前半 65
美優は、医師を目指しているというライトのメンバーに傷の手当てをしてもらった後、シャワーを借りて汗を流したり、服を着替えたり、少しだけゆっくりとした時間を送っていた。
一方、翔は鉄也と圭吾に、ボクシングのフォームなどを習っていた。
「デトロイトスタイルは、攻撃的なスタイルと言われるが、相手の攻撃をしっかり回避できれば、好守共に隙のないスタイルだ」
「そんなこと言って、いつも俺のパンチをよけ切れてないぞ?」
「圭吾がおかしいんだ。フォームは相変わらず初心者のままで、それなのにパンチは強いって、ホントにやりづらいんだからな。だが、こんなのは稀だから無視していい」
「何だと?」
「いや、今後どんな奴が相手か、わからないんだ。どんな奴にも対応できるよう、防御に比重を置いたフォームに変えられるなら、そっちに変えたいんだ」
翔は、鉄也のフォームを真似ているため、主に鉄也からの助言を求めていた。
「それなら、L字ガードがいいかもしれねえな。フォーム自体はデトロイトスタイルと似てるが、こっちから攻撃するのを控えて、左腕でボディ、左肩で顎をガードする。右腕はガードに使うだけでなく、相手の攻撃を弾く、パーリングと呼ばれる技術にも使える。このフォームは身体を捻ることで回避もできるから、上手く使いこなせれば、あらゆるパンチに対応できる」
翔は、鉄也のフォームや動きを真似するようにして、実際に身体を動かしていた。美優は、そうしてあっという間に動きを覚えていく翔を見て、色々と思うところがあった。
美優を守るためなら、手段を選ばない。それは、人を殺すことだって構わない。そんな風に言っていた翔が、自分の言葉で変わってくれたように美優は感じている。それは、翔が人を頼るようになったことからも感じられた。
「鉄也は、何でL字ガードじゃないんだ?」
「圭吾のデタラメなパンチをガードしても意味ねえからだ。だから、少しでも多く攻撃できるデトロイトスタイルにした」
「圭吾さんの対策ってことか。だが、相手によって使い分けるのはいいかもしれない」
「ランは圭吾と違って器用だし、状況によって使い分けるのがいいってのは同感だ」
「所々で俺を否定するな!」
翔達のやり取りを見て、美優は思わず笑ってしまった。すると、翔はこちらに目をやり、心配した様子を見せた。
「美優、怪我は大丈夫か?」
「うん、冴木さんも言っていたけど、大したことないよ。だから、安心して」
「それなら良かった」
どこか、翔の表情が柔らかくなったように見え、美優は改めて安心した。
その時、鉄也がスマホを手に取り、何か気付いたような様子を見せた。
「和義と冴木さんが、もうすぐ着くそうだ」
「和義?」
「ああ、あとで詳しく話すが、セレスティアルカンパニーの内部に敵がいる可能性が出てきたら、和義には一旦こっちに来てもらうことにしてたんだ。光が俺の意図を読んでくれてたら、外部から敵を特定できるよう、和義に何か指示を出してるはずだ」
「そういうことか。正直なところ、これまでは敵に先手を取られているように感じていたから、どうにかしたいと思っていたんだ」
「それは同感だ。だから、ここから仕切り直しってことだ」
そうした話は難しく、美優はほとんど理解できなかった。ただ、これだけの人が力になってくれているというだけで、胸が熱くなるほど嬉しかった。
それから少しして、冴木が和義と一緒にやってきた。すると、飛び出すようにして、和義が勢いよく車から出てきた。
「すごいよ! 光から、セレスティアルカンパニーのシステムのソースコードをもらったんだよ!」
「ソースコード?」
「すぐ解析したいから、パソコン借りるよ!」
「いや、待て! 光の奴、そんな物を渡したのか?」
和義と鉄也のやり取りから、何かすごいことが起こっていることはわかったが、具体的に何が起こっているのか、美優にはわからなかった。
「どうしたんだ?」
「光の奴、和義にセレスティアルカンパニーのシステムを解析させるつもりだ。まさか、そこまでやってくれるとは思わなかった」
「いや、そんなことさせたら、今後ダークが何をするかわからないだろ? ホントに光はソース……何とかを和義に渡したのか?」
「ソースコードね。それだけ俺を信用して……期待してくれたってことだよ」
和義は、嬉しい気持ちを噛みしめるような言い方だった。
「和義、すぐに解析したいだろうが、ここで解析するのはリスクがある。ラン達にも提案することだが、潜伏先として使えそうな所はいくつもあって、そこは俺と和義しか把握してねえんだ。和義とラン達は、それぞれそこに行ってほしい」
「オッケー。確かに、その方がいいね」
「先に和義が一ヶ所だけ選んで、残り全部をラン達に教える。そこからラン達が好きな場所を選べ」
「いや、それだと俺達が困るじゃん。全部解決したら、本拠地を移すんでしょ?」
「光がセレスティアルカンパニーのシステムのソースコードを渡してきたんだ。こっちもそれだけのことをする」
「……オッケー。鉄也がそう言うなら、俺も賛成するよ」
詳しい話まではわからなかったものの、鉄也と和義が全面的に協力してくれるようで、美優はそこまでしてもらっていいのかと心配になってしまった。そして、何か言おうと思ったものの、上手く言葉が見つからず、結局何も言えなかった。
「話に割り込んですまない。今回、待ち伏せされたそうだが、何故そんなことが起きたと思っている?」
そんな質問をしたのは、冴木だった。
「俺は盗聴だと思ってるよ。ただ、盗聴されたのがセレスティアルカンパニーなのか、俺達の通話やメッセージなのかって部分は、わかんないけどね」
「俺が用意した潜伏先や車は、ほぼ全部特定されてしまった。こちらの位置が特定されないようにしているのに、何でこんなことになったのか、考えられる可能性は何がある?」
「そんなのわかんないよ。普通は位置情報を誤魔化すだけで十分だしね。鉄也はどう思う?」
「俺に聞くな。冴木さんの疑問は俺達も持ってます。ただ、その答えを見つけるのは、難しいと思います」
冴木達の話を聞く限り、また位置を特定されて襲撃される可能性があるのだろうと、美優は理解した。それは、この問題を解決しない限り、どこへ行っても意味がないということでもあった。
「位置情報を誤魔化してるから、特定されるんじゃないか?」
そう言ったのは、圭吾だった。
「圭吾、わかんねえことに口を出すな」
「確かに俺はよくわからないが、位置情報なんて、今はみんな使ってるんだろ? だから、その中で位置情報がわからない奴がいたら、おかしいって気付くんじゃないか?」
「そんな意味不明なこと……」
「いや、それだよ!」
和義が大きな声を上げ、鉄也と圭吾は言葉を止めた。
「圭吾の言うとおり、みんな位置情報を発信するのが普通で、そこら中で発信してるわけだけど、位置情報を誤魔化すツールって、周辺の位置情報を隠蔽するものだから、そこだけ人が全然いないかのようになっちゃうんだよ」
「そうか。人込みなどに入ると、何故か人がいねえ場所ができるから、それで特定できるってことか。消しゴムをかけたように、移動経路が消えるとなれば、そこから冴木さん達がどこにいるか特定される危険もある」
「つまり、これのせいだったってことか?」
それは、冴木と会った時、スマホに付けるよう言われたものだった。それに対して、他の人は答えに迷っているのか、何も言わなかった。
「そうだとしたら、俺のせいだな」
「いえ、それがあったから、襲撃を遅らせることができたんだと思います。むしろ、何もしなければ、すぐに位置を特定されてたはずです」
鉄也がフォローするようにそう言ったが、冴木の表情は暗かった。
「いや、考えれば、予測できたことだ。そうすれば、セーギや篠田も死ななかったかもしれない。全部、俺のせいだ」
「違います! 冴木さんのせいでも、誰のせいでもないです!」
美優は、無意識のうちにそう叫んでいた。ただ、周りから注目されていることに気付くと、何を言えばいいかわからなくなってしまい、言葉に詰まった。
「美優の言うとおり、誰のせいでもない。だから、俺は今後どうするべきかを、みんなで考えたい」
「……翔、ありがとう」
翔の言葉に、美優は嬉しさのあまり、泣きそうになってしまった。
「話を戻す。圭吾が気付いたとおり、位置情報を隠すのが良くねえってことなら、対策がある」
「いや、鉄也が何を言ってるのか、俺は全然わからないぞ?」
「圭吾は無視して、話を進める。今は位置情報を完全に隠してるから、不自然な空白ができてしまって特定されるんだ。だったら、今後は別の人がいるかのように偽装する。それぐらいのツールなら、俺と和義ですぐに作れるから、少し待ってくれ」
その時、翔がどこか複雑な表情を浮かべた。
「今回、闇サイトの方には投稿がなかった。というより、実際に美優がいる場所とは、全然違った場所へ誘導するような投稿があった。これについては、どう思う?」
「さっき言ったとおり、待ち伏せされた時点で、盗聴が濃厚だと思うけど……」
「そうじゃない。闇サイトを使って、襲撃者を誘導した、その先には、何があったんだ?」
翔の質問を受けて、他の人は険しい表情になった。
「確かに、ランの言うとおり、何があったか気になるな」
「それなら、こっちで調べるぞ。これまでライトの活動として、多くの人を助けたことで、その人達の協力を得られる状態だ。すぐ近くにいる人に、何か起こってないか確認させる」
「いえ、危険なので……」
「当然、危険だと伝える。というか、何かあればいつでも協力すると言ってくれる人がたくさんいて、今回のTODについても話はしてある」
「おい、何で今まで話さなかった……いや、むしろ何で話したんだ? ライトのメンバーじゃねえみたいだし、黙ってた方が良かっただろ?」
「鉄也も和義も、それに光も、ここまでやってるんだ。俺もできることは全部するぞ」
これだけ多くの人が、力になってくれる。それを受け、美優は頭を深く下げた。
「あの……ありがとうございます!」
そして、顔を上げた時、そこにいた全員が穏やかな表情を美優に向けていた。ただ、すぐにそれぞれが何をするべきか、お互いに意識し合っているのか、表情を変えた。そんな中、圭吾が気を使うような様子で、翔に目を向けた。
「ランに聞きたいことがある。ランは、何でTODのことを知ってたんだ?」
それは、美優も含め、全員が知りたいことなのだろう。全員が翔に注目した。
「……すいません、話せません」
「俺達は、ランの過去を探ってるぞ。ランが言わなくても、いつかは……」
「今すぐやめてください!」
翔が過去のことを探られたくないようだということは、これまでも感じていたことだ。そして、いつも翔は周りを避けるような反応を示していた。
しかし、今の翔は、これまでと違った反応だった。
「自分の過去を探ることで、どんな危険があるかわからないんです」
「別に、俺達は多少の危険ぐらい、覚悟してるぞ?」
「誰にどんな危険があるか、わからないんです。自分や美優だけでなく、孝太や千佳、それに大助まで巻き込んでしまうかもしれません。だから、自分のことは調べないでください」
翔は周りを拒否することなく、ただお願いをしていた。それを受け、圭吾を初めとした全員が、何を言えばいいか迷っている様子だった。
「いや、俺達は……」
「鉄也、黙っててくれ。ランはライトのメンバーだ。だから、俺が言う」
「……わかった」
何か言おうとした鉄也を圭吾が止め、鉄也も納得した様子で引き下がった。
「ランがそう判断したなら、それを尊重する。ただ、話さなかったことで誰かが危険になる可能性もある。いや、その可能性もランは考えたうえで、何も話さないという結論を持ったんだろう」
圭吾は、翔の考えを尊重するような言葉を伝えた。
「俺はライトのリーダーとして、ランが一人で何か抱え込んでることを心配してる。こうした心配をしてるのは、俺だけじゃないぞ」
その時、翔が美優の方に視線を向けてきて、自然と目が合った。そして、美優は何も言わないまま、ただ圭吾の言葉を肯定するように頷いた。
「俺達は仲間だ。だから、一人で抱え込むな」
「……ありがとうございます」
結局、翔は自分のことを何も話さなかった。ただ、何か少しでも気持ちが楽になるきっかけになったんじゃないかと、美優は感じていた。
それから少しの間、沈黙が走ったものの、そんな空気を鉄也が変えた。
「それじゃあ、さっき言ったとおり、ツールはすぐにできるから、ラン達は少し待っててくれ」
「俺は、さっき言ったとおり、協力してくれる人に連絡して、状況を確認するぞ」
鉄也と圭吾がそう言って、また少しゆっくりできそうだと美優は感じた。それは、翔と冴木も一緒だ。
「冴木さん、警棒の使い方について、教えてくれませんか? 自分は、強くなりたいんです」
翔は真剣な表情で、冴木にそう言った。
「翔は、何のために強くなりたいんだ?」
「大切な人と、自分自身を守るため、強くなりたいです」
「そうか」
冴木も、翔の変化に気付いた様子で、納得したように頷いた。
「わかった。だったら、あっちのスペースでやろう」
「はい、よろしくお願いします」
翔は深く頭を下げた後、冴木と一緒に広いスペースの方へ移動した。そして、美優はそんな翔を見守ろうと、一緒にそちらへ向かった。