第三章 17 〇時
風月凪沙という人間が入り込む余地はなかった。それは当然のことで、なぜならそこはもう『神域』なのだから。特別な能力を何も持たないただの人間が踏み込めるほど楽な場所ではない。
十年単位で血がにじむほどの鍛錬を積み、生まれ持った特別な才能を磨き続け、そのうえで選ばれた者しか立てない頂こそが『神域』。
特別なものを何も持たないただの人間である風月が立てる場所ではないのだ。
ゆえに、風月はヴァーヴェルグに対等だと言わせたにもかかわらず、敵としてすら見られていなかった。
ゆえに4対1。
黒白の剣から繰り出される攻撃を正面から受け止めるのはグレイとリナ。皇黒剣を呪いに耐性があるグレイが受け止め、断絶剣をリナの一撃が相殺する。
その一瞬はあまりにも苛烈で、巨竜の甲殻を数センチもめくりあげながら、散り散りになった破片を球状に広げてしまうほどの破壊力が秘められていた。
素人目にすらリナが気を使って戦っているのが分かった。この中で最も強いグレイに自由に行動させられるように立ち回っている。
それでも機動力の足りないリナが足を引っ張ってしまう。
リナの一撃を受け止めるヴァーヴェルグ。一呼吸おいてからの反撃にリナは反応できない。攻撃の重さの犠牲になったのは速度。一撃の切れ刃ましても、そのあとの隙は大きくなった。ヴァーヴェルグとしてはそこを狙わない理由がない。
だからこそ、均衡はすぐに崩れるはずだった。しかし、誰かの引き立て役に回ったレギオンがすべてを解決した。
さきの戦いぶりを知らない風月からすれば、レギオンの今はとても型にはまっているようにすら見えた。言って間違えたら総崩れするような場面で、レギオンが滑り込みリナの腹に腕をひっかけて少しだけ移動させる。その間にもリナは躊躇なく処刑斧を振りかぶり次の一手に備えている。まるで認識できない移動に対して、あらかじめどこに移動するかを理解しているかのようだった。
風月は知らないが、リナたちはわずかな時間にそれだけのことを詰め込んできたのだ。何より、それを可能にしたのは恐らく茜の魔術のはずだ。うっすらとまとわりつく白煙が、わずかにだがヴァーヴェルグの動きに合わせて流動しているのが見える。それが漠然としているがヴァーヴェルグの動きよりもわかりやすい有機的な流れが、おそらくはレギオンの予測を可能にしていた。
それでもなお押し負けないのはヴァーヴェルグの地力によるものだ。あまりにも強く、数の差などもはや関係がない。むしろ、形勢はヴァーヴェルグのへと傾きつつある。
その時だった。風月が言葉では言い合わらせない何かを感じ取ったのだ。手の甲の産毛が逆立っていく感覚。こめかみを刺激するチリチリとした焦燥感を煽る微かな痛み。
それはすべて禍月茜から発せられているものだった。
それを理解してなお、強烈なプレッシャーを間近で浴びてなお、風月凪沙はヴァーヴェルグから目を離さないでいた。それはまだ自分にも何かができるはずだと思っているからだ。
そんな風に、自らの無力にした唇をかみしめて耐える風月の少し離れた背後で茜は豹変していた。美しい夕焼けを思わせる茜色の剣気。さらには、濡れたような黒髪が根元から鮮やかな緋色へと変化した。
一目で解ることは次の一撃に備えているということだけだ。片膝をつき、体を縮こませるように力をためている。地面から垂直に伸びた薙刀がその時を今かと待ち続けている。おそらく、茜に視線をやっていても風月には理解できなかっただろうが、膨大な量の魔力が放出されていた。
身体強化、武器強化、その他パラメータを高い水準に高めるために魔力を使っている。それを理解できたのは魔術にも明るいヴァーヴェルグのみだ。ゆえに、茜の敵としての危険度がグレイよりも跳ね上がったのだ。
そこまで保っていた微妙な均衡……。というよりヴァーヴェルグが『破光』を放つまでの時間稼ぎが終わりを迎えたことを意味していた。
リナの一撃をきっちりと受け止め切った刹那、切り返しに備えたレギオンが見たのはあまりにも鮮やかに刀身の側面で処刑斧を受け流すその瞬間だった。
「――っ!?」
リナにいは驚愕の表情が隠せなかった。
それもそのはずで、いかつい見た目にそぐわないほど繊細な技術がいたって自然に、それが当然であるかの如く繰り出された。それまで毛ほども感じさせなかった技術に秀でているという事実が、ただ強いだけじゃないことを突き付けてくる。
惜しみない努力によって実力を身に着けたことが伺える……、というより伺えてしまった。そこにヴァーヴェルグの人格が見えた気がした。
そして生まれた、戦闘の僅かな間隙。そこを一気について茜との距離を詰めようとするが、レギオンが反応した。甲殻を貫通させる術を持たないが、それでも戦い方はあった。ヴァーヴェルグの体重が軸足にかかりきった瞬間を狙いすまし、足の下にある巨竜の甲殻を薄くえぐり取る。それだけで立て直すのに数舜の時間が稼げた。それだけあればグレイが容易く割り込む。
「うぉおらあァ!」
益荒男ぶりが頼もしい咆哮と共にヴァーヴェルグを一撃で押し返す。とっさに皇黒剣と断絶剣を挟み直撃をきっちりと避ける。
地面を削り、後退の勢いを殺すとさらに前へと猛進する。
それだけの時間があれば茜の一撃を繰り出せるだけの状況は充分に整った。
僅か数秒。
それで状況が動く。
「界断」
風月の耳に届いた声は茜のものだ。
同時に空気が裂ける音を聞いた。それ以上の音はなく、そして世界が別たれた。
幾何学模様が刻まれたオレンジ色の『壁』が現れた。いや、壁というよりも『境界』か。その出現を知覚できないまま、おそらくは茜が振るった薙刀の軌跡をなぞるように、放射状に広がった。すべての出現が風月には同時に見えたが、それにすらヴァーヴェルグは反応して見せた。
金属同士がぶつかり合う音とは似て非なる、形容しがたい音が響き渡る。
発動から衝突までの誤差は一秒を千に切った者にも満たなかったはずだ。それでも皇黒剣で防いだのは茜を観察し、攻撃を予測したからだ。
皇黒剣の影響で境界は真っ黒に侵食され、ものの数秒で砕けて散ってしまう。それが皇黒剣によるものか、はたまた元からそういう一撃だったのかはわからない。
しかし、物事の本質はそこではない。茜の一撃はヴァーヴェルグをガード事上空に押し上げるに足るほどの威力を秘めていた。
そこまでの一連の流れがあったにもかかわらず、風月凪沙はヴァーヴェルグから目を離さない。リナやレギオンですら茜の一撃には目を奪われ、驚きに目を剥いていたというのに、風月凪沙だけはヴァーヴェルグをにらみつけていた。
しかし、風月凪沙は動かない。今ではない。己の無力さに打ちひしがれて、悔しくて歯が突き刺さった唇から血液が垂れても、今は耐える時だった。
一方でヴァーヴェルグはやはり風月凪沙など眼中になかった。所詮対等という言葉など、温情によってただ言っているだけ。神域の騎士に対してすらその言葉は似つかわしくない。
むしろ、眼前に迫るグレイのほうが脅威だった。グレイからすれば自由に動けなくなったこの瞬間を見逃すほど耄碌していない。
グレイの纏う剣気は爆発するような勢いで噴き出たように見えた。
「ヴガアアアァァ!」
獣の叫び。人間の生態から出すことが可能とは思えないほど野性的でおぞましい咆哮と共に、グレイの体に刻まれ、絶えず流動する刺青がさらに変化した。今まですべて腕や武器に張り付いていたそれが一体的に空中に浮かび上がる。鎧のようにグレイを覆い隠したそれのモチーフは耳がありイヌ科の獣のようにみえた。
「最強とは、この一撃をもってして証明されるものだ! 今一度、目に焼き付けろ、ヴァーヴェルグゥゥゥウウヴ!」
グレイの歩みにはとても理性があるとは思えなかった。一歩踏み出すごとに加速し、落下し続けるヴァーヴェルグが地面に着地する寸前に、その眼前へと肉薄し、最高速度に至る。
「受けて立とう」
静かな言葉がそこにはあった。
刹那、ヴァーヴェルグが中空を踏んだ。否、そこに、魔力で圧縮して作り出した空気を踏んだ。
灰と朱の剣気がぶつかり合う。黒白の双剣と大剣が衝突した。
音よりも先に風が吹き抜けた。
ヴン。
振り上げた大剣を双剣で受け止めたヴァーヴェルグを何かがすり抜けた。一瞬でそれが何なのかもわからなかった。それでもただ一つ確かなことは、互いの動きが静止したこと。
先ほどまでの膠着とはうって変わって今度は静かなる停滞。気づけば音は鳴りやみ、最後にバキン、とヴァーヴェルグの胸殻にうっすらと亀裂が走る。
致命打にはならずとも、本気のヴァーヴェルグに『創』をつけた。
「これで、呪いなしとはな……」
「俺も貴様も、もはや人間ではない。人間を殺すための技術なぞ、効くものか」
グレイの一撃は『受け止められる』ことが前提の一撃だった。すべての衝撃を大剣から延びる二撃目の刃がすべて吸収し相手にぶつける一撃。その二撃目の正体は刺青なのだが、それを見切れた者は何人いたか。この場では当事者以外に、レギオンだけのはずだ。
ぶつかり合ったすべての衝撃は一帯地面をえぐり返すほどの破壊力があったが、それを一点に集中させてもたった一筋の亀裂。
「ウィークポイント……っ」
剣気を纏われてしまえば、傷一つつけることすら容易ではない。しかし、すでにある傷、それならば……。
今を逃せば次のチャンスは来ないかもしれない。そう思い、真っ先に駆けだしたのはリナだった。ヴァーヴェルグは一点に延期を集めることで出力を高めた。グレイは瞬間的に放出することでヴァーヴェルグに追いついていた。
「その、両方なら」
処刑斧を扱うための腕から背中。当てるための機動力を補うために足。そこに剣気を纏わせ、そして歯を食いしばった。
アドレナリンでリナに痛みはなく、しかし左の額から血液が滴り、その熱を感じ取った。皮膚を裂いて角が張り出していた。
鬼種の血がリナの闘争心によって瞬間的に覚醒した。
「オォ!」
極限まで絞った剣気が一気に噴き出し、まるで満開の桜の花火が目の前にあふれたかのようだった。
速さも威力も、リナに制御できる範囲を大幅に超越していた。ヴァーヴェルグは当然のように反応するが、それでもなおリナの成長速度には驚愕した。
双剣でグレイの大剣を下に押し付けると、その上から足で踏みつけて大剣を地面へと固定し、そのうえで双剣で迎撃する。縦に、亀裂をなぞるような一撃をまりょこから双剣をたたきつけてわずかに逸らした。体を半身にして直撃を避けてもなお、わずかに掠り、亀裂がさらに広がった。
「――っ」
焦燥の息を呑む音が聞こえた。ヴァーヴェルグの右胸にひび割れが広がる。
そしてリナの一撃が地面へとたたきつけられた。それは小惑星の衝突すら思い起こさせる。もはや音などという生易しいものではない。衝撃波だ。
ゴバッ! それはすべてのものを破壊し吹き飛ばす一撃。巨竜の甲殻を叩き割るほどのそれは、直接的なダメージを巨竜に与えはしなかったものの、もし甲殻の薄い部分に直撃していれば絶命に至らせるかもしれないほどだった。
同時にヴァーヴェルグもグレイも破壊に煽られて、背後に交代することになる。グレイは大剣の刀身に身を隠し破壊をやり過ごす。
「まだまだ!」
「合わせる!」
リナの連撃。それに合わせてグレイも土煙の中から飛び出してヴァーヴェルグに叩き込む。身を隠したグレイと違い、あれだけの破壊に直接煽られた直後だ、両方の防御は不可能だった。
ヴァーヴェルグはさらに一歩、前へと進む。すべてを受け止めるつもりだ。そしてグレイの大剣を皇黒剣で受け止めるのと、リナの一撃がヴァーヴェルグに叩き込まれるのは同時だった。
「え?」
グレイとヴァーヴェルグの剣戟によって土煙は散らされた。しかし、リナの破壊は発生しない。リナは処刑斧から重さが消えたようにすら感じたはずだ。
渾身の一撃はヴァーヴェルグの首にあたって、そこで動きを止めていた。
そこで思い至ったのは、呪い。
なぜ皇黒剣をグレイが抑え込んでいたのか、それは呪いがあったから、という理由のはずだ。手で拭えば払える程度の呪い。しかし、ありとあらゆる生物を傷つけられなくなるこの呪いは神域へと踏み込んだ者同士の戦いでは致命的な隙を与える。
ヴァーヴェルグはすでに断絶剣を振り上げていた。
斬!
有無を言わさぬ一撃。それよりも早く走りこんできたレギオンがリナを攫って攻撃圏内から辛うじて押し出すことに成功するが、そのレギオンを視界でとらえたヴァーヴェルグはすでに攻撃対象を変えていた。そのまま振り下ろせばレギオンに致命傷を負わせることができたが、それ以上の脅威が手近にいた。
グレイだ。
結果だけを言うのならヴァーヴェルグの一撃でグレイの腕が切断された。鎧のように纏っていた刺青を粉砕し、肉を裂き、骨を断った。血液が噴き出し、グレイが思わず背後に下がった。切られた腕は武器をつかんだまま、歪なオブジェのようにそこにあった。
「――っ」
形勢は傾いた。
誰もがそう確信していた。こと、グレイにおいてそれは当てはまらない。もとより人としての生き方を捨てた身だ。刺青の鎧が再生する。
刹那、グレイが持っていたはずの大剣が飛来した。
誰かが投げたわけでもない。ただ、刺青がつながっていた。ヴァーヴェルグは飛びのくことでそれを容易く回避する。
隻腕のグレイ。しかし、今は四足歩行のように手をついていた。腕は消えたにもかかわらず鎧が纏わりつき、地面に突き立てられていた。そして大剣はしっぽのような部分がまとわりついて、空中に浮いている――という表現が正しいとは言い切れないが、確かにそこにあった。
「本当に化け物になったな」
「お前ほどじゃないさ」
にらみ合いが続いている間にリナは処刑斧を素手で拭い、解呪する。
「あれが、第一席?」
「……」
レギオンの言葉は尤もだ。茜だけは何かを知っていた。
「先代じゃ。先代から同じ戦い方をしておった。まったく同じじゃ。じゃが、刺青は動いてはおらんかったし、ああも人間離れした様ではなかった」
「そんなこと、どうでもいいってわけよ」
「リナ?」
「私は勝ちたい!」
「「……」」
茜とレギオンは思わず顔を見合わせた。
すでにヴァーヴェルグとグレイはぶつかり合い、どこのタイミングで割り込みアシストをかけていいのかもわからないほど混戦した様相を呈していた。おそらく、介入できるとしたらレギオンだけなのだ。そして、決定力不足のせいであれの中に入っていくことはできなかった。
「だから私はやるってわけよ」
絶望し、困惑し、立ちすくむ者。
奮起する者。
立ち向かう者。
立ちふさがる者。
その中でただ一人、誰かとの戦いとは全く異なる場所にいる男がいた。
風月凪沙。
ただ一人、狙っていた。苛烈さを増す戦いの中踏み込めるその瞬間を。誰もが目まぐるしく視線を移し、対応に追われる中で、風月凪沙だけがヴァーヴェルグの身を見ていた。他の何もかもを意識の中に入れることすら拒否した。
リナはそんな風月の様子に気づき隣に立つ。怖いくらいに見入っていた風月を見ていると闘争心すら薄れた。それは、自分の抱いている闘争心の純粋さが、風月の気持ちに比べれば随分と濁っているように思えたからだ。
「どうしたの?」
「予感がする。声が、聞こえる」
「声?」
聞こえてくるのは戦いの余波。幾度も打ち鳴らされる刃の音。その余韻だけだtt。リナはいくら集中しようとも声は聞こえない。
「来る。もうすぐ」
風月の体から立ち上るのは鮮やかな空色の剣気。陽光か真横から射した。同時に世界が一変したのだ。
大河とそれを挟む山。すべてが夕日に赤く染まった。
「魅せてやるさ」
「凪沙?」
リナが声をかけたその瞬間だった。
時は、来た。




