第一章 10 〇終わらない受難
森神が生やした大樹は馬車をボロボロにした挙句、風月の足に絡みついて成長した。逆さまにつるし上げられて、身動きが取れない。ティアは馬車の椅子に座ったまま突然の出来事に目を真ん丸にしていた。
風月も最初見たときこそ驚いたが、すぐにそんな感情は潰えてしまう。
森神と優男――アルトが急成長する樹木以上のものを魅せるものだから、風月もそれを見続けてしまう。八メートル近い巨体が目にも止まらないほど俊敏な動きをしているとさすがに砂が舞いあがってその挙動を追うことができた。
「すっげぇ……」
ありきたりな声しか出てこない。だが、そんなふうに目を奪われている時間は永く続かない。速すぎて何が起きているのか、良くわかっていなかったのに、一瞬だけ静止したかと思えば大量の木がアルトを追いこむように生え始めて、足を捕まえて育った大木に叩きつけた。
ぎぎぎぎ……。
嫌な音が聞こえた。思わずティアと目線を合わせた後に、音がした馬車を見る。言ってしまえば引っ掛かっているだけで、支えられたり固定されていない。風月にしたって馬車が押し上げられた拍子にガラスが割れて、そこから入り込んだ樹木が風月の足に絡みついて成長してしまった形だ。馬車は原形を保っているのが不思議で、割りばしみたいに片側は完全に避けてしまっている。
これがずり落ちたとき、風月の足から下は永劫の別れを告げることになる。たとえそれで命は助かったとしても三〇メートル近い高さまで持ち上げられたのだ。堕ちてはひとたまりもない。
「これ、詰んでね」
このままでは二人とも死ぬ。
その現実を認識した瞬間に滝のような汗が風月の額に浮かんだ。
「ティア、登れ!」
逆さづりのままティアを抱えると、腹筋を使って身体を折りたたむ。今にも腰が爆発しそうで、一日歩き、馬車に揺られて疲労がたまった身体ではあと数十秒が限界だった。ティアの小さな体を必死に押し上げて何とか垂れ下がる枝葉に捕まれるようにする。
「蹴ってもいいから登れ!」
「やだ、こわい」
「死んじまうぞ!」
「でも、でも……」
ティアは風月の方を見ていた。高さで震えているのにもかかわず、見下ろすような姿勢になってでも風月の顔をしっかりと捉えている。心配されているんだって、風月は感じた。同じような経験が風月のしてきた長い旅の中でもあった。
(こんなとき、アイツはどうしてたっけ)
「大丈夫だから、行け」
(いつも、笑っていた。笑みを張り付けて、良く笑って真似をした。それがかっこよかったから。いつかあんなふうになりたいって、思ったんだ)
風月は体の痛みや疲れなどおくびにも出さず笑った。ティアがようやく上を向いた。力を振り絞って限界までティアを押し上げる。枝に捕まったのを確認して少しだけ手を下げる。落ちてこないことを確認して、少しはホッとできた。
しかしながらそんな安心もわずかな間の事だった。
再び木が大きく揺れた。何があったのかとかそんなことを確認する時間もなかった。ティアが落ちてこないかすぐに確認した。結果として既に馬車から抜けて木の平らなところに上りきっていた。それでも心配事は無くならない。
とうとう馬車が奇跡的に引っ掛かっていたのが、悪い方へ物理的に傾いた。ズズン、竹の邪魔な枝を落とすように風月の身体を落とすギロチンが迫る。
思わず目を瞑って、両手で視界を覆う。
…………………………。
ちら。
足まであと数センチ。そこで馬車はギリギリ止まっていた。何が引っ掛かっているのか、風月の場所からだと分らなかった。
パキパキ。
嫌な音を聞いてまだまだ受難が続く予感があった。音の発生源は馬車の下。逆さづりの風月支店では頭上に当たる場所に小さな枝が伸び、それが馬車とは見分けのつかないほど大破した何かを支えていた。その枝が今にも折れそうなほどしなって、嫌な音を立てている。
こうも絶望的だと風月も笑えてくる。それでも絶対にあきらめない心を風月ははぐくんでいる。ナイフは持ち上げられた時にどこかへ落ちていってしまった。だから、素手で木を裂こうとする。だが、大木を素手で押してもびくともしないように、風月の足を絡めて成長した木は動かない。
ポキン。
そんな擬音が似合いそうなほどあっさり枝が折れた。
重力というごくありふれたものがここまで凶悪になるとは思わなかった。だが、騎士は風月に味方した。蒼い光体を通り抜けたと思ったら、一瞬で馬車を消し飛ばした。
見上げてみる(木の上にぶら下がっているため)と、剣に同じ色の光を纏ったアルトがいた。その顔は険しく、こちらを見ていたが俺を見ていない。視線はさらに向こうを覗いていた。
見下ろしてみると、そこには木の淵に座って恐る恐る見下ろすティアと、その後ろで森神がこちらをジッと覗いていた。
ティアは目が合うとニコッと可愛らしく笑って手を振った。合わせて笑顔で返して手を振ると、つられて森神まで黄ばんだ歯を見せて笑顔で手を振っていた。
思わず笑顔が引き攣った。




