たとえ大罪人と言われても
シン王国に辿り着くと、通されたのは玉座の間だった。
街を一望できるそこは豪華絢爛たる空間は、まさに東方の国、シン王国に相応しい朱と金で彩られた空間だった。床の上に一段上がった畳の上で、優雅に煙管を吹かしながら、シン王国の女王ユキヲはラゼルとルカを出迎えた。
両側に女官を従え、紅が引かれたその唇に弧を描いて、ユキヲは言う。
「歓迎するぞ、アクアフィールの王太子たち。此度は、先日の答えを持ってきてくれたのだな」
それに対し、ラゼルは何も答えなかった。
だがその無言を「了承」と捉えたのだろう。ユキヲはラゼルを見たあと、憐憫を込めてルカを見る。
「王太子妃。すまないな。貴殿の王太子を奪う形になった事を謝罪しよう。だが、これが我が国を守る為の唯一の方法なのだ。妾はこの国を、この国民を愛している。だからこそ、力が必要なのだ。圧倒的な力が」
そう言うとユキヲは意思の強い瞳で、ラゼルを見据えた。その顔には余裕があった。
「さて、念の為に訊いておこう。王太子よ。我が国と婚姻を結ぶ決意はできているな?」
ユキヲにとってそれはもう、確定した答えのようなものに過ぎなかった。
その言葉にラゼルは一歩、前に出て告げた。
「悪いが──断る」
予想外の言葉だったらしい。ユキヲは目を見開く。けれど諦めなどしないのだろう。持っていた煙管の灰を落として、歪に笑む。
「貴殿は己が何を言っているのか、分かっているのか?」
「ああ。私は……いや、俺は、お前が自分の国を守る為に冷徹になるように、俺もそうする覚悟をした」
「戦争を、起こすというのか? 優しい貴殿が望まぬ、血塗れの未来が訪れるぞ」
「いや、戦争など起こさせない」
ラゼルがルカの手をぎゅっと握った。微かに怯えそうになる気持ちを、ルカに守ってもらうように。
その心を読んだように、ルカは握り返してくる。大丈夫だ。ここには、ルカがいる。振り向くとルカも頷く。
ラゼルはルカから手を放す。
そしてラゼルは赤い瞳でユキヲを見据えると告げた。
「俺は、アクアフィールとルカを守る為に、優しさなど捨てる」
「……それはどういう意味だ」
「そのままの意味だ。俺は確かに、誰かを傷つけることを恐れていた。その罪を負うことが重いからこそ逃げた。かつて起こした魔術で、人を殺す罪が頭から離れずにいた。俺の優しさは、強さを持った優しさなどではない。ただ弱さから来る優しさに過ぎない」
だが、とラゼルは赤い瞳でユキヲを見て告げた。
「ルカが犠牲になるなら、俺は、俺が犠牲になる。決してお前と婚姻を結ばない。俺とルカは婚約破棄しない」
「……一体、何を考えている?」
全くラゼルが何を考えているのか分からないのだろう。ただ覚悟を決めた男を前に、そこで初めてユキヲが怯む。
ルカもまた、ユキヲを見据えていた。ルカもラゼルと同じように覚悟を決めていた。
だからこそ、ラゼルは言った。
「俺は今この場で、魔術を使う」
ユキヲの目が見開かれる。
ラゼルの言葉にユキヲは笑い飛ばすように言った。
「魔術を使うだと? 其方が人間に向かって攻撃するというのか?」
「ああ、そうだ」
「そんな事が本当に、できるというのか。どうせ脅しにしか過ぎぬのだろう」
「脅しではない」
そう告げたラゼルは冷酷な瞳をしていた。
「言ったように戦争などさせない。──俺が一瞬で、この国を消せばいいのだから」
あまりの言葉にユキヲは絶句する。それでもユキヲは負けまいとする。
「一瞬で消すなど、そんな事ができる筈がない。上級魔術でも、そんな」
「俺はできる。俺は……お前に隠していたことがある。お前が、俺に魔力がないと隠していたように」
一歩、また一歩とラゼルは足を進め、ユキヲの前に立つ。その赤い瞳は爛々と輝いていた。
「俺は──226年以来の、禁忌の術の使い手だ」
告げた瞬間、暴力的なまでの魔力が部屋に充満し、その反動で窓ガラスが一瞬で粉々になった。ユキヲは呆然としていた。やがて、ラゼルを怯えるような目で見上げ、震える唇で言った。
「貴殿が、ラフラフニの戦い以来の……だと……」
圧迫するように重い魔力の中で、ラゼルは「そうだ」と頷く。
「今や俺が魔術言語を口にするだけで、禁忌の術は発動するだろう。だが、コントロールができなくてな。もし使えば貴国だけでなく、大陸全体の国を消し去る可能性もある。どれほどのものか俺自身分かっていないからな」
だが、とラゼルは言う。
「俺も慈悲がある。全て消し去るのは憐れだ。だから、こちらはどうだ」
ラゼルの指が赤く灯り、鳴らす。そだけで、一瞬でシンの国が燃え始める。
紅蓮の炎に呑まれるように、あちこちで焼かれ始めた街を目にしたユキヲは驚愕に目を見開く。
「上級魔術をこんな一瞬で……」
信じられないというように言うユキヲに、ラゼルは冷ややかに答える。
「俺にとっては低級魔術みたいなものだ。上級魔術なんて低級と同じだ。ただ少し意識するだけで、こんなものなど容易く使える」
そう言うとラゼルはまだ燃えていない家屋へと炎を放った。住民たちは突然巻き起こった大火事に、恐怖と混乱に陥っていた。そんな地獄絵図と化した街を見下ろして、ラゼルは今思い出したというように声を上げる。
「ああ、そうだ。対象を選ぶこともできるぞ? 赤子か、恋人同士か、家庭か、男か女か……選べ。お前が選んだ者たちだけは炎に焼かれることのないよう生かそう。そうしたら数人は生き残るだろう」
微かに、残忍に笑うラゼルにユキヲは柳眉を逆立てて兵を呼んだ。
「──この男を捕らえろッ!」
ユキヲの叫びに、雄々しい多くの兵達が接近してくる。
「無駄だというのに……」
すっとラゼルが視線を向ける。それだけで兵達は皆、炎に焼かれ、もがき苦しみながら地面に転がる。ラゼルは冷酷にそれ見下ろすと、今度はユキヲの傍にいる女官二人へすっと、赤い瞳を向ける。ラゼルが次に何をするか分かったのだろう。庇うようにユキヲが立つ。
「やめろ!」
ユキヲが叫ぶ。
だが無慈悲にも火柱のように女官二人は燃え上がった。二人は燃え盛る炎の中で必死に助けを乞う。
熱い。
苦しい。
痛い。
助けて。
助けてください──ッ!
女官たちは絶命のような悲鳴を上げる。外では消火活動を行っているのか、人々が必死に「水を運べ! 火を消すんだ!」という声が聞こえてくる。
けれどラゼルはそんな街を見下ろして言う。
「愚かだな。魔術の炎だ。ただの水で消える訳がない」
「ッ……貴様!」
憎悪を込めてユキヲは睨み付けるが、ラゼルは全く気にせずに言う。
「何だ? これがお前の望む戦争だろう? 大切な国と国民が死んでいく。それが戦争だ」
爛々と光る赤い瞳を見て、小さくユキヲは悲鳴を上げる。化け物を見るような目をしていた。外では赤子の泣き声や恐怖に喚く声が聞こえてきていた。ラゼルは微かに笑う。
「さて。まだ街は完全には燃やし尽くしていないぞ? どうする? 禁忌の術で何も最初から無かったかのように全て消え去るか、このまま炎の中で何人か生き残すか……女王ユキヲ。選択しろ」
「そんな、こと……妾には……」
震える声で座り込むユキヲに、片膝をついてラゼルが言う。
「それなら選択肢を変えよう。選択肢は三つだ。俺の言うことを聞き、もう二度と刃向かわないと誓うか。若しくは、このまま焼き尽くされるか──それとも、最後まで抵抗して俺に消されるか。どれか選べ」
外では囂々と燃え盛る音が聞こえる。
どこかで家屋が崩れる音が聞こえた。ユキヲは髪を乱して、懇願するようにラゼルへと言った。
「すなぬ……っ! もう、民を殺さないでくれ! 頼む、貴国の属国となろうとも構わぬ。妾の首を差し出しても構わぬ。だから……っ!」
涙がユキヲの目から流れる。己のした事に対して、深い罪を感じているようだった。
ラゼルはもう一度、悠然とユキヲへと問う。
「それではお前の答えは俺の国に刃向かわない、ということでいいな?」
「何があろうと、二度と刃向かわぬ……ッ」
「本当に、約束できるか?」
「ああ、必ず……ッ! もう二度と貴国に手出しはせぬ! だから、もう、妾の国民を苦しめないでくれ!」
叫ぶような声に、ラゼルはふうと溜息を吐く。その赤い瞳には先程まであった冷徹さはない。
「……良かった。そちらを選んでくれて」
そう言って立ち上がると、ぱちんと指を鳴らした。
瞬間、あっという間に街から炎が消える。あれほどの炎に包まれていた筈なのに、街はどこも燃えていない。気絶して転がっていた女官や兵士たちも、何があったのかさっぱり分からないらしい。ユキヲだけが呆然として「一体何が……」と呟く。割れた筈のガラスも一瞬で元通りになっていた。
「幻影魔術だ。あの炎は幻覚に過ぎない」
「幻影魔術……こんな、大規模な……?」
ユキヲが信じられないといったようにラゼルを見上げる。
「大規模かどうかは知らんが、忘却魔術も重ねておいた。悪い記憶など残しておくべきものじゃないからな。だから国民全員が、気絶していたことに驚くぐらいだ。いずれにせよ皆、健康体だ。だが……本当に良かった。この魔術でも刃向かうようだったら、本当に禁忌の術を使わざるを得なかったからな」
溜息と共に吐き出したラゼルの言葉に、ユキヲは安堵から脱力する。ぺたりと座り込んだユキヲに、むごたらしい炎の記憶がない女官二人が心配したように駆け寄る。ユキヲはそんな二人を抱きしめ、大丈夫だ、と言う。
ラゼルはユキヲに向かって言う。
「今回は『穏便』に済ませたが、次にもし我が国に手出ししたら、今度は一瞬で消し去ってやる。跡形もなくな。そして、俺の魔力は他言無用だ。もし世界に露呈した瞬間、流出源はお前の国とみなし、これもまた消し去ることになるだろう。だが、我が国と『友好的』になってくれさえすれば、お互い助け合おう。そして万が一、『友好的』な貴国が危機に陥ったら、全力で手を貸してやる」
そう言い放ったラゼルの言葉に、がっくりとユキヲは頭を下げる。
「……貴殿の言葉、深く心に刻もう」
「お前の……いや、貴女の国に対する愛には、感服したからな。俺のアクアフィールに同じくらいに」
そう言うラゼルに、だが、とユキヲは声を上げる。
「……もし妾が抵抗し、禁忌の術を使っていたら、貴殿はどうするつもりだった? 貴殿はきっと、大罪人だと後ろ指を指される事になっただろうに。それに他国からも危機と判断され、兵が送り込まれる可能性だってあった。その危険性を考えてはいなかった筈だろう?」
ユキヲの言い分は尤もだった。けれどラゼルは迷い無く言う。
「俺は、俺の愛するものを守る。それだけだ。その為ならどんな魔術も惜しみなく使い、俺の幸福を阻むものを消し、罪を重ねよう。そう覚悟したんだ。だが……そんな大罪人になっても俺には、寄り添ってくれる人がいる」
ラゼルはルカの手を取って、お互い安堵したように微笑み合う。
「それが王太子妃だったということか……妾は最初から負け戦に臨んでいたのだな」
ふっとユキヲは切なげに笑う。そしてルカを見た。
「しかし貴殿は矢張り豪胆な女よな。王太子がこのような残虐非道ともいえる所業を行いかけながらも、よく傍で見守り続けることができたものだ。妾が思うに、知らなかったのだろう? 王太子が一体何をするのか。貴殿の表情で分かった」
ユキヲの問いにルカは穏やかに答える。
「何があっても信じるって約束しましたから」
「そだけか?」
「はい。ラゼルが大罪人になっても、私は隣にいるって決めたので」
そう答えると、高らかにユキヲは笑った。
心底、愉快だというように。
「まるでお伽噺のような話よな。愛情に負けるなど」
だが、とユキヲは寂しそうに笑う。
「互いに想い合う強さは、何事にも勝る……それを此度、痛感させられたわ」
その言葉にルカは少しの沈黙のあと、言う。
「……以前、言っていたじゃないですか。国民の為に尽くすことが王の務め。王にとって己の幸福など二の次だと。でも、私はやっぱり違うと思うんです。だって、あなたも人間じゃないですか。国民のため幸福を捨てる王は、あまりにも悲しい。あなたが国民を愛するように、国民もまた貴女を愛しているんです。誰だって愛する人には幸せになってほしい。たとえそれが王族であっても。互いに想い合う強さは何事にも勝る……そんな国に怖いものなんてありませんよ」
その言葉にユキヲは目を見開いた。
せれから目を伏せ、小さく笑う。
「そうか……そうだったな……妾もまた、人を愛するただの人の子だったな……」
忘れていたことを涙のように呟く。ルカはユキヲの手をそっと包み込む。
温もりを忘れ、たったひとりきりで守ってきた王に、ルカは言う。
「ひとつだけ、提案があります。ですがこれは、貴女の大切な国を守れるかもしれない『可能性』です。それは──……」
ルカの言葉を聞いたユキヲの顔が、次第に花が開くように綻んでいく。
ユキヲに語りかけるルカを見てラゼルは苦笑する。
本当に、どこまでもお人好しで、お節介だ。
けれど──そんなところも含めて、好きだ。
ラゼルは外を見る。
外には花の蕾ができている。ああ、アクアフィールでも、そろそろまた、春がやって来る。
ルカと出会った、春が。




