第四章 15 〇質屋
べちゃ。
そんな音がしそうなくらい脱力した状態で風月は地面に転がった。
ハイトラの背中から3メートル以上。伏せて低姿勢じゃなければ、打ち所が悪かった場合脂肪すらあり得る。そこから一切の抵抗をせずに転がり落ちたのだ。
やはり情報は伝わっていた。おそらくは不可視の砦最高戦力であろうアリアが臨戦態勢で出迎えたからだ。だが、風月とハイトラが咥えていた子猫が同じようにぐったりとしているのを見て毒気が抜かれたようだ。
「何してんだお前……」
がっつりと変なものを見るような目で見降ろされていたが、風月は三半規管を攪拌されて動くことができない。代わりに子猫のほうを指さす。
「アイツを助けてやってくれ」
「お前もあっちも似たような重症だぞ」
「早くしろよ……うぷっ」
しかし、アリアにとってハイトラは近寄りがたい存在でもあった。それもそのはずで、魔獣とはこの世界において人類の敵だ。狡猾で強い。忌避されるというのは当然といえば当然だ。というのはあくまでも一般的な話であって、世界中には魔獣と共存している話はごまんとあったりする。ここ、果ての森でもそれは例外ではなく互いに干渉し合わないことで均衡を保っていた。
つまるところ、アリアは全く異なる理由でハイトラに近づきがたかった。
(か、かわいいな……)
しかもハイトラたち果ての森の魔獣は愛嬌のある顔をしている。なんどあのモフモフの首に抱き着きたいと思ったことか。族長からおさわり許可が出たときは思わず耳を疑ったほどだ。
だが、そんな浮ついた気持ちは、子猫に触れて吹き飛んだ。
「……何があった?」
振り返りざまに跳んできた言葉はそれだ。少しだけ回復した風月はふらつきながらも立ち上がる。頬や服についた土を手で払いつつ、酔いで覇気のない瞳でアリアを見た。
「いくつか考えられる。だが一個だけ除外していいものがある。病気だ。明確にどうというわけじゃないが、触っても痛みを訴えない、嘔吐の痕跡がない、吐血の痕がない。まあ重篤な病じゃなさそうだった。なによりも食べ物に手を付けてない。だからもっと心の病気を疑っている」
「心の病気?」
「簡単に言えば不信だよ。ネグレクトって言って通じるか?」
首をかしげるアリア。
「多分だけど育児放棄。何らかの要因で親に捨てられたと思っているんじゃないか? その結果がこの惨状だ」
「育児放棄……」
今度は苦虫をかみつぶしたような顔をした。風月はその表情を見逃さない。
「心当たりがあるのか?」
アリアはしばらくの間、呻くように喉を鳴らしていたがすぐにうなずいた。「ある」ようやく口を開けばそれは飽きれるような内容だった。
「原因は私たちだ」
「とりあえず一発ぶん殴っていい?」
「やめろやめろ、拳を握って剣気を纏うな! 私たちが関わったわけではないんだ」
怒りに任せて拳をつくった風月を制するアリア。
「どういうこと?」
「厳密にはそうなった原因を知っているだけだ。魔獣とは基本的に不可侵。それを破ったのはエルフと獣人たちの争いのせいだ。戦場でたびたびその姿を見ている。長い時は半月ほども……」
戦いの煽りを受けたのだ。
その間、自分の子供を守るために縄張りを警戒し続けた。その結果一番守りたかったものが等閑になってしまった。
風月の中にやるせなさが膨らむのを感じた。
「この子を救えるか?」
「もともとは我らが止められなかったことだ。そのツケを彼らが払うのは好ましい状況ではない。果ての森は共存しているべきなのだ」
「……その割には盗賊家業が忙しかったようだけどな」
「うぐっ、それは外に悟られずに物資を手に入れるために仕方なく……」
結構本気で殺しに来ていたことを風月は知っている。あえて指摘しないのは今がそれを許す状況ではないからだ。
「すべて私たちの総意というわけでもないが、彼らをすくいたいとは思っている。私たちはどうすればいい?」
「ミルク」
「は?」
風月の予想外の言葉にアリアは目を丸くして聞き返す。
「ミルクをよこせ。一回温めてから冷ました奴を大量に。畜産やってるっていう情報は入ってんだよ。とっととよこせ」
「あるにはあるが……」
一体何に使う?
そんな言葉が聞こえたがむしろ風月のほうが不思議だった。
「お前ら、魔獣が何を食うかも知らないのか?」
「魔獣が強すぎるから基本的に不干渉無関心を貫くスタンスなんだよ。というか飲ませるのか」
「当り前だ。ほとんど食ってないのに固形物なんて入れたら最悪窒息死するぞ。わかったらさっさと用意しろ。あと清潔な布と水」
風月はそれだけ言うと火をおこし始める。体温が低ければ免疫力が落ちて重篤な病気にもかかりやすくなる。乾いた枝を集めて星形に組み上げているさまをアリアは数秒の間茫然と眺めていたが、風月ににらまれて慌てて動き出す。
実はアリアは風月に萎縮していた。というのも魔獣は少なくともアリアが勝てる相手ではない。それを風月が倒してきたことを族長経由で知っているのだ。
状況が特殊だったとはいえ、アリアの中で風月の格が上がったことは間違いない。
そうしてハイトラの子供を救うために動き出した。
「おーい、聞こえるかチビ助」
チビというにはいささか大きすぎるがハイトラと比べればだいぶ小さい。
「お前、意地でも生かすからな」
何よりもまずは食事だった。
鍋に注がれた牛乳をくつくつと沸き立たせ、表面に幕が張るまで熱してから肌と同じくらいの温度になるまで冷ます。その牛乳をとりあえず口に塗った。それを舐めとる動作がない。本当に生きる意志が皆無なのだ。虎みたいなサイズだがこの程度なら風月にも転がせる。
剣気を纏って横腹を押し横向きにコテンと倒すと、唇を持ち上げる。
「小さくても立派な狩人か……」
ずらりと並ぶ牙、風月はそこからゆっくりと牛乳を流していく。だが、そのまま反対側から滴り
落ちていく。
「本当に反応しないな。ハイトラ、ちょっと飲んでみろ」
音もなくミルクの入った鍋に近づきスンスンとにおいを嗅ぐ。それからざらついた舌でペロンと白い液体をすくいあげて呑み込む。そのまま何事もなく飲んでいて、食性は普通の猫とそこまで変わりないことは分かった。
同時に、変わったこともある。
「ようやくこっちを見たなチビ助」
うつむいていて目を瞑っていただけの子猫はようやく重い瞼を開けて風月を見た。その眼でハイトラを見つめた。
「なあ、チビ助。もう少しだけ生きてみないか? 何度も言うように俺はお前のことはどうでもいいけど、そんなふうに周りに興味が持てるのなら、それを少しだけ生きることに向けてみろよ」
「……」
小さく何かが聞こえたが風月にはそれが理解できない。
「まあ、終わりを見据えて旅してる俺が言えたことじゃなかったかもな。まあ、俺にもお前みたいな時期はあったらしいし、あの男に拾われなかったらきっと今はないだろうし」
だから……。
風月は自分で言葉を紡げない。照れくさいというのもあるが、何となく似合わない気がした。俺にとって育ての親であるあの男を真似ようとしてもうまくいく気がしない。いくつかの条件が合わさり風月は言葉を取り消した。
その様子を観察していたアリアは風月がまた笑ったことに気づく。
それも腕を失う覚悟をしたような狂気的なものではなく、柔和で優しい笑みだった。
「だから、っていう訳でもないか。うーんと、そう! 約束しないか? 俺がこの戦いを終わらせる。代わりにもう少しだけ生きてみろ」
同時に、ハイトラが風月の横からチビの顔を覗き込む。勝ってなお命を奪わなかった風月にハイトラはある程度の信頼を寄せていた。それが信頼につながった。
大した警戒をせず風月の横に立つその姿が風月を信頼させる要素の一つになったのだ。
「お前、立てたのか……」
チビ助と呼んでいた猫がゆっくりと立ち上がる。ふらつきかけたその体を風月とハイトラが支える。それから鍋に注がれた牛乳をおなかいっぱいになるまで呑み込んだのだった。
それからしばらくして獣人たちが手分けして蚤取りをしたり、体を洗ったりしていた。
この世界、猫もデカければノミもデカい。手の平に10匹も載せられないようなキングサイズのノミがかなりの数出てきた。噴口は待ち針のようなサイズでこれに刺されたら遺体では済まない。それを取り次第、火に突っ込んでいく姿はなんかもう見ていて気持ちのいい光景ではない。それもいろんな意味で。
風月はその場から離れるためにアリアを呼び出して族長に面会に行く。今回の調査報告を兼ねた情報収集のためだ。
「待っていましたよ」
「知ってる」
風月の言葉にわかりやすく、死開催変わらず瞳を閉じたまま驚く仕草をする族長。相変わらず鏡の向こうで木と一体化していて、口が動くたびにパキパキと音が鳴っている。
なぜかと聞かないあたり、その理由にも心当たりがあるのだろう。
「それで、クライシスはどうでしたか?」
「あれは思っているようなものじゃない。まったくの別物っていう結論に至った」
「別物……」
「そうだ。東の国、ケイドに表れているものじゃない。それはレルキュリアに確認まで取れている」
風月は詳細を説明する。ただ倒せばいい敵ではないこと。西に向かって進もうとしていること。頻度は減って規模が増大していること。他にも気づいたことはすべて話した。
「泥のようになって消えた……。もはや私たちの手に負える相手ではありませんね」
「これって使えねえか?」
「使う?」
族長の顔がこわばる。
「いがみ合っている二つの種族が手を取り合うために必要なのは融和じゃない、新しい敵だ。そいつが必要だって言ってんだよ」
「認められません。あなたのそれは悪魔の考えです。私たちは流れる血を減らしたいのです。それでは流れる場所が変わっただけではありませんか」
「減らしたいのならなおさらだ」
風月は断言する。
「戦いを止めたい第三勢力でどこまであれを止められる? ここにいた怪我人を見た。もうほとんど戦えないだろ。分水嶺はここだ」
「何の分水嶺だ」
アリアが風月の胸倉をつかみ上げる。
「貴様のその発想で何人が死ぬと思っているんだ!?」
「同じ思想を持った仲間なら何人死んでもいい、お前らが黙って動いていることはそういうことだろ?」
「ふざけるな! 私たちはっ」
「同じだ」
息がかかるほどの距離でにらみ合う風月とアリア。
「違うところは俺のやり方には〝力〟がある。総出であのクライシスを止めろ。その間に根源を断つ」
「それができるなら苦労はしない!」
「王都からの救援、必要なら戦術のプロフェッショナルも用意できる」
そこまで言われてアリアも圧された。だが族長は毅然とした態度のままで口を開かない。代わりに声を上げたのは第三者。
「力はあっても確実性がないね」
「誰―――」振り返る風月はその違和感に言葉が紡げなくなった。「えぇ……」
そこに立っていた男はエルフでも獣人でもない。眼鏡をかけた不思議な雰囲気を持つ黒髪の男だ。問題はそこではない。和装を身に纏っていることだ。茜と同じ出身であることは何となく予想できた。
「質屋、か。この部屋に何をしに来たんだ?」
「外の魔獣を見て、ちょっと訳を聞きにね」
「……」
唯一声が出ない風月。言葉を失ったのは驚きとは全く異なる理由によるものだ。それをうまく言語化できない風月。明確な違和感を覚えつつもそれがどこに起因するものなのかわからないのだ。
「やあ、初めまして。僕は質屋。15年くらい前にここにきてから質屋をやっている者だ。よろしく」
「……」
「会議に水を差して嫌われてしまったかな?」
「質屋、少し出ていてくれ」
「悪いけど、それはできない。僕は族長に呼ばれてきている。ああ、外の魔獣が気になったのは本当だよ」
「ええ、ここにいて構いません。あなたには頼みたいことがあります。そのためにここでの会話は知っておいた方が良いでしょう」
この男が来てから会話の流れが変化した。殺伐とした雰囲気から少し柔和なものへと。
同時に風月はレルキュリアがいない場で報告をしたことを後悔した。目の前の得体のしれない男を風月は本気で警戒している。その理由が自分でもわからないからこそ、ずっと気を張っていた。
「それで、どうするんだい? 本当に手を取り合って仲良く外敵を倒そうなんてなるのかな?」
「一考の余地はあるかと」
「興味本位で聞いただけだから答えなくていいのに。僕はその辺りは関知しないからね。それで、それにかかわる僕への依頼って何かな?」
「アリア」
族長の言葉でアリアが取り出したのはスクロールだ。魔方陣用ではなく契約書に近い。それを見て質屋は顔色を変えた。
「本当に戦う気になったんだね?」
「アリアが決めたことです」
「それなら構わないよ。アリア、あとで僕のお店に来るように」
「よろしくお願いしますね」それと、と続ける。「情報収集が慕いそうなので、あとで獣人とエルフの村へ連れて行ってください。あなたがいれば比較的安全でしょうから」
「わかった、請け負おう」
「いや、行かない」
そんな言葉が出たのは風月自身も驚きだった。
「俺はハイトラの様子を見ながらレルキュリアの帰りを待つよ。そのあとでなら俺も行く。王都と連絡できるのはレルキュリアだけだから」
答えを先延ばしにした風月の手には、じっとりと嫌な汗がにじんでいた。




