ハーフタイム 41
インターバルトレーニングを始めてから数週間後。
春来と春翔は、はっきりと自覚できる形で、走る際のフォームなどが良くなっていた。それは、普段の体育などで普通に走る時にも表れていて、長距離を走っても息が上がりづらくなっただけでなく、短距離でも前より速く走れるようになった。
その理由は、単にトレーニングを続けたからだけでなく、先輩のアドバイスが大きかった。
「春来君、腕を振ることに意識を向けているみたいだけど、身体全体に意識を向けて、もっと自然な形で腕を振るといいよ」
「でも、腕を大きく振った方がいいって、聞いたことがありますけど?」
「そういう選手もいるけど、必ずしもそうじゃないよ。そもそも、腕を振った方がいいってアドバイスは、走る時に脚を意識する人が多いから言われていることで、春来君はそこまで意識しない方がいいと思う」
「わかりました」
春来は、インターネットなども利用して、様々な知識を得ているものの、その中で自分に合った情報がどれか、わからない時もたくさんあった。それに対し、先輩は春来に合った情報を教えてくれるため、得られるものがたくさんあった。
「あと、この辺のこと、春翔ちゃんは感覚でわかっている分、自然な走り方になっていると思う」
「でも、まだ春来みたいに、スムーズな方向転換とかできないんですけど?」
「それは、方向転換っていうのが、そもそも自然な動きじゃないというか、普段生活していて、急激な方向転換をすることってほとんどないでしょ? だから、感覚でやろうとすると、単純に慣れていないし、上手くいかないんだよ」
そう言った後、先輩は春来の方へ目を向けた。
「逆に、春来君は、あらかじめどう動くか、考えたうえで動いているから、一見スムーズだけど、試合中だと咄嗟に動かないといけないことも多いから、そのことを意識するようにして」
「わかりました」
「まあ、これは繰り返しやることで、少しずつ身体が動きを覚えれば、自然とできることだけどね」
「そう考えると、サッカーの動きって、あまり自然な動きじゃないんだね」
何気なく、春翔がそんな風に言ったのに対して、先輩はどこか嬉しそうに笑った。
「そのことに気付くのは、重要なことだよ。ここ、大事なことだから何度も言うけど、繰り返しやることで、少しずつ身体が動きを覚えれば、普段はやらないような動きを自然にできるようになるの」
「じゃあ、私は方向転換の練習をすればいいってことですよね? いや、急に走り出したり、急に止まったりするのも、もっと練習した方がいいですかね?」
「うん、それが必要だって理解できたなら、二人が疲れる前に、今日はまた別のトレーニングをしようか。丁度、先生がいいものを用意してくれたんだよね」
そう言うと、先輩は梯子のようなものを持ってきて、それを地面に敷いた。
「これは、ラダーっていうんだけど、四角形の部分を一マスと考えて、そのマスを素早く踏むといったトレーニングができるの。私は、ゆっくりでしかできないけど、こんな感じだよ」
それから、先輩は一マス目を右足、二マス目を左足といった形で、各マスを交互に踏みながら進んでいった。
「マスの間隔が狭いから、普通に走るよりも歩幅が狭くなると思うんだけど、それがサッカーなどでは重要なことなの。というのも、急に走り出したり、急に止まったり、さらには急に方向転換したりって、いずれも歩幅を狭くすることで、スムーズにやりやすくなるんだよ」
「そうなんですか?」
「ただ、何もない所で、それを意識するのは、なかなか難しいと思う。だから、こういったものを使って、意識しやすくするんだよ。これはラダートレーニングっていうんだけど、意識するべきところも色々とあるから、説明していくね」
それから、先輩は順に注意点のようなものを説明していった。
まず、ラダーを踏まないようにする意識を持つこと。次に、ステップを踏むような意識で、なるべく踵をつけないようにすること。自然と足だけに意識がいきやすいため、腕を振ることを忘れないこと。
それだけを言われたうえで、実際に春来と春翔は、ラダートレーニングというものに挑戦してみた。ただ、思った以上に歩幅を狭くしないといけない分、最初は二人ともスムーズに進めなかった。
「二人とも、ちょっとした遊びをするような感覚でやってみて。それこそ、横断歩道で白線を踏まないようにするとか、反対に白線だけを踏んでいくとか、そんな遊びに近いものだよ。それで、最初はゆっくりでいいから、正確にステップを踏むようにしていって、慣れたら少しずつスピードを上げればいいよ」
「わかりました」
その後、慣れてくるにつれて、頭がフラフラしないよう、上半身を含めた姿勢を意識すること。力み過ぎないようにすること。そうした具体的なアドバイスが増えていった。
「春来、何でそんなにスムーズなの?」
「そうかな?」
「私も、もっとスムーズにできるようになる!」
「春翔ちゃん、これは疲れている時にやるべきことじゃないから、ウォーミングアップのようなものとしてやるといいよ。少しずつ慣れていこうよ」
先輩は、負けず嫌いの春翔を宥めるように、そんなことを言った。そして、春翔は納得がいかない様子だったが、ラダートレーニングは、少しやっただけで終わりになった。
ただ、ラダートレーニングの効果もすぐに表れ始め、いつも通りインターバルトレーニングをすると、二人ともスムーズな方向転換や、急な走り出しなどが前よりできるようになっていた。
そして、また数週間後。他の生徒も含めた、ちょっとした試合をした時にも、はっきり効果は表れた。
まず、春来は以前よりも相手からボールを奪う機会が増えた。これは、急な走り出しをすることで、相手のパスをカットできる機会が増えたことや、単純に相手を迫ってボールを奪うことも増えたからだ。
そして、春来がボールを持つと、春翔は即座にボールを受けやすい場所へ移動した。その際、ちょっとした方向転換などを加えることで、相手のマークを外せることが多くあった。おかげで、春来は春翔に難なくとパスを通すことができ、そのまま春翔がゴールを決めることも多かった。
「二人ともすげえな」
そんな春来達に、いつも一緒にサッカーをやっている男子も、驚きの声を上げた。
「これは、先輩のおかげだよ」
「いいな。だったら、俺も教えてもらいてえな」
男子がそんな風に言ったのをきっかけに、上級生を中心に、先輩から教わりたいという生徒がたくさん出てくるようになった。それを見て、先生は少しだけ複雑な表情を見せつつも、どこか嬉しそうだった。
「じゃあ、基礎的な体力がある奴は、これからトレーニングを変える。それでいいな?」
「えっと、いいんですか?」
「みんながそれを望んでいるんだ。何の問題もない」
先輩は、どこか自信なさげだったものの、先生の言葉を受け、強い目になった。
「わかりました!」
それ以降、最初に教わりたいと言った男子や、数人の上級生と一緒に、トレーニングすることになった。このことは、春来と春翔にとって、プラスになることが多くあった。
「これ、俺は結構得意なんだよ」
男子は、クラブチームでラダートレーニングをやっているそうで、スムーズに進んでいった。それだけでなく、一マスごとに左右両方の足を入れながら進んだり、横向きで進んだり、別の方法でもスムーズに進んでいった。
「慣れてきたら、こういうこともできるって説明するつもりだったんだけど、すごい上手で助かるよ。みんなの参考になってもらっていい?」
「おう、いくらでも見せてやります」
先輩に褒められると、男子は嬉しそうな様子で、ラダートレーニングを繰り返し見せてくれた。それから少しして、春来は、ほぼ同じような動きができるようになった。
「春来君、すごいね!」
「同じように動けばいいだけなので……」
「謙虚なところは変わらないね。春来君、他の人の動きを真似するのが得意なんだと思う。それって、すごい能力だから、ちゃんと自覚して」
「えっと……はい」
相変わらず、春来は自分に自信を持ったり、自分を理解したりといったことに関しては、苦手なままだった。それでも、こうして言われたことについて、なるべく否定しないようにしようといった意識は持つようになった。
「ねえ、私にも教えて!」
また、人が増えたことにより、春翔は負けず嫌いな性格がさらに強くなった。それだけでなく、上級生も含め、誰とでも話ができる春翔に対して、みんなが教えてくれる場面も増え、ドンドンと理解を深めていった。
そして、少ししたら、他の生徒も加わり、サッカークラブの生徒全員でトレーニングするという、元の形になった。
ただ、トレーニングの指示や、アドバイスなどは、先輩が中心になって行っていた。そして、そのどれもが的確なもので、全員の実力がドンドンと伸びていった。
そんなある日の休日。春来は一人で買い物に出かけていた時、偶然先輩と出会った。
「先輩、こんにちは」
「春来君、こんにちは。今日は一人?」
「はい、買い物をお願いされて……」
「せっかくだし、私も付き合うよ」
こうして、先輩と二人きりになるのは、初めてのことだった。そんな機会を与えられて、春来は、ある疑問を解決したいと思った。
「先輩は、何であんなにたくさんの知識を持っているんですか?」
春来自身も様々な知識を持っているものの、先輩には敵わないと思い、そんな質問をした。それに対して、先輩は軽く笑った後、口を開いた。
「私、生まれつき病気がちというか、体が弱くて、学校にもほとんど来られなかったんだよね」
「そうなんですか?」
「だから、去年はクラブにも参加できなかったし、運動とかはほとんどできない……というより、あまり運動しないようにって止められているぐらいだよ」
意外なことを言われ、春来は言葉を失ってしまった。
「それで、私にはできることがないのかって、落ち込んだこともたくさんあったよ。でも、お母さんとお父さんが、知識を得ることはできるって言ってくれて、それから興味を持ったものを深く知ろうと思うようになったんだよ」
「それじゃあ、サッカーも、興味を持った一つってことですか?」
「サッカーというより……ううん、何でもない。私は、全然できないけど、サッカーをする人にアドバイスできることはあるんじゃないかと思って、色々な参考書を読んだの。私が持っている知識は、それが中心だよ」
「でも、どうやって身体を動かせばいいかってことも、詳しいですよね? それも、人によって違うはずなのに、それぞれでアドバイスも変えていて、本当にすごいと思います。何で、そんなことができるんですか?」
その質問に対して、先輩は少しだけ間を置いた後、口を開いた。
「それは、お父さんのおかげだと思う」
「お父さんですか?」
「私のお父さん、刑事なんだけど、訓練で柔道とかを習うんだって。それで、どう身体を動かせばいいかってことを教えてもらったみたいで、それを私も教えてもらったの。特に、私は普通に歩くのも上手くできなくて……お父さんのおかげで、こうして歩けるようになったんだよ」
今、先輩は普通に歩いているため、本当にそんなことがあったのだろうかと、疑問を持った。ただ、先輩が嘘をつく理由もないため、春来は特に何も言わないでおいた。
「あと、人によってアドバイスを変えているのは……みんなを知りたいと思っているからだよ」
先輩の言葉を聞いて、春来は春翔とした会話のことを思い出した。
春翔や、もっとたくさんの人と仲良くなりたい。そのためには、相手のことを知ることが大事なんじゃないか。そんな考えを何となく持っていた春来にとって、先輩の言葉は、胸に響くものがあった。
「私は、なかなか学校に来られなかったから、もっともっとみんなのことを知りたいと思って……まだ、知らないことも多いけど、こう言えば伝わるかなって迷いながら、いつも話しているんだよね。だから、いつも上手く話せているか、不安もあるんだけど……」
「先輩のアドバイス、いつも的確で、助かっています!」
どこか先輩が自信なさげに見えたため、春来はそれを否定するように強い口調でそう言った。それに対して、先輩は笑った。
「春来君がそう言ってくれて、嬉しい。本当にありがとう」
何故、先輩が感謝してきたのか、春来にはわからなかった。そして、同時に、その理由を知りたい。もっと先輩のことを知りたい。そんな気持ちを強く持った。