地獄の花嫁修業
ラゼルに王宮のことを大体教えてもらった翌日。
カーテンの隙間から差し込朝の光にルカは目覚めた。
ランケ家よりも更に上質なベッドは広々としていている。二人眠っても余裕がたっぷりあるくらいだ。ルカの内側に、前世の両親の記憶がふわりと浮かんできた。前世のルカの家は、それほど裕福ではなくて、家だって狭いアパートの一室だった。自分の部屋なんてなくて寝るときは家族一緒に眠るくらいだった。けれどそれを嫌だと思うことはなかった。父と母がそばにいること、そのぬくもりが好きだった。
けれど今は違う。
ずっと前世よりも裕福過ぎる場所にいる。だから、疲れていたとのもあってぐっすり眠れるものだと思っていた。けれどまさか、父と母が亡くなる時のことや、恋人に別れを切り出された時のことばかり夢に現れてしまって、胸が苦しくて起きてしまった。
不意に、ぽたりと落ちるものがあって何かと思えば、それは涙で。笑ってしまった。
もう前世は過去のことで、今ルカはこの世界で生きている。だから前を向かなければならない。
明るく、楽しく、生きていかねばならない。
そうしないと後ろめたい気がしたのだ。いかにも幸せだと思うことで、前世の両親も今世の両親も──大切なひとを安心させたい。
ルカは広すぎるベッドから抜け出して、暗く傾きそうになった気持ちを晴らそうとカーテンを開く。眩しさに目を細める。そうだ。自分はあの太陽のような人間でなくてはならない。今日も気を引き締めていこう。そう思うのに昨晩、ラゼルと交わした言葉が忘れられない。
──何かお前は俺に隠していないか?
正直言って、ルカの隠し事なんて前世の記憶があるくらいのもので、ラゼルが気にするようなものでもない。何より、仮初めの婚約者が語るおとぎ話みたいな話なんて、誰が信じるだろう。精々、頭のおかしい女だと思われるだけだ。それなら言わなくていい。ラゼルに悪く思われるのは、正直、どうしてかショックだから。
コンコン、と扉のノックが聞こえてルカは「どうぞ」と言う。現れたのは王宮に入ってからルカについてくれている侍女のリューシカだった。リューシカもまたランケ家の侍女のアメリアと同じく、まだ年若い女だ。歳は24と聞いた。
「ルカ様。もう起きていらっしゃったのですね。すみません。遅くなってしまいました」
リューシカはそう言うと部屋のカーテンを全て開けた。部屋全体の輪郭がくっきりと分かるくらいに室内が明るくなる。朝はいい。暗い気持ちにならずに済む。今、自分が「ルカ・フォン・ランケ」として生きているのだと改めて実感する。そうだ。もう自分は前世の自分ではないのだ。
「んー、だって今日はいよいよ花嫁修業じゃん? 気合いを入れないと思って」
「ルカ様は本当に前向きで元気ですね。侍女として嬉しい限りです」
でも、とリューシカは誰もいないのに耳打ちするようにこそこそ話す。
「今日いらっしゃるルカ様専属の講師のコルトン様は、その、かなり厳しい方で……」
「ああ、心配してくれているの? ありがとう。でも大丈夫だよ」
なにせ前世では鬼のような女課長がいたのだ。あれを思い出すと今だって身震いする。
そんな経験をしたルカだ。
怖いものなどない。と思い込むことにした。
それが甘かったと知る。
ルカは、数時間前の、余裕たっぷりの自分を呪った。
ルカについた齢四十ほどの美貌の女講師──マダムコルトンは、控えめに言ってもかなりのスパルタだった。
舞踏会での振る舞い、気品ある喋り方、爵位を持つ名家一覧の名前及び爵位の暗記、あらゆるマナーを二時間弱に凝縮されて叩き込まれ、休む間もなく今度は舞踏会でのダンスを何度も何度もマダムコルトンが納得いくまで踊らされ、少しでも間違いがあろうものならばピシンと鞭が地面を叩き、その音とマダムコルトンの視線に怯えながらダンスを続け、そろそろ足が悲鳴を上げ始めたところで小休憩が入るかと思いきや、
「今度は座学に入りますよ」
と言われルカは席につき、机に膨大な本を積み上げられた。
漸くダンス地獄から解放された。そうルカがほっとするのも束の間のことで。今度は脳を使うことになる。だがダンス地獄よりはマシだ。良くなったとはいえ、靴擦れがまた再発していたからだ。正直、結構痛い。
けれどマダムコルトンはそんなことを無視して、ルカへと問う。
「それでは初歩のところから説明してもらいましょう。セレン鉱石について分かる範囲でお答えなさい」
「はい。セレン鉱石は」
「答える時は立つ!」
「は、はいッ!」
厳しい声に反射的に立ち上がる。正直、心臓がもたない。
この人、目だけで人を殺せるんじゃないか? そう思うほどマダムコルトンは刺すような視線でルカを見ていた。
冷静になろう。そうでないと声が震え出しそうだ。ルカは「冷静に、冷静に」と自分に言い聞かせて、口を開いた。
「セレン鉱石は各国が所有する非常に貴重な鉱石です。セレン鉱石から流れるセレンという聖脈によって、私たちは電気やガスといったエネルギーを得ています。セレンが無ければ国を動かすエネルギーが全てシャットダウンされる為、セレン鉱石は各国の命と言っても過言ではありません。我が国アクアフィールのセレン鉱石は海のようなマリンブルーをしており、大きさは他国と同じ10メートル、フィートで換算すると32フィートほどのものとなっております。セレン鉱石の色は各国の特徴に応じて異なっており、アクアフィール王国では神世紀時代に水の神が深く関わっている為マリンブルーをしていると言われています。神世紀時代に各神が唯一従える聖者にセレン鉱石の種子を与え、また神がその種子に相応しい地を選び、セレン鉱石を着床したという伝説が聖典に刻まれています。そして前述したように、セレン鉱石は国を動かすほどのエネルギーを持っている為、魔力を持つ王遺族以外、触れることはできません」
「王族以外の者が触れてはいけない理由は?」
マダムコルトンの問いに、ルカは臆することなく答える。
「神の血を与えられ、受け継がれていると言われている王族以外の者が触れれば、その強大なエネルギーに耐えきれず一瞬で死に至る為です」
そこまでルカが言うとマダムコルトンはある程度納得したのか、「お座りなさい」と言う。
第一関門突破と思ってると息を吐く間もなく、再びマダムコルトンの問いが矢のように飛んでくる。
「では王族が扱うことのできる魔術の類いは?」
怒声を浴びられるより先に再びルカは背筋を伸ばして立ち上がる。なんだこれは。屈伸運動か?
それでもここは一種の戦場。マダムコルトンに従うしかない。
「治癒の術以外ならば全ての魔術を扱うことができます。ただし全てと言っても、個々の王族の魔力は異なっております。例えば第一王子の魔力が潤沢であっても、第二王子は歴代の王族の平均程度の魔力しか持たないということもあります。この差異については現在も研究中で明らかになっていません。また魔術の中には低級、中級、上級、そして禁忌の術といったように力の順があります。上級の上である禁忌の術は、王国一つ壊滅するほどの力を秘めていると言われていますが、それほどの魔術を扱える魔力を持つ者はこれまでの歴史を遡っても二人しかいません」
「その二人の名前は?」
「ラクシューア王国の第一王子リゼルット様と、キリ王国の第二王子ノートン様の二人です。ただしラクシューア王国とキリ王国は両者間の戦争によって滅び、また両王子も互いの禁忌の術によって亡くなっています。今から226年前に勃発した、ラフラフニの戦いでのことです。つまり、この226年の間、禁忌の術が扱えるほどの魔力を持つ王族はいないとされています」
「されている、というのは?」
「公にする必要がないからです。いいえ、言い方を改めるならば『それほどの力を持っている』という事を隠しておきたい為です。今、世界は均衡を保っていますが、それは国同士がどれほどの魔力を持っているか分からずにいるからです。考えたくはありませんが、仮に魔力をそれほど持たない国があるという事実が露呈すれば、その魔力を凌ぐ魔力を持った国が、国力と領地を更に広める為に戦争を仕掛ける可能性があります。それを避ける為に、言い方は悪いですが世界は表面上平和であるとしているのでしょう。どの国もお互いの切り札や弱点を見せたくないのです」
「……………………」
言い切ってやったぞとルカが内心ガッツポーズをしていると、じっと穴が空くほどマダムコルトンがこちらを見ているのに気付いた。しかも重圧感たっぷりの沈黙を添えて。
あれ、何か致命的なミスをしてしまっただろうか、と内心ルカが怯えまくっていると、追撃と言わんばかりに深々とマダムコルトンは息を吐き出した。それから僅かな沈黙が挟まれたあと、マダムコルトンが口を開く。
「貴女、ダンスもマナーも全くなってなかったのに、どうやら頭はそれなりに良いみたいね。ですが、表面上の平和なんて絶対に外では言ってはなりませんよ。確かに貴女が答えたことは正しい。誰もが誰も、手を取り合って笑って暮らせるなんてあり得ないもの。100人の人間がいたらその2割は善人、6割は普通の人間、残りの2割の人間は悪人と決まっているんですから。その残りのたった2割の悪人が人々を扇動して、諍いを起こす。……あの大戦からこの226年、戦争が起きていないのは奇跡と言ってもいいことだわ」
そう言うとマダムコルトンは窓の外に広がる、まるで平和の象徴のような青空を見詰めた。
確かにマダムの言う通りだ、とルカは思う。同時に自分と同じことをマダムが思っていたことを意外に思った。つい叱責されるものかと思ったが、この人は極めて冷静に世界を見ている。賢い人だ、とルカは思う。だが、
「お座りなさい、ルカ。これで入門は終わり。貴女は魔術や政治関連の事は大凡理解しているようですから、次は語学へ移ります」
「はい?」
腰を下ろした瞬間に言われた台詞に、聞き間違いかとルカは素っ頓狂な声を上げる。
瞬間、マダムコルトンの目尻がきゅっと上がって、悲鳴を上げそうになる。
「何をぼさっとしているの。さっさと語学の準備をしなさい。教科書は置いてあるでしょう?」
ルカは机の端に積み上げらた分厚い本の塔を見て、それからマダムコルトンを見た。
「まさかこれ全部……」
「当然よ。今日はまず、隣国のグリナ王国のグリナ語の基本から学んでいきます。勿論最終的には未来の王妃として恥ずかしくないよう完璧に修得してもらいます。さぁ早くグリナ語の教科書を取る!」
「承知しましたッ!」
慌てて本のタワーから一つの分厚い本を取り出して開く。
そして昏倒しそうになった。
1ページから並ぶ見慣れぬ文字の形。これは相当苦労するだろうなとルカは気が遠くなった。せめて学院時代に学んだ第二言語学──世界共有語であるセレンティス語だったら文字の形もアクアフィール語と似ていたし、活路が見いだせたというのに。
グリナ語のそれはルカの目から見ると最早文字というより何かの記号だった。前世で言うと象形文字に近いだろうか。
だが、仮にとはいえ今ルカはラゼルの婚約者なのだ。逃げる訳にはいかないし、逃げようとしてもマダムコルトンに首根っこを捕まれること間違いなしだ。
兎に角、頑張ろう。
そうルカが奮起していると、
「ああ、ちなみに一ヶ月後にグリナ王国の王太子妃がいらっしゃいます。ラゼル様と共に貴女もお会いすることになっているから、一ヶ月後にはある程度はマスターして頂きます。だからそうね……とりあえずはグリナ語の読み取り、正しい発音、基本的な作法と挨拶。それが最低ラインです」
そんな爆弾をしれっとマダムコルトンは落としてきた。
思わずルカは立ち上がって叫ぶ。
「1ッ月後ですか!? 1ッ月後までにこの絵文字みたいな言語を読んで話せるようになれと!?」
「大きな声を上げるのはおよしなさい! 淑女としての自覚はないのかしらッ!」
ピシンと鞭が地面を叩いて、ひっ、と小さく悲鳴をあげたあとルカはゆるゆると席に座り直した。
項垂れるそうになる。けれど、ここで心が折れたら駄目だ。昨日見た通り、ラゼルは若いのにあんなに頑張っているのだから。自分だって頑張らねば。ルカは背筋をピンと伸ばしてマダムコルトンに向き合った。その態度が意外だったのか。それとも気に入ったのか。マダムコルトンは微笑を浮かべて「それでは一文字一文字の読み方から始めましょう」とマダムの手の中にある、ルカと同じ教科書を開いた。
結論から言おう。
地獄だった。
英語でいうところの「A」の発音が少しでも濁ったり間違えば、鞭の脅しが飛んできてマダムコルトンが納得いくまで繰り返された。グリナ語の文字は55文字あるのだが、その55文字のたった1文字の発音すらマダムコルトンは間違いを許さなかった。
曰く、グリナ語は発音形式が独特で、少しでも発音を間違えると全く違う意味になってしまうからとのことだった、基本をしっかりしなければならないと言う。なるほど、それならば納得できるとルカは自分に言い聞かせ、ようやく55音の発音を終える頃には声がからからになっていた。流石に見かねたのだろう。マダムコルトンは室内に置いてある水差しから水を飲むよう勧める。このときのマダムコルトンがルカには天使のように優しく思えた。明らかに錯覚だった。ルカはふらふらと水差しから注いだ水を一気に飲み干した。ふう、と息を吐き出すと生きた心地がした。生きているって素晴らしいと思った。
だがそんなのは束の間の休息に過ぎなかった。
「さ、今度は基本的な挨拶から始めましょう。グリナ語は朝、昼、夕、夜と四つの時間帯に挨拶が区切られています。これはとても簡単です。今日中に覚えて二度と忘れないで下さい。二度とです。今日中に頭に刻み込んでください。では、朝の挨拶から。わたくしが読み上げますから、続けなさい」
今度こそ放心しそうになる心をどうにか引き留めて、マダムコルトンの言葉の後に続く。キッと鋭い刃のような視線が向けられる。あ、これは怒られるやつだとルカが思っていると案の定、鞭のようなコルトン女史のお叱りが飛んでくる。
「今の無様な発音はなんですか! そんな発音、猿だってできますよ!? もう一度繰り返しなさい!」
猿は果たしてこのような言語を習得できるのだろうか。
ルカの脳は殆ど機能していなかった。それでも口は懸命に、マダムコルトンがしたような正しい発音をしようと努める。だがその度に却下、却下、却下……が続き、なかなか合格の言葉が出てきてくれない。この頃になると脳が遂にバグを起こしたのか。ふつふつと、マダムコルトンへの憎しみのような感情が沸き立って、絶対に習得しやろうという気持ちになってきた。
殆ど自棄になって叫ぶように挨拶の言葉をルカが口にしては、却下と冷酷にマダムコルトンは突き返す。お互い睨み付けるようにしながら、その攻防が長々と続いたあと、ようやく朝の挨拶の合格が押された。朝をマスターしてしまえば、あとは同じような単語が並ぶのでルカもすらすらと呼び上げることができた。
超基本の挨拶が終わった。
英語で言うとハロー、日本語でいうとこんにちは、だ。
けれどこれだけでは到底、グリナ王国の王太子妃を迎えるには足りないだろう。絶望的に足りない。幸いと言うべきか発音はマダムコルトンに鞭打たれながらそれなりにマスターできたし、あとは文法と単語だ。前向きに言うと、そうだ。
だが前世の記憶がよぎる。果たして英語の文法と単語をたった一ヶ月でどれほど学んで吸収することができたか。それを鑑みるとやはり一ヶ月という期間はあまりにも短い。マダムコルトンの講義を受けながら、空いた時間はグリナ語の学習に充てなければならないとルカは頭を抱えそうになった。そうでないと間違いなくラゼルに恥をかかせてしまう。あの美貌の青年の表情が曇るのを想像して、ぶんぶんと内心頭を振る。駄目だ。頑張ろう。そうするしかない。
「さてと……今度は文法について学んでいきます。グリナ語の文法は独特な法則を持っているので覚悟なさい」
そう言うとマダムコルトンは魔女のように笑った。
ひくりとルカは笑みを歪める。だが、負けない。
「分かりました。よろしくお願いします!」
声を張ってマダムコルトンへと礼をすれば、マダムコルトンは初めて少し驚いたような表情を浮かべた。
それから、ふ、と笑って言う。魔女の笑顔とは少し違う、優しさを含んでいるような気がした。
「威勢がいいじゃない。それじゃあこの調子でグリナ語の授業を続けましょう。そして講義が終わった後は課題を出します。明日までにやってくるように」
そう言うとドスン、と紙束が横に置かれた。わけがわからない。といったようにルカがマダムコルトンを見上げると、にっこりとマダムは笑う。
「今日学んだグリナ語の単語、例文、文法問題すべてを書いていらっしゃい。明日きちんと書けているか、また読み上げられるかテストします」
「すべて………………?」
「当たり前でしょう? 未来の王妃ならば当然のこと。でもそうね、身体を壊されても困るから……三時になったら休憩を挟みましょう」
休憩という単語にルカは歓喜の声を上げそうになる。
それを押し殺して、ありがとうございます、とルカは頭を下げた。
さて、これから一体どんな試練が待ち受けているのだろう。間違いなくマダムコルトンの笑顔から見るに、発音の問題なんて入門の入門に過ぎなかったのだから、グリナ語恐るべし。前世の自分が2カ国語さえ怪しかったのに、まさか今世は3カ国語を習得するハメになるとは誰が予想しただろうか。
それからまた鋭いナイフのようなマダムコルトンの指導が続き、短いはずなのに地獄のように長いと思われたグリナ語初歩編は、予定通り三時になんとか終わった。へろへろになりながらルカは部屋から出て、その場にぶっ倒れそうになる。朝からぶっ通しで続いたレッスンがこんなに辛いとは想像もしなかった。
緊張が緩んだ為か、ルカは空腹を覚え王宮内にある食堂へと向かう。だがもう時刻は三時。食堂に料理があるはずがない。ルカは何か食べるものはないか……と彷徨っていると香ばしいパンの匂いが鼻を掠めた。その匂いを辿っていくと、王宮の端っこにある調理場へと辿り着いた。
腹が減った。
けれど調理場に立ち入っていいものか。
ルカは葛藤する。
けれどやはり空腹に抗えず、ええいままよ!、と扉に手をかけるとルカが開くより先に向こう側から扉が開いた。扉から現れたのはどうやらこの王宮の料理長だったらしく、ルカを見るなり「ルカ様!?」と大いに慌てた。一応、王宮ではルカはラゼルの婚約者になっているのだ。その婚約者が王宮の端にあたる調理場に来るとは露ほど思わなかったのだろう。ルカは「そんなにびっくりしないで!」と笑う。
「あの、迷惑と分かってきたんですけど、何か食べ物ありませんか?」
「食べ物ですか? すぐにご用意させましょう。食堂で少しお待ちください」
「いや、そういうのじゃなくていいの。パンとか。適当に食べられるものでいいんだ」
「パンだけ……ですか……?」
信じられないといったような料理長にルカは「うん」と頷く。
「できれば甘いやつがいいな。二つくらい。我が儘言うと甘すぎないやつだと有り難いけど、できそう?」
「勿論です! 少しお待ちを!」
はりきる料理長を尻目にルカは、あ、と声を上げて料理長の袖を引く。
「すみません、二つじゃなくて四つにしてもらっていいですか?」
「? はい、承知しました」
「ありがとう。それじゃあ此処で待っているね」
「いえ、ルカ様! どうぞ食堂でお待ちになってください。わたくしがお持ちしますから」
「そっか。申し訳ないけれど、お言葉に甘えちゃうかな。それじゃあよろしく」
ルカはそう言うと調理場を後にした。ひょこひょこと足の痛みを誤魔化すように歩く。
──靴擦れの次の日にダンスはきつかったなぁ。
思わずひとり苦笑してしまう。幸い薬草のお陰で傷は塞がり赤くなっている程度だ。もしラゼルが薬術室に連れていってくれなかったら、今日のダンスレッスンは流血沙汰間違いなしだっただろう。そう考えると改めてありがたいな、とルカは小さく笑う。
食堂はしんとしていた。高い窓からは光が差し込んでおり、食堂全体を柔らかに照らし出していた。今日なんか外に出たら気持ちがいいだろうな、なんてルカが思いながら椅子に腰掛けて鼻歌を歌っていると。
「何をしている」
「ぎゃっ!」
背後から何の気配もなく声がかけられ、思わず女子らしからぬ声をあげてしまう。
振り返ると案の定、そこには声の主であるラゼルが立っていた。心の底から「何でここにいるんだ」と言うような目をしている。
ルカは苦笑しながら答える。
「お昼まだ食べてなくてさ。マダムコルトンの予想だと十二時に休憩が入るはずが、三時まで延びちゃって……」
「……成る程な」
「ラゼルはちゃんとお昼食べた?」
「さっき軽くすませた。それよりお前、また足……」
じっと視線が足元まで下りて、ルカは慌てて隠す。
「いや! これはダンスレッスンのために仕方ないことだったんですよ! めちゃくちゃダンスしたんで!」
慌てて弁明しようとするあまり敬語になるルカに、ラゼルは少し考えるように黙考したあと目尻を押さえて口を開いた。
「……ああ、そうか。お前についているのはマダムコルトンだったな」
「そうそう。ラゼル、マダムと仲が良いの?」
「別にどちらでもない。ただマダムのレッスンは一日で逃げ出したくなるほど厳しいと聞く」
「あーうんうん、分かる。確かに厳しい。けど、理不尽じゃないから頑張れるよ」
「理不尽?」
不思議な顔をするラゼルに、ルカはこれまで──前世も今世も含め、嫌だった記憶を蘇らせながら言った。
「そうそう、世の中には訳の分からない理由や、身に覚えないことで一方的にあたってくる人がいるってこと。でもマダムのレッスンは私の為でしょう? 私が恥ずかしくない思いをしないように教育しようとしてくれているんだと思う。かなり、スパルタだけど」
「…………マダムコルトンについてそんなことを言ったのは、お前が初めてだ」
「そうかな? とりあえず人を第一印象で決めちゃ勿体ないじゃん。それだけ」
そう言うと丁度パンが焼き上がったのか料理長自らパンをバスケットに入れて持ってきた。
けれどラゼルと二人きりでいたことに何か勘違いしたのだろう。「し、失礼しました」と退きそうになる。
それをルカが慌てて「大丈夫だからパンを下さい」と制する。折角のごはん。それを失うなんて辛すぎる。
料理長はおぞずといった感じでバスケットをルカに渡すと、逃げるように帰っていった。
「……ラゼル、何かしたの?」
「あの料理長はいつもそうなんだ。腕は良いのに臆病でな。俺を見るといつも悪魔でも見たような顔をする」
「それはもしかして、ラゼルが常に無表情でごはんを食べるからでは……?」
「? 美味しいとは思っているぞ」
「自分が作ったものを無表情無言で食べられたら、気まずいよ……しかも相手が王族だったら特に……」
ルカがそう言えば、ルカは「そういうものなのか……」と何故か感慨に耽っているようだった。
けれどその感慨もすぐにルカの抱えるバスケットに目がいき、首を傾げる。こういう瞬間、ラゼルが男なのに可愛いとルカは思ってしまう。
そんなことをルカが考えているとは知らないラゼルは、「パン?」と疑問符を浮かべる。
「そう。遅くなったけど昼ご飯」
「……四つあるのは? お前が全部食べるのか?」
「食べられるけど違うよ。…………あ」
「どうした?」
「ねぇ、ラゼルは軽くお昼ご飯すませたって言ったじゃん?」
「ああ」
「うん。それじゃあ、はい」
ルカはひとつパンをラゼルに寄越す。ラゼルは何をしているだというような目でルカを見ていた。ルカは笑って答える。
「男の子なんだから、もっと食べないとと思って。それに折角会えたし、出来たてだからきっと美味しいよ?」
「……お前の分は?」
「ああ、大丈夫大丈夫。私の分はちゃんとあるからさ。……あ、やばい、もうこんな時間だ! ラゼル、ちゃんと食べてね!」
ルカはそう言うと慌てて食堂を後にした。
もう少し喋りたかったが、ラゼルだってやることは沢山あるのだろう。昨日ラゼルと一日ほとんど一緒だったからか、寂しさを覚えるが、それはすぐに「仮の婚約者」という自分の立ち位置が塗り潰す。寂しくなんてない。大丈夫。
レッスン室に戻るとマダムコルトンは窓を開け放って煙草を吹かしていた。ルカが戻ったことに気付くとすぐに煙草の火を消す。ほら、案外と優しい人だ。ルカは満面の笑顔を浮かべてマダムコルトンへと声をかける。
「戻りました!」
「……? まだ休憩時間は10分以上は残っていますよ?」
不思議そうにするマダムコルトンの前にルカは立つと、バスケットのパンを見せた。
「これ、はい! 食べてください! あ、でも一つは残してください。私のなんで」
そう言うとルカは焼いてもらったばかりのパンを二つ、マダムコルトンに手渡す。
勢いでつい受け取ったマダムコルトンは目を丸くしてルカを見ていた。
その視線が「どうして」と言っているのは明らかだった。ルカは少し困ったように視線を彷徨わせながら、言った。
「すみません。でもマダムもお腹がすいたかな……と思って。私がこんなにお腹が空いているんだもの。朝から今まで付き合ってくれているマダムだってお腹空いただろうし、疲れているだろうなーと思ったんです。あ、勿論いらなかったら私が全部食べます! 食べ物を粗末にするのは駄目ですから!」
思いつきでついつい行動してしまったが、迷惑だっただろうかとルカは慌てる。ぽかんとしてパンを受け取ったマダムコルトンは、くすり、と笑うとそのあと声を上げて笑った。心底可笑しいというように笑うマダムコルトンに、ルカは遂に怒りが振り切れて笑いに変わってしまったのかと危惧する。だがそれは杞憂だった。
「私の食事を気にするなんて、貴女、馬鹿ね。まさか私をパン二つなんかで取り入ろうとしているわけ?」
「取り入ろうとするくらいなら、マダムじゃない人をレッスンにつけてもらいますよ」
正直にルカは言う。けれど次にはへにゃりと情けない笑顔を浮かべる。
「パンを渡したのはお礼のつもりです。そもそも私は怠け者なので、マダムくらい厳しい人が丁度良いし、おなかすいて活力ないマダムなんて見たくないだけです。なんか今日ここまでやってきて思ったことですけど、マダムの指導は意地悪なんかじゃなく本当の教育なんだなって思って……あっ、パンが冷えます! 早く食べちゃいましょう!」
あわあわとパンにかじりつくルカを見て、マダムの表情が緩む。優しい顔だった。厳しいんじゃなく、もしかしたら単に不器用な人なのかもしれない。ルカがパンを咀嚼していると、マダムコルトンが不意に口を開く。
「貴女、パン一つじゃない」
「ああー……まぁ、気にしないでください! マダムも早く食べてください」
「駄目よ」
「え?」
「これは不公平だわ」
そう言うとマダムコルトンはパンを二つに分けて、その一つをルカに寄越した。
ルカは目をぱちくりさせながら、マダムコルトンと半分のパンとを見る。
「ええっと……食べていいんですか?」
「私が渡したものが食べれないと?」
「いえっ、食べます! 有り難くいただきます」
「よろしい」
そう言って二人、椅子に座りながら窓の外の青を見詰めながら、パンを食べる。
へへ、とルカは思わず笑ってしまう。訝しげにマダムコルトンの視線が向けられるのが分かった。
「何を笑っているの?」
「いえ、平和だなって思って。こんなふうに出来たてのパンを昔、お母さんが作ってくれたんですけど……不格好なパンになっちゃって。お父さんとひどい形だって笑って、お母さんはいじけて……でもあの味が忘れられないんですよね。あの日も青空だったなぁ」
そうルカは語って、はたと我に返る。また前世の「お父さん」と「お母さん」のことを思い出してしまった。慌ててルカは付け足す。
「でも今はちゃんと母もきちんとしたパンが焼けますし、父も母の焼くパンが街のベーカリーよりも美味しいって言います。本当に、父は母のこと大好きなんですよね」
「貴女……」
すっとマダムコルトンのグリーンの瞳が細められる。そこに何の感情がのっているのか。ルカには分からなかったが、次にマダムコルトンがどんなことを口にするのか身構えてしまう。けれど、
「……いいわ。そろそろ休憩時間も終わりですし、パンを食べたら支度をしましょう。夜までには基本的な文法、常用単語を覚えて模擬会話をしましょう。そうね、ディナーの時間に間に合うといいけれど……」
ちらりと時計を見る。明らかに時間が足りない。
振り返ったマダムコルトンはやはり悪魔の笑顔だった。パンを食べている時の姿とはまるで違っている。殺気さえ纏っているといっていい。その圧力を感じながらも、ルカは背筋を伸ばして、再び分厚いグリナ語の教科書を開いた。
さぁ、また地獄の始まりだ。
気を引き締めて、相変わらず複雑な絵文字みたいなグリナ語の文字を追う。
──今、ラゼルは何をしているのだろう。
昨日みたいに仕事に追われているのだろうか。
そんなふうに不意にラゼルの姿が頭に過った。そうしたら益々やる気が出てきた。なにせ自分が頑張ることでラゼルの負担が少しでも減るのだ。仮にとはいえ婚約者。だったら本気で演じなければならない──と考えて。
演じる、か…………。
何か胸の中で、小さなものがくしゃりと音を立てて潰れるのを感じる。
ルカはその正体を探そうとするが見つからない。見付けられなくてもいいのかもしれない。ラゼルとルカは元々そういう関係の婚約者だ。ルカはそう思い払って、グリナ語の問題へと気を逸らした。大丈夫。今はこれをやっていれば良いのだ。
それで全てうまくいく。
大丈夫。
大丈夫なんだ。
ブクマありがとうございます!活力になります!