第三章 7 〇対等
上空を動く島。巨竜迎撃祭において、多くの人々はこう言う。
寒くなる、と。
巨竜の体躯はその名のとおり巨大すぎる。それによって太陽の光を遮り、日の当たらなくなった大地はそれによって気温が下がる。
風月はその境目にいた。
「近くでいると、デカすぎるな。サイズ感が全く分からない……」
巨竜の直下は完全なる闇で、すでに流れてくる風で肌寒さを覚えて、ぶるりと身を震わせた風月。あまりにも雄大で巨竜の生命力に驚かされる。
巨大な翼が支える巨体。所々が苔むしていた。それ以上に目を引いたのは巨竜の体表だ。
「傷だらけだ……」
高い山の上にいるからこそ、見えるほどの細かな傷が無数についていた。その破片が今もボロボロとこぼれてきている。これが古くなった鱗で、それを落とすためにこの国を通過しているらしい。痛みはないし、むしろ古くなった鱗が剥がれてメリットはあるというのも理解できなくはない。それでも溶けて爛れた皮膚を見ているようで、痛々しかった。
それでもなお、弱弱しさは感じない。ドラクルの街で聞いた話では数千年は生きているらしい。幾星霜をこえて今を生きている。
「今日は月が見えなさそうだ。星空も。きっと、どこまでが星空で、どこからがあの巨竜の体なのかもわからなくなる」
巨竜の直下が闇であるように、夜の闇と同化して見えなくなるに違いない。
「それにしても寒すぎるな」
魔獣たちはすでに密集しており、寒さに対する準備が万全だった。
「あの間に挟まりてぇ……」
そんな炬燵じみた見え透いた魔力に取り込まれるわけにもいかなかった。寒さに震えながら焚き木を集めて早々に火を作ってしまう。昨日まで使っていた焚火の残りを利用する。木は崩れて炭から灰になっていた。きっちり焚火を星形に組んでからスクロールを取り出して火をつける。
「おお、寒さむ。これを育てて……」
「器用なものだな」
背後からの低い声に聞き覚えがあった。恐怖の感情が沸き上がるほどの声。しかし、それよりも早く風月は振りざまに握った拳を叩きこんでいた。そのこぶしはあっさりと手のひらで受け止められていた。だが、その手は人間とは全く異なるものだ。固く白い皮膚に鋭い爪。それが少しだけ手に刺さっていた。
「しばらくぶりだな、風月凪沙」
「なんでここにいるっ、ヴァーヴェルグ!」
王都にいるはずの悪竜が目の前にいた。
「俺がどこにいようと関係あるまい。それよりも、聞きたいことがある」
姿を見ずに沸騰していたはずの血液がヴァーヴェルグの冷静な声を目の前に、血管に氷を刺されたかのように脳が冷えた。
「聞きたいこと?」
「貴様は対等だと言った。その意味を知りたい」
風月は火に向き直って暖を取る。その横にヴァーヴェルグが腰を下ろした。
隠すつもりは毛頭ない。
「きっかけは森神だよ。森神はお前と戦うために万全を期そうとしていたんだ。人間と殺しあっている時間はなかった。だから争いを避けられるようにした。森神は俺を認めてくれたんだ。その証が血縛の契りだ」
「具体的に何でもめていた?」
「……っ」
「なんだ?」
「意外だ。ヴァーヴェルグはそういうことには一切関心がないと思ってた。滅ぼすなんて言っていたから、そういう俗世的な事情は聞く耳持たないものだと」
「俺が知りたいのは、森神が万全なら俺の命に届きうるのか否かだ」
「…………」
風月にはそんなことわかりきっていた。
届かない。絶対に、届くことはなかった。アルトを手玉に取っていたとはいえ、ヴァーヴェルグには瞬殺された。それも、おそらく本気ですらない。
「勝てなかったよ」
「そうか」
「でも……」
何かを言いたかった。
でも、言えなかった。
ヴァーヴェルグの圧倒的な力を目の前にしてしまうと、すべて口にする前に説き伏せられている気がした。風月にとっては特別で、このまま勘違いされたままでいたくなかった。
「なるほどな」
「何が?」
「貴様は認められたがっているのか、この俺に」
それは間違いない。
「風月凪沙。貴様はこの俺にまだ何もなしていない」
「……」
「森神が貴様を評価したのは、成し遂げたことがあったからだ」
魔の山の通行料。関税。それにヴァーヴェルグは目を通している。そのついでに魔術で王命を割り込ませたのだ。だから知ってはいる。風月が森神と魔の山のために何を成し、そしてどうあろうとしたのかを。
「確かに森神とは対等だったかもしれん。だが、俺には何もしていない。可能性を見せただけだ」
「何が言いたい?」
「見せろと言っているんだ。この俺に」
対等である証を。
「できないのであれば、貴様は俺の下だ」
ぎりぃ……。
惨めな気持ちに無意識に食いしばったせいで、奥歯が砕けるかと思った。
「魔獣たちもやる気みたいだぞ?」
布団のように折り重なっていたほうを見ると、全員が立ち上がり、牙を剥いてうなっている。魔術で呪いが封じられているはずだが、魔獣たちはその呪いとは別のところで恨みをいだいていた。
「力を借りればいい」
逆立ちしたって勝てない。わかっている。だが、我慢できなかった。拳を握り立ち上がる。
だが、ヴァーヴェルグは座ったままだ。
「立てよ」
「忘れたか? 王座に座して待つといったはずだ。一年。それまでの間、貴様は敵ですらない。この場で死ぬか、生きて牙を磨くか選べ」
「力もない。剣も魔法も使えない。それでもここで引きたくない」
「なら、どうする?」
火を見つめるヴァーヴェルグの目に、警戒の色はない。文字通り、敵としてみていない。ぐっと握りこんだ指は、今にもおれそうなほどだった。
泣き寝入りするしかなかった。
ここで死ぬわけにはいかない。まだ旅を終わらせたくない。行き場のない怒り、胸の内に溜まるいら立ち、爆発寸前の状況ですべて呑み込んだ。
その時だった。
風月の肩に手が置かれる。
「凪沙」
「――リナ?」
桜色の髪を風に靡かせ、キッ、と意志のこもった強い瞳に見つめられて心臓が跳ねた。端的に言うのなら見とれていた。しかし、チャーミングだった天真爛漫な笑顔はなく、凛々しいという言葉が似あうほどだった。
「武器がないなら私が剣になるってわけよ」
「なんでここに?」
ニッ、と笑うリナ。
「助けるため!」
リナ・クロム・ソルクワトロ。神域の騎士第四席にて、力を司る半鬼の少女だ。風月にとっては心強かった。森神と戦って見せたアルトと同等の力を持つが、それでもヴァーヴェルグが警戒することはない。
「風月凪沙。貴様も扱えるようになれ」
「何をだ?」
「剣気」
特殊でありながら、訓練次第では誰でも使えるというその力。神域の騎士であるリナも扱うことができる。だが、風月はそんなものを扱えた覚えはない。
「一度だけ貴様は見せた。神域の騎士二人と三人がかりでこの首に迫った時もおどろいたが、たった一人で傷をつけたときにはなお驚いた」
鋭い爪でコンコンと自らの額をつつくヴァーヴェルグ。しかし、風月には全く覚えがなく、首を傾げた。
「頭突きだ」
「は?」
「広場で処刑を止めに入った時、貴様は自らの額を割ながら、この俺に出血させた。土壇場で使うことができるのはよくある話だ。与えた時間はたった一年。それで、貴様は俺の首に届くのか。対等になりたいというのなら、見せてみろ」
ヴァーヴェルグの言葉と同時にリナが虚空からハルベルトを取り出す。魔術で別の場所から取り寄せた。それは神域の騎士に追うから下賜される特別な処刑斧で、剣気を流し込まれても自壊することはない。
魔の山内に武器の持ち込むはできないが、それを取り締まる魔獣たちが、今だけはヴァーヴェルグにかかりきりだった。
「傷を、つければいいんだな?」
「ああ。それだけでいい。傷一つで、俺の命は脅かせる」
唐突に視界が黒に染まる。小さな火だけが唯一の明かりだった。それが照らすヴァーヴェルグの貌は陰影がはっきりとして、その瞳が哀愁を誘った。
その現象を引き起こしたのは巨竜だ。あれだけの巨体の下に入り、すべてが闇に包まれたのだ。
次の瞬間、明かりは増えた。
風月にとっては馴染み深い桜色の光。リナから剣気が立ち上り、処刑斧にまでまとわりついた。ふわりと温かな風に甘い香りが乗って、風月の鼻腔を刺激した。
「私からいかせてもらうってわけよ」
「貴様じゃ無理だ」
刹那、温かな風はリナの振り上げた処刑斧と共に烈風となり、振り下ろしと共に破壊となってヴァーヴェルグに襲い掛かる。
だが、一瞥することもなくリナの一撃を拳で迎撃した。その衝撃で風月は地面を二回転して、それでも止まらない体を魔獣が受け止めた。
「言ったはずだ。理の外にいる風月凪沙やかつてのヴァーミリオンならともかく、貴様では無理だ。この世界と同じ総量を持っている。この世界を破壊できるほどの力がないのなら、挑むことすら烏滸がましい」
「随分無茶を言うね」
新たな声が聞こえた。
この場で唯一風月だけが聞き覚えのある声だ。
「ティア!?」
だが、この闇の中、どこにいるのかもわからない。それもそのはずだった。
風月の視界からは桜色の淡い剣気の光に包まれたリナも、真っ赤な炎に照らされたヴァーヴェルグも見えなかった。完全なる闇。
「こっちだ凪沙君」
声は真後ろから聞こえた。
細くて柔らかくて冷たい。そんな指に視界を覆われていた。
そして、もう片方の手が風月の首元を無理に露出させる。
「凪沙?」
「待ってろ小娘。この程度の差、すぐにまくってやる」
「そうじゃなくって」
風月にはどんな状況か全くわからない。
そもそもなぜティアがこの場にいるのかも理解していない。
露出して外気に晒された首筋は、少し汗ばんでいて、なおのこと寒く感じる。服を早く戻して首筋を隠したかった。
「手を退けたまえ風月君」
がじっ。
人差し指にティアのとがった犬歯が突き立てられ、思わず指を引いた。思わず指を触ってしっかり残っているのかを確認していたその時だった。
ちゅ。
背筋にぞわっと変な悪寒が走った。首筋には湿っていて生暖かい何かが押し当てられた。それがティアの唇であることを風月は知っている。さらに舌が這う感覚に背骨が弓なりに伸びる。
わずかに開いた指の隙間から顔を真っ赤にするリナは風月の首をガン見していた。ヴァーヴェルグは口を開いて固まっている。
あれだけ張りつめていた空気が完全に緩み切った。
「て、ティア!?」
ニッ、と笑ったのがわかった。舌が引っ込み、とがった歯はかみ合わせよく、その感触が首筋に押し当てられた。
「がああアアアァっ!?」
刹那、視界が明滅するほどの激痛が走り、立っていられずに膝が折れた。
痛みと共に、体を内側から引き裂きそうなほどの力がわいてきた。
「本来はこうやって眷属を増やすんだよ」
ティアから解放された風月は浅い呼吸を繰り返しながら、吐き気と痛みに耐える。不思議と出血はほとんどなく、衣服はわずかに湿った程度にしか感じない。
以前風月がティアの眷属としてきゅけ付きの力をふるった時があった。そのときはティアの血を経口摂取した。今回は、血管に直接流し込まれた。それがこんなにも痛みを伴うということを風月は知らなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
視界が開けた。闇の中で何も見えなかったのに昼のように細部まで観察できるほど、闇が見える。光などないはずなのに。
「吸血鬼」
「君がヴァーヴェルグかい? 僕よりも長生きしている奴、初めて見たよ」
「貴様は誰だ?」
「ある意味、君と同類だよ。神に呪われたもの。その真祖。吸血鬼、ティア・ドラクルさ」
「貴様も、理の外側か」
笑っている。ヴァーヴェルグの貌が引き裂かれて、笑みを見た。
「貴様は、我が命に届きうるか?」
「いや、無理だね。僕は吸血鬼の中で最も非力だよ」
でもね、とティアは続ける。
「理の外にいる者同士の親和性は高くてね。森神しかり、君しかりだヴァーヴェルグ。だからわかるだろ?」
対峙しているティアとヴァーヴェルグの間に、立ちはだかる。眼を緋色に輝かせた風月が。その光が尾を引き、風月のわずかな動きを可視化した。
「僕が保証しよう。凪沙君の強さは……。心優しき吸血鬼の牙は、君の命に届きうると」
「私もやるってわけよ!」
先ほどまで赤面していたリナにいつもの天真爛漫な笑顔が戻る。あの時、守れなかった風月の隣で、再び並び立つことがリナにとってはうれしいのだ。
ヴァーヴェルグはようやく立ち上がる。
「初撃はくれてやる」
握った拳に力がたまるのを感じる。振りかぶり、左足で飛んで右足で踏み出す。
本気の一撃。
それがヴァーヴェルグの胸板に突き刺さる直前、笑っていた当のヴァーヴェルグから笑みらしき表情が消えた。そして、左手で受け止める構えを見せる。
この一撃が凶悪なものであると直感したのだ。それは獣的な直感を持つリナも同じで、風月の一撃を届かせるために処刑斧をしたから勝ちあげるようにヴァーヴェルグへとたたきつける。
ズンッ。
地の底から腹へ響く重低音と衝撃。風月の一撃に中止しすぎてリナへの反応が遅れ、許した一撃。傷すらつかないが、風月の一撃がヴァーヴェルグの左腕をすり抜けるには十分だった。
そして、風月凪沙の渾身の一撃が突き刺さった。
わずか数ミリ。
ヴァーヴェルグの白い胸殻がへこんだ。それもビキビキと音を立てて回復していた。だが、きっちりと揃った牙の隙間から泡を吹くように血液が漏れ出した。それが口の端を滴る。
本当にわずかだが、風月の一撃はヴァーヴェルグの内臓にダメージを与えた。
「わずかながら剣気も纏っていた。まあ、及第点か」
むしろ、ヴァーヴェルグよりも風月のほうにダメージがひどかった。拳の肉が裂け、出血がひどかった。
「これで対等だと認めてやろう」
その一言を引き出すために、泣きそうなくらい拳が痛んだ。
「だが、これで引き下がるのは業腹だ。だからくれてやる」
灼熱の痛みに耐えながらヴァーヴェルグをにらみつける。
次の瞬間、風月の胸と肩を鷲づかみにした。
そして―――。
「あの巨竜からの景色をな」
善意など一ミリもない。ただ腹が立ったから。
だから、風月の体ははるか上空、巨竜まで投げ上げられた。




