前半 44
ずっと起きているつもりだったが、ソファーに座っているうちに、いつの間にか眠ってしまったようで、冴木は目を覚ますと、慌てて異変がないか確認した。
幸い、監視システムは正常に稼働していて、侵入者などもいないようだった。そのことに安心すると、冴木は近くで眠る美優に目をやった。
部屋で寝るように言ったが、美優は不安だからと近くに布団を敷き、そこで寝ることにした。そして、疲れもあったようで、すぐ眠りに就いた。それから、結構な時間が流れた今も、美優は寝続けている。
ふと、美優の穏やかな寝顔を見ながら、冴木は美咲――美優の母親のことを思い出した。
最悪の家庭環境で荒んでしまった冴木を心配し、救ってくれた人物。昨夜、美優に話したこの人物が、美咲だ。
美咲の両親から交際を反対され、さらには美咲が引っ越してしまってから、冴木は一度も美咲に会うことはなかった。しかし、美咲との時間は冴木にとって大きなもので、高校卒業後、社会を変えるために自分ができることを考えたからこそ、今の自分がいると思っている。
ある日、そうした感謝の気持ちを伝えたいと思い、冴木は美咲に会おうと心に決めた。美咲を捜すのは簡単で、すぐに引っ越し先を見つけることも容易だった。しかし、こんな自分が会っていいものかといった疑問から、決心がつかなかったため、それまで美咲を捜すことはなかった。
美咲と会う決心がついたのは、テロを起こそうとしていたグループを未然に壊滅させ、そこに所属していた自らの両親が逮捕に至ったからだ。
冴木が高校を卒業し、一人暮らしを始めたのは、自分のために苦労している、両親を解放したいといった気持ちがあったためだ。しかし、両親は冴木と離れた後も堅気に戻ることなく、ついにはテロまで起こそうとしていた。そのことを知り、冴木は心を痛めつつも、両親を止めた。
冴木のせいで逮捕されることになったにもかかわらず、両親は逮捕される直前、感謝の言葉を伝えてきた。ずっと間違っていると自覚しながら、進むしかなかった自分達を、息子が止めてくれた。そんな感謝の言葉を受け、冴木は自分のしていることが間違っていない。そんな自信を持った。
そうして、美咲を捜し始めてから少しして、美咲が亡くなってしまったことを冴木は知った。そして、その事実をどう受け入れるべきか、整理できないまま、美優の存在を知った。
美咲は引っ越してから、少しして亡くなってしまったこと。亡くなる前に出産したこと。産まれた娘に、冴木の名前――優の字を含めた、美優という名前を付けたこと。そうしたことから、美優が自分の娘だと、冴木は確信した。
しかし、美優に会うことはできなかった。何度も連絡し、時には家を訪れたこともある。ただ、美咲の両親は、冴木が美優に会うことに断固反対した。
とはいえ、堅気の人間でない自分が、美優に会っていいのかと、冴木自身も疑問を持っていたため、冴木は遠くから美優を見守ればいいと心に決めた。そうして、美優に会うことなく、それこそ一生を終えるのだろうとすら思っていた。
そんな美優が、TODのターゲットに選ばれてしまった。これまでずっと平静を保とうと気を張っているが、少しでも気を緩めれば叫び出しそうになるほど、冴木の心中は穏やかでなかった。しかし、ただ美優を守るという強い決意が、今も冴木の心を支えていた。
美優は、美咲にそっくりだ。それは見た目だけでなく、性格もそうだ。翔との関係なども、美咲が自分に対して持っていた思いを改めて感じて、冴木は複雑だった。
そんな美優との時間を、こんな形で迎えている。それは、はたして良いことなのか、それとも悪いことなのか、冴木はよくわからなくなっている。
ターゲットに選ばれたのが美優だったため、冴木はすぐ美優の祖父母に連絡して、そのまま匿うことができた。他の人がターゲットに選ばれていたら、あそこまでスムーズに家族を匿うことはできなかっただろう。
そして、美優がターゲットに選ばれなければ、こうして一緒の時間を過ごすこともなかった。しかし、美優に命の危険がある今、それを嬉しいと思うことは決してなかった。
ふと、篠田が言った「神様がいるとしたら、随分と意地悪ね」という言葉が脳裏に蘇った。スムーズに美優の祖父母に連絡した冴木を見ただけで、篠田は様々なことを察した様子で、だからこそ出てきた言葉なのだろう。今、冴木は篠田の言ったとおり、神様は意地悪だと感じている。
それから、冴木はため息をつくと、ソファーに戻り、それからテーブルにポータブルチェスを出した。
これは旅行などでも遊べるよう、小型なだけでなく、駒がマグネットでくっつくようになっている、便利なものだ。とはいえ、家にいる時はしっかりしたチェスがあり、そもそも外でチェスをやることがほとんどないため、このポータブルチェスを使う機会は、まったくないといえるほどなかった。
それでも、冴木は常にこれを携帯していて、一種のお守りみたいになっていた。その理由は、このポータブルチェスが、美咲からのプレゼントだったからだ。
美咲は冴木のことを少しでも知ろうと、様々なことに付き合ってくれた。その中で、チェスに興味があると伝えたところ、一緒にやろうと、このポータブルチェスをプレゼントしてくれた。
しかし、美咲は結局ルールすら真面に覚えられず、勝負にならなかった。とはいえ、美咲とチェスを指した時間も、冴木にとっては大切な時間の一つだ。
冴木は駒を配置すると、先手と後手、両方の駒を一人で動かす、一人チェスを始めた。
こうしていると、自分自身が持っている考えだけでなく、他の人がどう考えるかといったことも自然と考えられるため、頭が整理できる。そうした理由で、冴木は普段から……特に何か考えがまとまらない時など、一人チェスを指すようにしている。
「チェックメイト」
そして、ある程度の時間をかけたところで決着がつき、冴木は黒のキングを倒した。
「あ、学校!」
突然そんな声が聞こえ、冴木は顔を向けた。そこには、慌てた様子で身体を起こした美優がいた。
「おはよう」
「あ……おはようございます」
美優は今の状況を理解した様子で、少しだけ照れくさそうにしていた。
「ごめんなさい。いつもアラームで起きるようにしているんですけど、時々寝坊してしまうことがあって、朝起きてアラームが鳴っていない時は、大体寝坊した時なので、焦ってしまいました」
「わかっている。それに、もう学校が始まる時間だから、寝坊したというのは正解だ」
「え!?」
美優はまた慌てた様子で時計を確認した。
「こんなに寝てしまって、ごめんなさい。冴木さん、休まなくて大丈夫ですか?」
「俺も少し寝たから大丈夫だ。それと、昨夜言ったとおり、そんなに謝らなくていい」
「あ、ごめ……わかりました」
美優の謝る癖は、恐らく自分に自信がないからだろう。そのことを知りつつ、冴木はどう言えば、美優が自信を持ってくれるだろうかと考えていた。
「今のところ、特に異常はない。だが、今後どうなるかはわからない。今のうちにシャワーでも浴びてくるといい。洗濯物も、もう乾いているはずだから、いつでも移動できるように着替えだけは済ませてくれ」
「わかりました。そうします」
美優がシャワーを浴びに行ったため、冴木はまた駒を並べて、一人チェスを始めた。ただ、今度は先手の白ではなく、後手の黒を手前に置くようにして、後手からの視点で指した。
そうして一人チェスを指していると、少しして美優が浴室から出てきた。
「シャワー、ありがとうございました。あ、それってチェスですか?」
「ああ、時々こうやって一人でチェスを指すんだ。先手と後手、両方の手を考えていると、自然に頭が整理できるんだ」
「少しだけ、私もやっていいですか?」
美優の不意な提案に少しだけ戸惑いつつ、冴木は笑顔を返した。
「そういえば、教える約束だったな。だが、駒の動かし方などは、説明書を見た方が早い。ここに一覧で載っているから……」
「じゃあ、私はこっちでいいですか?」
そう言うと、美優は冴木の向かいに座った。
「やるって、ここから指すってことか?」
「あ、ダメでした?」
「いや、別に構わない。チェスは将棋と違って、相手の取った駒を使えない。その代わり、一つ一つの駒の動かせる範囲が結構広いんだ。油断していると、簡単に駒を取られてしまうから、まずは自分の駒が取られないように動かすのを意識するといい」
それから、冴木は一つ一つ駒の動きを説明した後、今の局面で考えられる候補手を順に教えていった。
「ここの守りを強くしたいなら、このナイトを動かすといい。だが、これだと攻めが弱くなる。攻めたいなら、ナイトはこのままで、ルークを戦いに参加させるため、こう指すのがいいだろう」
「クイーンっていうのが強いんですよね? ここに動かしたらダメですか?」
「そこは俺のナイトが利いている。他のマスも別の駒が利いているし、動かしたらすぐに取られるからダメだ」
「あ、そうでした」
チェスを指すことが初めてのため、これだけで判断するのは良くないと思いつつ、美優はチェスのセンスがないのだろう。そんな風に冴木は感じた。というのも、こうした美優とのやり取りが、美咲としたやり取りによく似ていたからだ。
冴木は、両親と自分は違うといった考えを持っているため、遺伝といったことも信じていない。それどころか、否定しているほどだ。
しかし、美優とチェスを指していると、美咲の遺伝といったものがあるのではないかと感じた。
「ここでクイーンを動かすのは……」
「だから、どこに動かしても取られるからダメだ」
「チェス、難しいですね。でも、やりがいがあります」
そして、どうにか強くなれないかと諦めないのも、美咲と同じだった。
しかし、美咲がチェスを指してくれたのは、単に気を使ってのことだろう。そんな風に冴木は考えてしまい、どこか申し訳ない気持ちをずっと持っていた。
それが間違いだったこと。そして、あの時伝えるべき言葉があったこと。それを理解して、冴木は美優に笑顔を向けた。
「俺の好きなものに、美優が興味を持ってくれて、嬉しい」
きっと、この言葉は美咲にも伝えるべき言葉だった。そのことを理解しつつ、冴木は美優に自分の思いを伝えたかった。
「いつか、冴木さんの相手ができるぐらいになれたら、またこうして指せるじゃないですか」
そう言うと、美優は笑顔を向けてきた。
その瞬間、冴木は気を緩めると涙が出そうになってしまい、必死にそれを抑えた。
「……ああ、そうだな」
堅気でない自分は、美優と一緒にいるべきじゃない。そう思っているのに、冴木は美優の提案を拒否することができなかった。そして、TODが終わっても、美優の言うとおり、いつかチェスを指す機会がまたあればと、心から願った。
少なくとも、美優とチェスを指す今この瞬間は、冴木にとって何よりも大切な時間に間違いなかった。