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それはいつか風に流されていく


 瑠華、と、目の前の青年は言った。


 どくりと、嫌な音を立てて心臓が鼓動した。

 確かに言った。同じ言葉だが、違う名前を。

 目の前にいる新兵は、赤銅色の瞳と髪をした青年で、じっとルカを見詰めて言った。


「瑠華なんだろ。言わなくても分かる。俺は『田島優人』で、そしてお前は日本で生きていた『小宮瑠華』だ。そうだろう?」

「──っ」

 

 優人は優しげな眼差しでルカを見ていた。それこそ、付き合い始めた頃に見せていた目で。けれどそれが冷ややかになった事は知っている。最後に告げられた冷たい言葉たちも。ルカはぎゅっと拳を握りしめ、目の前に立つ優人を見た。


「……そうだよ。私はあなたが知っている瑠華。そうであった人間」

「やっぱりそうだったか。でもこれって運命的だな。死んだ二人がまた違う世界で出会うなんて」

「悪い意味では運命的といえるね」


 睨み付けるようにルカは優人を見据える。けれど優人の微笑は崩れない。


「そうか? 俺はお前にもう一度会えてうれしいよ、瑠華」

「私は嬉しくない」

「なら何でこうして会いに来た? 俺に未練があるんじゃないのか?」

「未練なんて無い。私はただ確認しに来ただけ。あんたが優人だってことを」

「確認してどうするつもりだ?」


 問われたあと、ルカは引き結んだ唇を開いた。


「可能な限りあなたをラゼルと私から遠ざける。そのために来た。忠告。それと、過去との清算をつけにきただけ」

「へぇ……そうか。そういえば、そうだったな。瑠華。今は殿下の婚約者なんだってね」


 そう言うと優人は一歩足を踏み出す。草を踏む音に、瑠華は一歩足を退ける。

 優人は、本当にあんな酷い別れがなかったかのように、穏やかに笑う。


「なぁ、俺にしないか? 逃避行するんだ。恋物語にはありがちだろう?」


 その言葉に、カッと頭に血が昇る。


「私をいらないと言った癖に、よくもそんなことを……!」

「待って、聞いてくれよ。瑠華……」


 甘ったるい声音で優人は言う。


「俺、あの後、後悔したんだよ。確かに好きだった子とは付き合ったけど、やっぱり瑠華じゃないとダメだって気付いたんだ。俺はお前より後に死んだけど、死ぬまでずっとお前が好きだった」

「そんなこと、私には関係ない。……用件は済んだ。悪いけど絶対にラゼルに近づかないで」


 そう言って立ち去ろうとしたルカの腕を、優人は手に取って引き留める。ぞわりと鳥肌が立つ。昨晩のこともある。けれどそれ以上に、自分を捨てた男が自分を求めている事が、おぞましかった。


「なぁ、瑠華……俺にしろよ。今度は二人で幸せになろう? 結婚してさ、子どもを作って、幸せな家庭を築くんだ。それが夢だって瑠華、言っていただろう?」

「放して」

「いやだよ、それにお前だって本当は再会できて嬉しいんだろう? それに、正直言って殿下とお前は不釣り合いだぜ? いつ婚約破棄されてもおかしくないだろ。それとも……もう身体を許したのか?」

「────巫山戯ないでッ!」


 怒りが噴き出して、叫ぶように拒絶の声を上げる。


「ラゼルはそんな人じゃない……! あなたみたいな人じゃない。いい加減、もう放して……ッ!」


 振り解こうとするのに優人の力は強く、決してルカを放すまいとしていた。どうしてこんな執着するのか。前世でルカにした仕打ちを忘れて、幸せだった記憶だけに縋っているのだろうか。きっと、そうなのだろう。今だってルカの意思を無視している。


「瑠華」

「ッ、いい加減にして」

「話を聞けよ、きっとお前も俺をまだ──」





「────私の婚約者に何か用か?」




 

 聞こえてきた声にびくりと優人が震え、ぱっとルカから手が離れる。

 赤い双眸には冷たい光が宿っていた。端正な顔が一層、その冷たさを際立たせる。

 殿下、と震える優人の声が聞こえた。ラゼルはルカの肩を抱いて引き寄せると、凍てついた眼差しで優人を見た。


「ルカは私の婚約者だ。軽々しく触れていたが……それを知っての行為か?」

「いえ、その……瑠華は俺と深い関係があって……」


 慌てふためく優人に、ラゼルは冷ややかな視線を送る。


「深い関係」

「え、ええ! そうなんです! 瑠華とはずっと昔から愛し合って──」

「そうか」


 ラゼルの言葉に優人は一瞬安堵したが、すぐにそれは切りつけるようなラゼルの言葉によって叩き落とされる。


「そんなくだらぬ事で、私の婚約者に近づいたのか」


 金属音が聞こえ、ラゼルが剣を抜く。その切っ先を優人に向けて、告げた。 


「悪いが今すぐ王宮から出て行ってもらう。生活は安心しろ。侯爵家の護衛役として何処か手配する。だがもう二度と私の婚約者に近づくな。この王宮にもだ。もしこれを破った場合は……アクアフィールから追放する。良いな?」


 国外追放。その単語に優人の顔は一気に青ざめる。捕らえろ、とラゼルが言うと、いつの間にか潜んでいた従者たちに取り押さえられた。それでも優人は未練がましくルカを見ていた。助けを求めているようにも見えた。俺を愛しているんだから、助けろと言わんばかりに。

 けれどルカは一言、告げた。


「──あなたなんて、いらない」

 

 この先もずっと。

 かつて言われた言葉をそのまま優人に返す。優人は目を見開いたあと、がっくりと項垂れた。力なく従者に連れられていく優人の姿が消えてから、ルカは気まずさに思わず黙り込んでしまった。

 また、やってしまった。もう迷惑はかけないと思ったのに。

 そして、何より。


「……ラゼル。聞かないの?」

「何をだ?」


 ルカはラゼルに向き合う。その赤い瞳を見て、言う。


「優人のこと」

「……俺は、お前が隠したいならそれでいい。だが今のお前は……打ち明けたいように見える。違うか?」

「そっか……本当に、何でもお見通しなんだね」


 いつかは打ち明けなければならないと思っていた。そのきっかけが優人だったが、丁度良かったのかもしれない。


「ねぇ、海が見える場所に行かない? ここからそう遠くない場所で」


 できるだけ笑って、ルカが言えばラゼルは「お前が望むなら」と手を差し伸べた。ルカはその優しさに甘えて手を取ると、歩き始めた。王宮を出て少しした所にある、「祈りの丘」。草花が広がるその丘に辿り着くと、きらめく雄大な海が見えた。そんな海と似た青空の下でルカは心地よい風に目を瞑った。そして、覚悟を決めて目を開き、ラゼルへと振り返る。


「ラゼルは、前世って信じる?」

「……いや」


 ラゼルがそう言うのは予想していた。普通はそうだろうなぁ、と思いながらルカは振り返る。風が凪いだ。


「あのね、私は、生まれ変わったんだ。前世の記憶を引き継いで。信じられないかもしれないけど」


 赤い瞳が見開かれる。ちょっと可笑しくて笑う。大丈夫だ、大した話じゃない。ルカは声に暗さが滲まないよう、軽快に言葉を進めた。


「大した隠し事なんかじゃないんだ。さっきいた優人っていうのは、前世の恋人だった人。私をいらないって言って捨てた人なんだ。結婚の約束もしていたけど、全部なかったことになった。それ以来、前世の私は誰も好きになれなくなった。好きになれないまま、死んだ。31歳のとき、独りでね。この世界でいったら31歳なんて、いい年だよ。格好悪い。でも私は、その記憶が確かにある」


 風が黒髪が揺らす。今、ちゃんと自分は笑えているだろうか。いるだろう。だって大した話じゃないんだから。


「産まれたころから物心つくまではずっとあやふやで、12歳になるころに漸く前世の記憶だって思い出したんだ。そこからは……というより、今もぐちゃぐちゃで。ここにいる私は18歳の『ルカ・フォン・ランケ』なのに、31歳の『小宮瑠華』の記憶もある。でもさ、私はルカでしょう? 今はもう惨めに独りで死んだ瑠華じゃない」


 それでも、と。困ったようにルカは笑う。


「悲しい記憶も辛い記憶も、脳裏から剥がれ落ちてくれないんだ。けれど、それを口にすることはできなかった。だから私は、惨めな前世の自分を暴かれないように、笑顔で覆い隠し続けた。勿論、仮面が取れてしまうこともあったよ。けれどすぐにまた仮面をつけて、前世という過去に遭った惨めさを気付かれないようにしないといけないと思った。『ルカ・フォン・ラケ』は幸福そうに振る舞うことで、誰にも『過去』を気付かれないようにしなきゃいけなかった」


 対峙した二人の間に優しい潮風が吹いて、花びらが飛ぶ。


「だってその仮面を外したらルカではなく、惨めに死んだ『小宮瑠華』になってしまいそうで──それが怖かった。あんな惨めな女になったら、また、きっと捨てられてしまう。『いらない』って言われてします。だから、いつでも笑顔でいようと……そう、思って、きたんだ」


 それだけ、とルカは笑う。口にすると、本当にどうでもいい悩みだ。誰だって笑い飛ばすような話。

 それなのにラゼルは笑わなかった。どうして笑わないの? ──こんなに馬鹿げた話なのに。


「……そうか」


 どうして、どうしてラゼルは笑わないの?

 ラゼルはルカの目の前に立った。赤い瞳が海のきらめきに反射して、綺麗だった。


「お前が抱えていたことは、理解した」


 だが、とラゼルは言う。まっすぐにルカを見詰めて。少しだって笑わずに。


「お前は、お前だ。ルカ・フォン・ランケ。それがお前だ」


 言い聞かせるのではなく、それは明言だった。

 違う、なんて言えないくらいにラゼルの声には迷いがなく、確信に満ちていた。

 真剣だったラゼルは赤い瞳を優しく細め、ルカの頬に触れる。ルカ・フォン・ランケという人間が、ちゃんと此処にいるというように。


「前世の記憶というが、その記憶にあるお前は、今のお前じゃない。今ある前世の記憶は……そうだな、思い出を飾ったアルバムのようなものだ。そのアルバムには前世の記憶が貼り付いていて、それを今のお前が見ている。それだけの話だろう」

「アルバム……」


 思いも寄らぬ言葉にルカは小さく繰り返す。それから、その言葉がすとんと胸に落ちた。ああ、こんな簡単なことに何故気付かなかったのか。記憶は確かに記憶かもしれない。けれどそれはもう思い出であって、今ではない。今のルカは、此処にいる。ルカ・フォン・ランケとして此処にいるのだ。

 ラゼルは気付かないうちに流れたルカの涙を拭って、言った。


「ルカ……もう、無理をして笑うな。笑顔を絶やさなくともお前を要らないなんて言う人間はいない。お前がルカ・フォン・ランケじゃないと否定する者もいない。それでもお前が不安なら、それでもいい。ただ俺は、お前のそばにいる。以前お前が言ったように、俺もお前の不安を背負う。それだけだ」


 やめてよ。やめて。心の中で震える声がそう言う。

 仮面が、壊れてしまう。ひび割れて、粉々になって、しまう。醜い過去がさらされてしまう。

 けれど──そこにあるのは今、あるのは惨めに独りで死んだ「小宮瑠華」なのだろうか?


 ────違うよ。


 不意に、聞こえたのは思い出の中の「お父さん」と「お母さん」の声。

 今のお前が今のお前だ。もう手放していいんだ。前世の記憶なんて古びた写真は、いつか風が美しい海へと送ってくれるよ────。



 瞬間、仮面が粉々に砕け散った。



 けれど、大丈夫。

 それはただの道化の仮面でしか無い。小宮瑠華はいない。

 そこにいるのは、ルカだ。

 優しいランケ家で産まれた、ルカ・フォン・ランケという少女だ。

 ラゼルに抱きしめられる。その手はルカの黒髪を梳いている。優しい手付き。あたかい温度。長い間見ていた悪い夢から解き放たれたように、ルカは、泣きながら問う。


「……ラゼルは、こんな私でいいの?」

「ああ」

「31歳で無様に孤独死した女なのに?」

「そんなのどうでもいい。だがもし……そうだな。今のお前が前世と同じ年齢でも、俺は好きになっていた」


 ラゼルの腕の中で、ルカは思わず涙を流しながら笑ってしまう。


「それは言い過ぎだよ。流石にその頃には私だって誰かと結婚しているよ」

「いや、していない」

「……失礼だなぁ」


けらけらと笑ってしまうと、ぎゅっとラゼルは強く抱きしめる。


「お前は俺の伴侶になる為に産まれたのだ。仕方ない」


 その言葉に、一瞬息を失う。

 けれど出てきた言葉は、至極、自然なものだった。


「ならラゼルも、私の夫になる為に産まれたんだね」


 顔を上げ笑えば、ラゼルは顔を綻ばせて言う。


「そうだな。そして人はこれを──運命と呼ぶんだろう」


 その言葉にルカは目を見開く。運命。ラゼルとルカが出会う、運命。

 ルカは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、笑って、言った。


「運命、か……うん、悪くない。むしろすごく、素敵な響き」

「そうだろう?」

「うん、そうだね。……ありがとう」


 ぽつりと言葉を零せば、ラゼルは赤い瞳を細めて笑う。


「礼など言うな。俺は、お前の婚約者なのだから。お前を、愛しているのだから」

「……私も、心の底からラゼルが好きだよ。愛している」


 互いに微笑みあって、口づけを交わす。

 もう良いんだ。悪夢も古びて、いつか風に流されて消えていく。

 その中には、大切な記憶もあるだろう。けれど、ルカは今、ここに生きている。この世界に生きているのだ。生きているからこそ、今ここにいる、この世界の全てを感じなければならない。風の心地よさや、海の雄大さ、草花の匂い、夜空に瞬く星、親切にしてくれる人たち、大好きな両親、そして──愛するラゼルを。

 ラゼルの胸に耳を寄せる。

 心臓の音が聞こえる。生きている、と思う。

 同時に自分も今、ここで生きているのだ。

 

 



 私はもう、「小宮瑠華」じゃない。

 私は、ルカ・フォン・ランケ。

 ラゼルを愛し、愛される、たった一人の人間。

 

 それが──私だ。




お読み下さってありがとうございました!

需要は全然ないと分かりつつ、楽しいので頑張ります~!

良ければブクマ、高評価よろしくお願い致します。

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