第三章 10 〇もう一つの開戦
ときは少しさかのぼり、風月は重力に逆らい、巨竜に届くほどの勢いで投げ上げられた。体がひねりつぶされそうなほどの圧力に、息ができなかった。
「――っ、……っ!?」
こんなときに思い出すのはドラクル領でティアとミクハを助けたとき。この前は重力に殺されかけたが、今回はヴァーヴェルグの投げ上げの勢いに殺されかけている。
「で、ろォ!」
あの時の感覚。皮下をうごめく熱と、皮膚を突き破る痛み。そして、胎動する新たな器官の感触。
ズアァ!
服を引き裂き、伸びる五指の剥き出しの骨。それに肉が絡みつき、筋が伸び、黒い飛膜が張り付いた。光を透過してしまうほど薄い蝙蝠に似た翼。それを賢明に広げて速度を殺すが、それでも、投げられた勢いは収まらない。
肩越しに見た巨竜の甲殻はみるみる近づいていき、風月は一つの結論を出す。それはあきらめること。
早々に翼のみを広げたまま、体を丸め、両手で首の後ろと後頭部を覆って衝撃に備えた。
そして数秒後。
背中を巨体に強く打ち付け、それすら吸血鬼の力でだいぶ軽減されていた。それでも背中に鈍い痛みが走り、皮膚の下を先ほどとは全く別の熱が籠った。
「――っ!?」
体は砕いた甲殻の睡魔にすっぽりとはまり、身動きが思うように取れなかった。
「くそっ、せっかく新調した服が破れたじゃねえか!」
本気でなくともぶん投げられた風月は、吸血鬼の力を借りている状態でなかったら衝突した拍子につぶれて汚い染みになっていたはずだ。
「はやく、出ない、と?」
そこで何かが覗き込んできていることに気づく風月。
それは、鳥。四足歩行でさらに翼をもった、大きなくちばしを持つ鳥。暗い中でもその姿が鮮明に分かるのは吸血鬼の力を借りているからだ。
極彩色の羽根をたたんで、鷲のようなかぎづめのついた足で岸壁のような巨竜に張り付く鳥。そのサイズは風月と同じくらいで、それでいて、首は風月の腕ほどしかない。
アンバランスな印象を受けるが、飛ぶには適しているのかもしれない。
「ガア、ガア」
「うおっ!? つつくな、つつくな。痛い、ええいあっちいけ!」
身体が挟まっており、動けないところへ容赦なくつついてくる。このまま肉をついばまれ続けるつもりもないので、必死に体を動かして隙間から逃れようとする。一緒に挟まった翼も必死に動かして、もがく。すると、何かの拍子にぼこっと音を立てて体が外れた。
投げ上げられたのだから当然、何も遮るものもなく落下するはずだったが、ついばむのに夢中だった鳥のふわふわの羽毛にだいぶする語りになる。
「ガアアアッ」
抵抗しない餌だと思っていたのに、唐突にのしかかられて鳥のほうもパニックになったのが感じ取れた。四つの足で風月をつかむとランダムに飛び回る。その掴み方も肉まで食い込んでいる足もあれば、服の切れ端のような場所を爪が貫通しているだけのところもあった。
「――このまま離されたらっ」
翼があることも忘れ、うすら寒い想像を思い浮かべ、背筋を震わせる。同時に、四つあるうちの二つの足首をがっつりと掴み、最悪の未来に備えた。吸血鬼の力で闇の中でも目が利いてしまうことが恐ろしかった。落下しているのか、上昇しているのかも、体にかかる負荷からはわからなかった。
その時、視界の端に桜色の光を見た。それには見覚えがある。
「リナ!?」
「おっまたせえええええ!」
「おぬしちょっと急ぎすぎじゃ! もう少し落ち着けっ」
ぶんぶんと手を振って、煙を足場にこちらへ向かってきていた。茜も一緒で、必死についてきていた。特に、足場にしている魔法は茜の煙管がトリガーになっている。いちいち煙を吸い込み、吐き出すというルーティンを行わなければ使用できない。それは体の中で魔力と煙を練り合わせているためでもあり、ニコチン中毒で常に摂取したいという本音を覆い隠した画期的な千歩だった。
しかし、それが仇になった。
リナがホイホイ飛び上がり、それについていくために茜も必死だ。呼吸は浅くなり、酒とたばこでやられた体はすでに悲鳴を上げていた。喘鳴にも似た呼吸音が悲痛さを醸し出していた。それでも、必死に煙管を口にくわえて、煙を吸っては吐き出すという一連の動作を必死に繰り返していた。
「おぬしもおぬしで何しとるんじゃ風月いいい!」
「ごめん、たすけて!」
「任せておきなさいってわけよ!」
処刑斧すら桜色の光に包まれて、跳躍して一気に風月との距離を詰める。こっちに攻撃が飛び火しないことを頭では理解しているのに、巨大な武器を携えた人物がそれを振りかぶって寄ってくると恐怖を覚える。
それは鳥も同じだった。
「ガアアッ、ガガガ!」
さっきにおびえ暴れだしたその時だった。わずかに高度が低くなったその刹那を狙ったかのように、鳥が破裂した。その臓腑が飛び散り風月の顔を汚す。がっちり掴んでいた鳥の足が体に引っ付いたままだった。
「―――っ!?」
「おっと」
何かが鳥を通過したように見えたが、ふわりとした一瞬の停滞の後、思い出したくもない落下の感覚に身を包まれてそれどころではなくなる。
落下する風月の首根っこをつかむリナ。
「お?」
しかし、リナに翼はなく、上昇に向かっていた慣性は重力で削られていたことも重なり、風月を捕まえたことで完全に消え失せた。それから一緒に落下を始める。むしろ助けたはずのリナが驚いた顔をしていた。それを見た風月の表情が凍り付いた。
「わわわどうしよ!?」
やはりというべきか、落下の感覚はいやおうなしに翼の存在を思い出す。精いっぱい広げた翼で空をつかみ、羽ばたく。
「凪沙って有翼種!?」
「フテロって何? ってそれよりもっ、重い」
それはリナの体重ではなく、リナの体重よりもはるかな重量を誇る処刑斧のことだ。ミクハとティアをまとめて持ち上げた翼でも、そもそも処刑斧が数百キロという怪物仕様だ。剣気もまともに扱えない風月では、持ち上げるのは不可能だった。
急激に落下していくことを察してリナが処刑斧を魔術で別空間に収納する。すると、風月の翼でも十分持ち上げられるようになった。
それで空を一気に駆け上がり、巨竜の岩のような表面へと取りついた。
いまだに風月の体に張り付いたままの鳥の足。顔にべっとりと張り付いた臓腑をすべて叩き落とし、その惨状を作り出した原因たる存在をにらみつける。
赤熱した銅を思わせる剣気を纏った悪竜がそこにいた。
「ヴァーヴェルグ!」
風月は下での気の抜けた空気を知らない。だから、いまだに臨戦態勢をとっていた。だが、当のヴァーヴェルグはどこ吹く風。まるで気にしていなかった。
事実、あの跳躍が風月にあたっていたら風月の絶命は間違いない。だが、それでも今と同じ対応だったはずだ。もはやわざわざ守って育てるほど弱くもなければ、興味の中心でもない。
ゆえに無反応。風月の知るあの張りつめた緊張感の後ではなおのこと風月の神経を逆なでする。
「――――」
握りこんだ拳。蝙蝠のような翼。鍛えていないために、リナよりも年齢相応に華奢な体が、うっすらと光って見えた。剣気を纏えるようになりつつあることが、リナにも理解できた。
そして、張り付いていた巨竜から手を放す。そのまま重力に体をつかまれるが、吸血鬼の翼が重力を引きちぎり体を巨竜へと押し付ける。足と翼で一気に加速し固く握った拳を体をに練りながら叩き込む――その寸前。
「凪沙、だめ!」
「なにっが?」
鎖でつなぎとめられるような、あるいは紐を体に括り付けて車を引くような感覚。とにもかくにも、風月は足がもがれるかと思うほどの痛みが走る。それは、リナが持ち前の怪力で風月の足をつかんだからだ。
リナはつかんだ風月をそのまま引き寄せて、反射的に巨竜へとたたきつける。
「あっ」
本当に傷つける意図はなかったのだが、そのまま風月の意識は刈り取られ、ぐったりとうなだれてリナの腕の中に納まった。その様子を見た茜がようやく巨竜の岸壁に張り付き、驚いた声を上げる。
「何をしておる! おぬしの馬鹿時から出そんなことしたら死ぬぞ!?」
「え、でも……」
「大丈夫みたい」
「そんな馬鹿な」
風月の胸が小さく上下していて呼吸があることも確認できた。むしろ、リナの力でぶつけられても目立ったけがはない。いまだ明確な色は認識できないが、風月は確実に権威を扱えて来ている証拠だ。
これが無意識でなくなれば神域の騎士に届くだけのポテンシャルを持っていることが誰の目で見ても明らかになる。だが、そのためには2年から5年の鍛錬が欠かせない。少なくとも、ヴァーヴェルグとの決戦に歯どうあがいても間に合わなかった。
「……本当じゃのう。なら」
茜はヴァーヴェルグに向き直った。
「何をしに来た?」
「巨竜はもうすぐ死ぬ」
「なんじゃと?」
「止めを刺しに来た」
「……」
五年おきに毎年当たり前のようにそこにあった巨竜。それが死を迎える。茜にとってそれは受け入れられない現実であり、ある意味現実味がない。そもそもこの光景がなくなるなど理解ができなかった。
「いずれ死ぬ。これ以上苦しむくらいなら、殺してやる。そして殺されるためにこの地を訪れているのんら、俺が手ずから下すのが道理だ。殺せるのは俺しかいない」
損得勘定を秒で済ませた茜はそれ以上の追及はしなかった。他国でこの利益を生む巨体が沈むくらいなら、この国でついえたほうがいいとの判断だ。
およそ10秒。意識を刈り取られていた風月が目を覚ます。軽い脳震盪で少しバランスが取れない。それでも、ヴァーヴェルグの言っていることが理解できた。
「そんなわけ、ねえだろ」
リナは袖をぎゅっとつかまれた。風月がしっかりと握っていた。そしてヴァーヴェルグをにらみつけるその横顔はリナから見て凛々しく、今までに覚えたことのない感情に胸が高鳴った。抱き寄せているために距離も近く顔が熱くなる。
初めての感情にどぎまぎしているリナをよそに、風月は自らの考えに準じようとしていた。
脳裏に浮かぶのは夜に魔獣たちと吠えたあの光景。蛍がたくさん飛ぶような光に包まれ、巨竜の到来を誇ロしい気持ちで祝福するあの瞬間。そして応えた巨竜。そのすべてを知っている風月は巨竜が死を求めているとは思えなかった。
あの体と共に、何万年と生きてきた。そして世界を見てきた。これからもそれは変わらないと思ったのだ。
「下の女と同じことを言うんだな」
「……」
「なら、この俺を止めてみろ」
「リナ」
「はいっ」
いきなり名前を呼ばれて声が裏返るリナ。
「もう、止めないで」
「……わかった」
一陣の殺気で浮ついた気持ちが一瞬にして消し飛んだ。
そして音もなく風月凪沙とヴァーヴェルグの一線の戦いの幕が上がった。




