心は動かない
「…………何だその格好は」
朝、薬術部に寄ってからラゼルを起こしに行けば、開口一番にそんな疑問が飛び出した。ルカはカーテンを開きながら、「何だって何が?」と問い返す。今日もアクアフィールはよく晴れていた。こういう日は俄然やる気が出る。未だに黒いナイトウェアのままのラゼルは、ルカをつぶさに観察して言った。
「…………お前はいつから薬術部の研究部員になったんだ?」
「私はただ入り浸っているだけだよ」
「それじゃあその研究部員が着ている服を何故着ている」
「楽だから」
そう快活に言ったルカは見せつけるようにその場でくるりと回る。翻るのは真っ白な白衣、インナーはワイシャツで、ボトムは長いロング丈のパンツだ。髪も一つに結わいて、すっかり研究者の仲間入りをしたような格好をしたルカを前にラゼルは溜息を吐く。
「……王族の婚約者がする格好じゃないぞ……」
「だって採集とかするの、ドレスじゃ正直やりにくかったんだよね。駄目?」
「……悪くはない。……むしろこういうのも、新鮮で……いいとも、思う」
辿々しく褒めるラゼルに愛しさがこみ上げて、ルカは黒髪をわしゃわしゃと撫でてあげる。
「本当にラゼルは可愛いこと言うねぇ。うん、今日も1日頑張れそう」
よしと気合いを入れるルカにラゼルはこてんと小首を傾げる。寝起きはこういう仕草を見せるから、特に可愛い。そんなことをルカに思われているとは全く気付いていないのだろう。ラゼルは不思議そうに尋ねてくる。
「薬術部に入り浸っているみたいだが、そんなに研究が好きなのか?」
「うーん。そこそこ楽しいけど、薬術部長のリオン達みたいな研究中毒者じゃないよ。ただ私は、すごく作りたい薬があるんだ」
「お前が作りたい薬…………皆目見当がつかないな」
「ま、楽しみにしておいてよ。ただすごーく難しい薬だから、完成できるか果てしなく謎だけど」
どんな薬かは言う必要はないと思って、ルカは白衣を揺らして扉に手をかける。
「それじゃあラゼル。お昼にまた会いましょう」
「ああ」
それじゃあねー、と明るく笑ってルカは扉を閉めると再び薬術部に足を運んだ。
薬術部は、ルカと同じように白衣を纏った研究部員が今日も心血注いで研究に没頭していた。薬術部の中でも幼熱病の特効薬のコスト削減を考えるグループや、一昨年から冬に流行ったノクタール病に対する薬が液剤か錠剤かで薬効が変わってくるかなど、各々研究するグループが分けられている。
その中でも大きなグループが、薬術部長のリオンが率いる「現行の鎮静剤より更に強い鎮静剤の生成」である。ラゼル──というより自分の為の薬でしかないので正直、申し訳なさがあったが、薬術部長のリオンは全く気にしていない様子だった。むしろ初めて新しいおもちゃを見たような子どものようで、少しルカはほっとしていた。
そんなリオンがまた気の抜けたような笑顔で、研究室内に入ってきたルカへと声をかける。
「ルカ様、この前ルカ様が採取してきて下さった物質の成分は全部ゴミカスでしたー。できてジャムくらいのものでしょうねぇ」
「リオンは人の努力を踏みにじる天才だね。とはいいつつ、品種順に私も調べてみたんだけど、今の所これっぽちも希望が見えない悲しい現実」
「研究なんてそんなものですよ。しかしルカ様。ラゼル様に怒られたのではないですか? 白衣なんか着て」
「ラゼルはそんなことじゃ怒らないよ。むしろそういうのも新鮮でいいって褒めてくれた」
「惚気話ですねぇ」
へらりと笑うリオンに、ルカもまたへらりと笑う。いやー照れるなー、なんて言いながら椅子に座るとリオンが言う。
「しかしラゼル様は本当にルカ様のことが大好きなんですねぇ。正直、ラゼル様が誰かを好きになるなんて意外でした。ルカ様が来る前は、国の事を一番に考えつつも、基本的には冷たい方だと思っていらした方々が多かったのです。僕も冷血とまではいきませんが、常に張り詰めた空気を纏った仕事人間だと思っていましたし、執務室に行く時は胃がキリキリしたものです」
「ラゼル、優しいのに、どうにも表情筋が死んでるからなぁ」
「それでも殿下の空気が柔らかくなったのはルカ様のお陰ですよ。ありがたいことです。やっぱり愛は偉大ですねぇ」
「そうだね。愛は偉大だ」
そんなことを喋りながら研究してから数時間後、ルカは「愛は偉大だ」なんて余裕を持って言ってられなくなった。
いつものようにラゼルとランチを取るべく執務室へと向かうと、まだ仕事をしているのか中から声が聞こえた。念の為ノックして入ると、ラゼルと法務部の職員が二人立っていた。一人はよく見かける中年の男性で、法に関する報告や相談はこの男性がしている。その隣に立っていたが、すらりとした美脚を持った女性だった。振り返ったその姿は「可憐」そのもので。目鼻立ちが控えめだが整っており、リリーとは異なる魅力的な女性だった。柔らかそうな赤毛の髪は肩口ほどの長さで、きっと法務部の花と言われるほど可愛い女性だった。きっちりとしたスーツを纏っているが、それがまた、彼女の魅力を引き立てていた。
「ルカか」
ラゼルに呼びかけられて我に返る。すると可憐な例の女性が「あら」と可愛らしい声を上げてルカへと向かって丁寧にお辞儀する。
「ルカ様。お目にかかれて光栄です。私は法務部に新たに入った、アイシア・ド・オリヴァーと申します」
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです。ルカ・フォン・ランケと申します」
「綺麗なお方ですね」
「はい?」
突然の褒め言葉にルカが首を傾げれば、アイシアは「すみません」と慌てたように口に手をやる。
「殿下とお似合いの二人だと思いまして……つい、口が滑ってしまいました」
「あ、いえ……ありがとうございます。とても嬉しいです」
綺麗だなんてそうそう言われたことがなくて、つい狼狽えてしまう。そんなルカに、にっこりとアイシアは笑いかけると「本当に愛らしい方」と言う。どうしたものかとラゼルを見れば、ラゼルは中年男性職員と話し込んでいる。けれどその会話も終わったのだろう。ラゼルは「ルカ」と呼ぶ。
「もしかして忙しい? ご飯を抜くのは駄目だよ?」
「そうじゃない。ただ一緒に食事を取れない。時間が惜しいので法務について昼食を取りながら話し合う」
「そっか。それは残念」
仕方ないとルカは苦笑する。不意に男性職員が「それじゃ後は任せたぞ、アイシア」と言って執務室から出て行ってしまった。てっきり三人で昼食を取るものかと思っていたのだが、もしかしてと思っているとアイシアが口を開く。
「申し訳ありませんルカ様……少年犯罪に関する刑罰の見直しをと考えまして……それでは殿下。行きましょう」
「ああ。ルカ、すまない。ディナーは共にしよう」
そう言うと二人揃ってラゼルとアイシアは出て行った。
ぽつんと取り残されたルカは、理解が追いつかずに呆然としていが、すぐに気を取り直すことにした。仕事だから仕方ない。今までなかっただけで、こういうこともあるだろう。けれど心が狭いのか、心にモヤモヤしたものが残る。
もっと寛大でないといけないなと思いながら、とぼとぼと廊下を歩いていると外廊下でグラムと会った。グラムはルカに会うなり「何かあった!?」と聞いてきた。そんなにモヤモヤした気持ちが顔に出ていただろうか。ルカは苦笑する。
「何でもないよ。眠いなーって思ってただけ」
「あれ、今日はラゼルと一緒じゃないのか? もしかして今日はランチ取る暇もないくらい忙しい?」
「あー……いや、ご飯はちゃんと食べたと思うから大丈夫だよ」
「ふーん。それじゃルカちゃん昼飯どうすんの? 俺、今、食堂に行こうと思っていた所なんだけど一緒に食う?」
グラムの優しい提案を有り難く思いながらも、ルカは首を振った。
「何だか食欲ないから、薬術部でお茶でも飲んで終わりにするよ」
「ルカちゃんがラゼルみたいになってどうするんだよ。メシはちゃんと食べなきゃ駄目とか言ってたのに」
「普段は毎日食べてるから大丈夫。誘ってくれてありがとね。じゃあまた」
そう言って立ち去ると薬術部へと辿り着いた。研究室内はお昼なのか、それほど人はおらず、パンを片手に紅茶を飲んでるリオンを見付けた。多分、普段から小食なのだろう。ルカを見ると珍しいものを見るように、パチパチと目を瞬かせた。
「おや、珍しいですね。ランチの時間にここに来るのは。お茶でも飲まれます?」
「ありがとう。お願いします……」
「朝と比べて随分元気がないですね。あ、パン食べます? 厨房から形の崩れたパンを幾つか頂いたのですが」
お茶を出しながらそう言うリオンに、ルカは「大丈夫」と首を振る。
「食欲がないんですか?」
「まぁちょっとね。ねぇ、今日はディナーまで此処に居座ってもいいかな?」
「勿論いいですよ。普段は午後は図書室に籠もるのに珍しいですねぇ」
「今日は研究の気分なんだー。ってかこのお茶、美味しいね。色も綺麗だし」
爽やかな青い花びらが浮かんだお茶を口にすれば、美味しさと共に心が幾分かすっきりした。「どうやって作ったの?」という問いに対し、リオンは「企業秘密です。蒼花茶といいます」とにこやかに答える。安穏としたリオンといると気持ちが落ち着く。
「それで、何かあったんですか?」
「……自分の心の狭さに落ち込んでる」
素直にルカが言えば、リオンは「うーん」と考えるように天井を見た。
「私の知る限り、ルカ様は心が狭いとは思わないんですがねぇ。何でそう思ったんですか?」
そういう風に問われると、答えが喉に引っかかって出てこない。大人げない、というか、そんなくだらないことを気にしているのか、とか思われたくなかった。ルカは「なんでもない」と答えるとリオンは「そうですかぁ」と気の抜けた返事をする。明らかにリオンは何かあると気付いているのだろうが、あえて追求してくれないでいるのだろう。ありがたいと思った。
それからは蒼花茶をひたすら飲みながら、夕方のディナーの時間まで研究に打ち込んだ。集中していたお陰でランチであったことなどすっかり忘れていた。
ルカはディナーの時間だと気付くと、ラゼルを呼ぶべく、再び執務室の扉をノックした。入れ、とラゼルの声が聞こえて入ると、昼間も見た新米法務官のアイシアがいた。二人は仕事について何か話していたらしく、ラゼルはルカを見るなり暗い顔をした。
「ルカ、すまない。今夜の食事も共に取れそうもない」
「そ、そっか。わかった。ちゃんと何か食べてね」
するとアイシアが申し訳なさそうにルカへと言ってくる。
「ルカ様、申し訳ありません……私の所為で殿下とのお時間を頂いてしまって……」
「いえ、仕事ですから仕方ありませんよ。それじゃあ失礼します」
ルカはにこりと笑顔で言うと執務室から出た。
出て立ち去ろうとした所で、執務室の中から声が漏れて聞こえてきた。
『殿下。殿下さえ宜しければの昼間お話した少年法のついでに軽く食事を取りませんか?』
『分かった。最近少年犯罪が増えてきているからな。住民の声も聞いておきたい』
『ありがとうございます。それでは住民の声をまとめた資料がこちらにありますから、法務部の休憩室へ行きましょう』
そこまで聞いて、ルカは足早にその場を去った。執務とはいえ今までこんなことが無かった為、酷くルカは動揺していた。気付けば足は、マダムコルトンと良く煙草を吸っていたベランダへと向かっていた。
気持ちを落ち着ける為に一本、煙草を吸う。
それから煙を吐き出して、動揺し過ぎた自分に苦笑した。
「なに焦ってるんだろうなぁ」
独り言を口にする。そうだ、何ら動揺する必要は無い。相手がただ可愛らしい女性であって、ラゼルにとって大勢いる中の部下の一人なんだ。その部下と仕事を兼ねて食事を取っても普通だ。仕事もできて、ご飯も食べれる。実に効率がいい。何より「ちゃんとご飯を食べること」と言ったのはルカなのだ。その約束をラゼルはちゃんと守っている。
そう、単に自分が不安なのだ。少しだけ。
けれどアイシアがどんなに魅力的な女性でも、大丈夫だ。ラゼルの愛はきっと変わりやしない。ルカは煙草の煙と一緒に、たまったモヤモヤを吐き出す。星空が綺麗だ。明日もラゼルは激務に追われているだろうけど、朝なら必ず起こしに行くから会えるし、問題ない。
もう今日は寝よう。明日からまた頑張ろう。
ルカはそう思って自室へ帰った。
「……え?」
翌朝。ラゼルを起こしに来たルカは、そんな声が出てしまった。
ラゼルはもう黒い上着を纏い、すっかり仕事モードに入っていた。ルカは今聞いたことが信じられず、もう一度尋ねた。
「ええっと、朝起こしに来なくていいって……」
「ああ。今日もだが、明日から暫く忙しくなる。今よりずっと朝が早くなるから来ない方がいい」
「それじゃあ私も早起きするよ」
「駄目だ。お前は寝ていろ」
ラゼルはそう言うと、ぽんぽん、と優しくルカの頭を撫でた。
正直言っていつもだったら、その手を嬉しく思う。けれど今は、何となく嬉しくない。
とは言いつつも、こんなことで駄々をこねていたら馬鹿だ。ルカは「分かった」と笑顔で頷く。
「大変だと思うけど頑張ってね! 普段から頑張ってるけどさ」
そう言うと笑顔でラゼルの部屋から出た。ぱたん、と背後で扉が閉まって、はぁ、と溜息を吐く。最初から多忙な人だと分かっている。ハードワーカーなのだから。けれど食事、起床を絶たれるとラゼルとの接点がほぼなくなる。
暫く、と言っていたがどのくらいの期間になるのだろう。ルカはふらふらと歩きながら日課である薬術部に向かった。薬術部は今日もリオンが一番先に来ていた。リオンはルカを見るなりまた、へにゃりとした笑顔を浮かべた。
「おはようございます、ルカ様。またお茶を飲みますか?」
「うん、お願い……」
「貧血ですか? 朝は強いと言っていたのに珍しいですね」
蒼の花が浮く澄んだお茶を口にすると、気持ちがすっとする。それでも零れたのは溜息だった。
「またお悩み事でも?」
「悩んでいるというより、モヤモヤしているというか。でも私の所為なんだよね、多分」
「ルカ様の所為ですか?」
不思議そうに首を傾げるリオンに、ルカは渋面を作る。
「そうなんだよね……大した事じゃないのに、いちいち落ち込んでさぁ」
「人間そんな時もあるものですよ」
「誰かに相談したいんだけど……まぁいいや! 進捗教えて!」
頭を切り替えてルカが尋ねれば、リオンは少し心配している表情を浮かべている。
「まぁルカ様が良いなら良いのですが……」
そう言うとリオンは昨日の研究結果を報告してくれた。相変わらずと言った結果だったし、ルカの方で調べた内容もまるで駄目だった。もっと視野を広げてみないといけないかもしれない。
ルカは研究も日常も上手くいってない気がして、気づかれないよう溜息を吐いた。
そして昼。何となく執務室のドアを叩くのが憂鬱だったがノックすると、ラゼルの「入れ」という声が聞こえた。その声はどことなくいつもより厳しいような色を帯びている。ルカが入ると昨日も見た法務官のアイシアの姿があった。どうやら今まで来ていた中年男性職員から、報告や相談はアイシアの役目になったようだった。
ラゼルはこちらを見て「ルカか」と言うと、溜まっていた息を吐き出した。その整った顔には疲弊が滲んでいる。赤い瞳がようやくルカを見てかと思えば、ラゼルは鬱屈とした表情で言った。
「ルカ、すまない、今日も」
「分かってる。私は適当に食べるから、ラゼルもどっかで食べてね」
早く執務室から出ようとすると、アイシアが「ルカ様」と止める。
「申し訳ありません。どうしても殿下にご相談したいことがありまして……」
愛らしい顔で言うアイシアに、ルカは「いえいえ」と苦笑した。
「こちらこそお忙しいのに申し訳ないです。お仕事頑張って下さい」
そう言うと今度こそ執務室を出た。出てから、立ち止まる。性格が悪いとは思ったが、それでも耳を澄ませてしまう。すると微かに中から声が聞こえてきた。
『あの、殿下。差し出がましいかもしれませんが軽食をご用意致しました。よければお食べ下さい。私は一旦法務部に戻って食事を済ませてから戻りますので、昼食後の13時、先日起きた15歳の少年の殺人事件についてご相談させて下さい。民衆が注目するこの事件は、今の刑法と照らし合わせると重すぎる、という意見が多数ありまして……』
『ああ、分かった。有り難く頂こう。殺人事件の件だが、この後財務部からの報告も受けなければならない。時間が前後するかもしれないが良いか?』
『かしこまりました。お待ちしております。それにしても殿下、お忙しいのは重々承知の上ですが、休息も大事ですよ。後ほど一服しに行きませんか?』
そんな、明るいアイシアの声が聞こえてきた。どことなく、甘さを含んでる。
『……考えておこう』
ラゼルはいつも通りだった。けれど、微かに笑ったような気がした。
そんなやり取りを途中まで聞いて、ルカはふらふらとその場を去った。
仕事の会話だ。そうそう、仕事の会話。
ラゼルは多忙になると、もう仕事以外見えなくなる。産まれきっての仕事人間だ。国の為ならと身を削って努力する人だし、ルカはそんなふうに頑張っているラゼルを尊敬しているし、好きだ。
多分最近、頻発して起こっている少年犯罪が原因で、法務部との距離が縮まっているだけ。それだけだ。軽食だってアイシアが厚意から用意したものだし、他意はなく、優しいラゼルがそれを拒むわけがない。
それでも頭の中はぐるぐるする。
いや、落ち着け。ちゃんとした大人なのだから落ち着かないといけない。しかも自分は将来ラゼルの妃になる存在なのだ。こんな些細なことでくよくよしてられない。ルカはそう思うと、次のディナーの可能性に賭けた。
のだが。
「ルカ、すまない」
「大丈夫」
もう殆ど条件反射でルカは笑顔で理解したふうに頷いた。
そして室内にはまた法務官のアイシアがいた。
二人はまた話し込んでいたらしく、ルカはその場をまた邪魔してしまったらしい。ラゼルが言うことはある程度、予想がついていた。そしてまたアイシアはルカに申し訳ありませんと言う。ルカは退室する。ここまでテンプレートだ。多分明日も同じだろう。
ルカは今日はお茶以外一食も口に出来ず、色々なことが面倒になって寝る支度をするとベッドに転がった。
ベッドに転がってから最近話題の小説を読み始めた。
面白いという評判通り、内容は面白く、夢中になってルカは読んだ。内容は労働階級の新聞記者が、侯爵令嬢に恋をしてしまうという話だ。愛し合う二人は困難の末にようやく逃避行し、身分も何も関係ない地で幸せに暮らした……という、ありきたりといえばありきたりな話だったが、ハッピーエンドで終わるこの小説はリアリティがあって文体も美しく、何度読んでも飽きそうに無かった。
ふと気付けば時計の針は夜中の1時を指しており、流石に寝ないと、と思ってルカはベッドに潜り込んだ。けれど一向に、眠れない。布団の中をごろごろしている内に、喉が渇いて水差しの所へ行くが、侍女のリューシカが珍しく水を入れ忘れたのだろう。空になっていた。部屋には備え付けの水場があるのだが、折角なら美味しい水が飲みたいと思い、空になった水差しを手に、仕方なくルカは部屋を出た。
しんとした王宮内はセレンの電気でぽつぽつと灯りがともされていた。ふと窓の外を見ると夜に沈んだ海が見えた。そして自分の顔も。
なんとも情けない顔をしている。
笑ってみても、へにゃりと力なく表情は崩れてしまうばかりだ。以前はもっと完璧に笑顔を作れていたのに、笑顔の仮面が割れてからは容易く感情が表情に出てしまっていた。水を汲む場所で冷たく澄んだ水を汲み、部屋へと戻る。
部屋に戻る途中、何となく、執務室を覗いてみようと思ってそちらの方面に足を向けると、まだ仕事をしているのか執務室には灯りが灯っていた。本当に頑張り屋さんだなぁ、と思ってルカはそっと扉を開く。
ラゼル、と。そう声をかけようとした喉が詰まる。
無意識に手が、扉に触れてしまったのだろう。扉が開き、室内にいるラゼルと──執務感のアイシアを見た。
ラゼルは執務室の机に手を置き、アイシアに覆い被さっていた。
そのアイシアの胸元は乱れて露わになっており、二人の視線が一気にルカへと向かった。
ラゼルの赤い瞳が大きく見開かれる。
ルカは持っていた水差しを落としそうになったがぐっと堪えて、何も言わずに扉を閉めた。それから水差しを持って颯爽と歩く。背後から急いた様子で「ルカ!」とラゼルの叫ぶ声が聞こえた。
ルカは立ち止まった後、ぐっと唇を噛んだ。それから一つ呼吸をしてから、振り向いた。
ラゼルは動揺したような表情でルカを見て、視線はどうすればいいのかと言うように彷徨っていた。何も言い出さないラゼルに、ルカの心がピシリ、と小さくひび割れた。痛い、と思った。けれど完璧にとまではいかないが、笑うことはできた。
「夜遅くまでお疲れ様」
「ルカ」
「私、寝るから。ラゼルもちゃんと寝てね。明日も早いんでしょう?」
おやすみなさい、と言って踵を返すとラゼルに肩を掴まれた。咄嗟にルカは、ラゼルの手を振り解いた。
次に出てきたのは、自分でも冷たい声だった。
「──触らないで下さい」
ルカは今度こそラゼルに背を向けると、歩き出した。心臓の音は平坦だった。自分でも驚くくらいに感情が動いていなかった。怒り散らすことができたら、とか、泣きじゃくることができたら、とか。そんなことを考えてみたけれど、考えるだけで実際ルカの心は冷え込んで動かなかった。
──馬鹿らしい、と思った。
こんなことで傷つく自分が馬鹿らしいと思った。きっとあの状況だって、何か理由がある。ラゼルは浮気するような人じゃない。それなのに「触らないで」なんて幼稚な言葉を口にしてしまった。分かっている。本当に馬鹿らしい。ルカはそう冷静に思考しながら、静かな廊下を一人歩いていく。
部屋に戻って水差しから、コップに水を注いで、飲む。喉の渇きがなくなった。
もう寝よう。
ルカはベッドに入ると、目を瞑った。
泣きたくもない。
怒りたくもない。
それでも情けない自分の心は容易く痛む。こんなことに振り回されていたら駄目だ。
ただ。
今はもう、ラゼルの名前を呼びたいとは、思わなかった。
ここまでお読み下さってありがとうございました。
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