第一章 16 〇二人の旅の始まり
目が覚め飛び起きると、東の空が白み始めていた。身体はびっしょりと汗で塗れていて、心臓が痛いほど叩かれている。
〝地獄の底まで〟
俺に旅を教えてくれたあの男と妙に被るセリフ。嫌にリアルな夢。寝た場所で再び目覚めたという事実にホッとした。
「なんだ今の」
やけに痛む首筋に手を当ててみるが、傷口は残っていない。
「これで君は僕の眷属。晴れて吸血鬼さ。晴れの日は眷属の力なんて使えないし、僕もこの姿じゃ活動できないんだけどね」
動きが、制限されていることに気付く。今すぐ声を上げて助けを求めたいのに、その行動を拒否しているかのように体は受け付けない。助けを求めるための動きは何も許されていなかった。
「このまま東に戻ればたぶん僕は殺される。この身体の持ち主である君の知るティアも処刑されてしまう。そうなれば君が生きていられる理由もなくなるわけだ。つまり、一蓮托生。君は僕のものだ。さあ、一緒に逃げよう」
(何を言っている? だが、なんだよ。なんなんだよ、この気持ちはっ)
胸が締め付けられて、その場に崩れ落ちそうになる。崩れれば最後、二度と這い上がれぬ崖の底へ落ちて行ってしまいそうな心境。とうとう、強制されてではなく、自分の意志で崩れることを拒否した。すると、体を押さえつけていた重圧があっさりと消えた。
「……なんで、泣いているんだい?」
ティアの言葉に思わず目元をぬぐう風月。そこには確かに涙があった。
「君は僕のことを憎み、恨む。それでいいんだよ? なんで泣いているんだい? ああ、そうか。その恨みで泣いて――」
「違う」
「ならなんで……」
「俺は……、お前じゃない!」
その言葉はティアを動揺させるには十分だった。
気付けば体を拘束していた力は消え失せ、風月はその場に力なく座り込んだ。
「君は、何を見たんだい?」
「旅、を。終わりなく続くべきだった、旅を。地獄へと続く破滅の旅路」
ティアは悟る。
「ああ、君はアレを見てしまったんだね。眷属になれるほどの親和性の高さから記憶が逆流してもおかしくない……」
「…………」
「…………」
沈黙が続く。空気は凍りつき、世界は止まったように感じた。
今にも泣きだしそうな顔でティアは風月の言葉を待った。
「アンタは本当にティアだったんだな。ここまで一緒に旅をしたティアだった。それと同時にアンタはティアじゃない」
「…………」
「断片的にしか見てないけど俺は、あんな旅はごめんだ」
俯いた風月の表情をうかがい知ることはできない。
「だけど、あんな救われないことが起こるのはもっとごめんだ!」
誰も手を差し伸べず、誰も救ってくれない。虐げられ続けた末にたどり着いた地獄の底。
なまじ、その旅の行く末を知っているから。行先が地獄という旅を体験したからこそ風月は選択しなくてはならない。
共に堕ちるか、ここで見捨てるか。
「堕ちるのも見捨てるのも嫌だ!」
今度は子供の我儘のようにティアが叫ぶ。
「違う、違うだろう!? 僕は吸血鬼だ。恨み憎まれるべき存在なんだ。君はいったい何を選択しようとした!? どうしてそうなるんだ!」
ティアは共に恨みながら堕ちてくれる生贄が欲しかった。ただ、恨まれて後腐れなく旅をしたかっただけなのだ。
「僕はともに死んでくれれば誰でもいいんだ! あの人を見いだせれば誰でもいいんだよ!? 君でなくても別にいい」
その気持ちを痛いほど理解できる風月は口を開けなかった。ここで、救いたいなんて軽口をたたくことは簡単だ。だが、そのあとの道のりは文字通りの地獄。先のないことが分かっているだけにすべてが地獄のような道のり。
「だから、同情なんかしないでくれ……。ただ、恨んでいてくれ……。君を選んだ理由だってただ眷属になるための親和性が高かったからなんて理由なんだ。だから」
「黙れ‼」
その一言が鋭く響き、ティアは口を噤んだ。
「あの『旅』はお前とあの男のものだろうが。それを簡単に穢してんじゃねえぞ!」
風月にとって旅とは人生そのもの。旅をしていた時だけが生きている実感をくれた。思い出は楽しいことも苦しいこともすべてあの男との旅が風月に与えたものだ。同じような旅をしたティアが口にした言葉は風月にとって、『あの旅でなくともよかった』といっているようなものだ。
それだけは絶対に赦せなかった。
「それともお前にとってその程度なのか? あれだけ泣いて終わった旅が、ともに歩んでくれた人が誰でもよかったなんて言える程度なのかよ?」
泣きそうな顔のティアに向かって風月は言う。
「違うなら、自分で歩め。この旅はティアのものだろ? そして、これは俺の『旅』だ、俺が選択し、俺が歩むっ!」
もうやるべきことは決まっていた。
「だから俺はティアを何としてでも救うぞ! それが俺の選択で、『アイツ』ができず、見れなかった世界だ! ティア、俺はお前を連れて行く。お前を助けたい。どうしようもない現実を前にしても足掻いているお前だから!」
あの奴隷商に売られていた奴隷たちは助けを求めるばかりで何もしていなかった。自分で未来を切り開こうとしなかった。だが、ティアは逃げ出し、足掻き、ここまで来た。
「誰でもよくなんかない。俺はティアだから、助けたい」
火はついた。
涙は止まり、成し遂げようとするその意志が明確に瞳へと宿る。
「――っ!」
「ティアの『旅』の最後。あの男に伝えたかったことは誰でもよかったなんて言葉じゃないいんだろ!?」
震える手で拳を作り風月をじっと見据える。
「あり、がとう」
ぽつりとつぶやくと、今までため込んできた思いが噴き出した。
「――そう言いたかった。僕をここまで救ってくれてありがとう、そう伝えたかった! 『ありがとう』って言葉も『ごめん』って言葉も『さようなら』もっ、全部全部誰かがいないと伝えられない! そんなありふれたことを彼は僕にくれたんだ! 教えてくれたんだ!」
「なんだ、分かってるじゃんか。なら、逃げるのはやめようぜ」
心がざわついて落ち着かない。なんで声を荒げたのかも分からない。ティアに引きずられて感情が強く出てしまう。
「もう、泣くのはやめようぜ。取り返そう、すべてを」
ここから俺と吸血鬼、ティア・ドラクルの『二人の旅』が始まった。




