第二章 18 ☆処刑当日その5
リナの一撃で死んだと思い込んでいた。まき散らされた衝撃波でなにか異質なことが起きていることは理解したが、それでも風月凪沙が生きていると思えなかった。
ヴァーヴェルグに手痛くやられた後、逃げずに立ち向かった風月に驚きが隠せなかった。
額をたたきつけてズルリと崩れ落ちた。白い骨のように高質化した肌に、同じく額から花崎までをなぞるように鮮やかな赤のラインを引いた。その鮮やかな赤の中にドス黒い赤を限りなく濃くしたような液体が流れていた。
それがかの悪竜の血液だ。
アルトには見えなかった。しかし、間違いなくわずかにだが剣気を纏った。そうでなければヴァーヴェルグが傷を負うなど考えられない。
同時にヴァーヴェルグも茫然としていた。タイミング的に風月を助けに来たことも何となくだが理解できる。しかし、アルトにはなぜ風月がここで牙をむいたのかが理解できなかった。
それでもヴァーヴェルグが敵であることが前提として理解できた。処罰するべき罪人よりも、不俱戴天の仇としてヴァーヴェルグを殺さなくてはならないと本能で感じ取った。
蒼い剣気をただの剣に纏わせる。
この場にいる誰もがヴァーヴェルグを最大の敵としてみていた。しかし、次の瞬間、黄金の魔方陣が立ちすくむヴァーヴェルグに絡みつき、その輝きが薄れて見えなくなる。
「そう、か」
ただそれだけを口にすると、今の今まで抱いていた敵意が一瞬で消え失せた。
横を通り過ぎる誰かのように、意識が行かなくなった。
同時に、目的の意識が戻る。それは神域の騎士として風月凪沙の処刑執行。ヴァーヴェルグの足元に転がっている風月の首を撥ねるために剣を構える。だが、その目の前に見覚えのある小柄な老人が躍り出てきた。
前ベイルサードのミラタリオ・リースだ。その後ろで風月を抱えるヴェイシャズがいた。
「もうヴェイシャズには仕えていないんじゃなかったのか?」
「むろん、仕えてはおらん。今はドラクルの命で動いておる」
ヴェイシャズがあんな表立って動いている以上暗躍は間違いない。或いはこの状況を予見していた可能性だってある。
「神域の騎士、そこを抑えていろ。全員武器を持て! あの罪人を打ち滅ぼせ!」
「イヴル!?」
この処刑を心待ちにしていたイヴルにとってこの騒動はあまりにも得るものが多すぎた。ドラクルと魔の山と挙句に風月凪沙を殺すという構成を得る機会を与えたようなものだ。特にミラタリオの発言がよくない。
「ほう? 小僧一人で抑えられると?」
ミラタリオの首から勢いよく血液が噴き出る。頸動脈が切断されたのだとアルトは看破した。しかし、それをやったのはほかでもないミラタリオ自身だ。
血の鎧。この前よりもさらに厄介になったことは目に見えてわかる。血液の量が尋常じゃない。
魔術とは異なるブラッドと呼ばれる貴族の血統の力だ。
すでに顔のしわが伸び、若いころの姿へと変貌を遂げている。
「この前手痛くやられたのを忘れたのか?」
「守ることと決闘には異なる技術を使う。簡単にやれると思うなよ」
ただの血液ならともかく、神域の騎士が剣気を本気で纏わせている。こうなってくるとたやすく切断できない。
何よりも恐ろしいのはリーチが変動することだ。数秒溜めただけの一撃が人体からはあり得ないほどの血液を纏って、横なぎに振るわれる。その一撃がアルトを巻き込みながらも、アルトを狙ったものではないことは一目瞭然だった。神域の騎士同士の間にこんなに温い一撃があるはずがない。
踏み込みと同時に姿勢を低くすることでその一撃を回避するが、その背後に控えていたイヴルにとってはそうやすやすと回避できる一撃ではない。真横から走りこんできた騎士団長が、その足でもってイヴルを攫い、引き倒して攻撃を回避する。円運動である以上、切っ先のほうが速度が乗り一撃の威力も増すが、もとより神域の騎士に次ぐ実力を持つ騎士団長が防げない一撃じゃない。
だが、その部下とイヴルの手下については違う。
そのほとんどが切断され、死んだ。
「まだまだ青いな」
切りかかってきたアルトを意に介さずそのままヴェイシャズと風月が消えていった地下道へと走り去っていった。
負ってもよかったが、それこそ狭い場所で機動力の高いヴェイシャズとやりあうのは考えうる限り最も避けたいことだ。
この異常事態だ。ここは見逃して王の意見を仰ぐことも間違いではない。剣を収めて、今度は今回の騒動を最大に引っ掻き回したヴァーヴェルグのもとへ来た。
「ヴァーヴェルグ。何をしに来た?」
「ああ。風月凪沙の処刑を止めに来た」
しかし、今はそんな覇気を少しも感じない。まるで質問されたから答えたとでも言いたげなほど声から力を感じない。今も茫然としているだけだ。
原因は間違いなく風月との応酬だ。
「風月に何を言われた?」
「引っ込んでいろと」
ショック、というより意外だったというのが正しいかもしれない。
「この俺にそんな口を聞く人間がまだいたとは……」
どこかうれしそうだったが、そこを掘り下げて聞いていられるほど時間はない。
これからの行動指針。被害状況の把握。やるべきことは山積みだ。敵意のないヴァーヴェルグにかまっていられるほど余裕がない。
「騎士団長、被害の報告を! こっちはリナを拾って城へ行き支持を仰ぐ。敵にミラタリオがいる以上、安易に追わせるな」
「ふざけるな!」
それに反論したのは、まあ予想通りのイヴルだ。
「部下も兵士も殺されたんだぞ! あいつを追って殺せ!」
暗躍するにしてももっとうまくできるようにならないと家柄よりも上に行くのが無理なタイプの男だ。騎士団長ですらそんな言葉に耳を貸さない。イヴルがあそこでしかけさえしなければ、ミラタリオに殺されることもなかったはずだ。
しかし、騎士団長は立場上、四大領主に強く口出しできる立場ではない。仕方がないからアルトが口を開いた。
「今から追えば被害が拡大するだけです。王の支持を仰ぎましょう」
「処刑は王命だろうが!」
「この緊急事態で王の意思を確認せずに動くといっているのですか? もしそうなら従いかねます。それこそ、新しく出るかもしれない王命に逆らいたいというのであれば止めはしません」
それこそ、オルガノンは王命の数が半端じゃない。王になってから一年もたっていないが、王命の数は五〇〇を超えている。政争の後始末で王命が大量に必要だったこともあるが、政策も非常に多く発令している。
コロリと意見を変えたり、政策を行っていることも珍しくない。処罰は甘めなことも多いが、ドラクル領から全権を預けられた風月の処刑を決断したところを見ると、逆らえば同じ道をたどりかねない。
さすがのイヴルも矛を収めた。
そこで、今度は当のオルガノンが飛んできた。髪の色と同じく炎のように苛烈に揺らめく赤い剣気を纏って城から飛んできた。元は兄のオレウスの席にいた人間だ。このくらいは平然と熟す。
「何がどうなっている?」
「被害はイヴルの手下と兵士が多数。それ以外は確認中です。リナは恐らく生きています。処刑の直前にヴェイシャズとミラタリオが乱入してきました。そして……」
アルトの視線の先にはヴァーヴェルグがいる。
「風月凪沙は?」
「生きています。ただ、ヴェイシャズとミラタリオに攫われました」
ホッと息を吐いて体から力を抜くオルガノン。
「まるで生きていてほしかったみたいですね」
「読み違えた。ヴェイシャズが出しゃばってきたところを見ると、うまいこと恩を売られたな。処刑は取り消しだ」
「これだけの死者が出ましたが?」
「民間人と兵士には手厚い補償を行う。だが、イヴルの手下は別だ。『呼び鈴』で招集したにもかかわらず、イヴルは強行した。その保証は奴自身にやらせろ」
イヴルは何かを喚き散らしていたが、オルガノンはこれを完全に無視した。
完全にしてやられたな。
アルトは思考する。
見渡せば兵士の被害は意外に少ない。それこそ、風月が詰め所に多くを押し込んでいたからだ。ミラタリオも武器を延ばす瞬間を調整してイヴルの兵士以外への被害をほぼゼロまで減らしている。死にかけた風月が最も得をし、風月が死ねば得をするイヴルが誰よりも損をした形までもっていった。
ミラタリオがいたということは、今頃はすでに東のドラクル領まで逃げているはずだ。
結果だけを見るのならば、風月の完勝だ。
「にしてもヴェイシャズの奴め、どうやってか禁忌書庫の情報を抜き取ったな。ヴァーヴェルグの資料に閲覧の記録がなかったはずだぞ」
結果を聞いただけですべてを理解したオルガノン。
相変わらずこういった能力は高いのに、相変わらず女性らしさが欠けているところがアルトには残念に映る。そんなんだから年ごろなのに結婚の申し込みが皆無なんだよと正直言ってやりたい。兄であるオレウスにのみ結婚の申し込みが集中しているのもここに起因している。
今もスカートを意図的に裂いたのか偶然裂けたのか判りづらい形でスカートをボロボロにして足を露出していた。ドレスの端は剣気を纏ったことでボロボロになっていて、いつはだけてもおかしくない。その状況で堂々としているものだから、見ているアルトのほうが、頭が痛くなってくる。
オレウスが正直不憫だった。
「ヴァーヴェルグ様はどうなさいますか?」
「帰る」
さんざん振り回しておいてこの言い草である。
これはこれでオルガノンも不憫になってくる。
「えっと、それだけですか?」
何も言わず城のほうへとゆっくり歩き始めた。遅れてきたオレウスがすれ違いざまにヴァーヴェルグの血化粧を興味深そうに見ていた。
「何があったんだ、アルト」
「後で報告書を提示する」
「そうか」
それだけ言うとあたりを見回す。オレウスはわかりやすく渋い顔をした。
「完全にやられたな。風月凪沙は何者だ?」
「さあ。少なくともたやすく扱っていい状況じゃなくなったとしか。少なくとも、今回暴走仕掛けたヴァーヴェルグを止めたのは風月だ。牢屋の中から敵対していたヴェイシャズをも味方につけて、ミラタリオとドラクルまで動かした。あのままヴァーヴェルグが来なくても処刑は失敗していただろうな」
「……ふむ、こうなった以上、ヴァーヴェルグをどうにかするために協力したほうがよさそうだ」
そうなるかはオルガノン次第だ。
「リナはどこだ?」
「伸びてる」
家をなぎ倒した先で、巨大なハルベルトが見えた。おそらくは同じところでリナが転がっているはずだ。煮え湯を飲まされたといっても、気絶するほどには見えなかった。
「拾って城へ。これから会議が始まる。一席と五席と九席は会議から逃げた」
「真っ先に逃げそうなレギオンとお前は?」
「今回ばかりはオルガノンの背中を押してやらないといけないからね。さすがに参加するさ。レギオンは、かわいそうなことにヴァーヴェルグにあっさりと返り討ちにされたことが翁にばれてしまってね。訓練で来ない」
翁とは十席のことだ。ミラタリオと同じ年だとか言われているが、年齢は不明で、神域の騎士になる前は長らく騎士団長として働き、レギオンやオルガノンを育てた凄腕の騎士だ。今では口うるさい老人だが、最も幼い年で神域の騎士になったアルトや入ったばかりのリナはずいぶんと可愛がられて、頭の上がらない人間の一人だ。
「……」
「そんな顔をするなアルト。正直今でなくても、と私も思う。本当は隠していたんだぞレギオンの不祥事は」
絶対に嘘だ。
確信する。おそらくは会議でレギオンか翁のどちらかが進行を妨げると考えて情報をリークしたに違いない。オレウスはそういう男だ。
「それにしても神域の騎士が五人も揃うとは」
「まったくだな。歴史上何百年ぶりの偉業かもしれないね」
出席率が最も悪いのは目の前のオレウスなのだが、そこは口には出さない。それより、会議から排除される前に、リナを回収しに行く。
破壊の後を見てもやはりリナが気絶したままのされるほどやられたとは思えない。
「起きてるかリナ」
「アルト」
リナはただ空を見上げていた。大の字に寝て、そこから動こうとしない。
「風月は?」
「生きている。東へ逃げた」
「そっか」
複雑な感情を抱えているように見えた。
「知り合いを殺そうとしたことってある?」
「ある」
「どんな感じだった?」
「辛かった。それ以上に、情けなかった。こんなことのために神域の騎士になったんじゃないって、思っていた」
「いた?」
「ああ。そうしないといけないんだ。殺さなければ、王の命を脅かす」
「仕事だって割り切った?」
うなずいた。
そうしなければとてもじゃないが戦っていられなかった。
「私は、悔しかった」
リナが大の字に転がったまま口を開く。
「いろんな人が動いて風月を助けに来た。なんで私は助ける側にいないんだろうって、何度も思った」
声が震えていた。
泣き出しそうな声で、それでも耐えていた。
「負けることなんてなんも辛くなかった。蹴られた痛みも大したことない。でも、胸が、痛いよ。この痛みだけは、我慢できない……」
「王命は王命によって撤回された。もう風月を殺す必要はない」
「どうやったら、この痛みは消える?」
そんなものは知らない。消せるのなら、消してしまいたい。アルトの心の傷はもう消えないものばかりだ。まだ、風月を殺していないリナなら消せるかもしれない。
だから、わずかばかりの助言をすることにした。
「さあな。だが、まずは呼び方を直すところから始めてみたらどうだ?」




