前半 67
翔は、冴木と一緒に広いスペースに立つと、警棒を出した。
「素手の時と、警棒……というより武器を持っている時とで、構え方などは変わりますよね? 右利きの場合、素手の時は左半身が前に出ますが、武器を持っている時は右半身が前でいいですか?」
「基本的には、その認識で合っている。だが、素手との違いを気にするより、武器をどう使うかを考えた方がいい。そうすれば、素手で防御や攻撃をするより、武器でそれを行った方がいいと判断できて、そのためには武器を前に構えた方がいいといった結論に自然となるはずだ」
「確かに、そのとおりですね」
「武器を利き腕に持つかどうかというのも、その時の状況で変わることがある。両手に武器を持つことだってあるからな。だから、教えられたとおりに動こうと考えないで、常に状況を見定めて、どうするかを判断するようにしろ」
「わかりました」
先ほど、鉄也に習ったことを活用するなら、警棒を左手に持った方がいいだろうかと翔は考えていた。しかし、冴木の助言を受けて、もっと柔軟に考えるべきだと感じた。
「それを踏まえたうえで、警棒をどう扱うかだが、そもそもの話、警棒は殺傷能力を抑えた護身用の武器だ。だから、主に防御や、打撃による制圧が目的だと考えるのがいい。だが、使い方によっては相手に大怪我を負わせたり、死亡させたりすることもできる。そのこともよく認識しておいてほしい」
「はい、わかりました」
美優との約束もあり、今の翔は、人を殺そうだなんて考えを持っていない。だからこそ、冴木の言葉は翔の中で、本当に大切なものだった。
「それじゃあ、基本的な構え方から教える。これは共通して言えることだが、自然な構え、自然な動きが結局一番だ。それを基本に、相手の意表を突くため、時々トリッキーな動きをするとか、そういったスタンスがいいだろう」
「……参考にするべきじゃないんでしょうが、可唯は常にトリッキーな動きで、しかも強いんです。あれは、どう解釈すればいいですか?」
「参考にするべきじゃないと思うなら、しないのが一番だ。基本的に、トリッキーな動きというのは、不自然な動きということだから、どうしても遅くなるし、身体への負担も大きくなる。それでも強いというのは、それだけ大きな実力があるということだろう」
冴木の話を聞き、可唯の異常さを、翔は改めて感じた。
「よくある助言だが、無駄な力が入っていると、動きは鈍る。そうだな。俺の攻撃を防御してみろ」
不意に冴木が腕を振ってきて、翔は警棒を構えた。しかし、翔が気付いた時には、すぐ目の前に冴木の拳があった。
冴木は寸止めしてくれたようだが、そうでなければ、攻撃を受けていただろう。そして、これが実戦で、相手がナイフなどを持っていた場合、翔は殺されていた。そのことを、はっきりと認識させられた。
「今のは少し意地悪だったが、実戦で予想外の攻撃を受けることは多い。その時、驚いてしまうと身体が硬直して、今の翔みたいに動けなくなる。あと、試しに防御することを意識して構えてみろ」
「はい、わかりました」
冴木に言われたとおり、翔は防御することを意識して、警棒を目の前に持っていった。
「それじゃあ、ダメだ」
その直後、冴木が翔の右手を押した。すると、いとも簡単に腕が曲がってしまい、そのまま右手が翔の顔に当たった。
「腕を曲げた状態でキープするのは難しい。力が入るのは、腕を伸ばしている時、あるいは伸ばそうとしている時だ。それを理解して、もう一度構えてみろ」
「わかりました」
翔は少しだけ下がり、冴木と距離を取った後、警棒を構えた。
「それでいい。翔、今の俺との距離をよく覚えておけ。まあ、相手のリーチによって変わるが、相手の攻撃を防ごうと思った時、これ以上近付かれたら難しいと理解しろ」
冴木と距離を取ったのは、無意識に近い。ただ、翔は自然とその行動を取った。というのも、距離が近いと、警棒をどう構えても攻撃を防げる気がしなかったからだ。
「リーチや攻撃範囲というと、どこまで攻撃できるかと考える奴が多いが、近距離は攻撃範囲どころか、防御範囲にすらならないと認識しろ。警棒を含め、武器を使えばリーチが長くなる。だが、その分、近距離の対処がしづらくなる。こうしたことを、翔は感覚で理解しているようだが、ちゃんと頭でも認識しておいた方がいい」
武器を使うことで、近距離の対処が難しくなるというのは、確かに感覚として理解していた。刀を使う桐生真を相手にした際、接近戦を仕掛けたのも、そのためだ。ただ、これまで武器の使い方などは、単に知識を詰め込むだけで、実際にどう使えばいいかというのも、頭の中で考えるだけだった。そのことを認識しつつ、翔は武器を使うということを本当の意味で理解し始めていた。
「どの距離で戦うべきかは、しっかり意識しろ。まあ、翔の空間把握能力は優れているし、すぐ対処できるはずだ」
「はい、少しずつですが、わかってきた気がします」
「そのうえで、攻撃を教える。攻撃は最大の防御だなんて言葉があるが、そのとおりだ。防御だけ考えていたら、相手の接近を許して危険だ。だから、相手の接近を防ぐ目的で、牽制する意味でも攻撃は必要なんだ」
防御するための攻撃。その言葉を、翔は強く意識した。
「翔、手の向きを変えながら、警棒を振ってみろ。そうすれば、振りやすいとか振りにくいとか、すぐ実感できるはずだ」
「わかりました」
冴木に言われたとおり、翔は手首を少しずつ捻りつつ、何度か警棒を振った。そして、確かに手の向きによって、振りやすい、振りにくいといった違いがあることを理解した。
「自分は、こうするのが振りやすいです」
「いや、ダメだな。翔、この警棒で最も威力が出るのは先端だ。だが、今の翔は根本付近を当てるような振り方になっている。もっと先端を当てるイメージを持てば、遠心力なども利用できるはずだ」
「わかりました。やってみます」
警棒の先端をぶつける。そんなイメージを持ったうえで、警棒を振った。その瞬間、警棒が空気を切り裂く音が響き、翔は空気を切ったかのような感覚を持った。
「それでいい。翔もわかっただろ?」
「はい、これまでと違う感覚でした」
「相手がどんな武器を使ってくるかわからない。上から振り下ろすように振ったり、反対に下から振り上げるように振ったり、色々とやってみろ。どの振り方でも、同じような感覚を持てるようにするといい」
「はい、わかりました」
それから、翔は目の前に架空の敵がいるようなイメージを持ちつつ、警棒を振り続けた。初めのうちは、警棒を振った時にどこか違和感を覚えることもあった。しかし、続けているうちに、どんな振り方でも空気を切っているかのような感覚を持てるようになってきた。
「冴木さん、どうですか?」
「俺が言わなくても、実感しているだろ? 翔が感じていることが正解だ」
「そうですよね」
気付けば、さっきまで息が上がっていたはずなのに、今は呼吸も安定している。自分はこんなに速く動けたのかと驚きつつ、疲れを感じることはない。これが、冴木の言う自然な動きというものなのだろう。そんな風に翔は感じていた。
「翔……すごい」
「翔は優れた空間把握能力を持っているが、それは利点であり欠点でもある。だから、決まった動きをするより、その時の感覚を信じて、自由に動けるようにしろ。それと美優。これは翔だからできることだ。だから、美優は変わらずに決まった動きをすることを意識しろ」
美優と冴木の会話を聞きつつ、翔は昔のことを思い出していた。いつも「彼女」は、自分のことを特別だと言ってくれた。そして、それを自分は単なるお世辞だと思っていた。しかし、それは「彼女」だけが自分のことを理解してくれていたということなのかもしれない。そんな風に今は思えた。
「あとは、相手を理解することが重要だ。といっても、悪魔は前に話したとおり、上手く説明できる気がしない。だから、対峙することになったら、ただ逃げろとしか言えない」
冴木は大げさに言っているわけでなく、本当にそう思っているのだろう。そのことを理解して、翔は何も言えなかった。
「ケラケラについては、デーモンメーカーによる身体強化が厄介だが、攻撃の仕方などは素人そのものだったから、ある程度の対処ができると思う。といっても、俺は苦戦したが、下手に銃を使うより、むしろ警棒の方が有効だったかもしれない。いくら筋力を増強しても、関節はそのままだ。だから、そこを狙って、少しでも足止めすることを優先しろ」
「わかりました。あと、JJは左利きなんですが、注意するべきことはありますか?」
「ああ、戦闘に限らず、左利きのスポーツ選手が注目されることがあるが、その利点は少数派なことだ」
「少数派?」
「人は自然と経験を積んでいくが、左利きの人が少ないってことは、左利きの人を相手にする機会も少ないって意味だ。だから、経験のなさから不利な状況になることはある。だが、そこまで難しく考える必要はない」
そう言うと、冴木は翔の前に立ち、右半身を前にするように構えた。
「俺が何か武器……ここではナイフがいいか。それを持っているとイメージしろ。この時、お互いに武器を右手に持っているから、そこに注目すると、少し斜めというか、交差しているような距離感を持つ」
冴木の言うとおり、自分は右手に武器を持っているが、相手が持っている武器は自分から見て左手側にある。そのため、自分の武器と相手の武器、両方を意識しようとすると、斜めとか交差しているとか、そんなイメージを確かに持った。
「だが、相手が左利きだと、直線的な感覚を持つと思う。お互いに武器の位置も近くなって、接近戦を仕掛けられているような感覚も持つかもしれない」
冴木が左半身を前にして、翔は急に距離感がわからなくなった。そして、冴木は不意に一歩踏み込むと同時に、翔の警棒を掴み、そのまま奪い取った。
「こんな感じで、距離感が掴みづらいんだ。だが、左利きが必ず有利ということはない。鏡写しのようになるから、そもそも有利とか不利は生まれないはずなんだ。だが、左利きの人は右利きの人を相手にした経験が多くあるのに比べて、右利きの人は左利きの人を相手にした経験が少ない。その経験の差が、大きく影響を与えるんだ」
「どう対処したらいいですか?」
「翔なら、距離感なんてすぐに修正できるはずだ。試しに、警棒を左手に持ってみるのもいい。そうすれば、相手の攻撃をどう防御して、反対にどう攻撃すればいいか、すぐに理解できるだろう」
冴木に言われたとおり、翔は左手に警棒を持って構えた。ただ、先ほどと左右が逆になっただけで、何の違いがあるのだろうかと、疑問しか残らなかった。
「邪魔して悪い。少しいいか?」
その時、圭吾がやってきて、翔は動きを止めた。
「ランだけでなく、全員に報告する。闇サイトに投稿されてた場所、知り合いが調べてくれた。そこには、大量の死体があったそうだ」
一瞬、圭吾が何を言ったのか、翔は理解できなかった。それは、美優と冴木も同じのようで、言葉を失っていた。
「素人が軽く見ただけだから、違うかもしれないが、刃物で首を切られるなどして殺されたんじゃないかと言ってたぞ」
「……JJがやったってことですか?」
「わからないが、それが自然な解釈だと俺も思うぞ。一応、JJの死体がないか確認してほしいとお願いしたが、そこまでの確認はできないと断られた。ただ、闇サイトの投稿を理由に、JJは襲撃を受けた。しかし、そうして来た襲撃者をJJは皆殺しにした。そんなことがあったように俺は感じる」
何の根拠もないが、翔も同じ考えを持っていた。それは、推測というより、そうであってほしくないといった考えに近かった。
「JJを止めたいというのは、俺も思っていることだ。そして、これ以上、殺人を繰り返すようだと、止めるのが難しくなるとも思っている。たくさん練習するより、一回の実戦の方が有効だと言うからな」
冴木は、翔の思いを代弁するようにそう言った。同時に、翔はまたJJを相手にした時、止めることができるのだろうかと不安になった。それに、相手はJJだけじゃない。悪魔やケラケラ、もしかしたらまた新たな敵が襲撃してくるかもしれない。その時、美優を守ることができるのだろうか。そうした疑問は、気付けば不安に変わっていた。
「翔、大丈夫だよ」
不意に美優が抱き締めてきて、何の答えも出ていないのに、翔は気持ちが穏やかになった。
「みんなが私達のために協力してくれているから、私は絶対に大丈夫だって思っているよ。だから、翔も不安にならないで」
美優の言っていることは、何の根拠もなく、自分の不安を取り除くものとして、相応しくなかった。今後また美優を殺そうとする敵が現れた時、美優を守り切ることができるかどうか、結局のところわからないままだ。それなのに、翔は美優と一緒なら大丈夫だと思えてしまった。
「ああ、ありがとう。俺も大丈夫だと思えてきた」
そして、自然と翔も美優を抱き締めた。
「翔、もっと攻撃を防ぐ練習をした方がいいんじゃないか?」
そんな声が聞こえたと同時に、冴木が殴りかかってきた。それに反応すると、翔は美優を冴木から離すように突き飛ばした。
既に冴木との距離は近く、警棒で攻撃を防ぐのは無理だ。そう判断すると、翔は鉄也から習ったL字ガードに構えつつ、左腕で冴木のパンチを弾いた。その直後、翔は両手で冴木を突き飛ばすと、警棒を前に出すように構えた。
それから、どれぐらいの時間が流れたのか、翔はわからなかった。ただ、尻餅をついた冴木に警棒を向けていることを認識して、慌てて警棒を引いた。
「すいません! 咄嗟にこんなことをしてしまって……」
「いや、それでいい。翔、俺がいない時も、そうやって美優を守ってくれ」
冴木は、どこか嬉しそうだった。ただ、冴木が何故嬉しそうなのかがわからず、翔は戸惑ってしまった。
「美優の言うとおりだ。翔なら大丈夫だ。俺が保証する」
冴木の言葉は、美優と同じように、何の根拠もないものだ。ただ、戦い方について教えてくれた冴木の言葉だと思うと、強い説得力があるように翔は感じた。
そして、翔の中にあったのは、もう不安じゃなかった。
「いえ、自分はもっと強くなりたいです。だから、もっと教えてください」
そう言うと、翔は頭を下げた。