ステップ・バイ・ステップ
あれからラゼルの体調は日に日に良くなり、王宮の雰囲気も元のものに戻っていた。ラゼルも相変わらず忙しなく政務に追われ、各部署との報告書と指示案や再来月に迫る他の国との会談に向けて準備もしなければないようだった。つまり、王族としての忙しない務めは変わらずにきっちり果たしていた。前世で言ったら社畜と言われんばかの働きっぷりだったが、そんなラゼルにルカは毎度毎度注意した。
ラゼルが食事を抜こうとしたらその口にサンドウィッチを詰め込み、仕事で夜更かししようものならば自分も同じように他の言語を学びながら朝まで起きているぞと脅しつけ、悪夢を見て眠れないなら眠くなるまでそばにいると言うほどだった。そんなルカに根負けしたのか。ラゼルの生活は少しは良くなった。
「お前は本当に生真面目で頑固だな……」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
昼休憩という名の10分休憩を中庭でしていると、ラゼルが思い出したかのように口を開いた。
「そういえば今週末、舞踏会があるが大丈夫そうか?」
「あー、そういえばそうだったね。でも大丈夫。そういう所での振る舞いもマダムコルトンにしっかり叩き込まれたから。迷惑はかけないよ」
ルカは遠い目をする。指先に至るまでビシッと指導されたのだ。一ヶ月も毎日毎日よくも耐えたものだ。
そんなふうにルカが思い耽っていると、ラゼルが首を振る。
「そうじゃない。お前はそういう場所が好きではないだろう?」
「う、よく知ってるね」
「以前、堅苦しいのが嫌だと言っていたからな」
「よく覚えているもので……」
忘れていたらいいのに。とルカが思う傍らでふ、と小さくラゼルが笑う。
「何故お前は舞踏会が嫌いなんだ? 女はここぞとばかりにめかし込んで来るものだろう?」
「何が嫌って……まずは堅苦しいのも嫌だし、何だか自己主張のぶつかり合いみたいに見えてさー……いかに自分の家が素晴らしいかとか、お金持ちですよーとか、美人ですよーとか、そういうのをオブラートに包んでアピールしてるのが、疲れるんだよなぁ」
なにより、とルカは苦虫をかみつぶしたように続けた。
「思い返してみてよ。私が『わたくし』とか『だわ』とかそういうご令嬢が使うような敬語とか使っていた時のこと。気色悪くない?」
「ふっ……」
ラゼルが口元をおさえて小さく震えながら笑う。ルカはカチンときてラゼルの脇腹を小突いた。隠しきれない笑いの感情を赤い瞳が雄弁に物語っていた。そんな珍しいラゼルの姿は微笑ましくはあったが、余程以前のルカと今のルカのギャップがツボに入っているらしい。
「す、すまない……っ、だが、お前が、わたくし、とは……!」
「いい加減にせい!? まぁ笑うのも分かるけど……あーあ、正直もう憂鬱でたまらないよ……私は……」
「お前が完璧に元の伯爵令嬢を装うのが想像もつかないな」
「うーん確かに。でもまぁ、グリナ王国との会談もやり遂げた私だからさ! きっと今なら世界が変わって見えるさ!」
「そうだといいな」
最後のラゼルの台詞は完全に棒読みだった。
全くルカに期待していないというような台詞だった。
絶対ひと泡吹かせてやる……とルカは心の中で意気込んだ。そんなルカの覚悟を尻目に、ラゼルは「さて」というと立ち上がった。時計を見ればきっかり10分の休憩は終わっていた。本当に生真面目だ、と心の底から呆れるほどだった。
「ルカ」
「あ、はいはい。私は今日薬術部に行くんだった」
「薬術部? 何か用事でもあるのか?」
「うん、最近薬術勉強するのにハマってて。どこかの誰かさんがまた倒れたら薬をあげられるように」
皮肉を混ぜてそう言うと、むっとへの字にラゼルが口を曲げた。それが子どもっぽくて可愛くて、ルカはつい笑ってしまう。
「笑うな」
「笑ってません」
「……まぁいい。お前も無理するなよ。倒れたりしないように」
「ラゼルには言われたくありませーん」
傍らに置いておいた軽食を片付けて立ち上がって言えば、ラゼルはくすりと微かに笑った。その笑顔を見て、胸が切なく鼓動する。同時に喜びもわき上がるものだから厄介だ。ラゼルが悪夢を告白してくれたあの日以来、ラゼルは徐々にだが以前より笑うようになった。本当にそれは微かなものだけど、纏っていた空気も柔らかなものになっていた。良い傾向だと思う。このまま愛しい人と結ばれてくれれば、きっともっと、ラゼルは笑うようになるだろう。その時、自分は間違いなく傷つく。
でも、それで良いか、とルカは思えるようになった。
苦しいより先に、ラゼルが笑えるなら、幸せだ。長い懊悩の末、それがルカの決めたものだ。もう、覚悟はできた。
ラゼルの背を見ながら、ルカは小さく笑う。あの夜、今まで苦しみ続けたラゼルの告白だけで、十分だ。あんなに重たいものを背負って生きてきたことを告白してくれたのだ。それだけルカはラゼルから信頼されているということだ。信じられるというのは、こんなにも嬉しいものだっただろうか。
「ルカ?」
「今行くよ。ラゼルの舞踏会での振る舞いも、楽しみだな」
「いつもと変わりない。お前と違ってな」
そうやってまた微かな笑顔を見せてくれたラゼルに、ルカもまた笑顔を返す。
そう、それでいいんだよ、ラゼル。
私はラゼルの笑顔が見れて、幸せだ。
舞踏会の日を迎えて、王宮は朝から忙しなく動いていた。
その中にはルカがいた。厳密にはその中心にルカがいた。朝から色とりどりの花の浮いた湯に浸されて、全身丹念に洗われて、足も指も爪先もケアしてもらって、長い黒髪は何度も櫛が通されて香油が塗られ。あまりにも、それこそ行き過ぎるくらいの扱いにルカの意識はぶっ飛びそうになった。もういいよ、と言うこともできず、されるがまま全身をくまなくケアされてほぼ人形になっていた。
気の遠くなるほどのケアから漸く解放されたかと思えば、次に待ち受けていたものは膨大な数のドレスだった。くらり、と一瞬気が飛びそうになる。ただでさえ広い部屋だというのに、色とりどりのドレスが用意されていて。もしかしてと嫌な予感と共に侍女のリューシカへと振り向く。
「あの……これ、その、もしかして試着するドレス……?」
するとリューシカは声を弾ませて、満面の笑みを浮かべた。
「はい、勿論です! ルカ様には、お似合いになるドレスを見付けるまで、全部試着して頂きますっ!」
「は? 全部?」
「はい、善は急げです。さぁさぁルカ様。まずはあちらの黒いドレスから行きましょう! あちらのドレスは国内有数の洋服店であるギアナ・ド・レオンのもので、最高級のミカドシルクの布地をベースにしております。繊細なやわらかさの中にある重厚感、独特の光沢が特徴とされており、まるで黒真珠のような輝きです。黒という色調ではありますが、ミカドシルクの効果で落ち着きの中にも華やかさを感じさせます。ルカ様は肌も白くすらりとしていらっしゃいますから、黒いドレスを纏ったらきっとラゼル様の婚約者らしい大人の色香が漂うでしょう。では早速、試着してみましょう」
「え、ちょ、まって」
制止の声も届かず。侍女たちは素早い手つきでドレスを着せる。ルカはどうしようもなく、まるで着せ替え人形のように硬直していた。そして疲労と共に着せられた1着目を身に纏ったルカは、鏡の前に立つ。侍女達がわぁと嬉々とした声を上げる中、ルカはどう反応したらいいのだろうという気持ちになっていた。
上品な光沢のあるドレスはまるで月夜を溶かし込んだよう。ウエストを締め、膝下から緩やかに広がる裾はマーメイドラインだ。背中側は大胆に開いているものの、シルクの紐で緩く結わかれている為に下品さはない。両肩が露出している代わりにタートルネックで、きっと装飾品が上品に輝くのだろう。
そこまでは想像できる。実際、ルカの目の前にあるドレスは、純粋に素敵なものだった。
けれど鏡に映った現実は、とても、微妙だった。
正直言って似合っているのか、似合っていないのかも分からない。けれどここで気に入らないと言ったら、間違いなくまた着せ替え人形になるのだろう。恐ろしいことこの上ない。こういう時は、冷静に物事を判断してくれる人に、合っているか合っていないか言ってもらったほうがいいだろう。だが、今日に限ってマダムコルトンはいない。ラゼルの執事のロイも幼馴染みのグラムも優しいから間違いなく似合うと言うだろう。ラゼルなんて論外だ。見せたくない。
けれど見せなければならないのが、舞踏会という世界。残酷だ、とルカはげんなりとする。
「お気に召しませんでしたか……?」
ひょいと侍女のリューシカが顔を覗き込んできて、思わず小さく悲鳴を上げそうになる。ルカは考えに考えて、どうにか着衣の数を減らす方面へと向けようと思った。こんな量の数のドレス、着せ替えられたら心神喪失レベルだ。
「えーっとリューシカ。このドレス、すっごく素敵だと思うけど他にも見たいんだ。だからさ、私がパッと見て回って気になったものだけ着てみようと思うんだ。ほら、私が気に入らないドレス着たって時間の無駄だし」
「むむ……一理ありますね」
リューシカは愛らしい顔で少し悩んだあと、分かりました、と頷いた。
「それではルカ様の言う通りに致しましょう!」
「ありがとう。助かるよ」
本当に心底助かるとルカは安堵する。リューシカはまるで旅行のガイドのように広い室内を案内し始めた。
「ルカ様。こちらなどは如何でしょう? 王室御用達のア・ミルディゴのドレスなんですが、シルクタフタをベースとしています。この布は微細な皺があって、細やかな影を作り、柔らかいコントラストと光沢感を演出してくれます。お色も深い赤で、華やかながら高貴な印象を与えるかと思います。こちらは先程と同じマーメイドラインとAラインと、2種類のものをご用意してあります」
「なるほど……確かにすごい綺麗だね」
だが自分が似合うかどうかと言われるとそれ以上の感想が出てこない。せめてドレスに興味がある乙女だったら良かったのだが、ルカは元々そういうものに興味がない。興味がないというより、見ていると楽しいとは思うのだが、自分が着るとなると別問題だ。そうして多くのドレスに目をやっていると、赤いドレスが目にとまった。
赤か、とルカは思う。連想するのは勿論、ラゼルの赤い瞳だった。一瞬で自分の顔にかっと血がのぼる。
いやいや、とルカは頭を振る。黒髪はまだしも自分は青い目だ。青い目に、果たして赤いドレスなんて似合うのだろうか……と想像してみて、笑えるくらいに似合わないような気がした。ただでさえ美人の部類の入らないというのに、ちぐはぐなドレスを纏ってラゼルに迷惑をかけたら最悪だ。
「……ルカ様?」
心配そうに声をかけてきたリューシカに、ルカは何でも無いように笑う。
「ちょっとぼーっとしちゃった。ごめんごめん。もっと違うの見ようか」
「ルカ様。悩み事があるなら仰って下さい」
「……え?」
リューシカの言葉にルカは目を瞬かせる。愛らしい侍女は、はっきりと言った。
「明らかに今、ルカ様は何かお悩みになっていました。ルカ様、お話するのに私では不足ですか……?」
心から心配し、またルカのために役立とうとするリューシカの健気さに、ルカは降参するしかなかった。
「バレちゃったかー。実はさ、色について悩んでて……」
「お色、ですか?」
「うん。ほら、私の目って青いじゃん? だから青に合うドレスを選んだほうがいいのかなって……ほら、例えばさっきの黒とか白とか、あと青い瞳に合わせて青とかさ。色々あると思って──」
「ルカ様」
「はい?」
「誤魔化さなくても良いのです。ルカ様は、ラゼル様の瞳の色のようなドレスをお求めなのでしょう?」
完璧にリューシカに見抜かれて、ルカは穴があったら入りたくなった。こんなに自分は分かりやすいだろうか。恥ずかしさのあまり死にそうになったが、ルカは半ば自棄になって開き直った。
「正直言うと、そう、なんだ……本当は赤がいいんだけど、でもさ、明らかに青と赤って合わないじゃん!? 黒髪と赤は合うけど、青い目は流石にさ……」
「ルカ様、何を仰っているんですか? 思い悩む必要なんて一つもございませんよ?」
「え?」
もう駄目だと頭を抱えかけたルカに、リューシカは女神のように微笑んだ。
「赤と青が不似合いなど、可愛らしい悩みですわ。赤と言っても、色々な赤がございます。ここには沢山の赤いドレスがございます。何より、ここには王宮仕えの、熟練のプロたちがおります。是非、私たちにお任せくださいませ!」
「リュ、リューシカ……もしかしてなんだけど、赤いドレス全部試着ってことはないよね……?」
そう言うとぐっとリューシカの眉尻が上がった。凄い迫力だった。リューシカは腰に手をやって、厳しい口調で言った。
「ルカ様。申し訳ありませんがこれはルカ様の為です。お覚悟下さい」
見たこともないリューシカの表情や迫力に、完全にルカは気圧された。抵抗なんて間違いなくできなかった。
「…………ハイ、よろしくおねがいします……」
「ルカ様がそう仰って下さって嬉しいです。それでは、早速赤のドレスを探しましょう!」
「ああ、うん……お手柔らかにお願いします……」
これは長い戦いになりそうだ。
自分から言い出したことだし、リューシカたちの気持ちは嬉しい。とはいえ試着はもの凄く、疲れる。でももしも変な格好になったらどうしよう。明らかに周囲から浮いたルカを見て、ラゼルが周りにどう思われてしまうのか。
考えると怖い。
でも、もう考えずに選ぶしかなかった。
ラゼルの為にベストな、一着を。
舞踏会はやはり苦手だ。今すぐ自室に帰りたいとルカは思ったが、会場に入ってしまった以上そんなことはもう不可能だった。帰りたい。でも帰れない。あまりにも眩いシャンデリアが広々としたフロアを照らし、白いクロスが引かれた円卓の上には豪華すぎる料理の数々が置かれ、会場のあちこちで美しいドレスを来た令嬢や魅力的な男性が、笑顔を浮かべて話している。会場と言ってもここは普段、ルカが暮らす王宮である。この大広間だって普段は静かなものだ。だが普段は殆ど使われぬ大広間は今、これほどまでに飾り付けられている。宮廷舞踏会。こんな催し事が、こんなにも盛大に行われるなんて想像もしなかった。
……どうしたものか。
ラゼルの姿は何故かまだない。まさかギリギリまで仕事をしているのか。それとも単に人が多すぎて分からないのか。仕方がないのでルカは一人で、お菓子を摘まんだり、シャンパン片手に人間観察したり、それに疲れたら壁際で舞踏会って華やかだなっと他人事のように見ていた。シャンパンがなくなったのでもう一杯貰い、また壁際に行こうとすると背後から声をかけられた。
そこには笑顔を浮かべた、美青年が立っていた、
背は高く、明るい金髪のブルーアイズ。その顔立ちは整っていて、まるで王子様のようだ。おそらく女性の多くが目の前の青年とお近づきになりたいと願うだろう。だが日々、ラゼルというとんでもない美青年を目にしているおかげか、ルカ自身の心は全く動かなかった。ただ何故この青年が自分に声をかけてきたのか謎に思って──あ、と思った。
もしかしてラゼルの婚約者だと知って、金品か何かが目当てで取り入ろうとしているのではないか、と。
そんなふうに警戒するルカに、青年は優しげな笑顔を浮かべた。
「お初にお目にかかります。ルカ様。私は西のフィルドント王国の第一王子シルヴァービナ・フィルドントと申します」
王子。
西の王国、フィルドント王国。の、第一王子。
その単語に一瞬時が止まりかけたが、すぐに脳内のマダムコルトンが叱責しルカの目を覚ました。慌ててルカは礼をする。
「ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません。わたくしはルカ・フォン・ランケと申します」
「ラゼル様のご婚約者様と聞いていたので、是非ご挨拶がしたかったのです。お気になさらないで下さい」
「不敬をお許し下さって有り難うございます。お名前は存じ上げておりましたが、まさかシルヴァービナ殿下だったとは……」
「いいえ、それと私のことはシルヴァとお呼び下さい。こうして出会ったのです。ご迷惑でなければ是非お話させて下さい。アクアフィールは素晴らしい国と聞いておりますので」
シルヴァはそう言うと、同じくシャンパンを手にしてルカと共に壁際に来た。その間ずっと周囲の令嬢から刺すような視線を感じたが、一国の王子の誘いを無下にすることなどできず、ルカはどうにか笑顔を保ったままシルヴァと向き合う。
「フィルドント王国は通年温暖な気温の、緑豊かな国と聞いております。フィルドント王国だけに咲くメリア・フィルドントは白と青が綺麗に混じった美しい花で、国花となっていらっしゃっているとか」
「よくご存じで。我が国の花を知って頂いて嬉しいです」
「いえ、本で拝見しただけで、正直貴国のことの殆どが知りません。申し訳ありません、勉強不足で……」
失礼なことを言ってしまっただろうかと緊張していると、その緊張をほぐすようにシルヴァが笑った。
「ルカ様は正直な方ですね。社交界に於いては珍しい方だ」
「申し訳ありません、このような場はどうにも不慣れで……」
「いえ、そういうことを言いたいのではありません。純真で素直で、とても魅力的な方だと思ったのです」
優しい微笑を浮かべるシルヴァに、ルカはほっとする。どうやら気を害してはいないようだ。一国の王子なのだから、慎重に会話しなければならない。下手に気分を損ねたら大問題だ。ラゼルの顔に泥を塗ることになる。ただでさえこのドレスも化粧も似合っているかも分からないのだ。せめてちゃんと話くらいはしないと。とルカが意気込んでいると、
「綺麗ですね」
そんな言葉がシルヴァから飛んでくる。ああ、ルカは胸元に輝くネックレスに触れた。
「ありがとうございます。グリナ王国から頂いたラズラ石を加工して頂いたもので……」
「いえ、違います。勿論、ネックレスも美しいのですが……ルカ様はお美しい方ですね。ラゼル様が恋するのも理解できます」
柔らかい眼差しでこちらを見るシルヴァに、ルカは苦笑する。流石王族だ。お世辞もうまい。
「そんなことはありません。この場には私よりもっと美しく、教養のある女性がいます。ですがお気遣い頂いた事は嬉しいです。ありがとうございます」
「謙遜なさらないで。ねぇ、ルカ様。私はもっと貴女のことを知りたい。少しバルコニーの方へ出て夜風を浴びませんか?」
「え、ああ、そうですね。確かにここは少し人が多くて疲れ──」
言いかけた瞬間、背後から声がかかる。
「ルカ」
振り返ると正装を纏ったラゼルがいた。いつもと違って服は黒いコートで、金の刺繍や勲章で飾り立てられていた。いつもはもっとタイとシャツ、黒い外套といった割合動きやすさを重視した風体なので、まさしく王子といった姿にルカは当然、見とれてしまった。何を着ても似合うし、本当にラゼルは格好良い。なんてルカが考えていると、シルヴァとラゼルが談笑を始める。
「ラゼル様。こうしてお会いしたのは半年以上前のことでしょうか。再びお会いできて嬉しいです」
「私も同じ気持ちです、シルヴァービナ様。西の方は今も変わりなく太平で?」
「ええ。貴国と同じく我が国フィルドントも、問題なく平穏な暮らしを送っています。どうぞまたいらっしゃって下さい。その時はご婚約者様のルカ様と一緒に」
「ええ、是非。……失礼、少し婚約者と話があるので」
「分かりました。またお時間がありましたら、貴国の事についてお話し下さい。楽しみにお待ちしております」
そう言うとシルヴァは丁寧に礼をして華やかな会場へと戻っていった。ルカはラゼルに手を引かれベランダの方へ出る。一体話があるとは何だろう。もしかしてシルヴァと話していて何かまずいことを言っただろうか。ルカは難しい顔でラゼルへと尋ねる。
「ラゼル。話って何?」
「…………お前は……」
呆れたと言わんばかりに深々と溜息を吐いたラゼルに、益々ルカは眉根を寄せる。
「お前はって、だから何? もしかして私何かしちゃった?」
「……言い寄られていたのか分からなかったのか」
「はい?」
予想外の言葉にルカはもう一度と言うようにラゼルを見た。そんなルカに言い聞かせるようにラゼルはもう一度、言った。
「口説かれていた、と言っている」
その台詞にルカはぽかんとしたあと、けらけらと笑った。
「そんなまさか~、だって私はラゼルの一応婚約者だよ。それにあんな好青年王子が口説くなんて──」
「……シルヴァービナも、ツヴィンガー王国の王子と同じ類いの人間だ」
ツヴィンガー王国の王子。輸出大国の王子だ。確か王妃であれ婚約者であれ手を出す、とんでもない男だと聞いていた。けれど、どう考えてもあの優しげな紳士であるシルヴァービナ王子がそんな人だとは思えなかった。
「ラゼル……仕事のし過ぎて目がおかしくなったんじゃ……」
「俺は正常だ。シルヴァービナ王子の女好きの噂は社交界では有名だ。……それを狙って迫る女性は少なくはない……」
「へぇ、あんな好青年がそんな人とは……しかし私を口説こうとするなんて、女なら誰でもいいのかなぁ。変な人」
「変じゃない」
「あれ、そこは肩を持つんだ? だとしたら、ラゼルの好みも変わってるんだろうなぁ」
腕を上に向けてあげ、うう、とルカは背伸びをする。何をした訳でもないのに、いたる所が固まって仕方ない。ふう、と腕を下ろすとラゼルがじっとこちらをみているのに気付いた。その視線はルカのつま先から顔まで見ている。そこで、はっとルカは気づき慌てふためいた。今にも逃げ出したい気分だった。
「あっ、ど、どうかな? やっぱり、似合わない、かな? 目が青色なのにドレスが赤なんて──」
「いや」
言葉を遮るようにラゼルは言った。
「似合っている。……誰にも見せたくないくらいに」
「そ、そっか! 良かったー! でもラゼルは大袈裟だなぁ。すごく嬉しいけど」
たとえ世辞であっても、あまりにも恥ずかしくてルカは茶化す。
「だが赤が似合わないと思ったのに、赤を選んだのは何故だ?」
「秘密」
「気になる。言え」
「嫌です。絶対無理」
お互い睨み合うように見つめ合う。だがその攻防に白旗を上げたのはラゼルだった。
「まぁいい。……だが俺の瞳と同じ色を選んだのは、悪くない」
「べべべべ別にラゼルの瞳に合わせたとかじゃないよ!? 赤色が元々好きで」
「分かっている。どうせお前のことだ。大した理由ではないんだろう」
そう言われると若干傷つくものがあったが、ルカは誤魔化せるならそれでいいと笑う。
「失礼だな。でも言われてみれば大した理由でもないかも。絶対言わないけど」
「そうか。では会場に戻ろう。面倒だが俺はこれからひたすら挨拶される側になるな……」
「あーラゼルは王子様だもんねぇ……絶対、公爵令嬢とか侯爵令嬢から婚約者交代アピールされるよ。頑張って。私はシャンパン片手にそのへんうろうろしてる」
「……変な男に絡まれないよう気を付けろよ」
「はいはい」
改めて会場に戻ると、ラゼルは早速執事のロイに呼ばれて公爵家の令嬢の元へと向かう。それを目で追いながらルカは思う。公爵令嬢は女性らしい豊満なバスト、きゅっと締まったウエスト、それからすらりとした長い足の女性をしており、金銀の刺繍がなされた純白のドレスを身に纏っていた。スタイルだけではなく顔立ちも整っていて、すっと通った鼻筋、ぱっちりとした瞳はエメラルド。髪は太陽のような眩いブロンドで唇は薔薇のように鮮やかだった。高価な装飾品もドレスも、令嬢自身の美しさには負けるほどだった。ラゼルの美しさには及ばないが、それでも女神のように美しい令嬢は、ラゼルの隣に並ぶと相応しいくらい素敵な女性だった。その美しい二人が並び合う絵に周囲が感歎の溜息を吐く。彼女は「リリー・ティア・ディーク」という名前の公爵令嬢らしく、その美しさと明晰な頭脳、上品な佇まいはまさにラゼルの婚約者に相応しいと囁かれている。仮の婚約者とはいえ肩身が狭い。
「お似合いの二人ってこういう事をいうんだろうな……」
溜息と共にそんな言葉が出てしまう。出てすぐ、駄目だ駄目だとルカは己を叱咤する。もう自分は、ラゼルの幸福を願うと決めたんだ。確かに今でも未練たらたらだし、ドレスだってラゼルの瞳の色で選んだりしてるけど、これくらいは甘く見て欲しい。心に秘めた片思い。けれどその相手の幸せを願うから、許して欲しい、だなんてルカは誰にともなく思った。
そんな時に幾分か酒が入った後。
「あら、ルカ様じゃありませんか!」
聞いたことのない女の声が飛び込んだ。振り返るとやはり見たことのない令嬢が三人。どの令嬢もしっかりめかしこんでいて、ドレスも髪型も化粧も、この日の為に生きてきましたというような意気込みが伝わってくる。何か嫌な予感がするぁと思いながらルカは作り笑いをして令嬢三人と向き合う。
「突然お声がけしてしまい申し訳ありません。ですがラゼル様のご婚約者様であるルカ様と、是非わたくし達、ご挨拶させて頂きたいと思いまして……わたくしはヘルベルン侯爵の娘、アメリア・ド・ヘルベルンと申します」
次いでアメリアの取り巻きというようなポジションの令嬢が挨拶する。
「わたくしはミッチェル侯爵家のオルガニア・ド・ミッチェル」
「わたくしはハルベート侯爵の長女、ルイード・ド・ハルベートですわ。以後お見知りおきを」
きらびやかで、ゴージャス。言い方が良ければそれだが、悪い言い方をすればド派手だった。こういうタイプは正直言って苦手だ。ルカは笑顔がひきつりそうになるのをどうにか留めながら、マダムコルトンに厳しく教わった上品な令嬢らしい挨拶で返す。
「こちらこそお声がけ頂きありがとうございます。わたくしはランケ伯爵家の、ルカ・フォン・ランケと申します。この度は素敵なお嬢様たちにお会いできて光栄ですわ。どうかこれを機に親しくして頂ければ嬉しく思います。アメリア様、オルガニア様、ルイード様。今後どうぞ宜しくお願い致します」
それから綺麗な礼をし、最上級の笑顔を浮かべる。勿論作り笑顔だ。全然親しくなりたいとは思ってなどいない。真っ赤な嘘だ。それでも一応、建前上は「ラゼルの婚約者」となっているのだ。それなりの礼を尽くさねばならないだろう。
だが、そんなルカの温和さが気にくわなかったのか。それとも嫌味を最初から言い来たのか。三人の令嬢は口々にルカへと話しかける。
「それにしても、伯爵家の令嬢がまさかラゼル様の心を射止めるなんて、意外ですわ」
「そうね、てっきりラゼル様は女性に興味がないと思っていたので、どんな方かと気になっていたわ」
「けれどルカ様とこうしてお会いになったら分かりましたわ。ラゼル様はどちらかと言えば素朴な……いえ純真無垢な方がお好みだったのね」
一斉に話されてルカはその言葉の弾丸に気が遠くなりそうになる。しかもどれも悪意を一滴垂らしたような言葉だ。けれどこんな言葉で挫けてはいけない。なにせルカはラゼルの「婚約者」なのだ。ルカは余裕たっぷりの笑顔で答える。
「そうですね。まさかラゼル様がわたくしに想いを寄せてくれるなど、わたくし自身思いもしませんでしたわ。わたくしは伯爵家の出身ではありますが、ラゼル様はそんなわたくしにも優しく接して下さいます。ラゼル様のような素敵な王子に愛されるなど、本当にわたくしは幸せ者ですわ」
本当は恋愛という意味では愛されてはいないけどね、とルカは言いたくなる。けれどルカの名演技はどうやら三人の嫉妬心に火をがつけたらしい。笑顔を浮かべたまま、更に言葉を続ける。
「まぁ! 殿下にご寵愛されているようでとても羨ましいわ! でもどんな方法で殿下の心を掴んだのかしら。是非聞かせて頂きたいわ」
「おやめなさいオルガニア。ここにいらっしゃるのはラゼル様のご婚約者様ですのよ。勿論、わたくし達には言えない秘密の手を使って殿下の心を掴んだのよ」
「そうね。そうでないと伯爵家の令嬢が、殿下の心を射止められる訳がないじゃないですか。きっと想像もつかない方法で射止めたのよ」
疲れた。面倒くさい。とルカは思った。
おそらく目の前の三人はこう言いたいのだ。
素朴で派手さもないただの伯爵家の娘が、色仕掛けでもしてラゼルの心をむしり取ったのではないか、と。
けれどルカはそれに対し反論したい。ラゼルの性格的にどう考えても色仕掛けなんて無理だ。絶対にあり得ない。そもそもラゼルは既に思いを寄せる女性がいる。それがどんな人かは分かっていないけれど、きっと心が清らかで、色仕掛けなんてしない人なんだろう。
目の前の三人の令嬢は、ルカがそんなことを考えているとは露知らず、勝手に話を進めていく。
「今日のお召し物も素敵ですわ。流石ラゼル様のご婚約者ですわね。青い目に赤いドレスなんて考えもしませんでしたわ」
「そうですわね。矢張り王族に関わる女性として、常に最前線の流行を追っているんでしょう?」
「勿論そうでしょう! そうでなければ、青い目に赤いドレスなんて不釣り合いですわ。わたくし達の考えがあまりにも古典的なのね」
今度はドレス批判ときた。これには少し堪えるものがあった。
けれどラゼルは似合っていると言ってくれた。それだけで十分だったし、正直下品なまでにド派手な三人には言われたくない。いっそこちらかも毒を含んだ言葉を返してやろうか。そう考えた所で燃えかけた心を沈める。心の中で深呼吸する。ここでキレたらラゼルに迷惑をかけること間違い無しだ。ルカはそれらしい微笑を浮かべたまま、その言葉に対して答え返す。
「ありがとうございます。そのお言葉とても嬉しいですわ。わたくしも最初は赤いドレスはどうかと悩んだのですが、ラゼル様がよく似合っていると仰って下さったので安心致しました。本当にラゼル様はわたくしには勿体ないくらいに、素敵な方ですわ」
にっこりと笑ってルカは言う。これには三人も悔しさがこみ上げたのだろう。何かまた言ってくるか、と心中でルカが待ち構えていると、案の定言葉が突き返してくる。
「あら、本当にラゼル様はお優しい方なのね。でもどうして今日、ラゼル様の側にルカ様はいらっしゃらないのかしら?」
「確かにそうねぇ。ルカ様、そのあたりはどうなっていらっしゃるの?」
「こら、おやめなさいルイード。それはラゼル様とご婚約者であるルカ様との問題……いえ、話し合いがあったのでしょう」
要するにこうだ。
婚約者のくせに何でラゼルの側にいないのか、お前、それほど愛されていないんじゃないか、と。
彼女たちは言いたい訳である。それは一理あるなとルカは思った。けれど同時に、ラゼルの事をこの三人よりずっと理解しているという自身が、ルカを突き動かせた。
「実はわたくしこういう場は苦手で……けれどラゼル様はそんなわたくしの気持ちを汲んで自由にさせて下さったの。こんなにもわたくしを思いやって優しくて下さるラゼル様の婚約者になれて、わたくしは本当に幸せ者ですわ」
それこそ花が咲くような、これ以上なく幸せと言うような笑顔でルカは言う。これには完全に打ちのめされたらしい。三人の令嬢は「こんなにも愛されているなんてルカ様が羨ましいわ」と口々に言っていた。ようやく終わったか、とルカが退散しようとすると、不意に三人の視線がルカから違うところへと移った。
何だろうと思ってルカが振り返ると、そこには薄いグリーンのドレスを着たドレスを着た令嬢がいた。壁際に、所在なさげに立っている。一体何だろうと思っていると、三人令嬢組がその子に向かって「あらセリアンじゃないの!」と声をかける。声をかけられたセリアンなる少女はびくりと身体を震わせると、アルメリア達のもとにのろのろとやって来た。セリアンは明らかに表情を曇らせて、三人にお辞儀する。アメリアたちはセリアンに「こちらラゼル様のご婚約者よ」と言ってさりげなく挨拶を促す。セリアンは慌てたように頭を下げる。
「も、申し訳ありません……! ご挨拶が遅れました、メルヴィン家のセリアン・セレ・メルヴィンと申します……っ」
「どうか頭を上げて下さい。わたくしはルカ・フォン・ランケ。ラゼル様と婚約させて頂いております」
「セリアン。貴女、またそんな地味なドレスを着て、勿体ないわ」
急に横柄な態度でセリアンにそう言ったアメリアにルカは目が点になる。他の二人もルカによって与えられたストレスをぶつけるようにセリアンに向かって言った。
「あらやだセリアン。今日もお化粧がなってないじゃない。そんなんじゃ殿方に振り向いてもらえないわよ」
「いやだわ、ルイード。セリアンは何でも控えめなものをお好みなのよ」
「ああ子爵の娘ですものね。慎ましやかな生活って素晴らしいものだものね。まるで修道女みたい」
何だこの女たちは、とルカは内心苛立つ。セリアンなるこの少女とは初対面だが、流石に言い過ぎなのではないだろうか。けれどセリアン自身は暗い表情で、そうでうね、と言われるがままに頷いている。
「ねぇセリアン。貴女、いっそのこともっと派手に振る舞ったらどう? そうねぇ……例えばユリアン侯爵にアピールするとか」
「なにも怖がることないわよ。ユリアン侯爵は女性に優しいと聞くし、貴女でも受け入れて下さるかもしれないわよ?」
「そうね! それはいい考えだわ。ほらほらセリアン。行ってみなさいよ」
そんな苛めのような提案にセリアンは小さく首を横に振って、引きつった笑みを浮かべる。
「それは……すみません、ちょっと、できないかと……」
「え? わたくしたちが折角アドバイスして差し上げているというのに言うことが聞けないの?」
「すみません……でも私は、まだ一人でいいので……」
謝罪するセリアンに、わざとらしくアメリアは深く溜息を吐き出す。それからじろりと、まるで汚いものをみるような目でセリアンを見た。
「だから貴女はいつも駄目なのよ。舞踏会に来たというのに何もしないで。お母様とお父様に恥ずかしくないわけ?」
「そうよ。結婚して親孝行するのがわたくしたちの務めでしょう? なのに一人がいいだなんて……」
「それともあれかしら? ご両親は貴女が結婚できるような娘じゃないと思っているのかしら。だとしたら納得ね。そのみすぼらしいドレスも、冴えない化粧も……ああでもそれは素敵ね。お母様から貰ったと聞いた、このネックレス」
そう言うとルイードは無理矢理セリアンからネックレスを奪い取る。さぁっとセリアンの顔から血の気が引くのが分かった。
「あ……それは……返して、ください。母から貰った大切なものなんです」
「ふうん、でもそのお母様はどうせ貴女のことを結婚もできない厄介者だと────!?」
ビシャン、という水音が会場内に響いた。
令嬢三人組は水浸しになって呆然としていた。
セリアンもまた目を一杯に大きくして驚いていた。
ルカの手には氷が溶け、水で満たされていたシャンパンクーラーがあった。
しん、と静まり返った会場の中で、ルカは無言でセリアンのネックレスをもぎ取ると、にっこりと笑った。
「あらごめんなさい。手が滑ってしまったみたい。でも水を被っても皆様、素敵よ。化粧も崩れて本来の美しいお顔に戻られたじゃないですか。飾らないその美しさ、きっとどんな殿方も夢中になるわ」
三人は完全に硬直していた。
けれど驚きがふつふつと次第に怒りに変わったのだろう。三人組の中でも親玉といえるアメリアが声を上げた。
「貴女! ラゼル様の婚約者だからと言って、こんな扱い許せませ──ッ!」
乗り出したアメリアの頭に、今度はルカは容赦なくシャンパン一瓶をぶっかけた。きゃあっ、とアメリアが悲鳴を上げる。ルカは空になった瓶を手にしたまま、睨み付けるようにアメリアたちを見た。
「弱い者苛めして楽しいですか? ましてや、大切な家族を愚弄するような人の何処が令嬢ですか。大切な人の大切なものを傷つけてはいけないなんて、子どもでも分かることですよ? それが分からない貴方たちは、とんでもなく馬鹿で醜いと思います。恥を知りなさい」
ルカはそう言うと、セリアンにネックレスを大切なものを扱うように返す。セリアンはぎゅっとそれを胸に握って、ありがとうございます、と涙をにじませて言った。ルカはふうと息を吐き出すと、再び三人組へと鋭い視線を向けた。
「今度もしこの子を苛めるような事があったら、許しませんからね。私は弱い者苛めが大嫌いなのです。覚悟しておいて下さい。……常に見ておりますから」
「ヒ……ッ」
震える令嬢たちはまるでルカを化け物を見るような目で見ていた。それを見て頭に溜まっていた怒りがすっと引くのが分かった。同時に、さぁっと血の気が引く。会場の全ての人の視線が、ルカに集まっていた。勿論、ラゼルも見ていた。まずいということになった、というのはルカにも分かった。ルカは取り憑くように笑顔をを浮かべて、会場全体の人々へと礼をした。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。それではわたくし、これにて失礼させて頂きます。では!」
そう言ってルカは慌てて会場から飛び出る。飛び出た王宮で可能な限りの早さで廊下を走る。
まずい、
まずい、
これはまずい、
やばい、
流石にやってしまった────!
ルカは猛ダッシュをして部屋に入ると、一気に泣きたくなった。自分がやったことに対して悔いはない。正しいことをしたとは思ったが、方法を完全に間違えた。怒りで水をぶっかける女などを「婚約者」にしているラゼルに、申し訳なくて仕方なかった。今頃ラゼルは一人きりで、あの会場にいる人々に、あんな婚約者を選ぶなんてどうかしている、と言われているにちがいない。それなのにラゼルを残してそこから逃げてしまった自分は──大馬鹿だ。とんだ薄情者だ。今すぐ婚約破棄してほしいと思った。そうしたら、ラゼルも目が覚めたんだと、周囲は納得する。
ルカはベッドに飛び込む。そのベッドの寝心地の良さからも、もうお別れだ。実家に帰ろう。両親は馬鹿だなぁと言いつつ笑って受け入れてくれるだろう。そう想像することでルカはを折れそうな心を保っていた。
どうしよう、どうしよう、と唸りなが、それでももう取り返しがつかないんだ、と激しく後悔して。
それからどれくらい時間が経っただろう。
コンコン、と部屋の扉をノックする音が聞こえ、ルカはびくりと身体を震わせた。来訪者は誰だが扉を開けなくても分かった。ラゼルだ。ルカは顔が真っ青になる。このまま心臓麻痺になって死んだらどんなに良かっただろう。
「いるんだろう?」
「…………」
「沈黙は肯定とみなす。開けろ」
「……無理」
「それなら開ける」
「え」
ラゼルが扉越しに言うなり、閉めたはずの鍵がカチャリと動き扉が勝手に動く。魔術によって強引に入ってきたラゼルにルカは叫ぶ。
「魔術を使って入ってくるなんて卑怯だ!」
「卑怯も何も、お前が素直に開けないからだ」
「プライベートってものをご存じで?」
そんなルカの言葉はまるで無視をして、正装の上着を脱いでルカの隣に座った。赤い瞳がこちらに向けられ、ルカはもう限界だった。
「……大変申し訳ありませんでした。貴方に恥をかかせてしまった。今すぐ婚約破棄して下さい。そうすれば失った威光も少しは取り戻せるでしょう」
折角この前ラゼルが心を開いて告白してくれたというのに、何て馬鹿なことをしてしまったのだろう。信じていた人に裏切られる痛みは誰よりも分かっていたはずなのに、とルカはドレスの布地を握りしめる。申し訳ない。ただその一言に尽きた。
隣にいるラゼルが見れなくて俯いていると、小さく笑う声が聞こえた。思わず見遣ればラゼルが可笑しいと言ったように声を殺して笑っていた。何故笑うのか分からずルカが見遣れば、ラゼルの手がぽんとルカの頭をぽんぽんと優しく叩く。その赤い瞳は優しい色を灯していた。
「馬鹿だな。婚約破棄などする訳がない。本当に可笑しな奴だ」
「でも、私あんな場所であんなことをして」
「あれは愉快だったな。初めてだ。こんな舞踏会は。……シルヴァービナ王子が益々惹かれたなどと言っていたのが気にくわなかったが」
ラゼルはふて腐れたように言う。
「あの人、またそんな冗談言っていたんだね。変な人。でも……その、大丈夫だった? 舞踏会をぶち壊しにしてしまったけど」
「ああ、むしろ良い余興となったくらいだ。勇気ある女性だとお前のことを褒め称える者も出たくらいだ」
「それは……良かったけど、結果論だよなぁ……ちょっと間違えば王族の名誉を毀損するところだった……」
がくりと項垂れるルカに、小さくラゼルは笑う。
「安心しろ。何があろうと婚約破棄はしない」
「ラゼルが本当に好きな人と結ばれるまで、婚約破棄はしない、ね。それで? その想いを寄せる子とはどうなってるの? 進捗を教えてよ」
「……話をした。俺にとって大事な話だ」
「ふうん。それで、彼女はちゃんと聞いてくれたんだ?」
「ああ、そうだな」
「そっか。それは良かった! それじゃあ今度はラゼルが、その彼女に大事な話を聞ければいいね。そうやって信頼関係を築けば、いずれ恋に発展するかもしれないよ。秘密の共有っていうの? 信頼関係を築くのには、そういうのが大事みたいだし」
心は矢張り相変わらず痛むけれど、ラゼルの為と思うなら痛みも幾分か治まってくれた。
正反対にラゼルの表情は曇ったものになる。
「……だが、肝心な事が言えない」
「告白するって事? そんなに急がなくても……いや、急がなくちゃならないのか。国王陛下のこともあるしね」
「それもあるが……上手い伝え方が分からない」
「上手い伝え方が分からないって、そんなの簡単じゃん。ただ好きです、って言えばいいんだよ。別に他の言葉で飾らななくても良いと思う。ラゼルが思っていることをそのまま、好きな人に伝えればさ」
「そうか……」
そう言ってラゼルは何か思い耽るように黙る。気持ちを伝えることはそんなに難しいだろうか。とルカは自問してみて、ラゼルの気持ちが分かる気がした。確かに今の自分がラゼルに告白できたとしても、好き、なんてたった2文字の単語を口にするのは難しい。
「ルカ」
「ん? 何?」
「頼みたいことがある」
「私ができることなら。それで? 何をすればいいの?」
「…………」
そこで謎の沈黙をラゼルは挟む。深刻そうな表情に、どうしたのかと心配になる。ルカが「大丈夫?」と声をかけようとしたが、それより先にラゼルが口を開いた。
「……練習させて欲しい」
「は?」
「だから……気持ちを伝えるのが難しい、と言っただろう。だから……」
言葉を惑わせるラゼルに、ああ、とルカは納得する。
「つまり私に練習台になってほしいと。そういうことだよね? でも大丈夫? 私だとリアリティが無くなるんじゃない?」
「問題ない。むしろ……お前はいいのか?」
本心は勘弁して欲しいと言いたかったが、ルカは笑顔をつくって鷹揚に頷いた。
「いいよ。さて、じゃあ早速練習しようか。好きな人を想像して、ちゃんと目を見て言ってみて」
「……………………」
無言。直視。全く動きがない。ラゼルのそんな姿にルカは溜息をつく。
「ラゼル……練習でこんなんだったら駄目だよ。恥ずかしいのも分かるけど、男の人なら堂々と言わないと」
「…………分かった」
そう言うとラゼルは赤い瞳でルカをもう一度見詰め、形の良い唇で言葉を紡ぐ。
「好きだ」
「────っ」
自分のことではないけれど、やはりそう言われるとルカは堪らない気持ちになった。好きな人に──ラゼルにこんなふうに言われたら、どんなに幸せだろう。きっとラゼルの好きな人は、世界中の誰よりも幸せだ。
ルカは甘い痛みを隠しながら、はにかむように笑う。
「うんうん、良いんじゃない? シンプルイズベストって言うしね!」
「……愛している」
「え……」
聞こえてきたラゼルの声は真剣そのもので。ルカが戸惑っている内に、ラゼルは言葉を更に紡ぐ。
「好きだ、愛してる。俺だけを見て欲しい」
「ラゼル、ちょっと待って。そこまで言わなくても」
制止しようとするルカを無視してラゼルは言う。長い睫毛に縁取られた赤い瞳も、愛を紡ぐ唇も、すべて綺麗だった。
「好きなんだ。どうしようもなく。俺は、お前が幸せに笑う姿をずっと見ていたい。そして叶うならその傍で、俺はお前と一緒にいたい。お前を守るためなら、俺は何だってする。だから……ずっと俺のそばにいてほしい。俺は、お前を愛しているんだ。どうしようもなく好きなんだ」
「…………っ」
普段のラゼルからは決して紡がれない甘い言葉。
それは練習にしてはあまりにも真剣で、まるでそこに、ラゼルの愛する人が本当にいるかのようだった。ルカは反応しては駄目だと思いながらも、膨れ上がる想いが表情に出てしまう。顔が熱くなる。心臓が早鐘を打つ。ラゼルの赤い瞳から逃れたいと思うのに、それができない。
それでもルカはあくまで「練習台」で。
震える恋心をひた隠しにして、ルカは笑った。
「やだなぁ、そんな情熱的な告白ができるなら十分だよ。多分、ラゼルにそんなふうに言われたら絶対に好きになっちゃうって。頑張って!」
ルカがそうやって言うと、ラゼルは沈黙の後、何故か落胆したような色を見せた。
「……あまり自信はないがな。なにせ相手には、別に好きな男がいる」
「あー……そういえば、そうだったね……」
羨ましいなぁ、とルカは言いたくなって唇を引き結ぶ。どうしてこうもうまくいかないのだろう。ルカはラゼルが好きで、けれどラゼルの好きな相手には愛する人がいて、もしかしたらその相手にも好きな人がいるかもしれなくて────せめて、どこかで誰かが誰かと結ばれれば良いのだろう。ラゼルの恋はまだ十分に可能性があるが、ルカの恋は残念なことに見込みがない。ラゼルを振り向かせるような魅力など何処にもないのだから。
「ラゼル。辛いと思うけど頑張ってね。うまくいくこと、心から応援している」
「……そう、だな」
そう言ったラゼルの横顔が少し寂しそうに見えたのは、きっと愛する女性を思ってのことだろう。
うまくいけばいい。
そうしたらラゼルは、こんな表情をしなくて済むのだから。
ジクジクと心は痛む。
けれど、とルカは苦笑する。今世では誰かを好きなれたのだ。それ自体、喜ばしいことなのかもしれない。
前世では、あの別れ以来結局、誰も好きになれなかったのだから。
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