夢見ること道化でいること
前世の記憶だった。
それは夢だった。
夢だと自認できるほど精彩な記憶だった。
前世の恋人である「田島優人」と出会ったのはルカが──「小宮瑠華」が24歳の時だった。その頃、瑠華は保険営業をしていて、優秀ともいえる成績を納めていた。時には成績表のグラフが天井まで伸びるほどの契約を勝ち取ることもできた。正反対に、新規加入の人数が少しでも少ないと、課長から激しく叱責され成績の悪さを同僚達の前で晒された。同僚の中には瑠華を良く思わない者を少なくはなかった。枕営業なんてしているんじゃないかと影で言われることもあった。けれどそんな悪評も瑠華は無視して、必死に、それこそ他の人の何倍も努力して顧客を勝ち取っていった。平日も仕事をし、取引先が土日休みでなければ、土日であっても出勤した。
別に適当に営業しても顧客を取ることもできた。けれど、瑠華はそんなことができなかった。成績が上がれば給与も上がる。給与が上がれば、この先自分一人でも生きていける。両親が他界して、親戚もいない瑠華は文字通り「独り」だった。
それでも生きなければならない。
天国へ逝った両親の分も生きていかないといけない。そんな義務感が瑠華の中にあった。
独りでもいきていける。
笑っていれば客は加入してくれる。
笑っていれば友人は安心してくれる。
何より笑っていれば自分自身が惨めではないと誤魔化せる。
けれど、優人と出会ってから瑠華の世界は大きく変わった。
優人は瑠華の営業先である百貨店の職員だった。
最初はただの顧客だった。そして優人もまた、瑠華の勧める保険に入ってくれた。
けれどいつからだろう。加入した後も優人とはよく話していた。優人は多忙な瑠華の身体を心配してくれた。そんなに頑張ったらいつか身体を壊してしまうなんて言って、パンやお菓子をこっそりくれた。顧客に厳しくあたられた時も、陰で慰めてくれた。仕事の悩みも真剣に耳を傾けてくれた。
そうしていく内に、瑠華は外でも優人と会うようになった。
優人といると、ちゃんと空気が吸えるような、そんな心地よさがあった。優人の笑う顔を見ていると、頑張ろうと思えるようになった。時に慰めて、憤って、落ち込んだ時は笑わせてくれる優人が、いつしか、好きになっていた。
そんな優人と結ばれたのは25歳のときだった、
幸せだった。
独りじゃないということが、こんなにも幸せだと知らなかった。
それから6年間弱、瑠華はずっと幸福に包まれていた。
けれどそれが次第に陰っていくのを感じた。
優人の帰りが遅くなるようになった。優人の視線が冷めたものを見るようになったことに気付いた。結婚という単語に対して避けるようになった。なにより、好きだ、という言葉がなくなった。それでも瑠華は信じた。優人と笑い合った日々を頼りに、仕事に没頭した。大丈夫だと自分に言い聞かせた。できる限り笑うようにして、できる限り好きな料理を作って、できる限り労って、忙しくても平気なふりをして心配させないようにした。
でもどんなに瑠華が努力しても少しずつ少しずつ、愛情が薄まっていくのを感じてしまった。
決定打は、優人が自分とは違う、綺麗な女性を二人きりで歩いていた所を見てしまったことだった。
瑠華は久しぶりに、その時優人が楽しそうに笑っているのを見た。
その眼差しはかつて自分に向けられていたものだった。
瑠華は分かっていた。けれど目を瞑って、その場から立ち去った。大丈夫。結婚しようと昔、約束してくれた。今、見たことは大したことじゃない。優人は自分を捨てたりはしない。6年間、優人を見てきたのだ。愛し合ってきたのだ。信じ合ってきたのだ。
だからこそ。
────別れよう。
優人から放たれた言葉は、瑠華の心臓を鋭く穿った。
瑠華は思った。優人はもう、自分が必要ではないのだ、と。目を背けていた事実に目の前が真っ暗になった。優人はその場から逃げるように立ち去った。厄介者から逃げ、愛する人の元へと急ぐように。
そんな、過去の夢だった。前世の記憶という、夢に過ぎなかった。
それなのにまだ引きずっているというのだろうか?
まだ、優人から切り出された別れが、瑠華を臆病にさせているのか。
瑠華は──ルカは、怖い。
大切な誰かから捨てられるのが、怖い。
怖いから、いつだって捨てられても平気なように、平気だと笑う。
「……最悪な夢」
ぽつりとルカは天井を見上げながら言う。
本当に、最悪だ。
マダムコルトンとの日々のレッスンは相変わらず厳しかったが、そのお陰でルカのグリナ語はマダムの合格ラインまでもう少しというところまでになっていた。また、夜の自習も功を奏したのだろう。たまに訪れるラゼルに分からないことを聞けば、ラゼルはルカが納得するまで丁寧に教えてくれた。
本当にラゼルは優しい。
仮の婚約者なのに、表情や口にはなかなか出さないが、いつだってルカのことを気にかけてくれている。中身はアラサーなのに、つい、その優しさに甘えてしまう。けれどその一方でいつも気になっていることがある。
時折、ラゼルは悲しそうな目をする。その理由を聞きたいとルカは思う。けれどラゼルにだって話したくないことはあるだろう。ルカだって、あるのだから。それでも知りたいと思うのは何故だろう。支えになりたいから? 好奇心から? ……自分に問いかけてみるが、ルカは答えに惑う。仮初めの婚約者にあれこれ詮索されたら不愉快だろう。だったら大人しくしておくべきだ。勿論、これからも仮とはいえ婚約者なのだから、精一杯ラゼルの為に努力はするが、深いところまでは探ってはいけない。
深い部分まで知ろうとして、この心地よい関係が壊れるのが嫌だった。
ラゼルといると安心する。たまに見せる微かな笑顔が嬉しい。ルカと呼ばれると心が弾む。
だからこそ、心奥を知られたくない。
嫌われたくない。
思わず溜息を吐くと、ピシン!と激しく床を鞭で打つ音が聞こえて背筋もピンと伸びる。恐る恐る視線を持ち上げると、マダムコルトンが鬼の形相でルカを見下ろしていた。
「ルカ様」
「は、はい」
「何を考えていたのかしら? 今はレッスン中ですよ。それより重要なことかしら? 是非聞かせて頂きたいわ」
ぞぞぞと怖気が背筋から這い上がる。何でもないです、と答えたら「くだらない事を考えていたのね?」と言われて更に課題が増すことは間違いない。マダムコルトンは嘘が嫌いだし、誤魔化すことも嫌いだし、はっきりしないことも嫌いだ。サッパリキッパリとした性格なのだ。
ルカは惑った。けれどこれは良いチャンスなのかもしれないと思い、正直に答えてみることにした。
「ラゼルのことを考えていました」
「あら、ラゼル様のことを? 一体どんなことかしら? もっと教えて頂戴」
そう言うマダムコルトンの目は猛禽類のそれで、確実に獲物を仕留める目をしていた。ここまで来たら「やっぱり何でもないです」は絶対にきかないだろう。しかしどう言うべきか。説明すべきことがうまくいかなくてルカは惑う。
するとマダムコルトンは盛大な溜息を吐き出して、それから煙草を咥えた。レッスン中は見たことのない姿にルカは目を丸くする。
マダムはふうと煙を吐き出すと、やれやれと言ったように口を開いた。
「ラゼル様は不器用で本当に鈍感だけど、あんたは逆なのね。どうして認めないのかしら」
「え……?」
「そういうことにラゼル様よりずっと賢いあんたは本当は分かっている筈よ。それとも認めないことで誰にも迷惑がかからないと思っているのかしら?」
心奥を射貫かれたようだった。マダムコルトンの持つ煙草からは煙が上がっていた。紫煙の向こうにあるものを、またルカは目を瞑ろうとしている。いや、すべきなのだ。そうやって押し黙るルカに、マダムコルトンは「仕方ないねぇ」と言うと煙草の煙を吐き出してもみ消した。
「ラゼル様にも言ったけれど、私は助言も答えも言わないよ。自分の心と向き合ってみなさい。今は絡まった糸でもひとつひとつ解せば何とかなるから」
そこまで言うとマダムコルトンは何もなかったかのように、さて、と手を叩いて声を上げる。
「今日はどれくらいグリナ語で私と話せるかテストします。最初は短文から、最終的には貴女がグリナ王国に関することを説明してみなさい。ただし説明といっても、目の前にはグリナ王国の王太子と王太子妃がいると意識して頂戴」
「分かりました。頑張ります!」
ルカは有り難いと思った。学んでいれば何かに思い悩むこともない。ルカは立ち上がると、ひとつひとつ、マダムが課した問題を答えていった。ついこの間までは絶対に修得なんてできないと思っていたが、今は読み書きもできるようになった。マダムコルトンは少しも厳しい表情を緩めることなく、グリナ語でルカと会話する。所々細かいミスを指摘されたが、訂正すればすぐに次の問題にいくことができた。
最後にグリナ語についての説明ということで、マダムはじっと黙ってルカを見ていた。ルカは自習で得た知識を取り出して、グリナ王国について答えた。
「グリナ王国はヒルトンウェイ半島にある王国です。ヒルトンウェイ海岸で取れるラズラ石が名産品となっております。ラズラ石は極めて稀少な石ですが、このグリナ王国が有するヒルトンウェイ海岸には多くのラズラ石が採取されています。ラズラ石は丸形の石で、中心部は透明なクリスタルで出来ており、そこから広がるようにアクアマリンが隔たりなく組み合わさっています。これはヒルトンウェイの海の純度が高く、また微量な魔力によって発生したミスラ現象が起こるからこそ自然と合わさるのです。ラズラ石は研磨しなくとも非常に美しい石で、装飾品として重宝されています。特に昨年取れたラズラ石はどれも質が良く、恵みの年と呼ばれていました。勿論、今年度のラズラ石も私も楽しみにしています。他にもグリナ王国は海鴨の料理が有名で、これも美味だと聞きます。是非、私も次にグリナ王国に訪問する時には口にしてみたいものです」
「……ふん……」
つい説明口調になってしまった。ルカは後悔する。これではマダムコルトンも柳眉を逆立てて怒鳴り散らすだろう。びくびくとルカが怯えていると、マダムコルトンはじっとルカを見詰めて、それから口を開いた。
「かなり説明口調というか説明でしかないけど、あんたがあんたなりに頑張ったのは分かったわ。ただ、これじゃ私は全く満足できないわ。そういう訳で0点……と言いたいところだけど……あんたがレッスンの後も必死こいて勉強してたのは知ってるわ。その努力を買って20点にしてあげる。ただし0点が20点になっただけだから。さぁこれからまたもっと自然な会話ができるようレッスンしましょう。いい? もう会談まで1週間しかないんだから、しっかり指導してあげるわ」
覚悟しなさい、と言うマダムコルトンの笑顔は悪魔そのものだった。
「あ~、つ、つかれた……」
グリナ王国に関する説明かつ自然な会話をビシバシ叩き込まれ、すっかりルカの脳内はグリナ王国に染まっていた。いい国だというのは分かったが、どうそれを良い印象で伝えるか、所謂、褒めるノウハウ……こんなこと、前世でもやっていた筈なのに、個人から国へと規模が大きくなると正直言ってルカの力なんて微々たるものだ。むしろ今までラゼルはよく一人で、若いのに外交なんてしてきたのか。そもそもやっぱり会談でもあの無愛想なのか。けれどあの無表情が爽やかな笑顔に変われるなんて思えない。つまり話術でこれまでかいくぐってきたのだろう。ラゼルは頭がとびきり良い。それに加え勉強熱心だ。ラゼルはラゼルなりに、外交について学んだのだろう。ルカは胸に抱えた資料や分厚い情報リストを手に、自分ももっと頑張らねばと思う。
だが、疲れたことはやはり誤魔化せなくて。
ルカは「あれ」が欲しくなる。けれどこの王宮で「あれ」が売っているのは何処だろう。やはり城下町まで下りないと手に入らないかと思っていると、前方から老紳士が歩いてきた。見たことがある。ルカは記憶を辿って、その老紳士がラゼルの執事であることの気付いた。確か名前はロイと言った。
あちらもルカに気付いたのだろう。優しげな面差しで「ルカ様」と声をかけてくる。
「マダムコルトンのレッスンは終わりですか」
「はい。今日は比較的早く終われました」
「それは良かった。ルカ様が成長している証拠ですね」
そう言われると照れるものがあって「そんなことないですよ」と笑う。ロイはじっとルカを見詰めて言った。
「ルカ様。お疲れでは?」
「え、ああ、まぁ疲れてはいます」
「何かご用意しましょうか? 私がご用意できる範囲のものでしたら仰って下さい」
そう言われると「あれ」が欲しくてたまらなくなる。でも仮であっても王子の婚約者がそんなものを求めて良いのか懊悩する。だがその悩みも欲求には打ち勝てず、ルカは欲しがっていた「あれ」がないかロイにこっそり尋ねてみる。
「あの~……婚約者としてどうかと思うですが…………煙草とかって、あります?」
まさかそんなものをルカが求めているとは思わなかったのだろう。ロイは目を点にする。けれどすぐ穏やかな顔に戻って、楽しげに頷く。
「ええ、ございますとも。ただ、ラゼル様が普段吸っている銘柄しかないのですが、それでも構いませんか?」
「ラゼルの好きな銘柄なら尚更知ってみたいです。是非お願いします!」
祈るように両手を合わせれば、ロイは「お任せ下さい」と笑ってラゼルの執務室へと向かった。
幸いというべきか。執務室にラゼルの姿はなく、ロイは戸棚から煙草とライターを取り出してルカに渡す。
「ラゼルがいないのに、持っていって大丈夫ですかね……?」
「大丈夫です。常に煙草は切らさないようにしておりますので」
「そうですか。ありがとうございます。助かりました」
「いえ、また必要とあればお声がけ下さい」
そう言うとロイとルカは執務室の前で別れた。ルカは心の中でガッツポーズをして、さてどこで吸おうかと王宮の中を歩き始める。流石に室内で吸うのは気が引ける。そうしている内に広々とした円形のバルコニーを見付け、ルカは扉を開きこっそりそこへと出る。何となく悪いことをしている気分になりつつも、見晴らしのいい場所まで出ると煙草を咥えて火をつけた。肺に取り込んだ煙をふうと吐き出す。ああ、これがいつもラゼルが吸っている味か。ミントのような香草がフィルターに使われているのだろう。好きな味だな、とラゼルのことがまた一つ、知ることができて嬉しくなる。
春の夜の下、さらりと伝わってくる風は気持ちの良い涼しさがあった。自然の香りがする。もう日は落ちてしまったが、城下町はまだ賑わっていてあたたかい灯りがぽつぽつと灯っている。空を見上げると小さな星が散らばっている。月は優しく輝いていた。
煙を吐き出す。本当に疲れた。でもこれでグリナ王国との会談はどうにかなりそうだ。それに安堵する。これもマダムコルトンとラゼルのお陰だ。マダムコルトンもこんな夜遅くまでレッスンしてくれたし、ラゼルは夜中図書室で会った時には分からない部分を教えてもらって、恵まれているなと感じる。もっと王宮内はギスギスしたものになると覚悟していたし、厄介者扱いされるかもしれいとも思っていた。けれど王宮の人はどんな人も「ルカ様」と言って優しくしてくれる。たかが伯爵の令嬢がと見下さず、婚約者──仮の婚約者だが──として見守ってくれている。
きっとラゼルがいるから、こんな王宮なのだろうとルカは思う。ラゼルは凄いひとだ。顔には出さないが心優しく、民のためならどこまでも頑張れるひとだ。
「……早く素敵な人と出会えると良いんだろうな」
ぽつりと呟く。その呟いた言葉に、虚しさを覚える。
勿論、早く愛する婚約者をラゼルの父親に会わせてあげたいという気持ちもある。
けれどもう一人の自分がささやく。
──嘘吐き、と。
ルカはその声を消すために、煙草を吸って、思考ごと霧散させる。
「何を馬鹿なことを考えているんだろうな……私は……」
マダムコルトンの言葉が脳裏に過る。
『認めないことで誰にも迷惑がかからないと思っているのかしら?』
それに対する答えが、出てこない。いや、出てきてはいけないと喉奧で押しとどめている。もう嫌だ。もう、嫌なのだ。あんな思いをするのは。
前世のことを思い出しそうにルカの心の内側で、じわりと涙のような悲しみが滲む。
駄目だ。
駄目だ。
笑っていよう。
楽しく明るいことだけを見ていこう。
ルカはそう思って煙草を再び唇に咥える。
「随分慣れた吸い方をするな」
「ぎゃっ!」
気配さえ感じなかった為に、酷い声を上げてしまう。
背後から来たラゼルは眉根を寄せる。
「何だ。人を悪魔でも見るような目で見て」
「いやだって、何の気配もなかったから……」
「考え事でもしていた所為だろう。それより、つい最近成人になったというのに吸い慣れた吸い方をするな」
「あ、ああ……そ、それは、その……別に悪いことはしてないよ? ちゃんと成人してから吸い始めたし」
それは事実だ。前世でも今世でもきちんと成人してから吸っている。
けれどラゼルはすっと赤い目と細めて見てくる。
「動揺するところが怪しい」
「動揺してない」
「今さっき激しく動揺していたように見えたが? ……まぁいい。どこで手に入れた」
「入手経路は言えません」
「俺と同じ銘柄だからロイか」
「……ハイ。あ、でもロイさんは悪くないからね。私が無理強いしただけだから」
「別に咎めるようなことじゃない」
そう言うとラゼルもまた煙草を吸い始めた。こうして煙草を吸っている姿さえ美しくて、やっぱり羨ましくなる。自分も美しかったら、愛する人の心を繋ぎ止め続けることができただろうか。朝見た夢が蘇って、煙草の味以外の苦みが広がっていく。けれどラゼルの前だ。何でもないふりをして煙草を吸い終えると、タイミングを見計らって「あのさ」と声をかける。
「何だ」
「これ、まだ作りかけだけど見てもらおうと思って」
そう言ってルカが渡したのは、アクアフィールにいる爵位持ちの令嬢のリストだった。1ページ毎に写真と合わせて名前や性格、趣味など調べたことを綴っておいた。ラゼルは無表情でそれを眺め、ぺらり、ぺらりと捲っていく。
「……これは何だ」
「ラゼルのお嫁さん候補リスト。空いた時間で少しずつ作ってるからまだ網羅してないけど、とりあえずできている分だけ。この中にラゼルが気に入る人がいるかもしれないと思ったから渡しておく」
ルカはそう言って笑う。それなりの厚みを持った情報集に対し、ラゼルの表情が変わることがない。仕方なくルカはラゼルの横に並び、オススメだと思った令嬢のページを捲って、指し示す。
「ほら、この人なんてどう? 侯爵家の令嬢で歳は20歳、エリアス・ドゥ・パガルトン。控えめで女性らしく、温厚な性格なんだって。使用人たちからにも慕われて、心優しい女性だと思われているらしいよ。趣味はガーデニングと読書。お花や本が好きみたい。長い金髪の髪は金糸みたいだし、瞳は落ち着いたフォレストグリーン。美人さんだし、どう?」
一生懸命説明したつもりなのだが、ラゼルからの反応はない。気にくわなかったのだろうか。ルカは急くように違う令嬢のページを捲ろうとするが、その手をラゼルが止める。見上げれば赤い瞳がじっと、こちらを見ていた。
「お前が俺の為に作ってくれた事に関しては感謝する。だが……悪いが必要ない」
「どうして? こんな、綺麗で教養もある人ばっかりなのに」
「俺は綺麗とは思わない」
きっぱりと言い切ったラゼルにルカは苦笑する。
「まぁそうだよね。ラゼルほど格好いい人に釣り合う女性なんて、なかなかいないだろうし。困ったな。もっと綺麗で優秀な人、探さないと」
そう言いながらルカは安堵し、同時に落胆もしていた。安堵した理由も落胆した理由も両方分かっている。もう目を瞑っていることなんてできなかった。だから、まだ遅くない内に令嬢リスト作って、ラゼルに渡したのだ。他の誰でもないルカが、早く終わらせたかった。そうでないとまた苦しむことになる。そんなのは、嫌だ。だからラゼルの隣に立つ女性を探す必要があった。急いでいた。
これ以上、長くラゼルと時間を共有したくなかった。
笑って終わりたい。
それがルカにとって最良の道だった。
「……ルカ」
不意に名前を呼ばれる。気付けばすぐ近くにラゼルがいた。
「──俺は、お前が綺麗だと思う」
「え……」
心臓が甘く、痛く跳ねる。ラゼルの瞳は真剣そのものだった。綺麗な瞳だった。それを好ましいと思う自分がいた。それでも、嫌だ、とルカは思って誤魔化し笑いを浮かべる。
「いやだなぁ、冗談はよしてよ。気を遣ってくれなくていいから」
「本気だ」
ラゼルの瞳がすっと、まるで愛おしいものを見るように細められる。
「ルカ。お前は綺麗だ」
嫌だ。
そんなことを、言わないで欲しい。
期待しそうになってしまう。
仮初めの婚約者。それがルカの立ち位置であって、それ以上の感情は持ってはいけない。持っても傷つくだけだ。嫌だ。怖い。自分の感情に嘘という面を貼り付けてきたというのに、それが壊れてしまう。
ルカはぐっと拳を握って、笑い飛ばす。
「ありがとう。そんなこと言ってくれるのラゼルくらいだよ。私、レッスンでちょっと疲れちゃったから、部屋に戻るね」
「待て、ルカ」
「ごめん。本当に、疲れているんだ。ラゼルも無理しないでね」
うまく笑えていただろうか。ルカはラゼルの言葉から逃げるようにしてバルコニーを出る。長い廊下を早足で歩きながら、どうして、とルカは思う。どうしてラゼルはあんなことを言ったのだろう。胸の鼓動が早い。息が乱れる。どうして、どうして、と頭の中で問いが巡る。
自室に辿り着くと、誰も入ってこれないように鍵をかけた。
まだ呼吸も乱れているし、心臓は早鐘を打っている。扉を背にしてルカはその場に座り込むと、くしゃりと髪を握った。分かっている。分かっていた。マダムコルトンに言われた言葉が再び、脳裏に過る。
『そういうことにラゼル様よりずっと賢いあんたは本当は分かっている筈よ。それとも認めないことで誰にも迷惑がかからないと思っているのかしら?」』
唇を噛み締め、ルカは震えだしそうになる身体を自らの手で抱きしめる。
そうだ。マダムの指摘はすべて当たっている。マダムは、ルカの心奥を見抜いていた。認めたくなかった。目を背け続けたかった。そのまま愛する人を見付けたラゼルと笑顔で別れて、ハッピーエンドを迎えるつもりだった。
それが、どうだ。
ルカは静かな部屋で自嘲する。嫌だった。駄目だと思った。怖かった。それなのに、ラゼルがあんなことを言うから、勘違いしてしまいそうになる。嬉しくてならないのに、その一方でその喜びも一時のもので、最後には虚しく消える。そんなの、前世で思い知ったことだ。
だから、
「……もう、誰も好きになりたくないのに……」
駄目だなぁ、と。ルカは誰もいない部屋で笑おうとする。けれど上手くいかなかった。
もっと、演じる必要がある。
もっと強固な嘘で自分の心を閉じ込める必要がある。
醜い女だというのは分かっている。愚かだと言うことも分かっている。けれどそうでもしないと、自分の心を守れない。弱い自分は、本当の感情を遠ざけることで、笑っていられる。そうでないと、自分を犠牲にできない。誰かを幸せにできない。大切な人の幸せを願うことのできない自分なんて──無価値な道化だ。
それなのに、ラゼルの言った言葉が耳に残って離れてくれない。
忘れよう。
全部、なかったことにしよう。
笑顔のハッピーエンド。
完璧で、素敵なラスト。
けれどそれを飾るのは自分ではない。
ラゼルと、ラゼルが心から愛する女性だ。
ルカは鏡の前に立って笑う。挫けそうなったときはいつだってこうする。鏡に映った自分の笑顔は完璧だった。大丈夫。明日からもまたちゃんと笑える。ちゃんと仮の婚約者として振る舞える。
これでいいんだ。
だって「ルカ」という人間はハッピーエンドの傍らで笑い、彼らを祝福できる正しい道化師なのだから。
長くなってすみません。ブクマ、評価ありがとうございます!正直読んでくれる方がいるんだなぁと思うと改めて嬉しくなります。次はおそらくラゼル視点です。