前半 53
冴木はケラケラの姿を確認すると、バッグを落とし、銃を構えた。
「美優、バッグを持って車に乗れ!」
とにかく美優を逃がそうと、冴木は叫んだ。しかし、美優は怯えた様子で、動けないようだった。
「水野美優ちゃんを守ってくれる人、一人だけになっちゃったのー? かわいそうだねー」
「動くな! 動いたら撃つ!」
冴木がそう言ったが、ケラケラは不気味な笑みを浮かべるだけだった。
「わかるよー。あなたは人を殺したこと、ないんだねー」
次の瞬間、ケラケラは一気に距離を詰めてきた。咄嗟に冴木は銃を撃ったが、狙いが定まらず、ケラケラには当たらなかった。
そして、ケラケラは冴木の目前まで迫ると、右腕を振った。不意を突かれる形になったが、どうにか冴木は両腕で防御した。しかし、上手く受け流すことができず、そのまま吹っ飛ばされてしまった。
「やっぱり、デーモンメーカーってすごいねー。これで肌に悪くなければ、完璧なのにねー」
一時的に身体能力を強化する麻薬――デーモンメーカーの存在や、それをケラケラが使用していることを、冴木は認識していた。しかし、実際に攻撃を受けて、デーモンメーカーの危険性を改めて認識させられた。それこそ、名前のとおり、人を悪魔にするものだった。
ただ、美優を守るため、悲観的になっている場合じゃないと、冴木は頭を切り替えた。そして、落としてしまった銃を拾うと、ケラケラに狙いを定めた。
そんな冴木の行動に対して、ケラケラは笑った。
「ちゃんと狙わないと、水野美優ちゃんに当たっちゃうよー?」
そう言うと、ケラケラは美優の胸倉を掴み、そのまま冴木の方へ突き出すようにして、盾にした。
「美優を放せ!」
「ほらー、早くしないと、これを打っちゃうよー?」
美優を掴んだのとは反対の手に注射器を持ち、ケラケラは見せびらかすようにそれを振った。
冴木はどうにかケラケラだけを攻撃できないかと銃の狙いを定めようとしたが、美優に当たってしまうかもしれないと思うと、手が震えてしまった。だが、このままでは美優が殺されてしまう。そんな思いから、冴木は必死に手の震えを止めようとした。
「ああ!」
その時、そんな叫び声をあげながら、琴原がケラケラに体当たりした。その手には、ナイフが握られていて、それがケラケラの脇腹に突き刺さった。
その拍子にケラケラが手を放し、美優は膝をついた。それをチャンスと考えると、冴木は息を止めつつケラケラに狙いを定め、一発だけ撃った。
美優に当てないことを意識したため、その銃弾はケラケラの左肩付近に当たった。その衝撃でケラケラが吹っ飛ばされるのを確認しつつ、冴木は美優に駆け寄った。
「美優、しっかりしろ!」
肩を揺すりながら大きな声で叫ぶと、美優は我に返った様子で、しっかり冴木の目を見てくれた。
「おい、大丈夫か?」
琴原は興奮した様子で、肩で息をしていた。それは、美優を助けられたという達成感や、人を刺したという罪悪感など、様々な思いがあってのことのようだった。
「琴原、助かった」
「勝手に体が動いた。あいつもオフェンスか?」
そこでケラケラに目をやると、ケラケラはゆっくり立ち上がった後、脇腹に刺さったナイフを乱暴に抜き、近くに捨てた。
「あの化け物は何だ?」
「ここは危険だ。後は俺が何とかする。おまえは、どうにか逃げろ」
「でも……」
「息子のためにできることをしろ」
「……わかった」
琴原は迷っている様子だったが、息子のことを言うと、決心した様子で足早にその場を離れていった。
「あの邪魔者は何ー?」
「追わせないからな」
冴木はまた狙いを定めると、銃を撃った。しかし、撃つ直前にケラケラが横へ移動したため、その銃弾は当たらなかった。ただ、ケラケラが琴原を追うつもりはないようで、一先ず安心した。
「レディーの身体に傷を作らないでよねー。肩なんて二回も撃たれちゃったよー」
ケラケラは肩に銃弾を受け、さらに脇腹をナイフで刺されたにもかかわらず、何のダメージにもなっていない様子だった。そのことに恐怖を覚えつつ、冴木はこれからどうするべきかを考えた。
「美優、動けるか?」
「はい、大丈夫です。私も一緒に戦います」
「違う。戦わない選択が一番だと言っただろ? バッグを持って、車に乗れ。ナビがついているから、それに従えば大通りに出られるはずだ」
「嫌です! 私も……」
「俺は自分自身を守れるぐらいには強い。だが、美優を守りながらは難しい。美優がいると……足手まといだ」
こう言えば、美優は逃げてくれる。そう冴木は思っていたが、心にもないことを言うのは抵抗があり、途中で詰まってしまった。
「……わかりました」
「ちょっと、逃げられると思ってるのー?」
「美優、早く行け!」
冴木は叫ぶと同時に、ケラケラと距離を詰めた。
銃の利点は、離れた所から相手を攻撃できることだ。それにもかかわらず、距離を詰めた冴木に対して、ケラケラは意表を突かれた様子だった。
そして、美優がバッグを拾いながら車の方へ向かったのも確認しつつ、冴木はケラケラに向けて近距離で銃を撃った。
動かない的を撃つなら、近ければ近いほど当てやすい。しかし、動く的となると、照準が大きくずれやすいため、近ければいいというわけではない。実際、ケラケラがまた横へよけたため、銃弾は当たらなかった。
そして、ケラケラが目前まで迫り、また腕を振ってきた。ただ、冴木は先ほどと違い、ケラケラの攻撃をかわすと、その直後に銃を撃った。
その銃弾はケラケラの腹部を掠めたが、当然それでケラケラの動きは止まらなかった。そのことを確認しつつ、冴木はケラケラと距離を取った。
その時、不意にスマホが鳴り出した。恐らく翔からの連絡で、今の状況になっている理由を何かしらか聞けるだろう。そう思いつつ、ケラケラを前にしている今、冴木にはスマホを取り出す余裕すらなかった。
「電話、出なくていいのー?」
「おまえを倒したら出るからいい」
「それじゃあ、永久に出られないよー?」
そう言うと、ケラケラはまた突進するように近付いてきた。このタイミングで銃を撃っても、まず当たらない。冴木はそう判断すると、銃を持っているにもかかわらず、素手で戦う時と同じような構えに変えた。
そして、冴木は合気道の動きで、攻撃を受け流すと同時にケラケラの体勢を崩した。そうしてケラケラに隙が生まれたところで、少しでも動きが鈍くなることを期待しながら、ケラケラの太腿を撃った後、また距離を取った。
ケラケラはデーモンメーカーで驚異的な身体能力を得ているが、その戦い方は雑なものだ。そこが付け入る隙だと冴木は気付き、回避と防御に専念しながら、銃で攻撃するという初めてのことを臨機応変に実行していた。それは、ナイフの代わりに銃を使うという変則的な戦い方だが、ケラケラの動きを止めるとなれば、他の方法が見つからなかった。
しかし、冴木の使うコルトガバメントの装弾数は七発で、既に六発撃ってしまった今、残りは一発しかない。マガジンを交換する余裕も恐らくないだろう。そんな状況で、冴木はデーモンメーカーの分析を始めた。
そうして、医療の現場で麻薬が使われることがあるといった話を、冴木は思い出した。例えば、事故で怪我を負った患者に、痛み止めなどを目的に麻薬を投与するといった形だ。また、部分麻酔など、意識を持ったまま、痛みを感じなくさせるというものもある。
デーモンメーカーは、そうした性質を持ちながら、筋力の向上も兼ね備えている麻薬だ。もしかしたら、怪我を受けた際の影響を少なくする効果もあるかもしれない。そう推測すると、ケラケラが思ったよりも血を流していないという事実に気付いた。先ほど太腿に銃弾を当てたが、その影響も少なく見える。
そんなケラケラを、残り一発の銃弾で倒すことは難しいだろう。冴木はそんな結論を持ったが、それでも良かった。というのも、ケラケラが美優を追うことなく、冴木の相手をしてくれているからだ。
今頃、美優は車に乗り、ここを離れているはずだ。先ほど、連絡してきたのを無視したため、翔も異常に気付いただろう。そして、美優と連絡を取り、すぐに合流することを翔は選択してくれるはずだ。
翔が何か道を誤ってしまうのではないかという心配は、冴木も持っている。だが、美優を必ず守ってくれると信頼はしている。だったら、美優を逃がすことができた時点で、もう十分だ。後は、少しでもケラケラを足止めし、できれば多少でもダメージを与えられればいい。
それは、ここで死ぬことを選択するのと同じことかもしれない。冴木はそう思いながら、それでいいと結論を出した。そのはずなのに、美優に伝えた最期の言葉が、あんな嘘で良かったのだろうかと疑問を持ってしまった。
しかし、そんなことを考えている余裕はないと頭を切り替えた後、冴木は銃を構え直した。
その時、車のエンジン音が近付いてきていることに冴木は気付いた。目をやると、ワゴン車が猛スピードでケラケラの方へ向かっていった。
ケラケラは意表を突かれたようで、そのまま車に跳ね飛ばされた。それから車が急停止した。
「冴木さん、乗ってください!」
美優の叫び声。それを聞き、冴木は何も考えることなく、車まで一直線に走り、助手席に乗った。その直後、ケラケラがゆっくりと起き上がった。
「美優、ケラケラの相手をするな! このまま逃げるんだ!」
「はい!」
美優は車をバックさせたが、ケラケラがこちらに向かってきて、あっという間に近くまで迫ってきた。それに対し、冴木は、ケラケラの腹部を狙って銃を撃った。
その銃弾が当たり、ケラケラの動きが一瞬でも鈍くなったのを確認しつつ、冴木は弾切れになった銃を座席に置くと、抱き寄せるような形で美優の肩を持った。
「俺が運転する! 美優は後ろへ行け!」
「あ、はい!」
そして、多少乱暴な形になりつつ、美優を後部座席の方へ移動させると、冴木は運転席に座った。その間も車は走っていて、木にぶつかった衝撃なども感じたが、そんなものは無視した。それから、木にぶつかりつつUターンをすると、大通りの方へ向かって車を走らせた。
「冴木さん、追ってきています!」
「美優、体勢を低くしていろ!」
ケラケラは走って追いかけてきた。普通に走れば車の方が速いが、ここは道も悪く、すぐにケラケラは追いつくと、車の横に並び、後部座席の窓ガラスを殴って割った。その破片が美優に当たるのを確認しながら、冴木はアクセルを強く踏んだ。
「水野美優ちゃん、逃がさないよー?」
少しでも引き離せればと思ったが、ケラケラはしがみつくようにドアを掴み、そのまま美優を捕まえようと手を伸ばしてきた。冴木は咄嗟にハンドルを切ると、木の方へ車を近づけ、それをケラケラにぶつけた。
その衝撃で、さすがにケラケラは引き離された。しかし、すぐに立ち上がると、また追いかけてきた。
冴木はバックミラーを確認しながら、車を舗装された道まで出すと、アクセルを強く踏み、加速させた。そうなると、ケラケラも追いつけないようで、あっという間に見えなくなるほど距離が開いた。
そうして、少し落ち着いたところで、冴木は息をついた。
「もう大丈夫そうだ。美優、怪我はないか?」
「はい、ガラスの破片で腕を切ってしまいましたけど、大したことないです」
「助手席の方が破片も少ない。こっちに移動しろ」
「はい、わかりました」
美優が席を移動する間、冴木は軽く速度を落とした。そして、美優が助手席に座り、シートベルトを付けたところで、自然と口が開いた。
「それで、美優は何で逃げなかった?」
強く言うつもりはなかったが、感情を抑え切れず、強い言い方になってしまった。それに対して、美優は少しだけ困った様子で、間を空けた。
「……冴木さんと一緒にいる方が、生き残れると思ったからです」
美優の言葉は嘘じゃないだろうが、冴木を助けたかったという理由の方が大きいのだろう。そう感じつつ、冴木は強い言い方にならないよう、気持ちを落ち着かせた。
「おかげで助かった。ありがとう。だが、今度は逃げることを選択しろ」
「……わかりました」
言葉ではそう言ったが、美優は納得していない様子だった。それから、冴木と美優はお互いに黙り、少しだけ気まずい空気になった。
それから少しして、美優が何か思い出したような反応を見せた。
「あ、さっき翔から連絡があったんですけど、取る余裕がなくて……」
「ああ、俺の方にもあった。とにかく、翔に連絡しよう。きっと心配しているはずだ」
「はい、そうですね」
冴木は片手でハンドルを握りながらスマホを取り出すと、翔に連絡を取った。