第三章 14 〇生き様
一日に二度。
脳震盪で意識を失い、風月は歩くこともままならなかった。普段なら絶対に見逃さない足跡などの痕跡にも気づかないほど弱っていた。
今にも胃の中が裏返って吐きそうになり、それにこらえようと気を大きく持つと膝をついていた。
「ボウズ、大丈夫か?」
焦点の合わない視界のせいで方向感覚が狂い、音源を特定できなかった。必死に首を動かして周囲を確認すると、一人、見つけた。
黒っぽい髪を短くした、それ以外何もしていないガサツな印象を受ける男。体はデカく180を超えていた。そして右腕の銀色に輝く籠手が神域の騎士であることを教えてくれる。
しかしそんなことは目の前の男を語るうえで重要ではない。ある二つのことが風月の目の前に立つ男にはあった。
それは入れ墨と武器だ。
黒と赤の不思議な曲線を描く刺青が顔、腕、足などわずかに露出している場所にすべて見えている。それも目を引くことの一つだ。しかし、それ以上に持っているものが異常だった。
風月の筆ほどもある巨大な柄を持つ大剣。その刃幅は風月なら完全に隠れられるほどのサイズで、男の体格も合わせると破壊の権化と称しても遜色ないほどだった。
「誰だ、あんたは?」
吐き気の合間を縫って紡ぐ言葉。しかし、かすれていて、相手に届いたかどうか風月にすら判断できないほどだった。しかし、男は反応を示す。
「俺を知らないとは、さてはボウズ、もぐりだな」
「誰なんだ? いや、どうでもいい……。今は、止めないと」
「何を止めたいんだ? 言ってみろボウズ」
風月は警戒をすることを忘れるほど疲弊していた。そのせいか、風月の口はあっさりと弱音のように目的を吐き出した。
「ヴァーヴェルグを止めないと……、いけないんだ」
「ヴァーヴェルグだと?」
少し、雰囲気が変わった。
神域の騎士にとってヴァーヴェルグの名はあまりにも重い。国の守護という役目を果たせなかった事実そのものだ。
「いるのかここに……。奴は何をしに来た?」
「ほかのだれかが終わらせるものじゃないんだ」
「どういうことだ、いったい何の話をしている?」
風月の言葉はきっと理解できない。それこそ、過去を共有して同じ記憶を手に入れたティアでもなければ、理解したとは言えない。
「旅は、終わらせない」
「……」
それはもはや狂気だった。
膝をつき、手をついて、地面から起き上がれないでいる。それでもいまだ這ってでも、どこにいるかもわからないヴァーヴェルグを止めるつもりでいる。勝てないことなどとうに確信している。それはヴァーヴェルグのことを知った者なら全員同じだ。それでも戦いに行こうとしているのは、風月のルーツを知らない者はきっと理解できない。
諦めが悪いのではなく、諦めを知らない。
風月凪沙は足掻くことをやめるという選択を持っていないのだ。頭のねじが外れている、そう形容する者もあるかもしれない。でも、今まで歩んできたあの男との旅は、風月にとって一度でも諦めたらたどり着けない場所だった。
ここで諦めたら、今の旅も終わってしまう、そう感じた。
歯を食いしばり、それでも前へと進もうとしている。
「ボウズ、聞かせろ。勝てると思っているのか? 止められると思っているのか?」
「思わない」
返答に一切のためらいはなかった。風月の双眸が男をにらみつける。
「それでも、止めるんだ」
「……」
共感はできない。しかし、譲れない者があることは理解できた。
「手は貸すか?」
「…………っ」
苦しそうな顔をする風月。
それはわかりきった答えだった。一人で勝てないのなら誰かの力を借りる。これほどわかりやすいことはない。それでもすぐに答えなかったのは……。苦虫をかみつぶしたような顔をしたのは、プライドだった。
自分だけの力で何とかしたいという気持ちが少なからずあったのだ。
ヴァーヴェルグは認めたといったが、それはあくまでも形式。実際に並んだなんて思ってない。だから、そこに追いつきたかった。誰かの手を借りることは、ヴァーヴェルグと肩を並べるまでの距離がうんと遠のくように思えた。
うつむき、歯を食いしばり、必死に考えた。いや、考えてなどいなかったのかもしれない。必死だったのは自分の気持ちにケリをつけること。
本当に譲れないものを明確に意識する時間。
風月は悔しくて泣きそうだった。吐き気以上に、自分の弱さで叫びたかった。それでも、胸の内に溜まるこの気持ちを大事にするためにすべてを耐えきった。
そしてわずかなプライドが風月の表情をゆがめた。
「手を、貸してほしいっ」
ちっぽけなプライドを捨てた瞬間だった。本当にやりたいことは、ヴァーヴェルグを止めること。巨竜の旅を終わらせないこと。
そのためなら自分のプライドなんて容易く捨てた。捨ててみれば、本当にちっぽけなもので、それでも旅の中で失った大切なものだった。それが涙となって目の端に浮かび、それを服の袖でふき取る。
「わかった、手を貸してやる。風月凪沙」
「……え?」
名乗った覚えはない。にもかかわらず男はすぐに風月を看破した。それが不思議だったのだが、男は風月の疑問をくみ取り口を開く。
「報告書に目を通していればいやでもわかる。ヴァーヴェルグと因縁がある異国の人間なんてお前しかいない」
「……そういうあんたは誰なんだ? 神域の騎士?」
「ああ、その通りだ。だがやることが明確になった今、そんなことはどうでもいい。ヴァーヴェルグを止めるんだろ? ならそのために今できることをしろ」
「わかってる」
ふらつく足を地面に突き立てて上体を起こす。それでもまだ、立っていることがやっとだった。少し冷静になれば地面にあるヴァーヴェルグの痕跡にも気づけた。むしろさっきまでなぜ気づかなかったのか全く分からないほど目立っている。
逆に言えば、さっきまではそんなことにすら気づけないほど弱っていた。
もはや足手まといの風月を見かねた男は、風月の小鹿のように震える足に狙いを定めてけたぐりを入れる。
見事に決まり風月はきれいな弧を描きながら再び地面に沈んだ。
「ぐっぶっ!?」
もう起き上がる力もなかった。
「何しやがる……」
「何をしやがる? それはこっちのセリフだ。何をしてやがる」
「止めるんだよ」
「その様でか?」
「……」
風月は何も言えない。
事実、立ち上がることもできなかった。
「ヴァーヴェルグを止めたいのなら休め。がむしゃらに前に進むだけが勝負じゃない。大一番で勝て。そのために今は休むんだ」
「そんなことはわかっている。わかっていても前に進みたいと思うこの気持ちはどうしたらいい?」
制御しきれない気持ちを吐露する風月。
「こうしている今でも、この巨竜は殺されるかもしれない。それが耐えられないんだ」
風月が勝つべき戦闘はたった一つ。一年後の決戦だけだ。それまでいくら負けたって、それさえ勝てれば風月の勝ちだ。
「生きる苦痛に蝕まれて死を求めているというヴァーヴェルグの言葉が、どうしても信じられないんだ。昨日の咆哮が、耳から離れない。あの叫び声がまだ生きたいって、この世界を見ていた行って言っているような気すらしたんだ。もし今、休んでいて巨竜が死ぬようなことになったら、俺は、自分の旅に胸が張れない……」
「……なるほど、ボウズはずいぶん感情で動くタイプなんだな」
「……悪いか?」
「悪くはない。その心意気はむしろ上等だ。だからこそ今は休め。そのちっぽけな不安程度消し飛ばしてやる。第一席、ティラ・スケイル・アインスティークがな」
聞きなれない名前に紛れていたが、第一席という言葉を風月は聞き逃さなかった。
最も強き騎士。
「……しまった」
ティラが少しだけ渋い顔をする。
「今の俺の名前は違ったわ」
ガシガシと頭をかきながら眉を八の字に寄せる。
風月にはもはやその意味自体が理解できていない。というより、その名前を知っている者は巨竜の上に一人しかいなかった。
「今はグレイ・オイフェ・アインスティークだった。なんでもいいか。とりあえずボウズが起き上がるまでの時間は俺が稼いでやる。その名は我が剣に、だ」
その名は我が剣に。
それは風月の知る言葉ではない。しかし、古より騎士たちの間で決闘の合言葉であり、約束を守るという意味も含まれる。命や大切なものを懸けた戦いを姑息な手段をもって覆さないという契約だ。
「そういうわけだ、任せろよ」
グレイはまっすぐと足跡を追い、風月を置いていく。
それを見送った風月はごろん、と仰向けに転がった。手足を大の字に投げ出して青空を見上げる。太陽はいつの間にか、真上に来ていた。その日差しと、柔らかい風を受けて額の汗が熱を奪い去っていく。血の上っていた頭にはちょうど良い冷たさだった。
この陽だまりの中、真下に感じる巨竜の息吹。何があったも飛ばされない大樹に背を預けるような安心感があった。
微かに残る気怠さは微睡みとなって風月の体を支配した。
体の末端にまで血が行きわたりぽかぽかという擬音が似合うほど体温が上昇し、顔には先ほどとは異なる熱が籠りだした。
大きく吸い込み、膨らんだ肺。それを押し込んで息を吐くだけできっと眠りに落ちてしまう。瞼を閉じ、ほんの十分ほどだけでも眠ってしまおうと考えたその時だった。
「……?」
わずかな兆しもなかった。
ただ、目が冴えた。体に残る気怠さだけがわずかになりを潜めただけで、気分がリフレッシュしたわけでもない。しかし、焦りとは違う感情によって風月の体は動き出そうとしていた。
先ほどよりもましな足取りで立ち上がる。その足で向かった先はヴァーヴェルグの足跡が向かう方向ではなかった。風月ですら理解できていない、未知の場所へと向かっていた。
「休まないと……」
そんな風にこぼれた言葉とは裏腹に、風月の体は明確な意思をもって歩み続ける。それは焦燥や危機感といったものとはかけ離れた感情。
強いて言うのならば【使命感】だ。
誰かに言われたわけでもなく、感じた。今するべきこと。向かうべき場所。それがこの先にある。その歩みはもはや誰にも止めることはできない。
グレイがこの場にいて諭そうとしても、風月は絶対に止まらない。風月が進む意味は理屈や常軌とは全く異なる場所にあるからだ。
そうして進み続けた先は巨竜の端だった。あれだけ大きく地平の向こう側までずっと続くように思えた巨竜の背は、意外にも早くその限界が見えた。細長くなっている先は、5メートルほどの幅を持ち、その先にはるか先を見通する頭があった。
「呼んだのは、お前だったんだな」
言葉は通じない。だが、運命に呼ばれた。何かを伝えるために、互いが呼び合ったように、今ここで邂逅したのだ。
けれども、風月には伝えるべき言葉などなかった。
「………………」
いうべきこと、ぶつけるべき意志や感情はたくさんあったはずなのにそれが出てこないのは、もはや風月の性質ともいうべき事柄が関係していた。
圧倒的なまでの感動。言葉すら失い、思考が停止するほどの言葉にできない感情が津波のごとき怒涛の勢いで押し寄せてきた。
あまりの絶景に、立ちすくむことしかできなくなった。
太陽に照らされた山と大河。その間にある人々の営み。視線のはるか先では空と大地の境が溶け合って消えてしまっている。
無意識のうちに伸ばした手は、この旅に求めるものを象徴しているようにすら感じた。
切り取られた永遠の内の一瞬をしっかりと思い出に刻み込む。
「どうしてなんだ?」
伝わっているのかなんてわからない。それでも聞かずにはいられなかった。
返答はない。でも、風月はそれでよかった。
「たった今、考えが変わった。言葉なんてそんなものいらないよね」
風月は踵を返す。
行動で生きることを証明する。
必死に生きる。
それがどういうことなのか見せつけるために、ヴァーヴェルグとの戦いに臨む。勝てる勝てないということをすべて押しのけて、生き抜くための戦いが始まろうとしていた。




