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白日

※残酷表現が含まれます。ご注意下さい。


 ロイが立ち去った後、窓から差し込む月光を眺めながらルカは思い耽る。


『この地に悪魔がいない理由。それはジュダ様、ラゼル様の二人が深く関わっているのです』


 悪魔、とルカは呟く。

 遙か昔、太古の世界では悪魔が人を襲い、苦しめていたと聞いた。

 けれどそんなのは何千年も昔のことで、人は知識と力を持ち、また226年前の大戦に巻き込まれる形で悪魔は滅びていった。それが学院で学んだことだ。けれどそんな悪魔とラゼルとラゼルの兄が、どうして関係しているのか。考え得る仮説は一つだった。


 かつて確かに悪魔がこの地にいた。それは事実だ。

 そしてその悪魔が──ラゼルの兄であるジュダを何らかの方法で、殺す形になった。

 病死でもなく、ただロイは「亡くなった」とだけ言った。ならば、こう考えるのが自然な線だろう。


 だが疑問が残る。

 それでは何故、ジュダを殺したこの地に悪魔が一体もいないのか。何故、悪魔がいたというのにアクアフィールはこれまで無事だったのか。

 そして、そこに何故ラゼルが関係してくるのか。

 9年前というと、ラゼルは12歳。ジュダは22歳の頃だ。


 ルカは眠るラゼルの傍らに座りながら、更に思考を進める。

 再び仮説を先の仮説に組み合わせる形で立ててみる。何らかの事情により、ジュダは悪魔と戦うことになった。そしてその場に偶然居合わせたラゼルを庇って死んだ。これがラゼルとジュダが悪魔と関わる話としては自然だろう。幼い弟を、兄が守って死ぬ。その罪悪感からラゼルは「兄上」と口にした。この仮説であれば、謎は幾つか残るものの納得がいく。

 けれど、とルカは眠るラゼルを見る。こんなものは仮説でしかない。真相は結局、ラゼルの口から語られない限り分からないままだ。ただ、ラゼルが時折見せる憂いのような影は、この「兄の死」が深く関係しているのだろう。


 ──聞きたい。

 それは好奇心からではない。ただ、心配なのだ。ルカの知らない苦しみを抱えて生きるラゼルの、悲しみを少しでも拭いたい。そんなこと自分ができるかは分からない。けれど無力だからと言って、何もしないのは間違っている気がした。

 不意に、ラゼルの睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がっていく。ぼんやりと赤い瞳は天井を見ていたが、ルカの気配に気付いたのだろう。視線をルカへと向ける。見たこのない弱々しい、視線だった。ラゼルは未だに血の気のない唇で、静かに口を開く。


「俺は……」

「倒れた。起きたら殴ろうと思ってたけど気が変わった。おはよう、ラゼル」

「……今、何時だ」


 半身を起こし壁に背を預けたラゼルがぼんやりとした口調で言う。


「日付が変わったところ。具合はどう?……っても、何を言おうと働こうとしたら寝かせるつもりだけど。抵抗するなら無理矢理押さえつける」

「非力なくせに……」

「弱ったラゼルになら勝てるよ」


 そうルカが笑ってみせれば、ラゼルも微かにだが笑う。良かった。少しは体調が良くなったみたいだ。おそらく明日にはそれなりに良くなっているだろう。ルカとしてはもっと休んで欲しいが、ラゼルがそれを良しとはしないだろう。きっと明日には元通り政務に戻る。溜息を吐く。ルカの溜息にラゼルは苦々しい表情を浮かべる


「すまない。迷惑をかけた」

「そういうんじゃない。迷惑なんてかけていい。たださ、明日からは必ず二食か三食は食べて最低6時間は眠ること。分かった?」

「それは……」

「無理とは言わせないよ。監視するから。正直心臓が止まるかと思ったんだから。もう二度目はなし。いい?」

「善処する」

「善処じゃなくて必須! 仕事が忙しいのなら他の人をもっと頼って良いんだし、私でもできることならする。以上」

「……お前は時々、妙に勇ましいな」

「褒め言葉として受け取っておくね」


 そんな他愛のないやり取りをしてお互いに笑い合う。ラゼルは口端を持ち上げるような微かなものだったが、それでも優美な微笑だった。子どもの頃のラゼルはどうだったのだろう。ふと、疑問に思って尋ねてみる。


「ラゼルって子どもの頃からそんなんだったの?」

「……どういう意味だ?」

「あんまり笑わないじゃん。昔から内気な子だったのかと思ってさ」


 ルカの何気ない問いに、何故かラゼルは閉口する。まるで遠い記憶を辿っているようだった。ラゼルは小さく息を吐くと、答えた。


「……昔は今とは違っていた」

「ふうん。無邪気だったんだ。ラゼルが声を上げて笑う姿、きっと可愛かっただろうな。見てみたかった」

「ああ、その上泣き虫だった。だが昔は兄上がいて、よく二人で──」


 そこまで言ってラゼルはしまったというように口を閉ざす。おそらく、兄のことをルカが知っていないと思ったのだろう。ルカは平静を装って答えた。


「大丈夫。知ってるよ。お兄さんがいたこと。……亡くなったことも」


 ルカが言えば、ラゼルは微かに目を見開いたあと、そうか、と言葉を零した。室内に静けさが舞い込んだ。お互いに何も言わなかった。長い沈黙だった、ルカはラゼルの言葉を待った。失った兄のことを言いたくなければ言わなければそれでいい。でも、言ってくれるのなら言ってほしい。そう思った。

 けれどこれ以上待っていたらラゼルの身体に障るだろう。

 眠ろうか、と声をかけようとした。だが、それをラゼルの言葉が阻んだ。


「……兄上もお前のように太陽のような人だった」


 その声音は優しかった。聞いたこともないほどに。それこそ童心に返ったかのようだった。


「兄上はいつだって俺の味方だった。俺にとって自慢の兄だった。だがお前も要った通り……亡くなった」


 そう言うとラゼルの血の気の失せた唇が、どこが縋るように、ルカの名前を呼ぶ。


「ルカ」

「……何?」


 聞かなくとも分かるのにルカは、改めてラゼルへと尋ねる。本当に、いいのかと。

 ラゼルは赤い瞳を惑わせたあと、覚悟を決めたように今度はまっすぐにルカを見た。


「話を、聞いてくれるか。……兄上が死んだ、理由を」

「……うん。ラゼルが話してくれるなら」


 ルカが頷くと、ラゼルは何処か恐れるように言う。


「その話を聞いたら、お前は俺を嫌悪するかもしれない。それでも……」

「大丈夫」

「何故そう言い切れる」


 顔には出ないが、ラゼルが怯えているのは、十分過ぎるくらいにルカには伝わった。ルカはそんなラゼルの心配を拭い去るように笑った。


「ラゼルだからだよ。ラゼルだから、どんな話も受け止める」


 ルカは優しくラゼルの手を包む。少しでもこれでラゼルが安心できるように。ラゼルは今、明かしたくないことを明かそうとしてくれている。それはルカを信頼してくれているからだ。恐れながらも、心の底にある部分を、言葉にしてくれようとしている。


「……少し、長い話になる。それでも……俺から、逃げないか……?」

「馬鹿だなぁ。どんな話だって私は逃げないよ。ちゃんとラゼルの側にいる。それとも私がラゼルの話を聞いて逃げるような薄情な奴に見える?」


 ルカは優しく語りかけるように笑う。ラゼルはそうか、と言うとルカから目を背けたまま、口を開いた。


「兄上が亡くなったと、言ったな」

「……そうだね」

「当時国民の多くが兄上が病死したと報された。だが、事実は違う」


 ラゼルはまるで痛みを堪えるようにシーツをぎゅっと握りしめ、そして、血反吐を吐くように言った。


「……兄上は、殺された」


 紡がれた事実は、ルカは覚悟がしていたことだった。

 けれどこうして実際ラゼルの口から聞かされると、それは重みをもってルカの内側に落ちていった。それは重い痛苦だった。ラゼルがゆっくりとこちらを向く。その赤い瞳にある感情は、悲しみと怒りが混じり合って、切なさを灯していた。

 けれどラゼルはそんな感情を殺すように、告げた。


「兄上は、俺の目の前で、殺された」


 殺された。それも──ラゼルの目の前で。

 ああ、仮説は当たってしまった。ルカの心がより一層重く、昏くなる。けれどルカよりもずっと、ラゼルの心にあるものは重く、昏いのだろう。きっとその一言だけでも、ラゼルの心は酷い痛みに射貫かれたに違いない。それでもラゼルは続けた。遠い昔を語るように。


「過去に、東の森という場所があった。このラティア大陸に広がっていた、広大な森だ」

「え……でも、そんなもの地図には」

「載っていない。東の森は、王族の魔術によって凍結され隠されていたからな。凍結の理由は単純だ。其処に、悪魔がいたからだ」


 悪魔。

 執事のロイから聞いた単語にどくりと心臓が跳ねる。ロイから聞かされていたというものの、ラゼルからも聞かされると、本当に実在したのだと実感し恐ろしくなった。

 架空の存在、としか思っていなかった。けれど国民を悪魔から守るために王族が秘匿していたのだとラゼルは言った。ルカは「でも」と声を上げる。


「悪魔は見つけ次第駆除するものなんでしょう? なら何で」

「悪魔には等級がある。東の森にいたのは第2級悪魔。226年前の大戦で巻き込まれ、滅んだとされる第1級悪魔の次に力を持つ悪魔だった。先代の国王の魔力では第2級悪魔とそれに仕える悪魔群を東の森に隔離し、国民から隠すので限界だった」


 だが、とラゼルは重々しく続ける。


「ある時、その東の森に入った者がいた。……それが兄上と、兄上の恋人だった」 

「どうして……第一、その森には王族以外誰も入れないんじゃ」

「魔力を持つ王族が伴うなら入ることも出ることも可能だ。だが兄上はそうしなければならなかった。……これは後で分かったことだが、兄上の恋人が悪魔に弟が連れ去られたと主張したらしい。悪魔がいきなりやってきて弟を攫ったと。実際……その女には弟なんかいなかった。けれど兄上は……兄上の恋人は、兄上にとって何よりも大切な存在だった。だからこそ恋人を信じ、兄上は恋人の弟を連れ戻すべく森に入った。悪魔が王族の持つ魔力を渇望しているとも知らずに。勿論、森への出入りは東の森を管理する魔術によって、すぐに分かった」


 ラゼルの赤い瞳が虚空を見詰める。その赤い双眸は悪夢にうなされているように、揺らいでいた。


「月の光もない暗い夜のことだった。あの時、俺が12、兄上は22だった。俺は兄上が東の森に入ったと知ってすぐに森へと入った。背後でマダムコルトンやロイ、グラムが引き留めようと叫ぶのも無視して、俺は暗い森の中を駆け回った。腐ったような不気味な魔力が充満する中で、俺は、微かに感じた兄上の魔力を辿っていった。そして、俺は……俺は、兄上を、見付けた」


 ひゅひゅうとラゼルの息が浅く、早くなる。ラゼルは胸元を押さえる。ルカは「もういい」と言いかけた。けれど、ぐっと拳を握りしめて耐えた。これは、ラゼルにとっての過去との決別なのだ。それを止めてはいけない。ラゼルは今、独りで悪夢の中にいる。だがそれならルカもまた、墜ちようと思った。ラゼルが今、過去の記憶に飲み込まれるのなら、自分もまた、飲み込まれようと。

 ラゼルは無理矢理呼吸を落ち着けると、俯いた。

 その黒髪は、ラゼルの表情を隠していた。

 ルカもまた緊張していた。覚悟はしていた。けれど、怖かった。

 ラゼルが、何を見たのか。何を、見てしまったのか。

 一拍の沈黙の後、ラゼルは感情を削ぎ落とした声音で、言った。


「……兄上は──手足が粉々に砕かれ、臓物も引きずり出され、無数の傷を負わされていた。全身、赤黒い血で濡れていた。それでも……魔力のお陰で辛うじて、まだ、生きていた。生きて、いたんだ。兄上は血塗れの姿で、俺を見付けると、逃げろ、と、弱々しい声で、言った。それなのに、俺は身動きひとつもとれなかった。辺りには無数の悪魔と、兄上を惨い姿にした第2級悪魔がいて、その悪魔と笑う兄上の恋人がいて……けれど、俺は恐ろしかったのは、悪魔ではなかった。俺は……兄上を失うことが、怖かった。助からないと、そう分かっていても俺は無我夢中で、兄上を助けようと手を伸ばした」


 だが、と。

 ラゼルは絶望を口にした。




「触れようとした瞬間────兄上の首は、切り落とされた」




 そう告げたラゼルの声は、決して、大きくはなかった。

 けれどそれは慟哭だった。

 紛れもなく、鋭い痛みで身も心も引き裂かれた叫びだった。ラゼルは、シーツを固く握りしめ震えていた。まるでひとり薄氷の地に晒されたように、けれどその冷たい痛みさえも押し殺すように、言葉を継いだ。


「転がった兄上の首を見て、俺は、頭が真っ白になった。ただ、悪魔が兄上の恋人に無数の金品を与えていた。悪魔たちが兄上の遺体を見て下卑た声で笑っていた。全てが見えた。聞こえた。俺は、俺は、そのとき──」 


 漆黒の髪の隙間から、赤い瞳が見える。白くなるまで引き結んでいたラゼルの唇が、開いた。



「すべてを、消した」



 その両手が顔を覆い、虚しい嘆きを伴って言った。


「俺は、兄上の遺体以外の全てを、瞬き一つで消したんだ。悪魔達も兄上の恋人も、草も木も全て。最初から存在しなかったかのように」


 その重い告白に、ルカは、言葉を失った。

 ただただ、ラゼルの言葉が、痛かった。ラゼルは自責している。悲しみを殺して。ルカは泣き叫ぶことの出来ない彼の代わりに、叫びたくなった。

 大事な兄を目の前で殺されたことも、全てを消し去ったことも、全てを今まで背負ってきたラゼルが──あまりにも悲しすぎて。どうして神は、こんなにも優しい人に、こんなにも惨いことを背負わせたのか。ルカは、そんな神だったら、神などいらないと初めて思った。

 

 だってこんなの──あまりに、悲しすぎるじゃないか。

 

 ラゼルは俯いていた顔をゆっくり上げると、感情が抜け落ちていた声で、告げた。


「……後から分かったことだが……あの女が悪魔と接触できたのは、先代の国王による魔力の囲いに微細なきずが産まれ、その疵から小さな悪魔が通ることができたのからだった。強い魔力でも長い年月が経つにつれ綻びが産まれるのは当然だ。だが……俺の持つ魔力は、違う。226年前に起きた大戦の地が、226年経った今も氷像のように時間が凍結され、不可侵であるように……俺は、そういうことができる化け物なんだ」


 化け物なんて、とルカは信じられなくて呟く。だがラゼルは静かに頷いた。


「事実、あの日あの時、俺が使った魔術は……禁忌の術だった。『取捨選択の術』で──術士にとって必要なものは残し、不要なものは消し去る術だ。神が禁じた、神の力に匹敵する魔術。……神でもない人間が、あらゆるものの存在の可否なとどいう、神の真似事をするんだ。……禁忌の術と言われて当然だ。だが俺は、そんな魔術を12歳の時に使ったんだ。それも玩具を扱うように、容易く」


 暗い笑みを浮かべてラゼルは言う。


「俺は……兄上の死によって、自分が226年前の大戦以来、産まれてこなかった莫大な魔力を持つ存在だと知った。国一つ簡単に消し去れる魔力を持った存在。それが、俺だ。このことを知る人間は俺とグラム、そしてその場に居合わせたロイとマダムコルトンしかいない。……だが、もしこの事実が他国に知られれば……俺は、戦争の引き金になりかねない。何かを人質にし、俺を『兵器』として利用する国も、出てくるかもしれない」

「兵器、だなんて……」

 

 そんなこと、と思う。けれど一方でその可能性は否定できなかった。

 もし仮にラゼルの莫大な魔力を持つ人間だと知ったどこかの国が、ラゼルを「強大な力を持つ兵器」として利用するかもしれない。何か弱みを──それこそ、このアクアフィールを人質にして。ラゼルの愛する人を人質にして。


 その時、ラゼルは大切なものを守る為なら何だってするだろう。

 たとえ自分が、戦う為の道具となろうとも。


「……俺は、俺が恐ろしい」


 ぽつりと、ラゼルが言葉を零す。まるで涕涙のような言葉だった。


「魔力は感情の動きによって変容する。だからもし──俺にとって大切な人間がまた、殺されたら。俺はあの時以上の被害を引き起こすだろう。その時何が起こるか、分からない。今度はそのたった一人の遺体だけ残して、国ごと消し去ってしまうかもしれない。12歳の時の魔力でも、一瞬で悪魔全てと……そして、人間を一人、殺して消しさったのだから」

「……殺したっていうのは……お兄さんの恋人だった人のこと……?」

「ああ、そうだ」


 ラゼルの赤い瞳は己の罪を咎めるように、両手を見ていた。その両手が血に塗れているかのようにも、見えた。


「……俺は、人を殺した。兄上を陥れたとはいえ、守らねばならないアクアフィールの民を殺した。魔術によって『要らない』と、判断して」


 とんだ人殺しだ、と微かにラゼルは笑う。

 けれどいつも見せる笑顔とは違う。罪を犯した自分を罰するような、暗い笑みだった。その赤い瞳は悲しみと痛みに満ちあふれているのに、涙が零れることはない。それは、ラゼル自身が泣く権利などないだろうと思っているからだろう。罪の意識から、泣けないのだ。たとえ相手が大切な兄を陥れた悪魔のような女だったとしても、大切なアクアフィールの民だから。だから、ラゼルはきっと、幼い頃のように笑えなくなった。一人で全てを抱え込むようになった。

 ルカはぎりと奥歯を噛み締めた。許せない、と思った。


 ──『私は女が嫌いだ。……いや語弊があったな。正しく言うなら大概の女が、信頼が置けない存在だと思っている』


 ラゼルと出会った時、ラゼルはそうルカに言っていた。けれど今になってみて、ラゼルの言葉の重みが分かった。

 兄を裏切った恋人。女という存在。それに対する疑心。そしてそれを植え付けて痛みを与えた存在。

 ルカは怒りで目の前が真っ赤に染まる心地がした。許せなかった。その強い感情が溢れ出し、ルカは口を開く。


「私は、許せない」


 その言葉にラゼルが悲しい微笑を浮かべたまま振り向く。


「そうだろうな……幼い頃とはいえ、俺は許されないことを」

「違う!」


 ルカのその叫びに、ラゼルが瞳を瞬かせる。ルカは自分の中に溜まったもの全てを激しく吐き出した。


「亡くなったお兄さんには悪いけど、私は、その恋人だった女を許せない……! ラゼルの大切な人を殺して、今もラゼルを苦しめるその人を許せる訳がない! どれほど、ラゼルを苦しめたか、どれほど、ラゼルを追い詰め続けたのか……たとえ死んだ人間でも、私はその人を許さない。もし今も生きていたなら、殺す。私は聖人君子でもなんでもない。だから絶対、殺す。沢山懺悔させたあとに殺してやる。そうじゃないと気が済まない……ッ!」


 怒りと悲しみが、ない交ぜになって、何も出来ない自分が悔しくて、泣きそうになる。けれどルカはそれをぐっと押し殺す。ラゼルはルカのそんな言葉に、悲しみに満ちた微笑を浮かべて言う。


「……俺は、お前にそんなことをして欲しくはない。それに、俺が人殺しであることには変わりがない」

「違う。ラゼルは人殺しなんかじゃない。化け物なんかでもない」

「ルカ、俺は」

「──違う!」


 ルカはラゼルの襟元を掴み上げ、睨み付けるようにラゼルに向かって言った。


「貴方の中では人殺しでも、私の中では貴方は人殺しじゃない! だから私は、認めない。私はラゼルが人殺しだと認めない。どんなにラゼルが自分を人殺しだと言っても、世界中から咎められようとも絶対に私は認めない。こんな苦しみを抱え続けてきた人を、私は人殺しだなんて認めない……っ!」


 でも、と。

 ルカは言う。


「それでも、どうしても、ラゼルが自分が人殺しだと思い続けるのなら──その重さを私も背負う」


 その言葉にラゼルの赤い双眸が見開く。ルカはラゼルの襟元からゆっくり手を離した。ラゼルは驚きの感情を見せた後、静かに首を横に振った。


「……お前が、背負う必要などない」

「ある」


 ルカは真っ直ぐにラゼルを見詰めていた。決して、逃げないと示すように。

 そんなルカの視線から逃れるように、ラゼルは目を背ける。


「……どうしてお前は……そこまで、言える」

「ラゼルは私にとって、大切な人だから」


 そう言うとルカはラゼルの顔を掴み、無理矢理こちらに向かせた。赤い瞳が驚いたように見開かれ、ルカを見る。


「逃げないで、ちゃんと私の目を見て。この目が嘘を言っていると思う? 貴方の重荷を少しでも譲って。それとも信じられない? 逃げると思っている?」

「…………っ、それ、は」


 ラゼルの瞳が揺らぐ。けれどルカは決してラゼルから目を離さないでいた。

 ラゼルはの唇が震え、言葉を吐き出す。


「……信じられるに、決まっている」

「そう。なら、それはどうして? ラゼルが私を信じてくれる理由は?」


 ルカは問う。強くラゼルの瞳を見詰めて。

 ラゼルの赤い瞳が、漸く、ちゃんとルカを見た。


「……他でもない、お前だからだ」


 ラゼルの声に、惑いはなかった。


「だからこそ……信じられる。だから、話すことが、できた」

「……うん、そうだよね。だからこそ、怖くても話してくれた。……ありがとう」


 ルカは微笑む。ラゼルは──どこか、泣きそうなような。そんな顔をしていた。けれどこれまでずっと、長いこと自分の感情を押し殺したせいか。それこそ、12歳の頃から感情を殺したせいか。ラゼルの瞳から涙が零れることはなかった。

 それが、歯痒くて。


「ラゼル。あのさ」

「……何だ」

「私、いっぱい心配だった。だからさ、少しお願いしてもいい?」

「別に、構わないが……」


 訝しげに眉根を寄せるラゼルに、ルカは柔からかに笑った。


「そっか。ありがとう。それじゃあラゼル、ちょっと失礼するね」


 ルカはそう言うと、ラゼルの頭を胸元にぽんと抱き留めた。突然のことに戸惑い、僅かに抵抗しようとするラゼルに「大人しくしなさい」とルカは穏やかな声音で言う。


「さて今、ここには私とラゼルしかいません」

「……そんなことは知っている」

「そして今、私はラゼルの表情も見えません」

「……そうだな。だが、それが一体──」

「だから今、ラゼルが泣いても誰も見ていません。けれど、私はそばにいます。貴方は一人じゃありません。でも、泣いて良いんだよ。もう、いいんだよ」


 そのルカの言葉に、ラゼルが息を呑み、身体を強張らせるのが分かった。けれど、抵抗はしなかった。やがて諦めたのか。身体が弛緩する。ルカは子どもにするようにラゼルの頭を撫でながら言う。


「ほら、今なら泣くチャンスだよ? ラゼルのことだもん。きっと12歳の頃からずっと泣かずに、お兄さんの代わりになろうって頑張ってきたんでしょ。どーせ王族が泣いちゃいけないとか、変なルールを敷いてさ。だからさ、泣いてよ。じゃないと私が泣いちゃうぞ。泣き方が分からないなら、教えてあげる」

「……お前に泣かれるのは嫌だ」

「あはは、それならラゼルが泣かなくちゃ」

「無茶苦茶なルールだな……」

「そうかもしれないねぇ。でも安心してよ。これからは、どんな悪夢も私が撥ね除けてやるからさ」


 ルカは屈託無く笑う。ラゼルの表情は分からない。けれどルカはこの笑顔を含んだ声がラゼルに届けばいいと思った。だから、顔が見えなくとも笑顔でいようと思った。

 少しの沈黙の後、ラゼルが口を開く。


「……ルカ」

「何?」

「泣けといったが、それなら……少しだけ、抱きしめても……良い、か?」

「勿論どうぞ。ご自由に。……それでラゼルが安心するなら」


 本当は胸が痛むけれど、今日くらいは我慢しよう。

 だって一番大切な人が、酷く傷ついている時なのだから。

 ラゼルの手がゆっくりと、壊れ物を扱うような手で、優しくルカの身体に腕を回す。ルカはあの綺麗な赤い瞳から、透明な雫が落ちるのを想像する。きっとその涙は、とても澄んでいて清いんだろう。12歳の頃から溜め込んだ悲しみが今、静かに零れていくのだ。勿論、痛みはこれからもラゼルを苦しめるだろう。だがその時は、また涙と一緒に洗い流してしまえばいい。それでいい。それでいいんだ、とルカは思う。

 ゆっくりでいい。

 今はまだ悪夢は残ってしまうかもしれないけれど、こうやって濾過し続ければ──いつかは痛みは塵となっていくのだから。

 ぽた、ぽた、と。小さく聞こえた涕涙の音に、ルカは安堵する。

 

 ──ああ、漸く、泣いてくれた。

 長かったね、と心の中で声をかける。本当に長かった。

 悲しかっただろう。

 苦しかっただろう。

 辛かっただろう。

 けれどそんな感情を殺して、暗い闇をひとりぼっちで歩き続けた少年が──今ようやく、ちゃんと泣いても良いんだと知ってくれた。


 これでいい。

 これでいいんだよ、ラゼル。


 痛みも悲しみも隠す必要なんてないんだ。誰にだって夜の闇に飲み込まれる時がある。それは恥ずべきことでも何でもない。

 けれど──月の光もない夜の闇もいずれは終わって、今度は希望のような太陽の光が輝いて、世界がどんなに鮮やかかを貴方に教えてくれる。その時、ラゼルのその美しい赤い瞳には、多くの幸福が映るだろう。それを、ルカは祈るように願っている。






 ラゼル。

 私はあなたが心の底から笑えたら、幸せだ。


ここまで読んて下さりありがとうございました!

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Twitter始めました→@matsuri_jiji

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