第三章 16 〇対峙
足が重い。
幾度も地面に伏して、肌に擦り傷を作り、ボロボロになっていた。風月凪沙は自分の体に何が起こっているのかわからなかった。
空へと立ち上った一筋の光。破光の光なのだが、風月には知る由もない。
その光はあまりにもまぶしく、太陽が急に現れたかのように視界を真っ白に埋め尽くし、何も見えなくなった。人間の目が捕らえられる光量をはるかに超越し、風月の眼球が痛みを訴えた。とっさに顔を覆い隠したが、それでもダメージは大きく、目を伝って脳みそまで貫かれるような痛みが走った。
しばらくは動けず、前が見えない。それこそ、痛みという情報で視界すらも支配されているかのようだった。
地面をのたうち回り、のどが裂けるほど痛みで叫んだ。それでもなお、風月は前に進み続けた。
ある瞬間で、ふと痛みが和らいだ。それは風月自身が理解していない剣気の力だ。体を補強し、痛みすらもやわらげた。眼球からダメージが抜けて、いまだにぼやけるが全く見えないわけではない。風月はようやく立ち上がり、前に進み続け今に至る。
二度の脳震盪と、強烈な光。その二つの理由によってグロッキー状態で、さらには脳へのダメージも深刻だった。永久に光を失いかねないほどの光。それは風月にとって、ある意味幸運だった。
まともに扱えなかった剣気。それを纏わなくては生きていけない状態に無理やり移行させられたのだ。そんな状態になってすら目に進むことをあきらめない風月の精神性が、剣気の獲得にまで至った。
今も風月が前に進み続けられるのは剣気あってこそだ。
もともとの才能。アルトとリナの剣気、ダメージ。そして運命。
この世界に来てからのありとあらゆる出来事がプラスに働き、通常十数年以上の年月をかけて手に入れる剣気を手に入れた。
しかし、その弊害も確かに存在していた。
風月の剣気はあまりにも短い期間で発言したために、体に馴染まず調整もできない。発動するだけで風月の肉体を痛みが蝕んでいく。
長く使うことができないのは風月にも解っていた。
「ヴァー、ヴェルグ」
あの光が立ち上った場所。あそこに間違いなく邪竜はいる。
倒れて眠りたかった。胃の中身を吐き出してそのまま地面に転がりたかった。それだけ楽になれるはずだったのに、風月はしない。
足掻かずにはいられない。
そうして進み続けた先、大地のような巨竜の背に巨大な谷が現れた。かつての第四席と第七席がつけた傷だ。風月には知る由もないが、ひどく痛々しく思えたのは確かだ。その傷の向こう。
そこに、ヴァーヴェルグとグレイがいた。
両手にあの巨躯でこそ似合う巨大な二振りの剣を持つヴァーヴェルグ。その前に立つグレイも大きいがあくまでも人間の範疇に収まっている。しかし、得物は人間に扱えるサイズを超越していた。
お互いの得物がもともとは違うほうの手に収まっていたのではないかと思うほどだ。速さも威力もちぐはぐに見えた。
要所で加速し、遠くから見ているからこそ点と点を脳内でつなぎ合わせてその軌道を辛うじて追えていた。それが巨大な剣を振り回すグレイだから、風月は目を剥いて驚いた。
速さも対照的なら、威力もちぐはぐだった。
筋力だけでなく重力まで味方につけたグレイの一撃をヴァーヴェルグはあえて受け止めて全身のばねと巨躯を使って押し返す。返す刀でそのままグレイに反撃する。
低い地鳴りのような、遠くの雷鳴が迫ってくる音圧。それが体を通り抜けた。花火を思い出す。
同時に、砲弾のような勢いでグレイが風月のほうへ吹っ飛んできた。二度バウンドしてから地面を削り風月の真横へ突き刺さる。風月の反応速度を軽く超えて着地したグレイは、何事もなったかのように逆手に大剣を構える。谷のような亀裂を飛び越えるほどの一撃だというのに、剣気を高いレベルで熟練したグレイにはダメージになりえない。
刹那、風月の眼前でグレイの姿が動体を写真に映したようにブレる。
そして、瞬きの間もなく、目の前で火花が散った。
「―――――っ」
一瞬も反応できなかった。何があったのかも解らなかった。
眼球が捕らえたのは時間という流れから切り取られた一瞬。激しく打ち合うヴァーヴェルグとグレイ。打ち付けた火花は陽光とは別の角度から二人を照らし、眼光が交差しているのが間近に見えた。
遅れて届くのは、風、音、衝撃。
風月の両の足が地面を離し、体が宙に浮いて、背中から地面に落ちてせき込む。その間に打ち合った回数は10を超えた。上体を起こしたときはすでにヴァーヴェルグとグレイは遠くで打ち合っていた。
言葉も出ない。
アルトも似たような速さで森神と戦っていたように思うが、それでもここまでの威力はなかった。事実、森神にほとんど傷つけられなかったのだから。ヴァーヴェルグは森神より速く強い。森神ですらアルトの一撃は避けることもしていたが、ヴァーヴェルグは避けなかった。すべてを受けたうえで正面からひねりつぶしていた。にもかかわらず、そのヴァーヴェルグが回避している。
グレイがどんな立ち位置にいるのかよくわかった。
風月はこの中に入っていかなくてはならない。今とは言えずとも一年後。その時にはこの身一つであのヴァーヴェルグの目の前に立つのだ。
そう思うと、たった一年の道のりが果てしなく長く思える。この旅の果て。そこにいるのは間違いなくヴァーヴェルグのはずなのだ。
避けては通れない道。
いつかは、あの場所に、神域に……。
風月は初めて見据えた。
旅の果てを。
まぶしく、遠く。
「アイツも……。こんな気持ちだったのかな」
自分の終わりを知っていたあの男。ともに旅をした期間はおよそ数年。終わりが近づき続け、死を知ったまま続けた旅。
風月はヴァーヴェルグを見る。
「ここで、ただ待っているわけにはいかねぇよな!」
勝算なんかない。それでも前に進まない理由にはならなかった。たとえここで旅が終わるようなことがあったとしても、前に進む以外の旅を風月は知らない。
そして何よりも、ある『予感』が背中を押した。
足の底、そこから微かにある息吹。地面のような安定感のある巨竜が微かに揺らいだ気がしたのだ。そしてその『予感』は間違いなく正しかった。
一個の生命の終わり。
巨竜という何万年も生きてきた存在の尺度で考えていた。終わりはきっと、何年もあと、もしかしたら何百年あとなのだと、そう思っていた。しかし、それよりもはるかに速く巨竜は終わる。
今まで生き続けてきた悠久の時。その最後の瞬間が目前まで迫っているのだ。
「巨竜……」
いつかは終わる。その終わりに風月は間違いなく立ち会うことになるのだ。生き様を魅せる。そんなことを言いながら、実行できる時間はあとわずか。
一方的にだが、交わした約束。
竜の言葉はわからずとも、きっと伝わっていると風月は思った。
「お前の最後の瞬間まで、全部見ていってくれ……」
風月は走り出す。それは、神速の戦いが終わりを告げた瞬間だった。火力で勝ヴァーヴェルグがグレイに押し勝ち、グレイの手から大剣が離れたその瞬間だ。
背を地につけて切っ先を剥けられてなおヴァーヴェルグをにらみつけるグレイ。たいしてヴァーヴェルグの眼には飽きの色があった。
「お前は変わらんな。1000年たってもその様か」
「過去の人間に邪魔されるのは嫌いかい?」
「……がっかりだ。俺が眠っていた間、貴様は何をしていた? なぜ牙を研がない? なぜ俺を殺せるまで強くなっていない?」
「……」
もう、返答もない。代わりに乾いた笑いが漏れた。
グレイからすれば鍛錬は欠かさず1000年間、この国の創成より、神域の騎士として戦い続けてきた。それでもなお届かない頂が目の前にあったのだ。グレイは、アインスティークは間違いなく強くなっていた。それでも強くなったように感じないのは、ヴァーヴェルグの強さからすれば大差ないということだ。
「1000年間、無駄だったか。体を捨てて、ひたすらに戦ってきたつもりだったんだがな」
「かつての憧れとは、脆いものだな……」
「お前が人間だった頃の事なんざ覚えちゃいねぇ。俺にとって、ヴァーヴェルグとは今のお前で、今の強さだったんだよ」
人間だった頃のヴァーヴェルグを知るグレイ。それは体の名前で、本当の名は、アインスティーク。
初代、神域の騎士第一席だ。
「もう、何も言うな」
かつての思い出。ヴァーヴェルグにとってそれはとても大切なものだ。それがこうもたやすく消え去るとは、ヴァーヴェルグ自身も予想していなかった。ゆえに落胆した。
「安心しろよ、まだ終わらねえ。もう調子は大丈夫か、ボウズ」
言葉はなかった。しかし、ヴァーヴェルグの意識の外から、駆け込んできた風月の一撃。避けようと思えば簡単にできた。何なら反撃で一撃で消し飛ばすこともできた。それでもあえて受けたのはダメージになりえないからだ。
風月の握りこぶしがヴァーヴェルグの横っ面に突き刺さる。そこで風月の動きも止まった。
「風月、凪沙」
「ヴァーヴェルグ!」
「今は貴様にかまっている暇はない。苦痛は与えん」
「時間がないのはこっちも知ってんだよ」
「……!」
ヴァーヴェルグが初めて驚きの色をみせる。風月が巨竜の終わりを正確に読み切っていることが意外だった。
「そのために、テメェを殴りに来てんだよ!」
ヴァーヴェルグの体が一回り大きくなる。甲殻同士のつなぎ目が開き、そこに赤い光が流動を始めた。風月は知らない。それが『破光』と呼ばれる一撃の前触れであることを。
認識と同時にヴァーヴェルグの一撃が来た。
「もう一遍寝ていろ」
今度は、風月は反応する。剣気を扱えるようになったからこそ、ヴァーヴェルグの動きが見え防御の体制まで間に合った。それでも、ヴァーヴェルグの一撃は重い。鉄杭が岩盤を穿つような一撃が風月の体の芯を通り抜けてそのまま体ごと吹っ飛ばされる。それでも、倒れなかった。足で地面を削り、すべての衝撃を受け止め切った。
奇しくも、ヴァーヴェルグとグレイは同じ感想を抱いていた。
成長した、と。
わずか数時間。眠り休すみ、巨竜と出会っていた間に、風月は格段に強くなった。
「まさか、先を越されるとはのう……」
先ほどまで日が照っていたのに、大地が陰りだす。それは濃霧とも呼ぶべき異常なまでの白煙によるものだ。漆黒のつややかな髪をした茜が煙管から吐き出したものだ。風月もヴァーヴェルグも、手を伸ばせば触れ合う距離で互いを見失った。
刹那、風月の目の前を漆黒の剣が霞めた。否、風月が避けたのだ。レギオンが風月を真後ろに引っ張り、瞬きの間すらないほど直前に風月がいた場所を皇黒剣が切り裂く。
「凪沙。悪いけど、こっから先はかっこいいことなんせさせないってわけよ」
ヴァーヴェルグの一閃によって煙が一気に散らされてあたりにまた陽光が照り付ける。そこには、四人の神域の騎士がいた。
風月の目の前でヴァーヴェルグと対峙していた。
感じたのは同じ目的を持って集まった仲間たちに対する心強さでも、ヴァーヴェルグの強さを目の当たりにして抱えた絶望でもなく、純粋な無力感。いくら成長したとしても、ヴァーヴェルグには遥かに及ばない。
風月は助けられなければあまりにもあっけなく死んでいたはずだ。悔しいわけでもなく、情けなかった。
そんな感情に埋もれているわけにもいかなかった。やるべきことは全く別にある。
第三ラウンド。
巨竜の上での決戦が今、幕を開けようとしていた。




