あなたの幸せの為というのなら
ねぇ、休憩がてら二人で街を歩こうか、と。
そう提案したのはルカだった。
「部屋にこもって考えているより、歩きながら考えたら良い案が見つかると思ってさ。どう?」
「……そうだな」
「よかった。それじゃあ行こうか。馬車も使わずにさ、気楽な服を着て」
そう言ってルカとラゼルは王宮の外に出て、中心街へと向かって歩き出す。街の中ではルカとラゼルに気付いた人々が、嬉々として挨拶してくる。ルカはそのひとりひとりに挨拶しながら「今日はお休みだからそっとしてね」と笑う。
二人はアイスを食べたり、本屋で話題作を物色したり、映画を見たりした。洋服店に通りかかったときは、ショーウィンドウに飾られたドレスをじっとラゼルが見ていた為、引っ張っていたけれど。放っておけばまた着せ替え人形になるに違いない。
だが、どれもルカにとっては平穏で、楽しいものだった。陽が傾き始めても街は賑わったままで、果物屋が新鮮なフルーツを売り、花屋は色取り取りの花を店先で売っていた。ラゼルはその風景を、物珍しく見る。それが可笑しくてルカは笑う。
「ラゼル。あなたが守っている国なのに、まるで観光に来たみたいな顔しているよ」
「……あまり実感がなくてな。だが……良い街だな」
嬉しそうに、微かに笑うラゼルの姿は、こうしてみると普通の人間だった。美しさも聡明さも備えているものの、王族という単語が抜け落ちれば、こんなに穏やかなのだと改めて知る。街を見るラゼルの目は愛しげだった。
不意に少女がルカにぶつかってくる。その手にあった風船が空へとのぼり、少女が悲痛な声を出す。けれどすぐにラゼルが魔術で拾い、少女へと手渡す。「ありがとうございます!」という少女は、相手がルカとラゼルに気付いたのだろう。「王太子様と王太子妃様だ!」と満面の笑みを浮かべた。
その純真無垢な子どもに向かって、ルカは訊く。
「ねぇ、この国に生まれて幸せ?」
少女は迷わず頷く。
「うん! それに、ルカ様もラゼル様も大好きだよ!」
そう言って少女は走り去っていった。ルカとラゼルが見えなくなる最後まで、少女は手を振っていた。
それからルカたちが街を歩くなり、色々な店で声をかけられた。
「あっルカ様! ラゼル様! どうです? うちのパンは国内一番ですぜ!」
「あはは、今はデート中なので今度行くね」
街の人は優しく二人に接してくれる。安らぎを与えてくれる。
不意に、あっとルカは思い出してラゼルの手を引いた。
「急にどうした?」
「行きたい場所! ほら、もう時間がない!」
ルカそう言うと街から少し外れた高台へと向かって走り出す。
草花が生えたそこからは空も海も見えて、丁度夕刻の今は赤い陽が落ちるころだった。海も深い青で、見たことのある風景にラゼルは息を吐く。ルカは死ぬ気で駆け抜けたのか。はぁはぁと肩で息をしていた。どうにか息を整えたルカは、顔を上げ、指を差す。
「間に合った! ラゼルの瞳と私の瞳が合わさっているところ!」
「……俺が空の赤、お前が海の青とか言っていたな」
二人でお忍びで出かけた祝霊祭。懐かしい想い出にラゼルは口を綻ばせる。
「きれいだねぇ。風も気持ちいい」
「そうだな」
本当に綺麗な夕焼けだった。水平線上に沈んでいく太陽を、ルカはラゼルより前に出て眺めていた。
「今日、こうして散歩して思ったことがあったんだ」
「なんだ?」
「この国が、とても好きだってこと。素敵だってこと。そしてそんな国をラゼルが守ってくれているってこと」
ルカは振り向かずに言った。その表情はラゼルから見えなかった。
ルカ、と一歩前に出ようとした。
「あのさ、ラゼル」
声は明るかった。
「実はね、一番良い方法があるんだ。誰も傷つかない方法」
穏やかな声だった。それが、ラゼルの心をざわつかせた
振り返ったルカは笑顔だった。それこそ、太陽のような笑顔で、言った。
「──婚約、破棄しよう?」
その時、ひときわ強い風が吹いた。
ラゼルは風を浴びながら言葉を失った。ルカは笑ったままだった。
「私一人、諦めちゃえば良い話じゃん。それだけでアクアフィールもシン国も救われる。こうやって平和なままでいられる。見てきたでしょう? 皆、この国で幸せそうに暮らしている。私はその幸福、壊したくないんだ」
ルカは水平線の彼方向こうを見ていた。見えない明日を見るように。
「嫌だ」
稚拙な言葉しか、ラゼからは出てこなかった。けれど本心だった。ルカは「困ったなぁ」と言う。
震えた声で、それでもルカは笑顔を浮かべたまま言う。
「私も、随分悩んで出した答えなんだよ? 私は、戦争なんて嫌だよ。理想論に過ぎないけど、皆が幸福であって欲しいから。戦争でグラムもリオンも、それからリリーも。死んじゃうなんて嫌だ。シンの王国の人々が死ぬのも嫌だ。何よりラゼル、あなたの心が死んでしまうのが、一番に嫌だ。誰よりも優しいあなたが傷つくところを見たくない。ラゼルがずっと抑えてきた魔術で人を殺すところなんて……見たく、ないんだよ」
ルカの心からの言葉が、伝わってくる。けれどラゼルは認めたくなかった。
「……ずっと傍にいると約束しただろう。俺は……お前じゃなきゃ駄目なんだと」
「ごめん。約束、破ることになちゃったみたい」
ルカは申し訳なさそうに笑う。こみ上げる涙という感情を必死に隠して。
「駄目だ、ルカ」
「でも、そうするしかないよ。本当は、ラゼルも分かっていたでしょう?」
「……違う。俺はそんなこと」
ない、とラゼルは言いたかった。けれど、答えに迷った。そんなラゼルの心を察しとったようにルカは優しく言う。
「ラゼル」
呼んだ声は、穏やかだった。
「良いんだよ。大丈夫。ラゼルならうまくやれるって、信じているから。穏やかな日常さえあれば、あなたは決して兵器になんてならない」
静寂が流れ、風がさわさわと草花を揺らす。夕日が消えていく。暗闇が空を覆い、満天の星空が現れる。綺麗、とルカは言う、その黒髪がさらりと風に揺れ、青い瞳は月明かりで柔らかく輝いていた。
ルカはその場に足を伸ばして座ると、見上げて一等輝く星を探しているようだった。ラゼルも隣に座る。こうして二人で星空を眺めていると、ぽつり、とラゼルが言葉を零す。
「……いっそのこと、王族であることを辞めるか」
「え……?」
思わずルカはラゼルを見た。ラゼルは星空を見上げたまま言う。
「言葉のままの意味だ。俺が王室から退いて、お前と何処かへ逃げるんだ」
「……アクアフィールのことはどうなるの?」
「グラムに任せればいい。あいつは優秀だし、信頼できるからな」
「でも、魔力がないと、知られてしまうよ?」
「……実は隠し子がいた、という設定にすればいい」
ぷは、とルカが吹きだして笑う。
「それ、すごい設定だなぁ」
「王太子、王太子妃共に逃避行、というのもセンセーショナルだがな」
「王室大混乱だね」
くすくすとルカは笑う。それじゃあ、とルカは言う。
「逃避行するなら私、シルヴァがいるフィルドント王国がいいな」
「……なぜお前はあいつのことをよく引き合いに出す」
「たった二回しか会ってないじゃん。フィルドント王国に行きたいのは、アクアフィールみたいに温暖で自然豊かだから」
「そこで俺とお前は平民になるわけか」
ラゼルがルカを見て微かに笑う。
「平民になった俺のことを、お前は愛せるか?」
「ラゼルが平民なんて予想もできないけれど……愛しているに決まっているじゃん」
互いに微笑み合う。手は自然と重なり合っていた。
「しかし……平民になったら何をすれば良いんだ?」
「ラゼルは頭が良いから、助成金借りて医療免許でも取れば? 沢山の人の命を救えるなんて素敵じゃない?」
「お前はどうするつもりだ?」
「ピアノの先生になるよ」
「適材適所だな」
「あはは、そうかも、しれないね……」
ルカの声が止まり、俯く。まるで夢の終わりみたいに。
「……無理、だよ」
ぽつりと、涙のようにルカは言う。
「そんなこと、できないよ……アクアフィールを捨てることなんて、できないよ。ラゼルの大切なものだから。守って、欲しいものだから」
「ルカ……」
ルカは顔を上げた。微笑みながら、切なげに涙を流していた。
「……ラゼル、最後にひとつだけ、お願いがあるの」
最後の、という言葉がラゼルの胸に刺さる。それでもラゼルは静かに頷く。
よかった、とルカは言ってそっとラゼルを抱きしめると、耳元で囁いた。
「あなたの体温を忘れられないように──深くこの身体に触れて欲しい。これが私の、最後のお願い」
壊れそうなくらい切ない言葉にラゼルは、泣き出したくなった。
そんな願いをするんじゃないと言いたかった。けれど、言えなかった。ルカが深くそれを望んでいたから。
「……分かった」
告げた言葉が正しかったのかは、分からなかった。
けれどラゼルはその手を取って行った。
身を清めバスローブ姿になった二人は、柔らかなベッドに寝そべって、お互い気恥ずかしそうに笑った。
「なんだか不思議な気分。ラゼルとこうしているって。緊張する」
「俺だって同じだ」
「確かにいつもより緊張しているように見える」
くすくすとルカは笑う。ルカからは百合のような清らかな香りがした。
「ねぇ」
「なんだ?」
「今まで、色んなことがあったね」
「……そうだな」
夢物語のようにルカは紡ぐ。
「ラゼルと出会ったことも、好きになったことも、愛し合ったことも……全部、夢みたいな日々だったな」
「正直言って、お前と本気で愛し合うなんて、予想もしていなかった」
「私だってそうだよ」
思い出していくと楽しいなぁ、とルカは無邪気に笑う。ルカの中で、過ごした王宮での日々。薬術部のみんな、明るいグラム、そしてアクアフィールの為に熱心に働くラゼルの姿が過っていく。お互いに、いつのまにか芽生えていた恋慕。すれ違いながらも結ばれた愛。
喧嘩して、心配して、泣いて、笑って。
幸せすぎる毎日を送ってきた。
ラゼル、とルカが呼んで身体を寄せ合う。お互いに肌をさらして、触れ合う。あつい。触れられるだけでこんなにあついのだから、どうなるのだろう。ルカが、こわい、と言う。ラゼルはその目尻にキスを落として、言う。
「……安心しろ。お前を傷つけたりはしない」
そう言ってついばむようなキスをする。額にも、頬にも、唇にもキスをし、首筋を舐め上げて吸い付く。ん、とルカが甘い声を上げる。ラゼルはルカに触れていた手を放して、尋ねかける。
「大丈夫か……? 無理なら、やめても」
「……違う」
ルカは泣きながら笑って、言った。
「もっと、二度と忘れないようにラゼルの痕を刻んでほしい……これが最初で、最後だから」
お願い、とルカは手を伸ばしてラゼルを抱きしめる。ラゼルは噛み付くようにルカの首筋に歯を立てる。ルカの身体の輪郭や肌の感触を決して忘れないように、何度も触れる。ルカ、と熱っぽくラゼルが息を吐き出す。愛する人がすぐそばにいる。あつい。とけそうだ。あいしている。
ラゼル、と熱に浮かされるように言う。その熱を持った滑らかな手が、頬を撫でる。愛おしげに。
「ラゼル……あいしている」
「俺も、愛している……、っ」
ぽたり、と涙がラゼルの瞳から落ちる。ルカはそんなラゼルを見てくすりと笑う。
「……泣いて、いいよ。私もきっと、泣いてしまうから」
「胸の奥が、痛いんだ……」
ぽた、ぽた、と落ちる涙。ルカはそっとラゼルを抱きしめて言う。
「奇遇だね……わたしも、すごく胸の奥が、いたいよ……」
涙を流し、お互いに胸の痛みを抱えながらキスをする。
唇が離れる。それでもその胸の痛みを埋めることができなくて、何度も口づけをしながらお互いに深く触れ合う。
──ああ、どこまでも、足りない。
それなのに時間がない。二人の心が、永遠の愛で満たされるまで。
朝焼けが今、こんなにも憎い。
けれど無常にも、時は過ぎていく。
二人の幸福が、奪われていく時間が。




