第一章 12 〇血縛の契り
血縛の契り。
互いの身体の同じ場所に同じ刃物で傷を入れて誓い合う単純が故に強固な呪い。刃物には先に傷つけた者の血がついていなくてはならない。しかし、その条件さえ満たせば発動し、約束を違える、またはその意志がないと判明した時点で死んだり、不幸が降りかかる。起点となる同じ場所につけた傷は互いにフィードバックされ、傷を消すために新たな傷をつけようとしたときにすぐに気付かれるようになっている。
古来より、重要な契約にのみ用いられてきた契約だ。今でこそ、書類と魔術により縛られているらしい。
アルトがナイフを取り出した。
「これで傷をつけろ」
水でぬれたかのように澄んだ刀身。装飾などがほとんど施されていないにもかかわらず、高貴な印象を受けた。
アルトは相変わらずの鉄仮面を心に被り、内心が読めない顔でゆっくりと森神に近づいていく。
「なあ、待てよ」
「なんだ?」
森神にナイフを渡す前に俺が口をはさむ。
「ずっと気になっていたんだ。なんでアルトがそんなに強気なのか、てな」
「それは今、話すべきことか? 違うだろう」
「いいや、今だ。今はなしておかなくちゃならない」
アルトの言葉を強めにさえぎる。
もし、予想通りだったなら。今、話しておかないと、取り返しのつかないことになる。
確かな確信が芽生えていた。
「追ってきたんだろ? この山まで。なんの策もなしに?」
「…………」
「同じ神域の騎士を三人相手できる怪物。警戒しない方が無理でしょ。なあ、アルト。そのナイフをこっちに寄越せ」
アルトは俺を睨み付けるだけで何も言わない。
「ただの人間の俺相手に剣抜いて殺しに来たんだ。神域の騎士とかいう称号で奢るようなタイプだと思っちゃいないよ。そして一回負けた」
「何が言いたい?」
正直、これ以上言葉を重ねていいのか迷った。森神の機嫌を損ねれば、今からでも死ねる。だからこそ、穏便に済ませたい気持ちが強かった。しかし、アルトの覚悟ある眼光を見てそんな甘い考えは捨てた。
危ない橋を渡ってでも止めるべきところだ。
笑みを消さずに、アルトに向き合う。
「警戒するなら持ち込んで当然だって言ってんだよ。毒の塗られたナイフとかな」
森神は黙ってその応酬を見ていた。
言い知れぬ雰囲気が漂い始め、空気がよどむ。殺意と謀略渦巻き、息をすることにすら資格が必要な空間となった。
物理的に汚染されていない空気がこんなにも体に悪いと思わなかった。だがここからが勝負どころだ。ここを気張らないと、本当に誰かが死ぬ。最悪の場合、誰一人として生き残らない。
膝の上にいるティアも恐怖を間近に感じているようで、風月に抱きついていた。
「そのナイフ、川に捨てに行くか? できねぇよな、魚が浮いてくるから。それとも膝に突き立てるか? それもできねえよな、肉が腐るから」
「――っ」
ギリリと歯を食いしばる音が聞こえてきた。自らの意志とそれ以外のものに板挟みにされて葛藤している。もし、アルトが本気で動き出せば、森神と相討つくらいはやってのけるだろう。だからこそアルトは怒りと迷いに肩を震わせて黙り込んでいる。
――頼む、動くな。刃を収めてくれ。
祈った。ここさえ凌ぐことができれば交渉は終わる。
だが、風月の視線から逃れるようにアルトは目を瞑る。そして、一息にナイフを振り上げた。
その場にいた誰しもがアルトの動作に引きつけられ、息をのんだ。
やめろ、それ以上動くなアルト! 動いたら、殺されるっ。
ここまでの努力が無駄になるかどうかという瀬戸際。
刃先は森神に向いていて、アルトの足なら瞬きをする間にその距離を詰めて森神を刺せるだろう。もっとも、森神が警戒していなければの話だ。
アルトは刃物を握る指先に力を込める。
そして――
「クソっ!」
――ナイフを地面に叩きつけた。ただそれだけで俺の足もとまで地面にひびが入り、木々がざわめいた。肩で息をしながら俺を鋭い眼光で睨み付ける。アルトの気持ちも痛いほどに分かる。国で働く仲間が死んだのだ。それが受け入れられるわけがない。だから、たまらなく悔しく、腹立たしいのだろう。
俺はその怒りに当てられ蛇ににらまれたカエルのように動けなくなった。アルトの一撃の重さを知るからこそ指一本でも下手に動かせない。それでもなお、笑みは消さない。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙が訪れ、風月とアルトの眼光が交差する。
生きた心地はしなかった。だが今ここで引くわけにはいかない。引けるわけがない。これは ただの意地の張り合いだ。俺とアルトの今ここで譲ってはいけないもののために張る意地だ。
「…………」
「…………」
二人の静かなにらみ合いが続く。
三〇秒もなかっただろう。だが、数時間分の疲労が溢れ出し、時間分の寿命が確実に縮んだ。
「――なんなんだよ、本当に」
先に折れたのはアルトだった。苦い顔のまま視線を逸らし、勝手にしろと吐き捨ててアルトは少し離れたところで腰を下ろした。武器もおろして、腹を括ったようだ。
「――っつぅ。生きた心地がしねぇよ、まったく」
嫌な汗が首を伝う。ポンと未だに恐怖に震えるティアの頭の上に手を置いた。
「少し待っていろ、怖い夢から覚ましてやるからさ」
ティアはコクリとうなずいて俺の服から手を離した。
「なあ、なんか刃物持ってない?」
『グフ、フ。ヌハハハハハハハハッ‼ 神域の騎士を前にしてなお、臆さない! この儂を前にしてなおそのふてぶてしさ! この森神、血縛の契りを交わそう!』
笑い始める森神。よほど気に入られたらしい。
森神は風月の拳ほどの太さもある爪を右手の甲へと突き立てた。赤黒い血液が溢れだし、地面を汚す。それから血の付いた爪を俺につきつけた。
目の前にしてそのサイズのバカバカしさがよりわかる。こんなもので手の甲を貫けば貫通などという言葉が生易しいほどの傷を負うだろう。
コイツ、試してやがるな。俺が相応しいか、約束を守るかどうかを。そして、度胸をためしている。俺たちよりも高い知能を持ってやがる。
すなわち、風月に自らの利き手を傷つけられるかどうか、交渉の相手にふさわしいかどうかを試しているのだ。舐められたものだと内心毒づく風月。
その爪に同じ右手の甲をあてがった。鋭利な爪は触れただけで皮膚が裂けて血が溢れてきた。
「なあ、森神」
『なんだ、小僧』
「覚えておけ、俺の名前は風月凪紗。テメェの言う矮躯で矮小な種族の『でかさ』をその眼に焼き付けろ!」
刹那、俺の右手の甲を鋭い痛みが焼けた。
「あぐっ、がアっ!」
鋭利な爪はたやすく俺の手を貫通し、尋常じゃない痛みと熱でその感覚を伝えてくる。嫌な汗が噴き出して、一瞬だけ眩暈が襲う。全身の体温が上昇したように感じる一方で頭からは血の気が引いた。骨にゴリゴリと当たる爪の感触は精神衛生上よろしいものではない。より傷口の形を明確に意識させられる。
もし爪の付け根まで押し込めば俺の腕は裂けるだろう。比喩でもなんでもなく文字通りに裂けるほど爪が太いのだ。爪はその場で俺の手を貫通している。傷口はこれ以上広がらないはずなのに森神の負った大きさまで開こうとしている。
その傷口が成形される痛みに悶え、苦悶を漏らしながら森神を睨み付けた。比率的に同じ大きさまで広がろうとしているその感覚は嫌な汗を浮かべさせる。数ミリだけ傷口が内側にめり込む感覚を初めて知った。
「――っ、つ」
大きく息を吸い込んで、熱くなった体に、冷たい夜風を送り込む。ゆっくりと息を吐いて森神を睨み付けた。
『矮小な人間よ、それで?』森神は嘲笑を浮かべ、俺を見下した。『儂は貴様の何を見せつけられればいい?』
意地でも名前を呼ぼうとしない森神に舌打ちをしつつ、額に浮かんだ汗をぬぐう。
息は荒くなり、痛みで今にも膝から崩れそうだった。それでも、ここは引き下がれない。
「俺を試したことを後悔しろ」
手を貫通した爪を軸に回した。傷口をゆっくりと広げ、血が抜けていく。
『……おおっ!』
ぼたりと大粒の血液が森神の傷口から滴った。それを見て俺は顔を引き裂いて笑う。
「まだ、終わらせねえぞ!」
さらに爪を押し込み、傷口を広げる。骨の位置がずれ始め尋常じゃない痛みが熱となり風月を襲う。痛みによって競り上がる吐き気を強引に押さえつけ、手を貫通する爪を握りこむ。それから痛みをこらえながら俺は爪から手を引き抜く。ぽっかりと向こう側を見通せる穴が当然の如く右手に空いていた。
「あんまり見下してるとこの傷口、もう一度穿り返すぞ?」
肩で息をしながら言った。手首を押さえて止血を図るも効果は上がらない。そして、つかの間の睨み合いがあった。
『強がるな、人間。この程度、すぐ癒えるかすり傷でしかないわ』
声からは先ほどの嘲笑は微塵も含まれていないことが分かる。感じ取れるのは真剣に取り組む姿勢だけだった。森神の手の傷が音を立てて癒える。それと同時に手の傷も癒えて痛みも消えた。傷跡は残ったが弾痕のような穴はふさがり、戦争と違って禍根も悔いも残らない。
『だが、風月凪紗よ。見事だ。儂にここまで言わせた人間はおぬしが初めてだ』
互いの眼光は互いを見据え、貫く。
『矮躯で矮小な種族でありながらも、貴様はデカかった!』
褒められて悪い気はしないが、如何せん傷が痛すぎる。
森神が大きな拳を突きだした。傷だらけで年を感じさせる大きな手だ。それと比べて、俺の手は赤子同然のように柔らかく、しわ一つない。
だが、同じ傷があった。
『この傷に契約を交わそう』
俺は無言で森神の拳に自分の拳を合わせた。それが今まで誰一人として成し遂げることのできなかった偉業を成し遂げた瞬間だった。




