第一章 33 〇終わりを告げる
思考していた時間は一瞬だった。しかし、確かに風月の中で何かが変わった。
その時間は濃密で数時間も過ごしたような感覚を呼び起こす。
下卑た笑みと共に、嫌悪すべき悪辣な言葉を垂れ流すヴェイシャズにとうとう風月の表情が変わる。眉間にしわを寄せ、牙をむき出しにしたそれは、怒り。しかし、声を荒げることも、さげすむこともしない静かなる怒り。
その気配に充てられてヴェイシャズが口を閉じた。
「使わずに済むならそれがよかった」
そう言って懐から取り出すのはナイフ。適当に街中で買った者だが、刃物としての危険性以外はなにもないただのナイフだ。
「牢屋に『入れてくれ』なんて言って金まで払う奴の手荷物なんて検査しないからな。持ち込ませてもらったよ」
それは何の説明にもなっていない。だが、ヴェイシャズに対してはこれで十分だった。
風月は振るえるティアの頭にポンと手を置いて微笑みかける。
「待っていてくれ、もう終わらせるから」
悪夢は終わらせせる、だから本当にあと少しだけ時間をくれ。
笑うつもりはなかった。だが、下衆を目の前にして笑っていた。気づけば、怯えていたティアを元気づけるように笑いかけていた。あの男に成り変わろうというつもりは風月にはもうなかったが、それでも不思議と笑みが零れていた。
そのままの調子で状況を軽く確認する。
周りの兵士に、ミクハを人質にとるヴェイシャズ。そして、紅い鎧を纏い、風月を睥睨するミラタリオ。それに対し此方は高校生と幼女兼吸血鬼とアルト。
足りない。兵力が圧倒的に足りていない。このまま衝突すれば負けは必死のこの状況。それでも、自分たちが負ける未来など、微塵も見えなかった。
「血縛の契り。この世界では最も強力な契約の一つらしいな」
「なァにが言いたいィ?」
「コイツを消すことはできない。契約した本人を殺す以外には。そして、傷は距離に応じてフィードバックされる」
疵の残る手をヒラヒラさせながら言う。
「まあ、本来なら契約に関係ない人間がそれを失効させようとしたときに知らせるためのモノらしいが」
ヴェイシャズは風月から完全に興味を失い、指輪に魔力を込めはじめる。だが、そんなものはお構いなしにしゃべり続けた。
「ここで問題です。俺と契約を結んだ相手が最も恐れていることはなんでしょう?」
その言葉でアルトとミラタリオだけは風月の意図することに気づいた。だが、動くことができなかった。どうあっても、風月を傷つけることができなかったからだ。もし、そんなことをすれば、かの【恐怖】がこの場を一瞬で蹂躙することだろう。
だが、ヴェイシャズはその事実に気づかず、指輪の一つを使って魔術を発動させた。
空中で静止していた無数の角柱が飛び出した形状の氷塊が重力に従い速度を増して風月へと落下する。
そして――鮮血が散った。
風月の血液であることは間違いない。だが、氷塊に潰されて飛び散ったものでは断じてない。なぜなら、氷塊はまだ、風月に到達してすらいないのだから。
風月が自らの手にナイフを突き立てたときに舞った血液だ。
一瞬の出来事にアルトとミラタリオは予想通りの事態に苦い顔をする。その一方でヴェイシャズとミクハは驚きに眼を見開く。そして、ティアは血液を見て、体の中の魔が疼きだすのを感じた。
落下する氷塊は止まらない。凶悪なまでの質量が風月へと落下する。
ヴェイシャズは自身すら気づかずにその顔を引き裂き笑みを作った。死ぬ間際に見せる最高に屈辱的な笑みを。
それと同時にヴェイシャズは見ることになる。
風月の不敵な眼差しを。
「俺の勝ちだ」
そう宣言する瞳を覗き込んでしまう。
その姿を見てから、瞬きをする間もなかっただろう。氷塊が落下し、氷塊が砕け散る。
ヴェイシャズにはそう見えていた。だからこそ圧倒的な勝利に血が湧いた。完全な形の勝利に体が武者震いをする。
だが、そんなものは幻想だと、砕け散った氷の隙間から見えた風月の顔が突きつける。その後ろに堂々と立つ、深いしわの刻まれた顔に、傷だらけの屈強な巨躯。
アルトから話を聞いていたミラタリオはすぐに、目の前の【恐怖】がなんなのか理解した。
「あ、ああ……」
怯えて、情けないヴェイシャズの声が嫌に鮮明に響く。
一〇〇年間、恐怖の象徴として君臨した化け物。神域の騎士が四人がかりで倒すことができなかった怪物。魔の山の首魁にして、この土地の発展を邪魔してきた怪物。
屈辱的な笑みは凍りつき、引きつった。そして、恐怖にその表情を染め上げる。
武器を構えた兵士たちを、剛腕を振るってなぎ倒し君臨する。
『グオオオオオオオオォォォォォォオオオオオオオオッ!』
大地を揺るがすような咆哮が空へと響き渡り、山々に反射してやまびこを作り出す。
魔の山の首魁、森神がその姿を現した。
「――森神っ」
「ミラタリオっ!」
走り出そうとするミラタリオの前にアルトが躍り出てゆく手を遮った。
「やめておけ、勝てる相手じゃない。それに、俺が行かせると思うなよ」
実力差は一〇年前に嫌というほど理解させられた。だからこそ、ミラタリオは部下の敵討ちができず悔しそうに視線を下げることしかできなかった。せめて、この場で朽ちることができれば気持ちは楽になるのだろう。しかし、アルトはそれすらも許さない。
『のう、風月。もっと呼び方はなかったかのう?』
そう言って森神は鮮血の滴る右手を見せた。
「悪かった、悪かったよ。そう睨まないでくれ。これでも、必死だったんだよ。森神はこの契約をダメにしたくはないだろうって分かってたから、少しだけ荒業を使ったけど。こうやったら絶対にとんでくるって信じてたぜ」
『顔つきが変わったのう。いろいろと吹っ切れたか?』
「長く生きている奴にはやっぱり適わないな。全部お見通しか」
そう言って少しだけ苦い顔をすると、ため息を一つ。
「まあ、いろいろと吹っ切れたのかな」
そんな他愛ない話。自分を差し置いて、悠々と会話している二人の存在がヴェイシャズの神経を逆なでする。
「ふ、ふざけるなァ! 兵士? 魔術? そんなものが破れる程度がなんだというのだァ!」
醜い。それは、俺の率直な感想だった。
悪事の限りを働いて、その結果、どうあがいても助からない状況に追い込まれた。その期に及んで思い通りにならず駄々をこねる子供のように叫び散らす姿は見るに堪えない。最期まで命乞いをせず、悪党にとどまることがヴェイシャズにできる最後の抵抗だったのだろう。
ヴェイシャズはミクハの喉元にナイフの切っ先を突きつけた。
「殺すぞっ。させたくなければその化け物を消せェ‼」
「ヴェイシャズ、なんか勘違いしてないか? 俺と森神の立場は対等。命令できることなんて何一つない。故に人質の効果は森神にはないぞ? お前は周りが見えていないんだ。肥えて醜くなった豚よりも醜悪で、地を這う虫よりも小さい。そんなんだからこのザマだ」
風月は言い放つ。もはや、目の前の男には情けも容赦も無用なクズだと知っている。
「それに、お前程度じゃ無理だ。絶対にミクハは殺せない」
「できないと思っているのかァ‼」
ヴェイシャズの持つナイフが小刻みに震えだす。怒りで顔を歪め、風月を射殺さんばかりの形相で睨み付ける。
しかし、風月は何の気なしに、平然と言う。
「度胸の問題じゃねえよ。単純にして明快。ミクハがいる限り俺たちは手荒なことができない。だが、殺してみろ。その時は――」
手に持つナイフをヴェイシャズへと向けた。
「――楽に死ねると思うなよ?」
ヒっ、とヴェイシャズの喉が引きつった。風月から冗談や酔狂でないものを感じ取ったのだろう。ハッタリでもなく、本当に殺せないと風月の冷酷な瞳は信じ切っていた。
ミクハも同じものを感じ取っていた。過去に血を啜るティアを見たときと同じ恐怖を、風月に覚えた。
「ぐ、ギギイイイイイイイイイイイィッ」
本の数センチ。ヴェイシャズがナイフを動かすだけでミクハの首にナイフが刺さり絶命させることができる。それでも、風月は根拠のない確証を得ていた。ヴェイシャズがミクハを殺せないという確証を。
さらに数センチ押し込めば絶命するというところで、ナイフはそれ以上動かなかった。風月の予想通りヴェイシャズにはその数センチがどうしても押し込めなかった。
どれだけ悔しくても、屈辱的でも、惨めでも、それをするだけの勇気がヴェイシャズにはなかった。もしあれば、今こんなところで、ここまで追い込まれることはなかっただろう。
カラン、とあまりにも軽い音はヴェイシャズの手からナイフが落ちた合図であり、悪夢の終わりを告げる鐘だった。




