第一章 27 ●吸血鬼の力
「はあ、はあ、はあ」
最上階近くまで階段を駆け上がると必然的に息が上がり、夜の冷たい風がティアの汗ばんだ体を冷やした。
疲労の溜まった肉体は痛みを発し、足が止まってしまう。
「ああ、もう!こんなに疲れるなら日ごろから運動をしておくんだった! 呪うぞ、もう一人の僕」
幼女相手に自分でも何を言っているのか分からないが、とにかく叫びたかった。言っている本人も数百年単位のニートだが、完全に棚に上げていた。休みがてら半壊した城を見下ろした。いまいる螺旋階段の壁は半分以上崩れたが奇跡的に足場は残っていた。しかし、そこから見える高さは恐怖以外の何物でもない。
「高所恐怖症じゃなくてよかったぁ。もしそうだったら動けないところだった」
息が整うとまた階段を見据えた。既に四分の三は上ってあと十分ほどで最上階にたどり着けるだろう。
「この近くに、あの子がいるはずなんだっ」
ミクハの部屋を目指して汗をぬぐいながら階段を再び駆け上がり始める。その時だった。
「くそっ、どうなっているんだ!?」
「惨状を嘆く前にけが人を運ぶぞ。重症で今すぐ治療しないと危険だ」
「――っ!?」
(この声って、階段の上からじゃないか? これから上に向かうって時にっ)
すぐに石と石を打ち合わせるような足音も聞こえてきた。
「まずい、どこかに隠れないと……」
近くに隠れる場所などほとんどなかった。それは猶予も同じこと。
すぐに月明かりに照らし出された兵士の影が見え始め、姿が見え始めた。
お尋ね者は見つかれば殺されても文句は言えない。
(ダメだ、見つかるっ)
そして姿を隠すことすら焦りによってままならない状態で『それ』は起きた。
月明かりでできた階段脇の闇の中から手が伸び、ティアの口と体を押さえて引きずり込んだ。
――――――――――――――ッ‼?
驚きで心臓が握りつぶされそうなほど鼓動が大きく早くなった。口を押えられて声を上げることもままならず、喉の奥が引きつる。恐怖で体が震えあがり、足から力が抜けていく。
「(ティア、落ち着け)」
刹那、それまでの心臓の鼓動が嘘のように収まる。その声に安らぎを感じ、恐怖が消え去った。
風月の声だと理解して、途端に安心感で体から力が抜けた。
首を少しだけ動かしてみれば、そこには二日前にあったばかりなのに見知った顔となった少年がいた。月明かりが作り出した闇の帳に覆われ表情はうかがえないが間違いなく風月だった。
何か声を掛けようとしたとき、真横に兵士たちが現れる。
「――」
今度こそ驚きで悲鳴を上げそうになるが、風月に抱き寄せられて気持ちが落ち着いた。
兵士たちは動けなくなった一人を二人係で肩を貸し、階段を下って行く途中で、片足のない兵士がうめき声をあげていた。
「ふう……、行ったか」
「な、凪紗君? どうしてここに? 城で足手まといになりたくないから来ないんじゃなかったのかい!?」
風月は答えに詰まる。答え難い場所を突かれて、視線を逸らした。
「い、いや……。その。ど、童心に帰って冒険がしたくなって――」
「君は嘘が上手いくせにごまかすのは下手なんだね」
目を逸らしながら言う風月に、ティアはジト目で返す。居心地の悪くなった風月はとうとう顔まで逸らした。
「言ってたよね、凪紗君は『どう考えても足手まといになるから俺はこっちで待機しておく。あとは手筈通りによろしく』って」
「あ、あはは……」
「騙していたのかい? 信じられなかったのかい? そして、どうして来たんだい?」
風月は苦笑いしかできない。もはや何も言い返せていない。
ふんだ、答えようとしないならこっちにだって考えがあるぞ。
「ふーん、そうか、だんまりか」
「はは、は……、悪いな、スリルが欲しくてさ」
「まあ、いいけどさ。どうやって城に入ったんだい?」
「あ? ああ、城に、ね」
なんだ? なにか、おかしい……。
ティアにもさすがに分かった。顔をしかめて、風月を不安げに見つめる。
「凪紗君、どうしたんだい?」
月明かりが風月に伸ばす手を照らし出す。そして、露わになる手についた赤く粘ついた液体。
「あ、れ? これ。この赤黒いのは……血?」
そう口にした瞬間にコインを口の中に放り込んだかのような濃厚な金属質の香りがダイレクトに鼻腔を刺激した。急いで自らの身体を確認するが手が真っ赤になるような出血の傷は一つもない。
「この血は、まさか……。凪紗、君!?」
「はっ、はは」
声は笑っていた。しかし顔は笑うこともなく、苦虫を噛み潰したかのような顔へと変わっていた。
「唇も蒼くなっているじゃないか! なんでこんなになるまで――え?」
気付けば、風月の腹部は、分厚い生地の学ラン越しに分かるほど血で湿っていた。
「い、いったい、どうして……」
「……」
「教えては、くれないようだね」
「……」
口にすることがためらわれることだと未だに理解はできない。
ただ、それ以上答えを追求しようとはしなかった。
「でも、いい。今は傷口をふさぐことが先決だ。首の吸血痕はもうふさがっているかい?」
風月の首に手を伸ばし、吸血痕の確認をした。
うん、大丈夫そうだ。傷はふさがっている。
「どうやら僕にも使えるようだ。これからやるのは吸血鬼がいたという証拠を消すために編み出された傷口を塞ぐ魔術……、じゃないな。そいいわば、呪い、とでも言うべきかな」
風月からの反応はほとんどない。既に手が震え、言葉が耳に届いていないのだ。
この様子では、説明は意味なかっただろう。
「親和性の問題もあるし、何より君は吸血鬼である僕の眷属だ。傷口は塞いでみせる。血を、少しもらうよ」
風月の学ランを脱がせ、血で赤く染まったワイシャツのボタンをはずしていく。ナイフで突き刺された傷は生々しく、割れた腹筋を斜めから深く傷つけている。
「この位置なら、内臓に傷はないはずだ。すこし痛いだろうけど、我慢してくれよ……。傷口に舌で触れる必要があるんだ」
吸血した傷口に舌を潜り込ませたのも傷を塞ぐためである。
血を舐めとるために顔を近づけた。血液は固まり始めて間もない。刺されてからそう長い時間は経っていないようだった。
「血をもらうよ、凪紗君」
細く柔らかい舌が風月の腹筋を舐める。
未知の感覚に襲われた風月の身体が薄い反応を示した。
舌で腹筋に付着した血液を舐めとると、血の味が口の中に広がり、歯が疼いた。犬歯が牙へと研ぎ澄まされていき、心臓の音が高ぶり始める。眼に魔を宿し、風月の傷口から滴る血液を愛おしそうに眺めてしまう。そして、湿った舌はそのまま風月の腹部を舐め上げ、傷口へと到達した。
風月の手を握った。
すぐ終わらせる、だからそれまで死なないでおくれ。僕たちのために。
ズリュリュ、想像以上に痛ましい音が響く。
異物感から風月の身体は反射的にティアの舌を押し出そうとする。だが、風月の身体に抱きついて離れようとしなかった。
受け入れるんだ、凪紗君。僕を、吸血鬼の血を。
より、傷口の深くへと舌が潜り込んだその時だった。ぷちっ、と何かが切れる音が響いた。
「う……、ぐぁああっ」
風月が呻きだす。途端にティアの背筋に嫌な予感が走った。
(まずい! 凪紗君が、体が僕を拒絶している。なぜ眷属が主である僕の血を拒むんだ!?)
傷口からは血液がダクダクと溢れ始めていた。それが口の中へと広がり喉を潤す。吸血鬼としての本能がこのまま血を啜り、搾り取れと叫んでいる。
出血によって風月が死んでしまわないか不安と焦りにも駆られているティアにとって、これほど怖いことはなかった。
(これはっ、凪紗君との親和性が高すぎたんだ。彼の本質が僕との接触で変化を始めている!?)
身体の中に入ったウイルスが突然変異してしまうように、風月の身体の中でティアの【吸血鬼の因子】が突然変異を始めていた。おそらくはこの世界にいるはずのない風月の身体に過剰に反応したのだろう。僅かな体内の魔力と反応して、免疫のような働きをしているのかもしれない。その結果、風月の身体は【吸血鬼の因子】から逃れるために、ティアを拒絶した。
「ああ、あああ! あああああガアアアアアアアァァァアアアアッ‼‼」
無意識に暴れて抵抗しティアから離れようともがく。そして、魔力反応の電流のような衝撃がティアを弾き、壁へ叩きつけた。
「だ、ダメだ凪紗君! 君が死んでしまう、僕を受け入れるんだ!」
(ああ、そういえば、脆かった。人間はいつも、いつもっ。僕を拒絶し、逃げてしまう)
嫌な予感が脳内を支配し、内面の支配を始める。そうなってしまえば心とは脆いものだ。あと一つ、何らかの原因でどうとでも傾いてしまう。
「――ァ……」
「な、なんだい!? なんて言ったんだ?」
風月の口に耳を近づける。
「……ィァ」
「分からない、聞こえないよ?」
最悪の未来が過って声が震えだす。
「ティァ……」
「――っ!?」
まだだ。
僕はそう思った。
凪紗君体は吸血鬼を拒絶した。本能は吸血鬼を忌避した。だけど、まだ僕を受け入れようとしてくれている。なら、諦めるわけにはいかないだろう!
「本質が変化している? 眷属が主を拒む? 拒絶された?」
あの時は、死ぬほど悲しかった! ただ泣いて終わるのを待つしかなかった!
それでも、それでも!
あの〝旅〟は楽しかった! あの〝旅〟はいろんなものをくれた!
今だって悲しいよ。悲しいけどっ。泣いて終わるほどじゃない!
僕はっ。
「僕はホンモノの吸血鬼だぞ! 変質した人間程度の拒絶がどうした! 僕はまだ〝旅〟の途中じゃないか! こんなところで終われない!」
歯を食いしばる。
「僕はまだ〝ありがとう〟も言っていないんだ‼」
それが言えるまでこの〝旅〟は終われない。
終わらない。
いいや、終わらせてたまるかっ。
ティアはもう一度舌を傷口へと潜り込ませる。それだけで焼けるような痛みと、山椒を頬張ったときのような痺れが舌を襲う。それでも傷口から離れようとしなかった。
バチっ。鋭い音が響きより一生、激しい痺れと痛みが襲うがやめなかった。やめられなかった。そして――。
「はぁ、はぁ、はぁ」ティアは壁に背を預けていた。「イテテ……」
痛みを笑いながら風月を見た。傷口は綺麗に、とはいかず傷痕は残っていたが血は止まった。
「ふふ、少し、休ませてくれ。疲れてしまったよ」
男前なセリフを語るドラキュリーナは風月の太ももに頭を置いて、しばしの眠りについた。
「……ばーか。礼なんて全部終わってから俺に言わせやがれ」
寒い城に風月の声だけが響いた。




