第四章 4 〇二人の距離感
魔の山を登っているときとは全く違うベクトルで空気は最悪だった。10台ほどの竜者と五台の荷車を率いる中型キャラバンの最後尾の積み荷と共に風月とレルキュリアは運ばれていた。風月は昨日の発言を後悔していないが反省はしていた。茜曰く、『鍛冶師にとって最大の侮辱』にあたる言葉を意図せずにぶつけたらしい。
風月は荷台から景色を眺める。曇った空は静かに泣きだして大地を濡らした。天蓋のような布の屋根のおかげで商品も風月も濡れないで済んだ。
「意外と、違うもんだな」
大河から遠く離れた最短のルートをゆく風月たち。川の香りも消え、森の香りも消え、収穫の差し迫った小麦が雨風に揺られていく。その香りが日本とは似ても似つかない。
濡れたコンクリートの香り、車の排気ガスの香り、そういった人工物が放つ独特の刺激臭のない世界。雨で冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、湿った土の香りが印象的だった。
次第に雨は強くなる。風月は商品の毛皮に埋もれるように、マントで身を覆った。どんより天気の灰色の世界は今の風月の心の内側を現しているようで、隙には馴れなかった。
布の屋根を伝う雨水に手をくぐらせる。芯まで冷えそうなほど冷たかった。
一方でレルキュリアも感傷に浸っていた。
託されるという表現は騎士たちの間で長く使われてきた。戦った敵はその命でもって素材を託しに来たと解釈され、そうした武器の素材にもなる生き物たちはその魂は武器に宿るとされる。自らの命を託すに値する相手であることを、戦いを経て認め合うのだと。
風月はそれを知っていたわけではないが、そう感じたからという理由で同じような言い回しを使った。巨竜の素材は一片も余すことなく、今は風月に託された状態なのだ。武器にも家財にも使えはしないのだから。
鍛冶師とは、そうして託された魂を一時的に預かって、今度は使い手が命を預けられる形へと変化させる者たちだ。ゆえに、勝ち取った騎士たちの次に素材を丁寧に扱う。
『お前が使うのは俺に託されたものだ。それを預けるに値しない』
そのセリフはレルキュリアの心に傷を残したのと同時に受け入れてもいた。
父親から受け継いだ『星砕』はありったけの恨みと憎しみを込めた。それ以上何も恨まなくてもいいように、ありとあらゆる負の感情を一心に押し込んであの形へと成った。
巨竜から託されたものを一時的にでも預けることの意味を真剣に考えた風月が、レルキュリアの武器からその意味を見出したのは当然だ。もしも、風月がヴァーヴェルグを恨み、殺したいと願っていたのならきっとレルキュリアに任せていたはずだ。それはレルキュリア自身が報告書を読んだ中でよく理解していた、
敵であっても憎む相手ではなく、打ち倒すべき目標だと。
レルキュリアは悔しさ以上に無力感に苛まれた。護衛としてではなく鍛冶師として役立たずと言われた。
雨が強くなる中、同じ荷台の先頭にレルキュリア、後ろに風月が背中を向け合う状態で座っている。その距離はつかみきれないお互いの心の距離を現していた。本当はお互いに理解してほしいとすら思っているのに、近づけない。
風月は巨竜の素材を最高の逸品に変えてくれることを望んでいるし、レルキュリアは忌避ではなく対話を選んだ風月をそんなに嫌っていないのだから。
雨が強くなると天蓋のギリギリに腰かけていた風月にまでしずくが降りかかってきた。
「旦那! 毛皮がだめになっちまうから天蓋を下ろしてくだせえ!」
駆竜の御者は気のいい商人だった。風月の名は巨竜という恵をもたらしたことと、魔の山の商路開通を成し遂げたことで広まっていた。特にドラクル領ではその名は絶大な力を持っていた。
風月は少しだけ天蓋を下ろすことを逡巡した。外の景色を楽しむことが好きだったし、この天蓋を下ろして外の世界を遮断するのはもったいなく感じたのだ。そうして迷った挙句風月はぬかるみに足を下ろした。緩んだ足元が体力を、冷たい雨が容赦なく体を濡らして温度を奪っていくが、それでもかまわなかった。
天蓋を下ろして外に出ると青空が見えない圧迫感と、どこまでも広がる世界に踏み出した解放感が同時に押し寄せた。
歩きにくいのに足が軽くなる。懐かしい感覚に風月のほおが緩んだ。
雨になって巨竜の元気がなくなったのは、体温が下がったからだろう。風月の徒歩と同じような速さだった。御者と並走して歩くと、さすがに声をかけられた。
「濡れますよ?」
「いいんだよ。俺は旅をしに来たんだ」
「楽しそうですな、旦那」
「最高に楽しい!」
「どうしてです? 歩きにくいし、体は濡れるし、進む速度も遅くなる。いいことなんて何にもないのに」
「だからだよ」
御者の男は首を傾げた。風月は理解してほしいわけではないので、それ以上言葉を重ねなかった。風月にとって髪の毛に墜ちた雫が頭皮まで染みる雨も、歩きにくいこの大地も、見たこともない生物がいて、見たことのない植物があって、知らない世界を歩いていると思うとこんなに楽しいことはない。
雨に打たれながら風月は笑った。
「なあ、聞きたいこともあるんだ」
「なんでしょう?」
「馬車の並びをさっきの休憩で変えたな」
御者の表情が少しだけ曇った。
「旦那、それだ。荷台に戻てくだせえ。この先の峠は盗賊が良く出没しますんで。高価なものを真ん中に寄せたんでさ」
「なるほど? 毛皮はノミもいないし、手触りも結構上等だと思ったけど……」
「東じゃ皮産業はそんなに主流じゃないんで。もっぱら陶器とか香辛料とか。旦那には悪いが、こっちも慈善事業で乗せられてるんで、最後尾で我慢してくだせえ」
「いや、無理して乗せてもらってるのはこっちだ。助かってるから気にしないでくれ」
「がっはっはっはっは!」
雨の中、御者は豪笑する。
「貴族様じゃねえ見てぇだ!」
「貴族様じゃないからな」
「道理で。不思議な人なわけだ」
そんな風に笑い合ったが、荷台に戻ることは断った。せっかくの毛皮が濡れるし、広がった世界のほうにいたかったから。
何よりも護衛がいた。それも神域の騎士だ。護衛となれば、これほど心強い存在もいない。
その時、遠くの空に電影が走った。それから、遠くの方でゴロゴロと地響きのような低い音が聞こえた。
「旦那、この分だと峠の前で今日は立ち往生かもしれねぇ」
「そうなのか?」
「峠の手前は背の高い森だ。だが、途中から木がなくなっちまってるから雷がある時はいけねえんでさ。このまま雷が強くなるようなら、たぶん行けねぇ……」
木がなくなっているというのは恐らく森林限界のことだろう。そのまま峠に挑めば駆竜に落雷が当たって進めなくなってしまうこともあるだろう。そういう意味で御者の判断は間違っていなかった。それに盗賊も出没するという。リスクヘッジできるだけの頭があるのなら雷がある時は峠に行ってはいけないのだ。
「雷の時って木の下はだめなんじゃないのか?」
「一般的にはそうでさぁ。でも、この先の森は雷を貯める性質がある雷樹が植わってる。雷樹の下に行かなければ感電することもねえ」
「なるほど? 不思議な木もあったもんだ。この辺りは何処まで行っても畑で早いうちに木の密集する森まで向かいたいわけだ」
あわよくば見に行って観察したいという好奇心はあったが、感電死の恐怖を考えるとその好奇心はなりを潜めた。そうして先に進み、森につくころには雨は豪雨と呼べるほどの荒々しさを見せて、怒りを叫ぶように雷鳴を轟かせた。
そんな天候から隠れるように身を寄せ合って、キャラバン隊は早めの夕食を作り始めていた。商人たちは集まりだして大きな鍋に食材を詰め込み、雑多に煮込み始める。聞いた話によると雨の日は体を冷やすと凍死者が出るほど冷えるらしい。特に駆竜は寒冷に弱いので鍋の中は野菜のみで、駆竜たちにもふるまわれる。だから雨の日には温かいものを食べるのが商人たちの常識だという。
風月たちも持ちこんだ食材を提供した。肉の塩漬けなどの味付けの来いものや肉は皿に盛られてからちぎっていれるのがマナーらしい。
そうして用意してもらったスープを皿に盛ってもらう。
「寒い……」
「雨なんかに濡れるからだ馬鹿」
独り言をレルキュリアにしっかりと拾われて罵られる。体も冷たければ対応と視線も冷たい。そんな中暖かいのはスープだけだった。
「泣けてくる……」
「なら塩気は涙で補ったらどうだ?」
「ベーコンいれる」
町から町へとキャラバンを次々と乗り継いでいくこの旅は、補給が容易い。だからベーコンもハムも、持ち込めば不自由せずに好きなだけ使えた。
事前に環境で手に入れておかなければならないのは薪と火種となる枯れ草くらいのものだ。
ナイフで駆竜のベーコンを3ミリほどの厚さにスライスしてから炙る。乾いた肉は繊維が毛羽立って、そこが焦げて重厚な香りが漂ってくる。中の油が融け始めるくらいが頃合いだ。
駆竜の死後、数日の間熟成させるとその油が変化し、70度ほどで溶け出すようになる。中心部の油が表面にぷっくりと浮いてきたら、その油事スープの中に放り込んだ。ナイフで器用に野菜を載せてから包んでナイフの刃先を貫通させて零れ落ちないようにする。それを一口で放り込む。
肉にはパサついた感じがあったのだが、こうしてたっぷりの水分と野菜の旨味があると、その印象は一変する。もともと高い温度で溶ける油だ。うまみをギリギリまで保持する。野菜のスープに肉のうまみが溶け出したものもうまいのだが、肉そのものの重厚さは段違いだ。
野菜も白菜のような葉野菜や根菜がメインだった。どちらも見たことないもので、根菜のほうはよく灰汁が出ている。取ることはどうやらセオリーでないことも理解した。商人達は柄ぐみも気にせずに食べていた。食堂が焼けそうなほど熱く、とろみのあるスープを飲み干してからその余韻に浸る。
灼熱の息を吐くと、いい感じに体が火照って、気持ちよく寝れそうな感じがした。そこで風月は気づく。
「食わないのか?」
「野菜嫌いなんだよな」
「こんなにおいしいのに」
「うるせー。嫌いなもんは嫌いなんだよ。だからと言って残すのももったいないし。そうだ、食うか? ベーコンと交換してやるよ」
まだまだおいしくいただけそうな胃袋か、少し腹をさすって確認してまだいけると踏んだ風月はベーコンにナイフを押し当てるが、その手をレルキュリアに止められた。
「そっちじゃねえよ。お前、もう1個持ち込んでたろ?」
「お前、豚のベーコンのこと言ってる?」
「当り前だろ。王都でもなかなか出回らねえんだぞ」
「ティオからもらったもんだけど、まあ、少しならいいぞ」
高級な布にくるまれた豚のベーコンを取り出す。それをナイフで切りだす。油の差しと赤井の比率が素晴らしい実の部分と、脂身だけが固まっている部分を両立させた豚のベーコン。王都でも出回らず非常に高価だと聞いた。
それを2センチほど切り取ると、レルキュリアがナイフでその切り身を突き刺して受け取る。
「これだよこれ。一度は食ってみたかったんだ」
風月にとっては意外と慣れ親しんだ味の豚のベーコンだったが、レルキュリアたちにとってはご馳走のようだ。
火で脂身をしっかりと焼くとあたりに懐かしい香りが漂いだした。
「どんくらいが食べごろだ?」
「中まで熱々」
滴る肉汁を切りこみが入ったパンに吸わせ、火の通った厚切りベーコンを挟む。それを一息に齧りつく。
あふれ出す肉汁と沸騰する油が唇に触れて「あつ、あっつ」と声を上げながら、おいしそうに噛み切りにくそうなパンと格闘する。抗菌力と首の力にものを言わせるように引きちぎり、咀嚼する。
「うっまぁ……」
恍惚とした表情で、レルキュリアはサンドウィッチを食べる。あまりにもおいしそうに食べるものだから、思わず見とれていた風月もブラのベーコンを薄く切りだして、火であぶるとスープに投入した。
食べた感想は、久しぶりの豚、という感じだった。懐かしさ以上に、新たなおいしさの発見があった。スープに油と肉汁が溶け出して、豚のベーコンが野菜たちのいいアクセントになった。料理としての完成度は駆竜のベーコンよりもこっちのほうが一段上のレベルにあった。
気づけば雷は遠くに行っており、明日の朝には峠の登頂が予定に入った。
雨の夜。風月とレルキュリアは布の天蓋を持つ荷台に背中合わせで横になっていた。月明かりもなく、冷える夜だった。服は魔法で乾かしたが、いかんせん、空気が冷たいし、湿っている。温まった体を容赦なく冷やしていった。
「なあ、起きてるか?」
「うん、起きてる。というか、寒くて寝れない」
「よく平気そうに喋れるよな。喧嘩してる最中みたいなもんだぞぜ?」
風月がかけた言葉のことについて聞きたいのだとすぐに理解した。この数日だが、気が合わないだけに、何が言いたいのか察しがついた。
気にしていないふりをしてがっつり引きずっている。
「俺もおんなじこと思ってた。平気な顔してるなって。だからお互いがお互いを見ているとそんなもんなのかもな」
「性格は全く違うのにな」
「……」
「……」
しとしと、と雨が天蓋に墜ちる。染みては来ないが、籠った湿気が水滴になり、ポツリと時折内側に落ちる。その音は外の雨よりやけに鮮明に聞こえた。皮切りにレルキュリアが口を開く。
「私に武器を作らせるつもりは、まだないままか?」
「ない」
「……」
「……」
即答する風月にレルキュリアの表情がゆがむ。雨の生み出す静寂の中で、目を瞑れずに、ひたすらその空間を感じた。呼吸の音灰が膨らむと胸が膨らむ。そして衣擦れの音。外の雨なんて聞こえないほどに、室内の音が誇張された。
「あれほどの素材にはなかなかお目にかかれない。触ったことなんて神域の騎士の武器を造りなおしたときくらいだ。だから、造ってみたい。どんな形状になって、どんな能力を宿すのか、楽しみで仕方ないんだ。どうすれば、私に造らせてくれる?」
「……なんだ」
「何が?」
「まるっきり性格が違うわけでもないのかもなって」
話が通らずに首をかしげるレルキュリア。しかし風月も細かく答えるつもりはなかった。
ただ、風月にとっての旅と同じようにレルキュリアは鍛冶が大好きなのだと思った。あこがれて、楽しくて、時が忘れるほど没頭するほどに。
「べつに、造らせてもいいと思ってる」
「本当か?」
風月の言葉にレルキュリアが動いたのが分かった。おそらくは勢い良く振り返った。
「ただ、俺は人を見る目があるとは言えない」
「私の心の底を言い当てておいて何言ってんだよ」
「べつに、ものを見る目が肥えてるってだけだ。レルキュリアがどんな奴なのかも俺は知らない。だから、見せてくれ」
「みせるって、何をだよ……」
少し卑猥な想像をしたのが視線をそらすレルキュリア。
「俺は旅しか知らない。それでも供に旅をすれば何かが見えてくる。そいつを見せてくれ。あいつの託してくれたものを預けるに足る存在だと教えてくれ」
「そんなの、どうしろっていうんだ……」
「さあな」
レルキュリアはお題の難しさに唸った。
「私は強くなんかないぞ。神域の騎士の中じゃ一番下だ」
「知ってる。魔獣に乗ってへばってたし」
「好き嫌いも激しいぞ」
「野菜の事か? それもさっき知った」
これ以上教えることも特に思いつかなかった。何を魅せるのか、レルキュリアに歯見当もつかない。それが強さや好みの話じゃないことは何となく分かる。旅の中で見えるものとは何なのか。もしかしたら風月にも解っていないのかもしれない。
そんな風月が口を開いた。
「足掻け。絶対にあきらめるな」
「それが関係あるのか?」
「ある。あきらめる奴に任せられない。失敗しても、どれだけ追い詰められてもあきらめない奴に俺は、託されたものを預けたい」
レルキュリアにとってそれがどんなものかよくわからない。神域の騎士の中で最も情人に近い感性を持つ彼女は、特異な経験をしても感じることは平凡なのだ。無理な時は諦観のうちにすべてが終わってしまうこともある。
だからこそ、足掻いたことはない。気づけば牢屋の中ですべてが終わっていた。ただ現実を享受するだけだったレルキュリアにその言葉の重さは理解できなかった。
だから、ただうなずくことしかできなかった。




