前半 58
美優は、ナイフを拾うことなく、ただ彼に目を向けていた。そして、すぐに気付いたことがあった。
「あなたは……神保純さんですよね? 雑誌に載っていたのを見たことがあります」
孝太が紹介されると知り、美優はその雑誌を購入すると、これまでに何度も読んだ。その際、孝太を紹介した記事だけでなく、他の記事も読んでいた。そのため、その中に、神保純を紹介する記事が写真付きであったことも覚えていた。
「野球部のピッチャーとして、活躍しているんですよね?」
「別に甲子園も行ってないし、大した活躍はしてないぜ。それより、あんたの方が剣道だかで活躍してるだろ?」
「私のこと、知っているんですね」
「何で、あんたは紹介されてなかったんだ?」
「恥ずかしいので、取材は受けなかったんです」
孝太が取材を受けた時、美優にも取材したいといった話はあった。しかし、美優はそれを丁重にお断りした。
「目立つのは悪いことじゃないだろ? それに、あんたの剣道の実力は、あんたが望まなくても目立ってるぜ?」
「ありがとうございます」
普通に世間話のようなことができていることに違和感を覚えつつ、時間が稼げるなら、それでいいと美優は考え、どうにか話を合わせようと努めた。
「そんなあんたと殺し合いができるなんて、楽しくなりそうだ。早くナイフを拾えよ」
しかし、世間話の一つのような感じでそう言われ、美優はその異常さに恐怖を覚えた。そして、軽く気持ちを落ち着かせると、話を切り出すことにした。
「あなたは……JJと名乗って、TODのターゲットに選ばれた人を狙っていますね?」
「その名前を知ってるってことは、ランの知り合いなのかよ? だったら、俺のことはJJでいいぜ?」
「……わかりました。それで、どうしてTODのターゲットに選ばれた人を狙っているんですか?」
今のところ、会話はできている。もしかしたら、改心してくれるかもしれない。そんな希望を持ちたかったが、JJを相手にそれは難しいだろう。そう思いつつも、美優は会話を続けた。
「ランから聞いてるだろ? 俺の目的は、最高に楽しい殺し合いをすることだぜ」
「何で、ターゲットに選ばれた人を狙うんですか?」
「俺と同じように死線を潜り抜けた奴を相手にしようと思ったからだぜ。でも、ランの話だと、他の奴らは俺と違って、死線を潜り抜けたわけじゃなかったんだよな。無駄な時間だったぜ」
JJの言葉から、美優はある事実に気付いた。ただ、それを簡単に信じることはできなかった。
「あなた……ターゲットに選ばれたことがあるんですか?」
「先月のターゲットが俺だぜ。オフェンスだけじゃなくて、ディフェンスまで俺のことを殺そうとしてきて、本当に死ぬかと思った。でも、反対にそいつらを殺して助かった。あの時は……最高に楽しかったぜ」
JJは、その時のことを思い出しているのか、嬉しそうに笑っている。そんなJJの思考が全然わからず、美優には戸惑いしかなかった。
「あの時のような、楽しい殺し合いがしたい。他のターゲットは期待外れだったけど、あんたとの殺し合いは、楽しめそうだ」
「……私なんかが相手じゃ、楽しめないと思いますよ?」
「それは絶対にないぜ。あんたも俺と同じように、死線を潜り抜けたんだろ? 命の危険に晒されながら、それを潜り抜けた時、あんたも達成感を持ったんじゃないか?」
「そんなこと……ありません」
そう答えながら、美優はこれまでのことを振り返っていた。命の危険に晒される経験など、当然初めてのことだ。それでも、自分は今も生きている。そのことについて、どんな感想を持っているかと聞かれれば、良かったとか、嬉しいとか、ポジティブな感情しかない。その中には、達成感というものも含まれているかもしれない。
また、オフェンスの桐生真を相手に、翔が殺されてしまうと思った時、美優は自然と体が動き、一緒に戦った。その結果、自分だけでなく、翔も死なないで済んだ。その瞬間、自分は達成感を持ったかもしれない。
そんな思いがあり、美優はJJの言葉をしっかりと否定できなかった。
「その反応は図星だろ? そんなあんたとの殺し合いがつまらないわけないぜ。ああ、でも……」
自分がどんな反応をしているのだろうかと、美優は混乱しそうだった。そんな中、JJは何か思いついた様子を見せた。
「ランとの殺し合いは最高に楽しかった。あんたはランの知り合いなんだろ? 俺とランを会わせてくれるなら、それまで殺し合いは保留でいいぜ。俺はランと決着をつけたい」
JJの提案は、自らの身を守ることだけ考えれば、美優にとって嬉しいものだ。ここでJJと戦うことを避けられるだけでなく、翔がJJを倒してくれるかもしれない。
美優の位置情報は、今も翔に送られているはずで、ただ待っているだけで翔はここに来てくれる。そのことをJJに伝えるだけで、JJとの戦いは避けられるだろう。
そうしたことを理解したうえで、美優は足元に転がったままになっていたナイフを拾い、逆手に持った。そして、ゆっくりと構えた。
「翔をあなたに会わせたくありません。だから、私があなたの相手をします」
「翔? ランのことか?」
翔の名前を出して良かったのかと心配しつつ、美優はそれよりもJJの相手をいかにするかということに思考を巡らせた。そして、冴木から教わったことを徹底して行おうと、意識を集中させていった。
「じゃあ、いくぜ?」
JJはそう言うと、こちらに向かってきて、ナイフを振った。それに対し、美優は後ろへ下がりながら、攻撃をかわした。
まず、美優は回避と防御に専念し、相手の攻撃を理解することを重視した。それは、速度や威力、そして特にリーチを把握するのが重要になる。ただ、リーチを把握するのは難しく、相手が少し腕を曲げているだけでも変わってしまうものだ。
恐らく、JJは手加減をしているようで、腕を伸ばし切ることなく、腕の振りも抑えていた。そのため、回避するだけでなく、それをナイフで受けることもできた。これは、これまでJJが起こした事件の被害者が身体中に傷を負っていたという話から、あらかじめ予想できたことだ。
先ほど、JJは複数人の首――急所を狙って、あっという間に全員殺してしまった。つまり、確実に急所を狙うことができるということで、身体中に傷を追わせる必要などないはずだ。
しかし、JJは恐らく相手との実力が拮抗するよう、手加減することで、殺し合いを楽しんでいるのだろう。それ自体は、JJの異常さを表すものだが、美優がJJを相手にできるかどうかという点では、重要なものだった。
美優は大きく回るように、少しずつ左にずらしながら下がることで、JJとの距離を一定に保った。今のところ、お互いに攻撃が当たらない距離のため、美優もJJも牽制するようにナイフを前に出すだけの膠着状態になっている。
その時、JJが大きく踏み込んできて、一気に距離を詰めると同時にナイフを振ってきた。それに対して、美優は咄嗟に反応すると、ナイフを使って攻撃を防いだ。そうして、ナイフ同士がぶつかる音が響いた直後、JJは美優との距離をさらに詰めるように迫りながら、ナイフを振ってきた。
美優は距離を取ろうと後ろに下がったが、そうしてもJJが離れてくれず、攻撃をナイフで受け続けた。幸い、手加減をしているからだろうが、JJの攻撃はそんなに威力もなく、こちらから弾くようにして攻撃を防ぐこともできた。
しかし、JJのナイフを抑えたと思った次の瞬間、美優は蹴りを受け、吹っ飛ばされてしまった。ナイフに頼らず、蹴りまで繰り出してくるのかと驚きを持ちつつ、美優はすぐに立ち上がると、とにかく地面を蹴り、後ろへ下がった。
「やっぱり、あんたとの殺し合いは楽しいぜ」
「私は、あなたを殺す気などありません。だから、これは殺し合いじゃないです」
「……そう言うあんたが楽しいぜ」
JJは、まだ油断している。その隙を突くことが、自分にとって唯一の勝機だ。美優はそう考え、こちらから攻撃を仕掛けることは、まだしていない。そして、どこかのタイミングでJJに大きな隙が生まれた時、攻撃しようと機会を伺っていた。
ただ、JJは美優の狙いに気付いているのか、これまで隙のない攻撃しかしていない。それにもかかわらず、先ほどは追い込まれ、攻撃を受けてしまった。つまり、このままでは良くないということで、美優は何かないかと頭を働かせた。
「まだまだ楽しもうぜ」
考えることは悪くないが、考え過ぎることは動きを鈍らせる可能性がある。そう冴木に教えられたことを思い出し、美優は考えを中断すると、改めてJJに意識を集中させた。
JJは先ほどと同じように、一気に距離を詰めてきた。美優はどうにかナイフでJJの攻撃を防ごうとしたものの、すれ違うようにして攻撃してきたのを防ぐことができず、その直後、脇腹に熱いといった感覚を持った。
美優は苦し紛れといった感じでナイフを振り、どうにか距離を取った。それから、脇腹に目をやると、シャツが切られているだけでなく、血が滲んでいた。
これまでの被害者も、こうして少しずつ傷を受けながら、最終的に殺されてしまったのだろう。このまま、防御や回避に専念しても、状況は不利になるだけだ。そう判断すると、美優はナイフを握り直し、大きく息を吸った。
そして、また向かってきたJJに対し、美優の方からも向かっていった。それは初めてしたことだが、JJは意表を突かれた様子もなく、即座に対応すると、ナイフを振ってきた。
次の瞬間、美優はさらにJJに近付くと、お互いの手首を当てるようにして、JJの攻撃を防いだ。同時に、冴木から習った合気道の要領で、JJの足に自らの足をかけつつ、攻撃を受け流した。そうして、JJがバランスを崩したのを確認すると、勢いよくナイフを振った。
美優のナイフは、確実にJJの右腕を捉え、JJはナイフを落とした。それを確認しながら、美優は距離を取ると、また構えた。
JJは右腕から血を流し、真面に動かせないようだった。その様子を見たところで、美優は一息ついた。
「これで、もう利き腕は自由に使えないはずです。殺し合いは、終わりにしましょう」
隙を突いて、JJが戦えないようにする。それが美優の狙いだった。そして、その狙いどおり、利き腕を封じることができた。
「やっぱり、あんたは俺と同じだ。今、達成感を持ってるはずだぜ?」
JJの言葉が否定できず、美優は黙っていた。それより、JJが相変わらず余裕を見せている理由がわからず、まだ終わっていないようだと察した。
それから、JJは左手でナイフを拾うと、構えた。
「右手が使えないなら、しょうがない。ここからは、ハンデなしでいくぜ?」
翔が似たようなことを言っていたことを思い出し、一瞬JJの姿と重なった。しかし、翔とJJは違うと、すぐに首を振ると、美優は構えた。
JJは先ほどと同じように、距離を詰めながらナイフを振ってきた。ただ、そのリーチが先ほどよりも明らかに長く、下がってよけるのは無理だった。瞬時にそう判断すると、美優はナイフで防御したが、威力も想像以上で、そのまま身体が後ろへよろめいた。
その直後、JJがナイフを振り、それが美優の左腕を掠めた。防戦一方だと、状況は良くならない。咄嗟にそう感じると、美優はナイフを振りながら、すれ違うようにしてJJの横をすり抜けた。しかし、美優の攻撃は簡単によけられ、反対に背中を切りつけられてしまった。
そのまま美優は逃げるようにして、距離を取った。その際、JJからの追撃を覚悟していたが、JJは相変わらず手加減しているようで、特に美優を追うことなく、その場で棒立ちしていた。
「……左利きでしたね」
神保純が左利き――サウスポーのピッチャーと紹介されていたことを今更思い出し、まだ終わっていないどころか、むしろ悪い状況になったと美優は気付いた。
これまで切られた、脇腹と左腕、そして背中も、傷は大したことないようで、自分の動きに支障はなさそうだった。その分、ヒリヒリとした痛みが、美優を精神的に追い詰めていった。
元々、勝てるとは思っていなかったが、どうにか動きを止めるぐらいはできる。そう信じていたものの、JJとの実力差が大きく、それは不可能だと察した。冴木から少しでも戦い方を学んだ美優だからこそ、その事実を強く実感してしまった。
「そんな顔しないで、まだまだ楽しもうぜ?」
恐らく、自分は諦めたような表情になってしまっているのだろう。そう理解すると、美優は気を引き締めるように、大きく息を吸った。
その時、不意にバイクの音が近付いてきて、美優は音がした方へ目をやった。
スロープを上がってきたのか、バイクは猛スピードでやってくると、そのまま一気にJJに近付いた。それに対し、JJは迎撃を狙っているのか、ナイフを構えた。
次の瞬間、バイクは急停止すると、そのまま後輪が浮き上がると同時に、前輪を中心に横へ回転した。そうして、バイクの後部が勢いよく当たり、JJは吹っ飛ばされた。
それから、後輪を地面に着けると、バイクは美優の方へ真っ直ぐ近付いてきて、そこで止まった。そして、バイクを運転していた者は、すぐにヘルメットを外した。
「美優、大丈夫か!?」
翔が来てくれた。そのことを美優は素直に喜んでいいのか、よくわからなくなってしまい、上手く反応できなかった。
「ひどい挨拶だぜ」
JJは立ち上がると、そんな言葉を発した。それを受け、翔は軽く息をついた後、バイクから降りた。
「JJ、おまえの相手は、俺がする」
「俺もランと決着をつけたかったぜ」
結局、翔とJJを会わせてしまった。その事実を、美優は受け入れたくなかった。