王子様のストーカー
あの事件のあと、安穏とした日々が迎えられると思った。
が。
異変は突然、起こった。
「……やっぱり、おかしいよなぁ」
薬術室内でルカは顎に手をやって難しい顔をする。
気付いた薬術部長のリオンが、紅茶を手に隣に座った。もちろんルカの分も机に置いて。
「おかしいって何がですか? ヨツツジの森でまた何か見付けたとか?」
「いや……そうじゃなく……ぶっちゃけ薬術とは全く関係ないことなんだよね……」
「それじゃあラゼル様のことですね」
「理解が早くて助かります」
「有り難きお言葉。それでどうしたんですか? 何がおかしいと?」
リオンが紅茶を口にして尋ねる。ルカは紅茶の水面を見詰めながら言った。
「なんか……見られている気がするんですよね。しかも滅茶苦茶、純度の高い悪意のある視線で……」
「悪意のある視線、ですか……?」
「今までこんなことなかったんだけどなぁ。あっても妬み程度だったんだけど……ここまで凄い悪意とは」
「妬みなんてあったんですね」
「そりゃあ伯爵家風情の娘が王子と婚約なんて、普通に考えたらあり得ないでしょ。しかも私、こんな性格だし。で、まぁそれは置いておいて……話を戻すんだけど、その悪意の視線の正体が最近分かった、というか」
そのルカの言葉が意外だったのだろう。リオンは「え?」と間の抜けた声を上げた。
「正体が分かるんですか?」
「うん……ほら、最近産休とかでメイドさんたちが入れ替わったりしたじゃん? その中でさー……いや気のせいだと思いたいんだけど、多分新人の、あの子だと思うんだよなぁ…………廊下ですれ違うと物凄い目で見たり、ラゼルと話していると廊下の角から特に凄い勢いで睨んでくるの」
「それ気のせいじゃないですよ」
「やっぱり?」
ははは、とお互い笑い合う。勿論洒落にならない。
「私何かしたかな。無意識に苛めたとか……?」
「いや、ルカ様……おそらくの話ですが……激しく嫉妬されているのでは? ラゼル様との関係で」
「嫉妬くらいされた事は何度もあるよ。刺すような視線もね」
「タフですね」
「そりゃどうも」
ははは、と再びお互い笑い合う。勿論これも洒落にならない。
「まぁ、陰口言われて凹んだこともあったけどさ、王宮の殆どの人たちが優しいし気にしなかったんだけど……」
「陰口言われてたんですか」
「うん。ブスとか淑女の恥とか色々言われてた。マジで反論の余地もなくて凹んだ。でも例の新人メイドの子はそれ以上の悪意を感じる……」
「うーん、ラゼル様はとてつもなく美形ですからね。あんな綺麗な顔の人間、そうそういないでしょう。無愛想でもファンが絶えないんですからねぇ。王宮の外でも、王宮の中でも。しかしとんでもない程に悪意に満ちた目で見るとは、狂気じみた恋ですねぇ……」
はぁ、とルカはティーカップを置く。ただの強い嫉妬で済めばいいのだが、どうにも嫌な予感がする。けれど悩んだところで解決しない。それより他の研究員が仕事をしているというのに、こんなふうにサボっているのは流石に気が引けて、ルカは白衣を脱いだ。
「おや、今日はもう例の鎮静剤について研究しないんですか?」
「うん……集中できないし。皆の邪魔になるのでまた今度来る。ろくに働かずに申し訳ない」
「普通殿下の婚約者は仕事なんかしないんですけどねぇ……ですが了解しました。悪意に満ちた視線の件、解決することをお祈りしておきます」
「ありがとう。それじゃあ」
薬術室を出てルカはふうと溜息を吐く。図書室に行っても気分がのらないだろうし、とりあえずシャツとスラックス姿から着替えよう。ルカはそう思って私室へと戻る。
クリーム色のカジュアルなドレスに着替えたルカは、さてどうしたものか、と悩む。いっそ街に出てみようかと思ったが、そんな気分にもなれないでいた。中庭でお茶でも、と考えた所で侍女のリューシカがノックと共に部屋に入ってくる。
「ルカ様。お手紙が届いております」
「手紙? 誰から?」
「それが……名前が書いていなくて」
しっかり黒い封蝋で止められたそれは、招待状のようなしっかりした内容のものに見えた。だが誰かに招待される覚えはないし、両親や友人とやりとりする時に使う封蝋の色の、どれとも違っていた。
不思議だなと思いながらリューシカからペーパーナイフで開くと、指先が切れた。
痛みに思わず手を引く。血がぽたぽた、と小さく滴る。
「ルカ様! 大丈夫ですか!?」
「うん、ちょっと指を切ったというか……これ何だろ……?」
拾い上げて見れば、どうやら手紙に仕込まれていた薄い刃は、ボックスカッターの破片のようだった。食料品を入れた箱の開封口を切るためのカッターだ。明らかに悪意しかない。
ルカは他に破片がないか確かめてからリューシカに止血してもらって、それから恐る恐る分厚い手紙を開いた。それを見たリューシカが小さな悲鳴を上げる。ルカはというと、もう恐怖を超えて笑うしかなかった。
手紙にびっしり書かれたいたのは、
「死ね」「死」「殺す」「ラゼル様に近寄るな」「ブス」「死ね」「ラゼル様は私の恋人」「近寄るな売女」「私とラゼル様はもう交わっている」「淫売が私のラゼル様に触れるな」「ラゼル様に愛されている」「ラゼル様は本当はお前を嫌っている」「死ね」「死ね」「死ね」「どうやってラゼル様を手に入れたんだ売春婦」「淫売」「死ね」「殺す」
……等という凄まじい憎悪の文字。
それが延々と数ページにも渡って書かれている。
ルカは天を仰いで、ああ遂に来てしまった、と思った。いつかこんなことがあるかもしれないなと思っていたが、実際に被害にあうとまるで自分が小説の世界に投げ込まれたような気分になる。一応、ルカは最後まで目を通した。
そして最後のページにでかでかと。
『ラゼル様は私の婚約者であって貴女のものじゃないから死ね』
と書いてあった。凄いキチガイと出くわしてしまった。しかも相手は間違いなく、最近じっとこちらを睨み付ける新米メイドだ。おそらくこの手紙は、王宮にある封蝋を使ったのだ。侍女のリューシカはこの手紙に相当怯えているようだったが、ルカは「大丈夫、安心して」と落ち着かせる。
しかしまぁ、大胆なものだ。
けれど確定したわけではないので、一応侍女のリューシカに最近入った例の新人メイドについて尋ねてみた。するとリューシカは表情を曇らせて「仕事熱心なんですが少し変わった子で……」と答えた。名前はリムというらしい。
「とりあえずラゼルが忙しくなさそうだったら手紙見せてくる」
心配するリューシカにそう言ってルカは私室を出ると、執務室へと行った。珍しくこの時間だというのに執務室に列はなく、ルカは不思議に思いながら扉をノックする。入れ、と声が聞こえたので部屋に入ると「ルカか」と赤い視線を向けられる。何かおかしい。
「ラゼル、何かあった?」
問いかければラゼルはやや困惑気味に答えた。
「……最近、何かおかしい」
おおっと、と思いながらもラゼルに聞いてみる。
「おかしいって何が?」
「執務室を出ている間に、使っていたペンが無くなったり、見覚えのない菓子が置いてある。毒入りかもしれないので捨てたが。それと視線を感じる……のはいつもの事だが、妙な感じの視線だ。じっとりと纏わり付くような……」
「…………」
「ルカ?」
明らかに盗んだのは新米メイドのリムだ。けれどリムが本当に盗んだのかも、お菓子の件も証拠はない。
とりあえずルカは本日、ルカ宛に届いた地獄のような手紙を渡した。すると手紙を渡した時に指先の傷の手当に気付いたのだろう。ラゼルが痛ましい顔をして「どうした?」と尋ねて触れてくる。優しい人だ。
「えーっと、その手紙にボックスカッターの破片が入ってて。それで指を切りました」
「……なんだと?」
一気にラゼルの顔が険しいものになる。けれど怪我のことは最早どうでもいい。
「大丈夫。ちょっと切っただけだから。それよりこの手紙をどうぞ、お読み下さい。狂気しかないから」
手紙を読むように促すと、ラゼルは訝しげに手紙を開いた。
途端に、険しかった顔が益々険しくなり、そこにみるみるうちに嫌悪感が足されていく。
ここまで嫌悪と吐き気に満ちた顔を見るのは初めてだった。少し、貴重なラゼルを拝めて良かったと思った。だが楽観視できるものではない。
ラゼルが漸く手紙を置き、長い溜息を吐き出した。
余程、生理的嫌悪が激しかったのだろう。無言が長かった。まるで魂を抜かれたようだった。
「あの……ラゼル……?」
気絶したんじゃないかと思ってルカが声をかければ、我を取り戻したようにラゼルが重々しく口を開く。
「すまない…………あまりにも……吐き気を催す内容だったから、言葉を失った……」
完全にドン引きしているラゼルが可哀想になって、ルカはラゼルの肩に触れる。
「ラゼル。大丈夫。その……私が守る、から」
「いや、守らねばならないのはお前だろう。この狂った女がお前に何かするかもしれない。早急に犯人を見付けなければ」
「あー……その件なんだけど、目星はついているというか……いや、全然確証はないんだけど」
「誰だ」
「新米メイドのリムって子。すごい私を睨んでくるんだよね。特にラゼルといる時。ただ証拠らしい証拠は全くないし」
「……指紋もないな。追走の術を使っても、そのリムというメイドまで明確に辿り着けないだろうな。……何より情けない話だが会いたくない」
「気持ちは分かるよ……」
お互い鬱々とした気持ちになる。けれど証拠がない以上、リムを捕まえることはできない。ショッキングな手紙だが、尋問するにはまだ早い。ルカはラゼルから手紙を返してもらう。
「これからすぐに孤児院の件について軍事部と法務部と共に先日の事件について纏めなければならない。今後どうするのかも。その間の小休憩だったのに……こんなにも気分の悪い事が起こるとは……」
苦々しい顔をするラゼルにルカは同情する。こんなに多忙なのに、妙な女に──いや、ストーカーの被害に遭わされるとは。今まで安全だった王宮が、一変して緊張の抜けない場所になる。
「とりあえず気晴らしに散歩してくるよ。ラゼルも気を付けて」
「護衛をちゃんと付けていけ。いつもより厳重に」
「そうだね……殺されかねないレベルだからなぁ……」
毒殺される可能性だってある。先日起きた事件のお陰で毒に関する知識はあるが、いちいち食事に毒があるか調べるのは非常に面倒くさい。だったら街でパンやスイーツでも買ってきたほうが安全だ。
執務室から出たルカは馬車に乗ると、街の中心街とは離れた場所へと向かった。
行く場所は一つだ。
「それでさー……どう思う? ガチでヤバくない? この手紙」
「確かに凄まじい内容ですね……けれどルカ様。わたくしに見せてもどうにもなりませんわよ」
なにせ囚人ですから、と言って麗しい美人──リリーは笑う。
今日も白い囚人服を纏っているが、美しさは全く衰えていない。少し心配になって刑務所でリリーが苛めにあてってないか聞いたが、苛めどころか彼女を中心に改心していく者が増えてきているということだ。生まれ持っての優美さや、ある種のカリスマ性がそうさせるのだろう。全くもって凄い女性だ。毎回思うが、とてもルカを地獄に突き落とそうとした人間とは思えない。愛はそのくらい人を狂わせるのだろう。
だが、これは狂い過ぎでは?
隙間から手紙を返したリリーにルカは言う。
「いや単に話を聞いてほしくてさ。何かアドバイスとか貰えると嬉しいんだけど……例えばラゼルって学院時代からストーカーいた?」
「いましたよ」
さらりと出された言葉にルカは声を上げる。
「えっ、じゃあラゼルってストーカー地獄だったんじゃない? というか滅茶苦茶モテたでしょう?」
「勿論、全校生徒の憧れでしたよ。本気で恋している方も多かったと思います。けれどあまりに身分の差がありましたから。せめて侯爵家以上でないと話しかける事なんて恐れ多くてできません。ですが……時に一方的に、歪な形で恋心を押しつける方はおりました。恋文といった類いではありません。ラゼル様の私物を盗もうとしたり、隠し撮りしたりする不純な輩です」
「……ラゼル、気付かなかったの?」
あんなに頭が良いのに、と思っているとリリーが笑顔で答えた。
「ええ。見つけ次第全員わたくしが潰しておきましたので」
「…………流石リリー。まるでラゼルの王子様だね」
「ふふ、ありがとうございます」
その美しい笑顔が怖い。気品があって容姿端麗な上に、この行動力は最強だろう。きっとルカじゃなくリリーが婚約者だったら王宮で文句を言う者など一人もいないだろう。何故ならマイナス要素が完璧にないからだ。
それなのにリリーではなくルカを選んだラゼルは、相当変わっている。
「でも潰すと言っても、どうやって潰してきたの?」
「そんなの簡単ですわ。力の差を見せつけてやれば良いのです。ありとあらゆる面で、わたくしが勝っていると思い知らせれば自ずと相手も諦めましょう」
「それは完全無欠なリリーだからできることだよ……」
がっくりと項垂れたルカに、リリーは少し考えたあと答えた。
「でしたら、仲睦まじい所を見せつけてやれば良いのでは? これはルカ様にしかできない事です」
「それやったら私がまた淫売とか売春婦とか罵られる気がするんだけど……」
「違います、ルカ様」
リリーは微笑んで言った。
「ルカ様からラゼル様に甘えるのではありません。逆です。ラゼル様が、ルカ様を溺愛している所を見せつけてやれば良いのです」
溺愛。
「溺愛……いや、十分愛されているという自覚はあるけど、ラゼルが人前でそんな溺愛してますーって行動できるかな」
「想像もつきませんね。でもそうやって見せつければ、ストーカーを炙り出し、正々堂々と決闘できます。以前言ったじゃありませんか? わたくしとも、殴り合いの勝負をすれば良かったと」
くすりと笑ってリリーは言う。ルカは過去にしたその発言に苦笑した。
だが、リリーの提案は非常に難しいように思えた。ラゼルは二人きりの時しか甘えないし、愛を曝け出さない。だからこそ人前で愛を囁くラゼルなど全く想像つかない。
「でもそれくらいしか方法はありませんよ? 勿論、罠にはめて悪人に仕立て上げ、牢獄送りにすることはできますが。若しくは物的証拠を集めた後、現場を取り押さえ牢獄送りにするかです。ああ、いずれにせよ牢獄行きですね」
女神のようにリリーは笑う。その笑顔が清々しいほど眩い。言っている事とは正反対に。
「ま、まぁそれは最終手段として取っておこう……でもとりあえず、ラゼルに、その、溺愛? ってものをしてもらうよう頼むよ」
「そうですね。それでも相手が諦めなければラゼル様の魔術でどこか遠くの異国まで転移させましょう」
「どっちにせよ容赦ないね」
苦笑してルカが言うと、こてんとリリーは可愛らしく首を傾げた。
「あら、この世界にはストーカー殺人だってあるのでしょう? ですから、やられる前にやらなければ」
「あ、この前渡した本読んでくれたんだ。楽しいでしょ? 犯罪史」
「ええ、ルカ様の本のチョイスは本当に多様多種で面白いですわ。知らないことを知るのは楽しいですから」
「分かる。知識の吸収は楽しい」
お互いにくすくすと笑う。そうしている内に面会時間が終わってしまったらしい。ルカはいつものように小さな受け渡し口から本をリリーに渡す。
「ありがとうございます。今度はどんな本かしら?」
「今度は世界の深海魚に関する文献。海底の未知に迫る本で少し難しいけど、リリーなら大丈夫だと思う」
「深海魚……またマニアックな世界ですね。読むのが楽しみですわ」
「面白いことは保証するよ。それじゃあ、また来るね」
「ええ、お待ちしております」
そう言ってリリーと別れるとルカは馬車に乗り込み中心街へと移動した。
中心街に本屋で最新の薬術誌を買ったあと、人気のパン屋でパンを買い、それを食べ歩きしながらセントラルパークでぼんやりとした。果たしてあのラゼルが人前でルカを溺愛できるのか? 全く想像がつかない。それでも、ラゼルの精神の為にやらなくてはならない。パンを食べ終わったルカは、よしと気合いを入れて立ち上がると、王宮へと戻った。
王宮に戻るなり、あの悪意のある視線を感じて振り返ると、新米メイドのリムがいた。爪を噛んで、鬼のような形相でこちらを見ている。童顔でそばかすがあり、三つ編みに髪を結わえている。自分で言うのも何だが、自分と同じくらい平凡な顔だ。
試しに接触を試みてみようと思って、あの、と声をかける。もしかして和解できると思ったのだ。
しかし返ってきたのは舌打ちだけで、リムはすぐにその場から立ち去った。
駄目だ。これ。
仕方なく執務室へ行くと幸いなことに、丁度仕事が一旦終わったらしく、部屋に入ると「ルカ」と柔らかい声音で呼ばれる。ルカは深呼吸をしたあとラゼルに言った。
「今日リリーに会ってきたんだけど」
「……何故だ」
途端に不穏な空気を醸し出すラゼルに、ルカは笑顔でまぁまぁと押さえる。
「たまに悩み事とか聞いてもらうんだけど、今回の……ストーカーについても相談しに行ったんだ」
「それで、あの女は何と言っていたんだ?」
どうやらラゼルにとってリリーは完全に悪者らしい。気持ちは分かるし実際そうだ。ただルカが変わっているだけだ。ルカはラゼルの問いに答える。
「見せつければ良いって」
「何をだ」
「ええっと……ラゼルと私が仲が良いってところ、というか……」
いざ言葉にしようとすると、とてつもなく恥ずかしくなってきてルカは赤面する。一体どうしたのだろうと思ったのか、ラゼルが眉をひそめる。
「どうした? 何か言いたいなら言え。お前の言うことなら何でも受け入れる」
そんな男前な発言をされて、う、とルカは退くに退けなくなる。ルカはもう殆ど自棄になって言った。
「私を溺愛して下さい」
「…………? しているが」
きょとんとした顔で言うラゼルに対し、これから言う事がとてつもない裏切りのような気がしたが、ルカは勇気を振り絞って言った。
「そうじゃなくて……私の事をラゼルの方から、人前で、溺愛してください」
恥ずかしさで死にそうだった。
自分でも何をとち狂った事を言っているんだと思う。ラゼルが人前で溺愛? そんなことをしたら王宮中の人間が愕然とし、空から槍が降るのではないかと混乱するだろう。ルカやグラムから見ればそんなことはないのだが、ラゼルは基本的に無表情で淡々と仕事をこなすイメージの方が強い。
だからこそ、そんなラゼルが甘い愛の言葉を囁くなんて、全く想像できないだろう。
婚約者のルカだって想像もつかない。
溺愛?
ラゼルが?
人前で?
────絶対無理だ。
ルカは今すぐこの場から逃げ出したくなった。もしかしてリリーにはめられたのだろうか。あの天使の微笑みで。
そう思うくらいに恥辱で死にそうだった。
部屋に長い長い沈黙が下りた。
最早ラゼルのことを1ミリも見れなかった。
何か言ってくれ。もしくは自分で何か言葉を発しなければ。
そう思うのにルカとラゼルの間にある空気は、完全に硬直していた。
駄目だ。
やっぱりやめよう。
無理だ。
ルカがそう口を開こうとすると。
「…………分かった」
予想外の答えが返ってきた。
思わずラゼルを勢いよく見る。ラゼルは気恥ずかしそうに視線を逸らしていた。その顔はほんのり赤い。
「お前を……人前で、溺愛……すれば良いんだな?」
「あっ、は、はい……」
お互いにまるで初夜のような緊張感を持って会話する。
「溺愛する、となると……普段、お前と二人きりになったときに、していることをすれば良いんだな?」
「そう、だね……キス、したり、抱きしめ合って、頭撫でてもらったり……その……あの、すみません……」
あまりにもラゼルに求めるレベルが高すぎるような気がしてルカは謝罪する。けれどラゼルは「謝る必要などない」と言った。言ったが、やっぱりいつものラゼルのようには落ち着きがない。人によっては落ち着いているように見えるのだろうが、ルカから見ると明らかに落ち着きがなかった。
「……今日からするか。その、溺愛というやつを」
「そうですね……大変申し訳ないのですが……私から触れたら、また、私がラゼルを誘惑した淫売ということに、なるので……」
「……そうだな。分かった」
そういってラゼルは赤い瞳をルカへとやると立ち上がった。
「ラ、ラゼル?」
「……早速、やるぞ」
言うなりラゼルはルカの手を取って、執務室から出る。ラゼルはルカの歩調に合わせて王宮内を歩く。
「ラゼル、仕事は」
「いい。グラムにまた暫く任せる。今日は……お前を溺愛すると決めたからな」
あんなに戸惑っていたのが嘘みたいにラゼルの行動は早かった。逆にルカが焦る。
「ねぇ、ラゼル。どうするつもり?」
「見せつけてやればいいのだろう? よくよく考えてみれば、王宮でお前を狙う奴を諦めさせる良いチャンスだ」
「まさか、そんな人いないよ」
「……お前は鈍すぎる。だが良いきっかけだ。ルカ、お前も協力しろ。ちゃんと溺愛されて喜べ。戸惑ったりするのは無しだ」
「それはできると思うけど……」
廊下を歩いて話していると、見知った法務部の青年たちが向こうから歩いてきた。ついこの間、法務部に寄った時に喋った青年、ルーカスとヘルベルトだ。刑法について色々と教えてくれた感謝を言い逃していたので、ルカは手を振る。
「ルーカス、ヘルベルト!」
呼べば二人はこちらに気づきラゼルに恭しく礼をした後、ルカへと向き合う。ルカは苦笑して感謝する。
「この前は突然押しかけてごめんね。お陰で減刑について知ることができたよ」
そう言えばルーカスたちは照れたように笑って、優しく言った。
「いいえ、こちらこそ。ルカ様、この前頂いた栄養剤ありがとうござ──」
「ルカ」
ルーカスの声を遮ったラゼルが、急にルカの腰を引き寄せる。
「ラゼル?」
不思議に思ってルカが見上げると──キスを、された。
薄いが柔らかいラゼルの唇の感触に、ルカの心臓が大きく跳ねる。
当然、ラゼルがキスをした事に驚愕した青年たちは、あまりのことに棒立ちになる。
唇が離れた瞬間、ルカは顔を真っ赤にしてラゼルに言う。
「ら、ラゼル……っ、こんな人前で……」
「お前は私の婚約者だろう? それとも嫌だったか?」
ラゼルの、いつもより甘い声にドキドキと胸を打つ鼓動が早くなる。
「いや、じゃない、けど……」
「そうか。それじゃあ行くぞ。今日はお前とゆっくり過ごしたい」
腰に触れられたままルカはラゼルと共にその場を後にする。残された法務部のルーカスたちは未だに呆然としていた。
ルカはすぐに小声でラゼルを咎める。
「ラゼル、流石にこれはやり過ぎでは……!?」
「……あの二人にお前が誰のものか知ってもらう必要があると感じた」
「いやいや、意味がわからない……けど、もし例のストーカーが見てたら良い効果かもね……」
はやる鼓動をおさえ、ルカは合理的に考えることで恥ずかしさを誤魔化す。
──でも、こんなことがまだ、続くのか?
そう思ったら絶対に心臓が持ちそうにないと思った。
ここまでお読み下さってありがとうございました。
ストーカー編は次で終わりです多分。
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