同じ景色を見つつ、ただ学校を目指すだけ。それが翔にとっての登校だ。今日もそうしたいつもの登校になると思っていた。しかし、数分歩いたところで、いつもと違うことがあった。
「しょ、翔、おはよう!」
「ぐ……偶然だな」
「ホホ、ホントに偶然だねー。ほら、大助も!」
「翔さん、おはようございます。こんなところで会うなんて、偶然ですね」
美優、孝太、千佳、大助の四人と、登校途中で会うのは初めてだ。あまりにも不自然過ぎて、恐らく待ち伏せしていたんだろうと、翔はすぐに気付いた。
そこで、翔は美優の不安げな表情が目に入ったが、すぐに目をそらすと、何も言わずに四人の横を通り過ぎようとした。
「いや、さすがに無視はないでしょ!」
そんなことを千佳が言ってきたが、翔は大きく息を吐いた。
「昨日の話を理解していないのか? 俺は誰とも仲良くなるつもりはない」
はっきりとそう言うと、千佳は困った表情になった。それを確認して、翔はそのまま足を進めた。
「翔がどう思っているかなんて関係ないよ! 私が翔と仲良くなりたいの!」
『私が――と仲良くなりたいの!』
その時、翔は心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。そして、ゆっくりと振り返った。
そこには、泣きそうな顔になっている美優がいた。翔は目を閉じると、必死に無視をしろと自分に命令した。しかし、その命令を、何故か聞くことができなかった。
「……わかった、勝手にしろ」
「え?」
軽く息を吐くと、翔は学校の方へ向かって、ゆっくり歩き出した。しかし、美優達がついてこなかったため、すぐに足を止めると振り返った。
「一緒に登校するつもりで待っていたんじゃないのか?」
「あ、そうだけど……いいの?」
「勝手にしろと言っただろ」
それから少し間を置いて、美優は嬉しそうに笑顔を見せた。
「うん! じゃあ、勝手にする!」
それから、孝太達も笑った。
「そうだ! 言っていなかったけど、昨日の練習試合、お疲れ様。大活躍だったんでしょ?」
「別に大したことはしていない」
「4つもゴールを決めておいて、その言い方は相手に悪いんじゃねえか?」
「別に、ただ自分のできることをしただけだ」
「うわ、その言い方も感じ悪いよ。大助も、そう思うでしょ?」
「いえ、僕は特に……」
「ほら、大助も、そう言ってるよ!」
「千佳、いつも言っているけど強引だよ?」
同級生と一緒に学校へ向かう。そんなことを自分がしているなんて、翔は信じられなかった。
そして、どこか心が温かくなるような、そんな感覚に戸惑いつつ、ゆっくりと学校へ向かった。




