不明瞭な感情
疲れた、という言葉はラゼルの口から出ることはなかった。
それを口にすれば、一層この疲れが増すのは経験済みだ。
疲労が溜まっているのは確かだが、少し眠れば明日もどうにかなるだろう。やることは山ほどある。特に今は外交面だ。過去に起こったあの大戦から226年経過しても未だこの世界に戦争が起こっていないのは、各国が水面下で静かに牽制しあっている為だろう。
だが、気を抜くと各国の諜報員によって国の重要な情報が流出する可能性がある。もし弱みを握った大国が、弱みを握られた国と衝突することになれば、この世界のバランスは崩れることになる。そうなれば、このアクアフィール王国にも損害が出るかもしれない。
今の所、そういった動きを見せる国はないようだが、ラゼルはこの王国を守らねばならない存在だ。何か起こった場合、王子として最善を尽くさねばならない。だがその「最善」は果たして本当に「善きもの」なのかラゼルには分からない。兄を失った「あの時」のことはもう、繰り返すべきではないし、他国に知られる訳にはいかなかった。
執務室の椅子に腰掛けたまま、ラゼルは赤い双眸でじっと己の手を見る。
その手はまた冷たくなっていたが、あの時、ルカが握ってくれた体温がまだ残っている気がした。
──立場なんて関係ない。一人の人として、あなたの力になりたい。
ルカらしい台詞だと思い、小さくラゼルは笑う。だが同時に、やはり頭から離れない違和感が湧き上がる。
出会った時は強い女だと思った。亡くした兄のように太陽のように笑う女だと思った。その光が羨ましかった。けれど、ルカは果たして本当に、ラゼルが思うような人間なのだろうか。亡くした兄も今思えば光の後ろに暗い影があることを知った。それならばルカは? ラゼルは考える。ディナーの時に投げかけた問いに対して、ルカはやっぱり笑って何でもないと言った。ルカはあの時『ただ、暗い顔をしているより笑っている方が良いじゃん?』と言っていた。だが、本当にそうだろうか。
──違う。
直感的にラゼルはそう思った。ルカは、誰でも隠している事はある、と以前言っていた。それはルカ自身も隠し事があるということだ。
ルカは一体、何を隠しているのだろう。ラゼルはルカについて考える。何故だろう。ラゼルにはルカが、何かに怯えているように見えるのだ。それもルカの恐怖はそれこそ自分と同じように、実際に経験したような明確な恐怖のように思えた。
話して欲しい。
自分の力になりたいと言ってくれたルカにも、何かしてやりたい。
そう思うのは、それが仮初めの婚約者であっても「婚約者」として尽力してくれる為だからだろうか。
自問するが答えは返ってこない。
ラゼルは思考を切り上げるべく、椅子から立ち上がる。
やるべき事は今夜もまだある。それで気を紛らわせるしかない。
ラゼルは執務室を後にすると、まっすぐ図書室へと向かった。1ヶ月後にグリナ王国との会談、その2週間後にツヴィンガー王国の王太子が来る。グリナ王国との交流は良好と言えるので、問題はさしてないだろう。
問題はツヴィンガー王国だ。
他国から輸入しなくとも成立しているアクアフィールだが、豊潤な物資を有するツヴィンガー王国は輸出大国といえる。ツヴィンガー王国と輸出入で取引する国は少なくはない。そのためツヴィンガーが値を引き上げれば、取引先の国は困窮するだろう。つまり、ツヴィンガー王国に国の生命線を握られているといっても過言ではない。
どうしても立地や資源によって国力の善し悪しは決まってくる。グリナ王国もツヴィンガー王国と取引はしているが、今の所、両者の関係は均衡を保っている。だが災害や疫病によって資源が絶えた時、どうしても国の規模によって対処法が変わってくる。アクアフィールより小さなグリナ王国がもし今後、国として弱体化してしまえば、ツヴィンガー王国は必ずそこに付けこみグリナ王国の弱みを握り、不利な取引をするだろう。それをグリナと良好な我が国アクアフィールがどう出るか、今のうちに考えなければならない。
現在ツヴィンガー王国の第一王子セルヴィンナルグは野心家だと聞く。ならばグリナ王国だけでなく、このアクアフィール王国をも手の内にしたいと考えているかもしれない。それは絶対に避けるべきだ。だが仮に困窮したグリナに手を貸せば、ツヴィンガー王国も黙ってはいないだろう。
つまり、ツヴィンガー王国との会談は慎重にいかなければならない。
それにはこれまでのツヴィンガー王国の情報が必要だ。各国の──つまりツヴィンガー王国のこれまでの輸出入の割合、物資、取引した国とその国の財政をいちから見直さなければならない。ツヴィンガー王国のセルヴィンナルグ第一王子の政策も調べておく必要があるだろう。そこからセルヴィンナルグ第一王子がするのか、あらかじめ予測を立てておく必要もありそうだ。
次の会談の内容ではおそらくアクアフィールの財政状況を探ってくるだろう。
財政状況はアクアフィールとしては領域でもある。その為、アクアフィールは今の所うまくいっている、と。それだけ伝われば十分なのだ。詳細を話していけば、どんどん相手のペースに巻き込まれていく。むしろこちらから攻め入るのも悪くはない。対抗手段として、ツヴィンガー王国の弱みを探っていくことも大事だ。そうでないとツヴィンガー王国はより一層勢力を増すだろう。いずれ世界の均衡が崩れるほどに。
そんな考え事をしている内に、ラゼルは図書室に辿りつく。その重厚な扉を開くと、真っ暗な部屋にぽつりと一つランプが灯っていた。日付はもう変わったころだ。こんな時間に一体誰がと思っていると、扉の音に気付いたのだろう。真剣な顔で資料や本を広げていた人物が顔を上げる。
「……ルカ?」
「え、ラゼル? どうしたの、こんな時間に」
「それはこちらの台詞だ」
ラゼルはルカの元へと歩き近寄る。ルカの机には積み重なった紙、グリナ語のテキスト、それからグリナ王国の歴史に関する本が置いてあった。
「例の課題か?」
「マダムコルトンから出された課題はもう終わったよ。単に自習。私、出来が悪いから頑張らないといけないと思って」
「……何故そこまでする」
「だって仮であってもラゼルの婚約者だよ? しっかりしなきゃラゼルに悪いから」
困ったように眉尻を下げて笑うルカに、ラゼルは溜息を吐く。
本当に、どうしてここまでするのだろうか。いずれは婚約破棄されるかもしれないというのに、ルカはそんなこと気にした様子もないようだった。
「ラゼルはこんな遅くに図書室に来てどうしたの?」
「調べ物だ」
「成る程。じゃあラゼルの調べ物が終わるまで、私も頑張ろうかな」
本棚から分厚い資料や歴史書を取り出したラゼルは、ルカの対面に座る。
ルカは再びグリナ語に向き合い始めていた。その姿は真剣そのもので、随分と集中していた。昼間見せる笑顔とは全く違う姿。その姿を見ながらラゼルもまた資料に目を通していく。データは思っていたより多くてなかなか手こずりそうだった。
沈黙が流れる。時計の針の音と、ルカがグリナ語を綴る音だけが聞こえた。
どれくらい経っただろう。ラゼルが大方資料に目を通し、今度は歴史書に手を伸ばしたころだった。
ぴたりと、それまで止まらなかったペンの音が止まった。ラゼルが不思議に思ってルカのほうを見遣ると、眉根を寄せて何か考え込んでいる姿が見えた。そのペンは何かを書いては消して、ルカの視線はまた分厚いテキストと見比べる。
「どうした?」
声をかければ、はっと我に返ったようにルカが顔を上げて苦笑する。
「ちょっと分からないところがあって」
「文法か?」
「正解。ここ、他にグリナ語のテキストないかな」
そう言ってルカは立ち上がろうとする。ちらりとラゼルは時計を見る。いつの間にか針は午前一時過ぎを指していた。
「どこが分からない?」
「えっ」
「見せてみろ」
ラゼルの言葉にルカは申し訳なさそうにテキストを向けて、ここ、と指さした。
それを見てラゼルはルカにも見えるようにテキストを横にした。
「ここはグリナ語特有の文法だ。一見すると主語と述語が逆になっているように見えるが、これは疑問形ではなくこれ一つで副詞の役割を担っている。それから続く文章はお前がもう学んでいるようだが、母音が変則的に連なっている。変則的に連なっているこれは一つの単語だ。辞書を開いてみれば分かる」
「おお……なるほど……」
ランプの光できらきらとルカの瞳が輝く。緊迫していた表情も緩むのを見て、ラゼルもまた表情を緩める。テキストを見ていたルカの視線がこちらに向き、無邪気な笑顔を浮かべる。
「ラゼル、すごいね。ラゼルがいなかったら朝まで悩んでたよ。ありがとう」
「凄くはない。グリナ語は8歳の頃、修得していたから分からない所は聞け」
「8歳……」
どこか遠い目をするルカにラゼルは可笑しな女だなと思う。
「ラゼル。もしかしてグリナ語の他にも喋れるの?」
「まだ5ヶ国語だが、あとは遠方の国だけだから気が楽だ」
「5ヶ国語……」
またもやルカは遠い目をする。そんなにおかしい事だろうかとラゼルが思っていると、ルカは溜息をつく。
「ラゼルの頭の中がどうなっているか知りたいよ……」
「それは不可能だな。それより、さっき教えた部分の文章を読み上げてみろ」
「えっラゼルの前で?」
「当然だ。マダムコルトンよりは優しく採点してやる」
少し意地悪だったか。ラゼルはそう思ったが、生真面目にもルカはテキストを持って口を開いた。
「えーっと……『私のことを理解してくれて、こんなにも心を満たしてくれるのはあなただけです。あなたは誰よりも美しくて、気付けばこの思いは日に日に強くなっていきました。いつかあなたが私を見つめてくれた時、私はきっと世界で一番の幸せ者になるでしょう。愛しています。世界中の誰よりも、あなたのことを愛しています』」
しん、と静寂が訪れた。
ルカを見遣れば、その頬は紅潮し、戯曲のシーンのひとつに違いないのに、まるでその台詞がルカ自身から発せられたものかと思うくらいだった。同時に、読み上げられたラゼルもまた、ルカの言葉に胸の奧が震えるのを感じた。今、自分はどんな顔をしているだろう。それを見られなくて不自然に思われないよう、ラゼルは視線を逸らすと口を開いた。
「……よく読めていた。今の発音ならマダムコルトンでも認めるだろう」
そうラゼルが言えば、緊張した空気が漸くパチンと途切れたようにルカは焦ったように笑う。
「良かった! ラゼルの前だと何だかすごく緊張しちゃった」
「マダムコルトンよりか?」
「そうだね。だって……まるで今の、ラゼルに言ってるみたいじゃん? 恥ずかしいに決まっているよ」
「……そうか」
お互いに誤魔化すように視線を逸らす。
ラゼルは自分がこういう時、多弁であったら良かったと思う。心の中には沢山の言葉が詰まっているのに、それは最大限、削ぎ落とされた形でしか口から出てこない。だから今だって妙な空気を打開する言葉が見当たらないし、見付けられたとしても上手く口から出ることはない。寡黙だと周囲から言われたこともあるし、自認もしている。そでれでもラゼルは必死に頭を巡らせて、沈黙のあと口を開いた。
「お前にそんな風に言われる男は幸せ者だな」
「……そうかな? どうだろうね。私、別にいい女でも何でもないからなー」
一瞬の影を見せたあと、ルカはおどけるように苦笑する。
ラゼルはそんなルカへと言う。
「自分を卑下する必要は無い」
「ラゼル?」
「俺はお前の価値が、お前自身が思っているより高いと思っている」
そう言うのが今のラゼルの精一杯の言葉だった。もっとこの場に適した言葉がある気がしたが、やはりラゼルは分からなかった。それでもルカは、ラゼルのそんな不器用な言葉を心底嬉しそうに受け取る。
「ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
「世辞などではない」
「そう? それじゃあ有り難くその言葉、受け取るね」
ルカはそう言うと、再びグリナ語の学習へと戻っていった。どこかそれにほっとしている自分がいた。
ラゼルは貿易に関する資料に目を通しながら、重要箇所を書き留めていく。ページのめくれる音、書き物をする音、時計の針。それだけが響く室内で二人はそれぞれやるべきことに没頭していた。不思議なことにラゼルは、こういう時間をルカと共にするのも悪くないなと思った。まだルカはここに来て数日だというのに忙しない日々を送っていて、今だって難解な語学にしっかりと向き合っている。
逃げない。けれど何処か、逃げている。
心を開いていると思いきや、固く閉ざされた部分があって。──矛盾した女だとラゼルは思う。
けれど、悪くない。
むしろ好ましい。
ただこの「好ましい」の種類がラゼルには当てはめられない。価値観が合うから好ましいと思うのか、それとも大切なものの為に立ち向かう姿が好ましいと思うのか、それとも、と考えたところでペンが止まっている自分に気付く。考え事をしていても仕事はできる身体になってしまったからか、重要な部分は相変わらずきちんと記されたままなのだが、重要な仕事をしている最中に他のことに思いを馳せるなど王族として恥ずべきことだ。ラゼルは小さく息をつく。同時に対面からペンの音が消えていることに気付き見遣れば、ルカは今度はグリナ王国の関する本に目を通していた。どうやら語学は一段落したらしい。けれど何故グリナ王国について調べているのだろうと思っていると、視線に気付いたルカが顔を上げた。それを機にラゼルは尋ねる。
「何故それを読んでいる?」
「何でって……会談するんだもの。少しは相手の国のことを知っておかないと失礼でしょ?」
当たり前といったように言うルカに、ラゼルは内心驚く。正直言ってマダムコルトンには最低限のマナーを確認させ、同席してもらうだけで十分だったのだ。それなのに、ルカはマナーだけではなく難解なグリナ語を叩き込まれ、グリナ国との外交を考えて「婚約者」という役を本気で演じようとしている。マダムコルトンの必要以上過ぎるレッスンに加え、こうして語学をより一層学ぶだけでなく、外交が如何に重要か理解している。
学院を卒業し、成人した18歳とはいえ、ここまで尽くす精神がラゼルには理解できない。
自分のような王族の人間がここまでやるなら分かる。けれどルカは言い方は悪いが伯爵令嬢に過ぎない。そんなルカは、婚約破棄しても構わないと言って仮の婚約者でいてくれている。ラゼルが本当に、心から愛せる人ができるまで、と。それも何の対価なしに。
「……お前は、何か望むものはないのか?」
ラゼル自身も思いがけず放った問いだった。
ルカはラゼルの問いに目を見開く。そして沈黙のあと、口を開いた。
「ない、かな」
ぽつりと零れた言葉にラゼルは「何故」と問う。
問われたルカは、今度は迷いなく答えた。
「もう十分過ぎるくらい、私は幸せだから」
「本当か?」
「うん。今だって楽しく生きているよ。私は。マダムのレッスンはきついけど。この国は平和で、それはラゼルたちのお陰で、そういうことを知ることができてよかったなって思う」
穏やかにルカは言う。それに嘘はないのだろう。ただ、何にも対価を求めないルカが、ラゼルは納得がいかなかった。与えられたら与える。それが割合、普通のことだ。それを求めないというのは神に仕える者のように敬虔な聖職者か、それとも馬鹿がつくほどのお人好しだ。
「ラゼル?」
名前を呼ばれて思考が引き戻される。視線を上げると心配そうにこちらを見るルカと目が合った。兄と同じ、蒼い瞳で。
「大丈夫? ちょっと休んだほうがいいんんじゃない?」
「……問題ない。ただ少し、外の空気を吸ってくる」
「うんうん。気分転換しておいで。私はまだここにいるから」
そう言って笑顔でルカに送り出され、ラゼルは胸の中にある不明瞭な感情に眉根を寄せる。
出会った時から、気に入った、とは思った。
価値観が似ていることや、大切な守ろうとする姿が、失った兄のように眩しく見えた。
実際、ルカはよく働き、よく笑い、よき人間であろうとする。
けれど、とラゼルの心に引っかかるものがある。
それがルカという人間に対してなのか、ラゼル自身の胸にある得体の知れない感情なのか、どちらのかは分からない。もしかしたら、どちらもかもしれない。
ラゼルは広々としたバルコニーへと出ると、清涼な空気が優しく吹き込んできた。そこには先客がいて、振り向くと「おや」と煙草を手に笑う。マダムコルトンだった。ラゼルはシガレットケースから煙草を取り出すと、魔術で火をおこして灯した。それを見ていたマダムコルトンが笑う。
「魔術ってもんは便利だねぇ。重荷でもあるけど」
「……そうだな」
見透かしたマダムコルトンの言葉にラゼルは頷く。マダムコルトンも「あのこと」を知る者の一人だった。涼やかな風が紫煙をさらっていく。先に口を開いたのはラゼルだった。
「ルカにあんなに厳しいレッスンをしたのは何故だ? 本来ならグリナ語を学ぶこともダンスレッスンも必要なかった筈だ」
「そんなの簡単さ」
マダムコルトンは煙を吐き出して答えた。
「これくらいで音を上げるようじゃ、仮であってもラゼル様の婚約者には相応しくないと思っただけさ」
「……仮だとは知っていたのか」
「何となくね。女の勘ってやつよ」
くつくつとマダムコルトンは笑うと、でも、と言葉を続けた。
「あの子は違うよ。これまで来た子とは全然違う。目が違うのさ。まだ18歳だって言うのに、あの目は色んなものを見てきた。そういう目をしているよ」
「目……」
「ああ、鈍い王子様には分からないだろうね。でもあの子は、おそらくだけど他人が幸せなら自分が犠牲になってでも幸せだという子だよ。それはいつだって切り捨てられる覚悟があるから思えることさ。どうしてそうなったのかは分からないけどね」
そこまで言うとマダムコルトンは口に煙草を加えて、それから吐き出した。ラゼルもまた紫煙をくゆらせながら考える。婚約破棄。切り捨てること。それでもラゼルが幸せな結婚ができるなら、自分は構わないとルカは言うだろう。幸福とさえ言うかもしれない。
「マダム」
「なんだい?」
「俺は……どうしたらいいか分からない」
「へぇ、それはどういうこと?」
「……ルカのことを知りたいと思う。だが、踏み込めばルカを傷つける気がする。……だから、分からないんだ」
どうしていいか分からない。ラゼルは立ち上っていく煙を見詰める。空には星が煌めいていた。
マダムコルトンはラゼルの言葉を受けて、ふうと煙を吐き出すと、言った。
「それじゃあ知りたいって思う感情から目を逸らせばいいじゃないか。知りたいくらいの感情だったら、目を逸らすなんて簡単だろう? 一時の感情に過ぎないんだから」
その言葉に、ラゼルは言葉を失った。
マダムの言っていることは正しい。知りたいなんて、確かにただの好奇心に過ぎない。
過ぎないのに────
「……マダム、それは無理だ」
「どうして?」
「分からない」
「全くあんたは『分からない』ばっかしだねぇ」
呆れたように灰をトントンと落としてマダムコルトンは言う。
「なら分かるまで頭働かせることだね。言っておくけど、私は何もしないよ。助言も答えも与えやしない。それはラゼル様、あんたが考えることだ」
そう言うとマダムコルトンは立ち去った。
マダムコルトンがいなくなったバルコニーで、ラゼルは目を瞑り肺に溜まった重い空気を吐き出す。それを澄んだ夜気が消してくれたような気がして、ラゼルは少しだけ冷静さを取り戻した。マダムの言った言葉のひとつひとつが、今のラゼルにはやはり理解できなかった。
──どうしたら分かるのだろう。
ラゼルは短くなった煙草の吸い殻ごと低級魔術で燃やし尽くして処分する。
図書室に戻ると、完全にルカは机に突っ伏していた。どうやら待っている間に眠ってしまったらしい。ラゼルは冷えないよう、その肩に上着を着せてやる、華奢な身体だ。ラゼルは再び仕事に戻ろうとする。けれど何故か、その場に立ってルカの安らかな寝顔を見遣ってしまう。手を伸ばして、するりとその髪から頬にかけて触れる。
「……綺麗だ」
ぽつりと勝手に口からそんな言葉が零れる。それはラゼルにとって衝撃的なことだった。
今までどんな美女たちにも出なかった言葉だった。
綺麗だ、なんて思った相手は一人もいなかった。
それなのに。
ルカは違う。
ルカは、きれいだ。その精神がうつくしい。その笑顔が愛らしい。その真剣な姿が魅力的だ。相反して見せる逞しさが面白い。ラゼル、と呼んでくれる声が心地よい。こうして眠る姿を見ると守ってやりたくなる。心からルカが幸せな姿を見たいと思う。
その一方で、泣きたい時は泣いて欲しいと思う。弱ったときは縋ってほしいと思う。頑なに隠そうとする秘密を、知りたいと思う。
そういった感情たちを、好奇という言葉で片付けて良いだろうか。
ラゼルの指がルカの額に触れる。そうだ、こうして触れると、心の奥があたたかくなるのだ。
ラゼルはそのままルカの額に唇を落とす。
──どうか、この少女が幸せになるように。
そう願う一方で、それじゃ満足できない自分がいた。
不意に、ルカの唇が小さく動いた。その声は震え、悲しみに溢れていた。
「優人……」
眠るルカの目尻から一筋、涙が零れる。
ラゼルの中で、ユウト、という名前が頭の中で反響する。
それは明らかに男の名前だった。
カッと心臓の奧に火が灯ったように、激しく脈打つ。自分の心音さえ聞こえそうなほどの感情に、ラゼルは戸惑う。感情に連動して体内の魔力が蠢くが、どうにかそれを抑える。ルカが涙するほどの相手。一体、誰なのか。同時に、ふつふつと湧き上がるこの感情は、何だ?
ルカが他の男の名前を愛おしげに呼ぶ。
──気に入らない。
それがどうしてか、ラゼルには堪らなく──嫌だと、そう思った。
ブクマ、評価ありがとうございます!活力になります。