すべてが霧の中
アクアフィール王国の王子、ラゼル・アクアフィールは執務室で部下から提出された膨大な報告書を漸く全て見直し、息を吐いた。
時計を見ればとうに日付は変わっていていた。一休みと煙草を咥えて魔術で火を指先に灯す。じり、という音と共に煙草に火がついて煙が昇る。
──もうルカは寝たころだろうか。
ラゼルは煙草を吸いながらぼんやりと考える。きっと眠っているだろう。この広い王宮を丸一日連れ回していたのだから疲れるのも当然だ。
足首の傷もきっと痛かっただろうに少しも表情に出さず我慢して。それどころか明るく振る舞って、時には真剣な眼差しで、見学というより王宮内やその仕事を視察していた。それこそラゼルが不在の時に備えているかのように、分からないことは尋ねてはメモを取っていた。かと思えば、剣を持ちたいだの銃を撃ちたいだの、子どものようにきらきらした眼差しをラゼルに向けてくるのだ。
ルカは、不思議な女だ。
どこが不思議かと思えば、おおよそ全てだ。
女なのに大切なものを守るためなら何にも臆することもないような強さ。巫山戯ているかと思えば真剣な眼差しで周囲を観察する目。そして時折見せる大人びた──いや、ラゼルよりもずっと大人のような、そんな空気を纏う姿。まるで全くラゼルの知らない何かを秘めているような女だ。
それなのに少女のように無邪気に笑う姿は18歳のそれで──。
つまりは、大いに矛盾しているのだ。大人と子どもが入り交じったような二面性を持っていると言ってもいい。
「……ルカ・フォン・ランケ、か……」
ぽつりとその名前を口にする。
最初は単に、価値観が似ていると思ったから婚約者にしようと思った。大切なものを守る為なら自分を──と。その自己犠牲ともいえる精神が、気に入った、と言うべきなのか。それともラゼル自身もそういう精神を持っているから、同調し、受け入れやすさを持っているのか。ラゼルには分からない。ただ惹かれるものがあったのは確かだった。
だから、だろうか。
他の者より、気にかけてしまう。それこそルカに指摘されたように、「仮」の婚約者だというのにどうしても気になってしまうのだろうのだ。他の者と平等に扱えばいいというのに、今ラゼルがしていることはラゼルから見てもまさに「特別扱い」だった。
これまでこんなことなんて、なかった。分からない事ばかりが頭に巡って、ラゼルはその問いに対する答えが欲しいと思った。ルカのことも、自分自身のことも、知りたいと思った。他人のことをこんなにも深く考えるのも、自分自身を模索するのも初めてだった。一体、自分はルカ・フォン・ランケに対して何を求め、何を知りたいと思っているのだろう。それに自分も、ルカのことを──と考えたところで、前髪がさらりと目にかかる。そこで、不意に頭を撫でられたことを思い出す。それから、その時の笑顔も言葉も。
『よく頑張りました、ラゼルは本当に偉い! 明日もまた頑張ろーね!』
偉い、とか、頑張りました、だとか。
そんなこと他人に言われたこと無かったし、ラゼルにとって倒れた父の代わりに執政をとるのは当然のことだった。
だから頑張るも偉いも、無いのだ。やらねばならないことをやっているだけ。それだけだった。それなのにルカは、ラゼルをまるで王族ではなく、ただの一人の人間として見ているのだ。だからこそルカは素の姿で振る舞う。思ったことをありのまま口にし、行動する。まるでラゼルに、ラゼルがとうに忘れた「自由」を教えるみたいに。
ラゼルは撫でられた髪をさらりと指先で撫でる。あの時のルカの笑顔が、頭から離れない。それこそ太陽のような笑顔だった。
明るい笑顔と思って、ジクリ、とラゼルの心臓が痛む。過去にもルカみたいに明るく笑う人がいた。大切な人だった。
その人も幼いラゼルの頭をくしゃくしゃと撫でて、太陽のような笑顔で言っていた。
『よしよし、ラゼルは偉いな! この国の第二王子として立派だ!』
だが、そう言ってくれた人はもういない。
ラゼルは再び薄い唇に煙草を加え、火をおこす。昇る煙を見詰めながら、ラゼルは呟いた。
「……兄上……」
死んだ兄。このアクアフィールの第一王子だった人。
本来だったらこの国の王になる人だった。そしてこの国に相応しい王になる王子だった。少なくともラゼルはそう思っていたし、そんな兄をラゼルは誇りに思っていた。
けれど。
第一王子であるジュダ・アクアフィールは死んだ。
殺されたのだ。
それもジュダが愛した恋人に、殺された。
──脳裏にあの時の光景が過る。
ぎりとラゼルは奥歯を噛み締めた。吸ったばかりの煙草を乱暴に灰皿に押し潰す。
思い出してはいけない。思い出しては、いけない。けれどあの時の怒りがこみ上げてきてしまう。その感情の揺らぎによって魔力が体内を巡り始めるのを感じ、ラゼルは獣のように暴れはじめようとする魔力を抑えようとぐっと拳を握りしめた。
──あんなことは、もう二度と。
ラゼルは感情を落ち着けるべく、ゆっくりと呼吸を整える。昂ぶっていた感情が、体内で暴れかけた魔力を抑制し、緩やかに収まっていくのを感じて息を吐き出した。
あの事を思い出すのは久しぶりのことだった。勿論今だって忘れることができないし、あれの所為でラゼルは女に対して疑心を抱いていた。兄のジュダが亡くなってからずっと。あんなにも幸せだった兄の命を奪った女が、許せなかった。
けれど、あんな事があって、しかも今も女に疑心を持っていることは言っても「あの時の感情」をラゼルは無闇矢鱈に口にしたことはない。むしろ閉口し続けた。
何故なら亡くなった第一王子ジュダの代わりに、唯一の王子として生きていかねばならなかったからだ。王族とはそういうものだ。王族が弱みを見せれば、民は不安を覚える。だからこそ個人的な感情は殺し、この国の平和のために動かなければならない。自分はそういう「機構」なのだ。
それは、分かっている。
分かっていたはずだった。
そう、自分に言い聞かせていた。
けれどルカと出会って、少しずつ、少しずつ、何かが変わりつつあった。長年凍っていた何かの感情が溶け出していくような、そんな感覚があった。それにラゼルは危機感を覚えるのに、心地よさも感じていた。二律背反する気持ちを抱えている自分に気付き、ラゼルは溜息を吐き出した。疲労が溜まっているから、こんな無意味なことを考えてしまうのだろうか。確かにルカの言うとおり少しは眠るべきなのかもしれない。
けれど眠ることはラゼルにとって、地獄に近かった。いつだって眠ると酷い悪夢に苛まされ、飛び起きると身体が凍えるように冷たい汗をかいているのだ。
その悪夢は、いつだって「あの日」のことだ。
ジュダが死んだ日のこと。
あの時──自分は過ちを犯した。溢れ出す魔術をコントロールすることができず、抑えることができなかった。本来なら後悔なんてしなくていい筈なのに、「あのこと」はラゼルの胸の奥に重くひっかかって取れないでいる。もし兄上が生きていたら「あの時」自分がしたことに何と言っただろう、とラゼルは考える。同時に兄があの女を選んでいなかったら、この国はより幸福に満ちたものになったのだろうかとも考える。ラゼルがまだ幼い内に逝去した母クメンティールは、いつだってラゼルに言い聞かせいた。
『幸せになってちょうだいね。王族としても、一人の人間としても』
幼いラゼルはその時の母の言葉をうまく理解できていなかった。だが、今なら分かる。
母は「王」としても、ひとりの「人間」としても、ラゼルの幸福を願ったのだ。
だが母はまもなく病によって亡くなり、それに続くようにして兄が死に、今は父が死の淵にある。
だから分からない。
どうやって母の言う幸福になればいいのか、分からない。分からないし、無理なのかもしれない。
それどころかラゼルは自らの幸福など諦め始めていた。だから──自分が幸福というものを得られないというのなら──この国の民が幸福であればいい。それでいい。けれど、とラゼルは思う。ルカだったらきっと、そんなラゼルの諦観を許容するだろう。ルカは模索するはずだ。王族だからと言うだけで、自分の幸せを放棄するラゼルに対して「諦めないで」と言う。そういう女だ。
だが、そんなものは理想論に過ぎない。
何より、ラゼルは人を心から信じることが、できない。
できないと思っていた。この先ずっと。けれど────と。
ラゼルが思案に耽っていると、執務室の扉が、控えめにノックされた。
こんな時間に一体誰が、と思いラゼルは未だに扉の後ろに隠れる人物へと「誰だ」と声をかけた。
するとそこからおずおずと現れたのは、婚約者のルカだった。
ラゼルは思わぬ訪問者に微かに目を見開く。
「……起きていたのか?」
「いや、寝てたんだけど……なんか、起きちゃってさ。散歩していたら執務室から光が漏れてて、つい」
また仕事邪魔しちゃったね、と眉尻を下げてルカは申し訳なさそうに笑う。
ラゼルは首を振り、分厚い報告書をまとめて横によけた。
「いや、今終わったところだ」
「よかった。……眠くない? 疲れたでしょう?」
「大丈夫だ。少し寝る」
「……そっか。安心した。それじゃあ、おやすみ」
「待て」
部屋を立ち去ろうとするルカに、ラゼルは思わず声をかけて引き留める。
振り返ったルカは意外そうな表情をしていた。だがそれ以外に何か、違う感情があった。
何かおかしい、とラゼルは思った。
「お前は、眠らないのか?」
「……もう少し散歩したら寝るよ」
「その足で歩き回れても困る。……とりあえず座れ」
「……わかった」
ルカは昼間とは打って変わって、惑いながらラゼルの対面に座った。
やはり何かあったのか。ラゼルは眉根を寄せて問う。
「何があった?」
ラゼルの問いにルカは首を横に振る。微かに青ざめているように見えた。
それなのにルカは笑って、何か誤魔化すように言う。
「何もないよ。ただ少し、夢見が悪くて」
「言え」
「何を?」
「どんな夢を見たのか、だ」
そう問えばルカの顔から一瞬、笑顔が消える。
けれどすぐにそれは消えて、いつもの快活な笑顔を戻ってくる。
「大した夢じゃないよ。面白くもなんともない夢」
「大した夢じゃないと言うなら、そんな顔色にはならない。……言え。何を見た」
少し詰問するような形で問えば、ルカはおそらく初めて、ラゼルから視線を逸らした。
室内に冷たい静謐が落ちた。時計の針の音だけが響いていた。
ルカは、長い沈黙のあと口を開いた。
「……独りになる、夢」
そう言ったルカの視線はこちらに向いていなかった。
その両手はぎゅっと薄青いナイトウェアの布地を掴んでいた。
「母さんも父さんも死んで、愛した人も私を置き去りにして……お母さんの痩せ細った腕も、骨の浮いたお父さんの背も、痛々しいのに私は何も出来なくて……本当に幸せだったの。私もお父さんとお母さんみたいになりたかった。だから──……いや、ごめん。幼稚なことを言って。馬鹿な夢だって笑ってくれていいよ。大人だっていうのに、こんなふうに変な夢をたまに見て起きちゃうんだよね」
「笑うものか。それにお前の両親は健在だろう。心配する必要は無い。安心しろ。ただの夢だ」
「ははは……そう、だね……」
困ったようにルカは笑う。
けれどその笑顔の裏には、まるで本当に体験したことのあるような気配があった。
それこそ間近で、その光景を見てきたような。
「ルカ」
「何?」
「何かお前は俺に隠していないか?」
ラゼルは尋ねる。ルカが素直に答えると思って。
けれどルカが口にしたものはラゼルが予想していないものだった。
「……隠し事のひとつやふたつ、誰にだってあるよ。ラゼル、あなたもそうでしょう?」
それは静かな拒絶だった。
微かに笑ってはいるが、それは「それ以上立ち入らないで欲しい」というものだった。
まさかルカにそんなことを言われると思わなかったラゼルは、思わず閉口する。その内にルカは立ち上がり、いつも見せる明るい笑顔を浮かべた。
「ほら、ラゼル。そろそろ寝ないと。明日も早いんだからさ」
完璧な、太陽のような笑顔。だがその瞳には明らかな影が揺らいでいた。
その影の正体が知りたくてラゼルは「ルカ」と呼ぼうとするが、それをルカの微笑が拒む。拒みながらも受け入れる。矛盾した行為。
「もしラゼルも眠れない時は、いつだって私を頼ってね。ひとりで苦しむのは辛いからさ」
まただ。
また、どこかで経験したような口で言う。まるで過去に自分がそうして欲しかったかのように。出会ってから、ラゼルはルカのことをずっと今まで明るく強い女だと思っていた。
けれど今目の前にいるのはルカであって、ルカではなかった。
ルカは踵を返し「おやすみ」と言うと執務室の扉を閉めた。閉ざされて残った静寂に、ラゼルは背もたれに寄りかかって重く息を吐き出す。
独りになる夢か、とラゼルはぽつりと呟いた。だがランケ家の家族は、ルカを冷たくあたるような家庭には見えない。むしろ深くルカに愛情を注いでいたように思う。それに加え、まだ逝去するほどの年齢ではない。若々しいくらいだ。なのに、ルカは本当に大切な両親を失ったように言った。
そして愛する人が自分を置き去りにした、とも。
ルカの愛する人。愛した人、と呼ぶべきなのだろうか。ルカは成人したとはいえまだ18歳だ。そんな彼女があの深い海のような瞳で語った「愛した人」というのは一体誰のことだったのだろう。少なくとも、幼い児戯のような恋愛ではなかったのは確かだ。その「誰か」がラゼルの心に微かにだが、爪を立てる。
けれど何より一番にラゼルが衝撃が受けたのは、
──隠し事のひとつやふたつ、誰にだってあるよ。
というルカの言葉で。
確かにラゼルもルカに言っていないことはある。この先、言うかどうかも分からないことだってある。ルカだって同じだ。
けれど──何故、それが寂しい、などと思ってしまうのだろうか?
ラゼルは小さく自嘲する。自分はいつからこんなに愚かになったのだろう。たった二日ほどでなのに、ラゼルはルカは何だって包み隠さず言ってくれる女だと思っていた。何も臆さず自分を曝け出す、そんな陽気で強い女だと自分は勘違いしていたのだ。
だからこそ、あの深いブルーアイズに差し込んだ影が、一体何だったのか気になって仕方ない。もしかして自分が見てきたルカは、本当は全部偽りのものだったのだろうか。これまでラゼルが目にしてきた女達と同じように。
でも。
ルカは違うと。そう、自分は信じたいのかもしれない。
たった一日共にしただけで、人を信じてしまうなんて愚者に違いない。今までのラゼルだったら、そんな自分を笑い飛ばしただろう。それなのに、一体何が自分の中で起こっているのだろう。分からない。ただ、今夜見せたルカは、本当のルカの一面なのは確かだった。
──今夜、本当にルカは眠れるのだろうか。
自分と同じように悪夢に苛まされたりはしないだろうか。考えながら執務室の明かりを消すと、背後の窓から月光が差し込んだ。
背後を振り返ると暗い夜の中にぽっかりと、青白い満月が浮かんでいた。
耳を澄ませばかさかさと、木々の葉がこすれる音がする。静かな夜だった。静かすぎるくらい、冷たい色をした夜。
──どうか、彼女の眠りが安らかであるように。
ラゼルはそう願いながら、輝く月から目を背けると、執務室を後にした。
ブクマありがとうございます!またお読み下さってありがとうございました。