第三章 20 〇風となって消えゆく
巨竜は墜落した。その衝撃は王都まで響き、大河に巨大な水柱を打ち立てた。巻き上げられた水が空中で細かくなり大地に降り注ぐ。それは夕立のように激しく、それでいて世界を赤に染め上げられているために水滴を目にするのは難しかった。
「茜!」
「……ん、んぅ。リナ、か」
水がほとんど消え失せ、小川のように浅くなった水位の中に突っ伏していた茜に肩を貸すリナ。リナだけが生まれついての肉体で受け身をとりほとんど無傷だった。茜はというと、肩を貸した状態で苦悶の声で喘ぎだした。
「うぐぅ!? ……肋骨が何本か逝っておるの。舌がミズナラとは思ったのじゃが、まさか巨竜があんなにも早く墜ちるとは……。剣気だけでは足りんかったか。リナは何ともないか?」
「私? この通り無傷ってわけよ!」
「……角」
「つの?」
リナを支える方とは反対の手で自らの頭を撫でまわすリナ。本来は額の片側から伸びているのだが、問題はそこではなく、角そのものがなくなっていたのだ。しかもリナは角があったことにすら気づいていない様子だった。
「レギオンは?」
「あっち」
リナが指さした方向には大河の中州にある小さな林があった。その中の市場の翁気にレギオンは引っかかっていた。幾本もの枝を折り速度を殺したためか落下のダメージはそれほどでもなかったようだ。むしろ、自らの筋肉によって自壊した足のほうが重傷だと言える。装備の布地を真っ赤に染め上げていて、自らの魔術で止血を施したようだが明らかに魔力と練度不足で止血以上のことができるようには見えなかった。
「あのバカは?」
「ばか……。凪沙の事?」
「どこにおる?」
リナは肩をすくめる。当然、最初に探したがその姿はどこにもなかった。巨竜の落下によって発生した水柱で流されたのかもしれない。
「ヴァーヴェルグは?」
「此処だ」
痛む肋骨を無視して離船体制に入る茜をよそに、リナはすでに敵意が抜けていた。それもそのはずで、リナに先に声をかけたのがヴァーヴェルグだったからだ。
「今回は俺の完敗だ」
「――っ」
ヴァーヴェルグから右腕が消えていた。ともに敵対心という者も消えていた。間違いなく巨竜の上での戦いは終わった。
「もう少し位置が良ければ心臓まで持っていかれていた。こいつは風月凪沙に渡す、奴の戦利品だ」
左手に分断された方の腕を持っていた。さらにその右腕は断絶剣の刃をつかんだままその戦いの凄絶さを無言のままに語っている。刀身はへし折られ、刃はボロボロだった。おそらくは剣気が流し込まれ素材が持たなかったのだろう。
右腕は何の変化もなかったが、切断された方の腕はすでに生え始めていた。あれだけの激戦によってようやくできたダメージはすでに無くなり始めている。何なら疲労の色すらない。
この怪物を相手によくもまあここまでやったものだと感心する茜。
「それで、風月凪沙は何処にいる?」
「さすがに生きておるとは思えんがの」
「いや、衝突の瞬間は確かに生きていた。最後の最後であろうことか俺の一撃を避けて、得物を踏み台にして飛び上がっている。さらに巨竜までつかんだところまで確認した。さらに飛び上がって落下の勢いをギリギリまで殺していたのなら、そのあと巻き上げられた水あわせて、まず死んではいまい」
茜はものすごく複雑な感情を抱き、顔に出た。
巨竜から真っ先に飛び降りたのは風月凪沙だ。さらにはリナに引っ張られて、そのままいればリナに守られて死亡は回避できるであろう瞬間もあった。にもかかわらず茜の界断に飛びついて再びヴァーヴェルグに急襲。さらにはレギオンにぶつけられた時もあったが、再びヴァーヴェルグとぶつかった。落下の中でこれだけ命を捨てていると思えるほど派手に立ち回りつつ、生きることをあきらめていない。
どこまで計算していたかは定かではないが、少なくとも最初から死ぬ気はなかったらしい。言えることは唯一つ。
「化け物め」
茜からそんな言葉が漏れた時、雨が止む。正確には巻き上げられた水が振り切って、赤い空に虹を作り出した。
同時に髪の色が黒に戻り、完全に臨戦態勢を切った。
風月が見つからないのは仕方がない。ならば、考えることは別の事である。
「いったい、どんな魔術を使えばこうなるのかの?」
巨竜の体が袈裟懸けに色が分かっていた。切られて、体積の小さいほうがすべてズタズタに引き裂かれ切り裂かれ、甲殻の隙間から血が滴っている。一撃で葬るといったヴァーヴェルグの言葉とは異なる、命まで届かない一撃。
「発想貴様と同じだ」
「界断のことを言っておるのか?」
「ああ。存在固定値を利用して魔術的に攻撃を『すでにそこにあった』ことに変更し、境界によって切断する技は見事だった」
茜は内心舌打ちをする。魔力を通さない相手に絶大な威力を破棄する茜の秘技ともいうべき技はヴァーヴェルグによって丸裸にされてしまった。
「盾崩し、と呼んで負ったか。そっちは何となく原理を理解できるが、これはさすがに分析できんのう」
「切断に合わせて存在固定値に差をつけて存在を曖昧にしたのだ」
「?」
リナは首をかしげていたが、茜はゾッとした。
ヴァーヴェルグは存在固定値と呼ばれる物体が魔術的にそのままお姿を持とうとする力を曖昧にして、どこまでが甲殻で、肉で、骨で、血管かを曖昧にしたのだ。その結果さん様な部位がまじりあい、刃が通過した後に魔術が切れて存在固定値が元に戻ろうとする。その結果曖昧になっていた部分が強引に引き戻され見るも無残な状態になるのだ。
たとえるのなら体の表面の皮膚が骨の部分まで引きずり込まれるようなものだ。
だが、この技の本質はそこにはない。『曖昧』にという場所にかかっている。『国崩シ』の名を冠する以上、場合によっては国家そのものの定義をゆがめ、引き戻されたときには国としての体を保てない状況になっていることすら考えられる。
考えるだけで恐ろしい技だった。
同時に茜が覚えたのは尊敬の念だ。永く眠っていたということは、魔術と魔力の差が絶対だった頃からこれだけの魔術を扱えたことになる。概念に干渉となれば絶対に数学が絡みだす。高いレベルでの剣気の習得まで考えれば、どれだけ時間と情熱を鍛錬につぎ込んできたのか、想像に難くない。
本気で強くなりたかったのだ。
「GURRRRRR……」
巨竜ののどが鳴った。うっすらと開いた口から腕が伸びてきた。この場にいない人間を考えれば、それが誰なのかわかりきっていた。
「凪沙!?」
リナが駆け寄り、風月を引きずり出す。巨竜の構内にいた割には、以外にも乾いていた。
「大丈夫?」
「……負けた。完敗だ」
「え?」
リナが驚きのあまりまんまるに眼を見開く。
結果を考えるのならすべてがいいところに落ちついた。最良とまで行かなくとも上々といっていい。にもかかわらず風月から出た言葉は反省であった。
「衝突の前に、俺のほうが早く退いた。その挙句巨竜に守ってもらった。俺の、負けだ」
その言葉を紡ぐ風月の声は苦しそうで、眉間にしわを寄せて悔しそうに歯を食いしばっていた。
そんなことない、負ける悔しさを知るリナはそんな無責任な言葉を風月にかけて慰めることはできなかった。
「その通り、貴様の負けだ」
先ほどとは意見を180度変えたような発言に今度は茜が眉をひそめた。しかしすぐにその発言の意図が明るみに出ることとなる。
「一対一の決闘ならな。だが、これは決闘ではない。ゆえに、『貴様ら』の勝ちだ、風月凪沙。戦利品を受け取れ」
そういって断絶剣を握ったままの右腕を風月に頬るヴァーヴェルグ。最初何かわからず思わずといった調子で受け止めてしまったが、それが切断された腕であることに気づき方が跳ねると浅くなった大河にぽちゃんと音を立てて沈んだ。
「おい」
「いや、いらん。何に使うんだよ……」
「とっといた方がいいと思うってわけよ」
「え?」
「レギオンの武器なんかはそうだけど、生き物から作ることもある。その素材としてはこれ以上にないほど最高のものってわけよ」
「……」
切断された腕をそのまま武器に使うことを考えると少しだけおぞましさが残った。
「とにかく、貴様らの勝ちは揺るがない。そしてまだやることがある」
「わかってる」
風月は巨竜に向き合った。夕日が山陰に消えるころ、巨竜の命は尽きかけていた。鼻先に手を当てて、手のひらにその息吹を感じる。悠久の時、世界を見てきた巨竜がなくなるのだ。
「竜とは、無より生まれ、その魂は風となって消える。そしてまた世界を巡るのだ」
「風となって……」
竜の魂は死してなお世界を旅する。
この星を巡り続けるのだ。
遠くから闇が迫る。それは太陽が沈む速度と同じ速さで山影が広がっているのだ。時期によるとなる。そのわずかな黄昏の世界で、巨竜と過ごすほんの少しの時。
ここに巨竜の旅が終わりを告げた。
終わらせた旅。それは確かに風月の胸の中に残った。立派だった。そして世界が闇に包まれたとき、巨竜の亡骸が光を放つ。緑色の炎にも見える暖かく幻想的な光だ。それは不定形ながら微かに形を作った。巨竜に比べれば小さく、それでいて風月からすれば領の手を広げても敵わないほど巨大な姿。
新たなる竜のカタチ。
それが羽ばたいた。明確にそうであったと断言できるわけではないが、風月はそう感じた。そしてその光が徐々に小さくなり消えた。
刹那、世界が凪いだ。
温められて生まれていた風の動きが冷やされて逆向きに代わるそのわずかな時。風が消えてかさかさと揺れる木の葉の音もなくなり、ちょろちょろと流れる水の音だけが耳に届いていた。
「くる」
予感があった。
胸の内にある何かの感情が高ぶった。新たな風が到来する予感だった。巨竜の光が消えた位置をずっと見続ける。それがどのくらいだったのかも風月にはわからない。それほど集中し続けていた。
無風の空間。止まった空気が冷やされゆっくりと風が生まれ始める。同時に、それは起きた。
緑の光は直視できるほどの淡いが確かに再度灯った。
轟!
突風が吹き荒れた。川の水を巻き上げるほどの疾風が風月の体を通り抜け世界を駆けだした。
「
」
本当に一瞬、しかし、それはあまりにも衝撃的で、風月はぺたんと膝をつく。
いっしゅん、風が強く吹いただけ。今ではあの緑の光もない。
にもかかわらず風月は背中を力強く押されたように感じた。この一つの終わりに風月は立っていられないほどの衝撃を受けて、立っていられない。それくらいすごすぎたのだ。
明確に分かることは何かを伝えられたということだけ。
「ああ。それなら、よかった……」
返事はそれだけ。それだけで十分だった。
風月の胸には興奮と安堵の両方が入り混じり、複雑でありながら満足感の得られる心境だった。しかし、長く続いた戦いの疲労によって、そのまま意識を失った。
竜は風となって消える。
それはこの世界から消えるという意味ではない。より早く、より遠くの世界を旅するために肉体を置いて、その場から離れていくのだ。
巨竜は確かに失墜した。
その魂は失墜などという言葉からは程遠く、気高い光を纏っている。世界を見守り、新たな場所を見て回るためにさらなる旅を続ける。
それは終わりのない旅。
――死んだ地へと戻ることもあるかもしれない。それまでさようならだ。そしてありがとう。
行く先は決めない。身体を捨てたのはいけない場所に行くため。行ったことのない場所を知っているはずもない。
ゆえに行先はなく、行きつく先もない。
何処へ行くも自由、どんなふうに行くかも自由。
そんな、気まま旅が始まった。




