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白日の前


 月の綺麗な良い夜だった。

 部屋に戻ったルカはふと鏡を見た。驚くほど、笑顔が剥がれ落ち、暗い目をした自分がいた。ルカは正面に向き合って、鏡へと手を伸ばす。ひやりとした鏡の温度が手のひらに伝わってきた。ルカは鏡の自分に命じる。


「ほら、いつも通り笑わないと。明日にはいつも通りでいないといけないんだから」


 睨み付けるようにルカは鏡の中の自分を見据える。けれど視界が、なぜかぼやける。ルカは腕で目を擦る。顔を上げると、鏡の中の自分は笑顔とは真逆の、悲しみに満ちた顔をしていた。そんな顔をしたら駄目なのに。唇に力を入れて笑顔を作ろうとするけれど、全然うまくいかない。


 ── 『好きになった相手が、他の誰かを好きだったら、どうする?』


 ラゼルの言葉が頭の中を反響する。

 ああ、終わったのだ、と思った。安堵する自分と落胆する自分がいた。その両方の自分にルカは馬鹿らしいと嘲った。そうだ。滑稽な自分を笑えばいい。ルカはもう一度、鏡へと向き合った。鏡を映る、青い瞳の少はきっと誰よりも、惨めだった。

 その惨めさを嘲るように笑おうとしたのに、代わりに零れたのは、涙だった。涙が零れて、止まらなかった。

 

 ラゼルに、好きな人ができた。

 

 いつかこんな日が来ると思っていた。覚悟はしているつもりだった。けれど、案外自分は脆かったみたいで。

 ラゼルとさっきまでいて、辛うじて貼り付けていた笑顔が、粉々に砕け散る。ずるりと鏡に手をついたまま、ルカはその場に座り込む。涙が、止まらない。痛い。痛い。苦しい。泣くなんて駄目だ。だってそれは、もう認めているようなものなのだから。

 

「あはは、おかしいな……私、こんな弱かったっけな……」


 ラゼルと出会ってから、何もかもが弱くなって、脆くなっていって。

 いつも通り誰もが安心できるような笑顔を完璧に作れる時ばかりだったはずなのに、ラゼルと出会って時を共にするにつれて、心の底から笑えることが日に日に増えていって、それに戸惑いながらも嬉しかった。

 もう、終わったからこそ、認めてもいいのかもしれない。

 だって終わったのならこれ以上傷つきようがないのだから。


「……好き、だよ……、すごく、好きなんだよ、ラゼル……っ」


 あなたが好き、だから、どうかこちらに振り向いて、私を見て────


 言葉にして、抑えていた感情がぶわりと溢れ出して零れていく。涙と一緒に感情が溶け出して、ルカは胸の痛みにくしゃりと服を握る。けれどこれでいいのかもしれない。早い内で良かった。きっともっと歳月を積み重ねていたら、もっと強い痛みがルカの心を射貫いただろう。

 だから、きっと、これで良かったんだ。 

 そう理性は囁くのに、心は強く思っている。ラゼルのことを。


 もっとあなたのことが知りたい、

 もっとあなたの笑顔が見たい

 もっとあなたのことを支えたい

 もっとあなたのそばにいたい 


 もっとあなたのそばであなたを愛し続けていたい──……

 

 ラゼル、とルカは震える唇で、遂に愛を認めてしまった人の名を呼ぶ。ずっと愛していると認めたら傷つくから、見ないふりをした。けれど、もう限界だった。ラゼルの愛が自分ではなく他の誰かに向いていると知った瞬間、ルカがこれまで強く強く押し止めていた壁が崩れ去った。喜びではなく、深い悲しみによってルカは遂に認めてしまったのだ。ルカ・フォン・ランケは、ラゼル・アクアフィールを愛していると。安っぽい、悲劇だ。ルカは笑う。泣きながら、笑う。


 けれど、この想いは胸の内の奥深いところに秘めておかなければならない。

 まだルカの役目は終わっていないからだ。


 ルカは、ラゼルが愛する人と結ばれるまで、繋ぎの存在でなければないからだ。そうしたら婚約破棄される。元々、切り捨てられても平気だと思って結んだ契約だ。その契約が切れたら、ルカの生活は元に戻る。優しい家族の元に帰るだけだ。悪くない。あそこは、日だまりのように優しい場所だ。それから、いい加減結婚相手を探そう。舞踏会にもちゃんと出て、優しい人と一緒になろう。前世の両親には見せられなかった花嫁姿を、今の両親には見せられる。それが親孝行になるのか分からないけど、きっと皆喜んで、祝福してくれるだろう。結婚式はどんな形であってもいい。ただそこに愛があれば。ラゼルのことも、共に過ごした日々も楽しい思い出として心のアルバムに丁寧にしまっておけばいい。そうしたら、きっといつか忘れるだろう。

 悪くない。

 悪くない生活、だろう。


 それなのに。

 それなのに──心が言うことを聞いてくれない。


 嫌だと叫ぶ。泣きじゃくるように、あのひとが好きだ、と言う。忘れられるわけなんてない。忘れたくない。ラゼルが誰かと愛し合うなんて、見たくない。嫌だ。きっと笑顔の仮面なんて被っていられない。けれど、ラゼルを笑顔で送り出す自分を、作らなくてはならない。


 だってそうしないと、ハッピーエンドにならないじゃないか。


 ルカは泣きすぎて赤くなった目で、鏡を見た。酷い顔をしていた。笑った。どうしよう。明日、目が腫れてしまっては困る。優しいラゼルはきっと心配するだろう。けれどルカにとってその優しさは「仮初めの婚約者」に対するもので、本当に愛する人へのものではない。

 ラゼルのそばにいたい。けれど、そばにいるときっと今より多く深く傷つく。

 分かっている。それでも、ルカは最後までラゼルのそばにいる。そう、決意した。


 大丈夫、とルカは鏡の中の自分に向かって、かすれた声で言う。 

 明日もこれまでと同じように、道化を演じよう。人々を幸せにする「ルカ」であろう。弱さなんて見せない、太陽のように笑う少女でいよう。そうでないと、いらない、と言われてしまう。ラゼルにそんなこと言われたら、きっと、もう二度と立ち直れないんだろうなとルカは笑う。

 ルカは窓の外を見た。まだ太陽は昇らない。ずっと昇らなければいいのにと思った。

 だって太陽は隠したいものを明らかにしていまう。その光は、今のルカには強すぎた。

 それならずっと自分は夜がいい。夜は、涙も悲しみも全部、隠してくれるから。








 どうした、と言われたのは朝、ラゼルと廊下で出くわしてしまった時だった。どきりとした。けれどそれを隠してルカは小首を傾けた。


「どうしたって、何が?」

「目が少し腫れている」

「あー……」


 もっと冷やしておけば良かったか。ルカはそう思いながら、わざと気恥ずかしそうに笑った。


「実は夜眠れなくて小説を読んでいたんだよね。それがさー、結構泣ける内容で。夢中になって泣きながら読んだら、腫れちゃったみたい」

「……そうか」


 納得してくれただろうか。内心緊張していると、ラゼルが口を開いた。


「また眠れなかったのか。以前も眠れなかった時があっただろう?」


 内心ほっとしながらルカはいかにも困っているように頷く。


「そうそう。どうにも眠りが浅いのか。変な夢も見たり、そうすると眠れなくなっちゃうんだよね。ラゼルはちゃんと眠ってる?」

「寝ている。最近は少し眠れない日が続いているが」

「大丈夫? 何か気になることがあって眠れないとか? あ、もしかして例の好きな人のこと?」


 ちくり、と胸が痛む。けれど平気だと自分に言い聞かせる。ラゼルは少しの間のあと、頷いた。


「……そうだな。それもあるが、ツヴィンガー王国との会談の準備で忙しいのもある」

「ああ、もう明日なんだよね? それで聞いていなかったんだけど、私どうしたらいい? ツヴィンガー王国の王子ってどんな人?」


 ツヴィンガー王国はグリナ王国と違い、アクアフィール王国と同じ言語──所謂共通語──であったため、マダムコルトンのレッスンはなかった。あのスパルタレッスンがないと何だか落ち着きがなくなってしまう為に、ここ最近ルカは図書室に籠もって他の言語や伝統について調べていた。時々、王宮の中を散歩することもあったり、ラゼルには秘密にこっそり王宮内の仕事の手伝いをしていた。バレたら怒られそうだ。


「ツヴィンガー王国との会談にお前は来なくて良い」

「え」


 予想外の言葉にルカは心臓がきゅっと縮まった心地がした。


「それはこの前、グリナ王国での会談で私がギャーギャー五月蠅かったからかな……? だとしたらごめん……」

「違う」

「それなら何で?」


 尋ねるとラゼルは難しい顔をして答えた。


「ツヴィンガー王国との会談は難敵を相手にするようなものだ。それに……」

「それに?」

「……ツヴィンガー王国の王子は、女好きだ。誰彼構わず手を出す」

「だから?」


 全く訳が分からないルカに、ラゼルは溜息と共に答えた。


「分からないか?」

「分からない」

「お前も……女だろう」

「えっ、でも私、一応ラゼルの婚約者じゃん?」

「ツヴィンガーの王子にとっては、そんなもの関係ない。過去に王子がいない所でその王太子妃や婚約者を口説いたという話は嫌というほど出てくる」

「うぇー……それはすごい……」


 余程の自信家なのだろう。しかし、他国の王子の女性に手を出そうとするなど、大問題なのではないだろうか。けれどそれを大問題にさせないのが、輸出大国であるツヴィンガー王国の力なのだろう。ラゼルがピリピリするのも分かる。


「そういう訳でお前は来なくていい」

「なるほど。でも私なんかに手を出す人は相当な物好きだよ」

「お前はもっと自分に自信を持ったほうがいい」

「そうかな? 正直、私って女としての魅力ないし、どちからといえば男勝りだけど」

「それは一理あるが……」

「否定しないんかい」


 笑ってルカはラゼルの背を叩く。こちらを見たラゼルが微かに笑っていて、ルカはさりげなく目を逸らす。やっぱりラゼルは笑っていた方が、いい。


「だがお前は魅力的な女だ。お前と共にいれば、それが分かる」

「────っ」


 嬉しさと痛みが同時にこみ上げる。でも大丈夫。ルカはけらけらと笑った。


「もー、ラゼルは大袈裟だなぁ。それを言うならラゼルだってそうだよ。私の数倍、魅力的な人だもん。好きにならない女性なんていないよ」

「……それはないな」

「ほらほら、自信持って! ……というかさ、ラゼルなんか顔色悪くない? いつも白いけど、蒼白というか……疲れが溜まってるんじゃない?」


 まるで病人のようだとルカは思って言う。ラゼルは首を振る。


「少し忙しいだけだ」

「ラゼルの少しは信用ならないよ。会談が控えているんでしょ? このままじゃ身体壊すよ」

「会談があるからこそ、その準備が必要なんだ。心配する必要は無い」

「そっか……せめて少しは食べたり寝たりしてね」


 ルカにはそう言うしかなかった。ラゼルは「善処する」と言って執務室へと行った。別れてからルカは困ったものだと思う。

 政治のことには──正直言って外交のことは疎い。この前グリナ王国との会談ができたのは、単にグリナ王国とアクアフィール王国の関係が良好だったからだ。だが今回は違う。世界を牛耳ろうとしているツヴィンガー王国との会談なのだ。ラゼルが気を張るのも理解できる。

 けれど、やっぱりルカの目から見てもラゼルの体調は悪いように思えた。本人はその疲労が周囲に漏れないよう自然な態度を装っているが、このままだと倒れてしまうのではないかと不安になる。かといって、ラゼルの仕事を邪魔することはできない。ツヴィンガー王国との会談はこのアクアフィールにとって大事なものなのだ。

 それは分かっている。ルカは溜息をつく。こんな時、支えられるような知力を持った女性だったらいいのにルカの知識は精々学院で学んだことと前世の記憶くらいのものだ。無力さを痛感する。恋仲になれないというのならば、せめて、ラゼルの力になりたかった。「良い人間」であったという記憶を持って欲しかった。

 





 翌日、夕刻ほどにラゼルは王宮に戻ってきた。ルカはすぐにラゼルを出迎える。ラゼルの顔は青ざめていて、ツヴィンガー王国との会談で何かあったのかとルカが問えば、会談は予想通りのもので問題は特になかったようだった。けれど安堵よりも勝ったのは、ラゼルの体調の悪さだった。朝見た時より、ずっと具合が悪いように見えた。


「ねぇ、ラゼル。顔色、めちゃくちゃ悪いよ。もう今日は休みなよ。このままじゃ倒れちゃう」

「……問題ない。まだやることがある。今日の会談の内容を纏めて、改めて振り返る必要が……」

「いやいや駄目だよ、ラゼル。いい加減にしなよ。ちょっと休んで────ッ!」


 言いかけた言葉が止まる。目の前の光景がスローモーションに見えた。

 黒い外套が翻る。それを追うようにラゼルの身体が崩れ落ち、その場に倒れた。


「ッ、ラゼル!」


 すぐにルカはラゼルに駆け寄り、黒髪に隠れた額に触れた。酷い熱だ。

 周囲にいた従者たちが口々に「殿下!」「殿下が倒れてしまったぞ!」「誰か助けを呼べ!」と今まで見たことのないラゼルの姿にパニックを起こす。その中で軍部副司令官のグラムが、混乱する場で冷静に、かつ鋭い口調で檄を飛ばす。


「第一兵筆頭含む三名、すぐに担架を持ってこい! それと殿下を私室に運ぶ間に、誰か医者と薬術士を呼べ!」


 混乱していた場がグラムの声によって纏まり、各自、素早く動き始める。その中でルカは倒れたラゼルにずっと寄り添っていた。白い肌には薄く冷たい汗をかいて、呼吸は浅く、早い。その目元には昏い影が落ちて、唇も血色がなかった。冷静になろうと言い聞かせるのにルカは頭が真っ白になった。

 また、失うのか。

 考えると恐ろしくて恐怖で頭がいっぱいになった。けれど、怯えている場合じゃない。ルカは気を失ったラゼルに、大丈夫、もうすぐお医者さんに診てもらえるから、と声をかけ続ける。漸く担架が運ばれ、ラゼルは自室へと運ばれる。その間もルカはラゼルに付き添った。ラゼルの部屋に辿り着くと従者たちがラゼルをベッドに寝かせる。ルカはラゼルの額に再び手を当てる。やっぱり汗は冷たいのに、額は酷く熱い。ほどなくして医者と薬術士が部屋に駆け込んできて、ラゼルの身体を慎重に診察した。ルカはその間、ラゼルの幼馴染みのグラムと共に、祈るように見ているしかなかった。医師と薬術士による長い診察が終わり、医師が振り返る。


「幸い病ではなく過労です。栄養失調と睡眠不足が重なってこれほど酷い容態になってしまったんでしょう。余程無理をしていたのかと……」

「過労……」

「ええ。ここまで症状が重いのは私も見たことがありません。とりあえずできる事と言えば、良質な睡眠、食事、それから殿下の身体に合った調合薬でしょうな。すぐに殿下の容態に変化がございましたらお呼び下さい」

「分かりました。ありがとうございました」


 ルカが頭を下げると、いえ、と医者は言って薬術士と共に部屋を去った。部屋に残ったラゼルの幼馴染みのグラムとルカは視線を合わせる。


「こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてだな」

「そうですね。王宮の人からは聞いていたんですが、グラムさんはラゼルとは付き合いが長いんでしょう?」

「そうだな、学院時代からの仲だ」

「……ラゼルが倒れるのは、これが初めてですか?」


 ルカの問いに重々しくグラムは頷く。


「そうだな……国王に代わって政務をとるようになってから今までずっと、休み無しに働いてきたからな」

「……そっか。本当に馬鹿。こんなになるまで働いて……」

「ああ、その通りだ。とんだバカな野郎だ。ルカちゃんにこんな心配かけるなんてよ」


 グラムの言葉に、ルカは苦笑する。グラムは「さてと」とラゼルの顔を覗き込んでからルカを見た。


「ラゼルのこと見ていてやってくれねーか? 俺、こいつに代わって色々やんなきゃなんねぇからさ。それに……まぁその、こいつもルカちゃんと一緒にいたいだろうしな」

「分かりました。ラゼルが起きた時、グラムさんのほうが安心すると思いますが、忙しいですもんね。私が見ています」

「ありがとうな。助かるぜ。というか俺にも敬語いらないぜ。グラムって呼んでくれ」

「それじゃあグラムって早速呼ばせてもらうね。グラムも身体壊さないように。流石に二人も倒れたらシャレにならないから」


 ルカの言葉にグラムは目を丸くしたあと、くつくつと笑った。


「確かにそうだな。とりあえず王宮のパニックを鎮めてくるわ。そんじゃまた」

「うん、頑張って」


 そう言ってグラムを見送ると、パタンと部屋の扉が閉じた。二人きりになった室内は静かだった。ルカはラゼルが横たわるベッドの側に立つ。ひゅうひゅうと浅く、苦しそうに呼吸するラゼルを見ると胸が痛んだ。何か出来ることはないか。ルカは一旦部屋の外に出て、氷水と器をとってくる。冷たい水を布に含ませて、汗が浮いた額や首筋を拭い、また水に浸して絞って額に置く。繊細な睫毛に縁取られた瞳は今は閉じて、あの美しい赤い瞳を見ることはできない。手を握るとその手も指先まで冷たくなっていた。


「ラゼル……」


 ルカは唇を引き結び、そっと冷たい手を握る。こんなになるまで一人で頑張ってきたラゼルを思うと、ルカはどうしようもない気持ちになった。三年間、ずっとこんな暮らしをしてきたラゼルを思うと胸が痛くて仕方なかった。誰か、その苦しみに寄り添える人がいたら良かったのに、と思った。ルカは思う。ラゼルには今、好きなひとがいる。その人がラゼルを好きになって支えてくれたら、いいのかもしれない。

 その時きっとルカ自身は深く傷つき苦しむだろうが、それでも、こうしてラゼルが倒れて分かった。


 ラゼルを幸せにしたい。

 たとえそれが自分じゃなくとも、ラゼルがもう二度と倒れないよう支えて、幸せにして欲しい。

 自分が傷つくより、愛する人が傷つく方が、嫌だ。


「……ラゼル、駄目だよ。こんなんじゃ、将来のお嫁さんが心配しちゃうからさ」

 

 涙混じりの声で、熱にうなされるラゼルへと告げる。二人きりの今なら少しくらい泣いたって許されるだろう。ラゼルがこのまま起きなかったら、と思うとルカは恐ろしかった。だから、ラゼルが目覚めるように、語りかけた。


「ラゼル。元気になったら息抜きに、まずは城下町まで出て遊ぼう。ラゼルは王宮のことで付きっきりで、若者らしい遊び方も知らないんじゃない? 私、結構城下町には父様には内緒で出てたからさ。遊び方を指南してあげるよ。美味しいパン屋さんも綺麗な硝子細工を売ってる雑貨屋さんも知ってるし、夜は飲み屋街でオススメの店でお酒を飲んで騒いでさ。それから私、ダーツもビリヤードもそれなりにできるから教えてあげる。あ、二人でカジノにこっそり行くのも良いかもね! 何となくラゼルはポーカーとか強そうだし、私が大負けしても、それを取り返すくらい勝ってくれそうだなぁ。そうだ、ラゼルはチェスは知っているでしょ? それ、私にも教えてよ。そうしたら雨の日でも二人でチェスをして遊べるでしょ? 反対に天気が良い日はそうだなぁ、のんびりお散歩するのも悪くない。平凡だけど、ラゼルが守る国がどんなに美しいか知ることができるから。私で良ければ喜んで付き添うよ」


 だから。


「絶対に、目覚めてね。このままなんて私許さないから。嫌だもん。私、もっと、ラゼルの笑顔が見たい。だってさ、私、ラゼルのこと、好きになっちゃったんだから」


 ぽたりと落ちた涙をルカは腕で乱暴に拭う。二人きりで良かった。ラゼルが起きていなくて良かった。今なら本音で喋れる。それを咎める人は誰もいない。ルカの弱さを見る人もいない。ずっといようと思った。ラゼルが起きるまで、ルカはずっと待とうと思った。

 不意に、ラゼルの唇が微かに動いた。ルカは、ラゼル、と声を上げる。けれどラゼルにはまだ意識がないようだった。

 ただ、


「兄上……」


 唇から漏れた言葉に、ルカは息を忘れた。

 兄上、と確かにラゼルは言った。ラゼルの兄? そんな存在を、ルカは知らない。これまでラゼルの口から「兄」という存在は一度も語られていない。王宮内でもそんなことを口にする人は誰もいなかった。けれど熱に苛まされている今、確かにラゼルは「兄上」と口にした。

 ルカは考える。このアクアフィール王国の王子は、ラゼルだけではなかったのだろうか。幼い頃の記憶を辿る。あ、と声が出た。あれはルカが何歳のころだっただろうか。国中が悲しみに包まれた時があった。ランケ家でも、沈鬱とした空気がその時期にあった。けれど流石に生まれ変わったとはいえ、幼いルカはその理由が何かは知らなかった。そのころはまだ、前世の自分と今の自分との境界があやふやだった所為だろう。

 もしかしてそれとラゼルの兄が何か、関係しているのだろうか。考えているといつの間にか深夜近くになっていたらしい。コンコン、というノックの後、ラゼルの執事であるロイが姿を見せた。


「ルカ様、そろそろお休みになられたほうが良いかと……」


 ロイの心遣いを有り難く思いながら、ルカは苦笑しつつ首を振る。


「すみません。まだ此処にいさせてもらってもいいですか? ラゼルが起きて何か仕事しようとしたら引っぱたいてやろうと思って」

「確かにラゼル様はそういうお方ですね。分かりました。ご迷惑でなければ私も付き添いましょう。ラゼル様はああ見えて頑固な方なので」


 お互いに笑い合ったあと、ルカは躊躇い気味に口を開いた。


「あの……ロイさん」

「何でしょうか?」

「……ラゼルには、お兄さんがいたんですか?」


 その言葉にロイは顔を強ばらせたあと、悲しみの色を落とした。


「そうですね。ラゼル様にはお兄様がいました。幼かったルカ様は覚えてらっしゃらないかもしれませんが……このアクアフィール王国には二人の王子がいたのです。第一王子のジュダ様、そして第二王子のラゼル様のお二人が。第三子以降は、奥様のご容態が芳しくなく生まれることはありませんでしたが……」

「ジュダ様……?」

「ええ。ジュダ様とラゼル様は10歳離れたご兄弟でした。とても仲が良く、ジュダ様はいつもラゼル様を気にかけていました」


 ですが、とロイは沈鬱とした表情で言った。


「9年前、ジュダ様はお亡くなりになりました。その為、王位継承者はラゼル様になったのです」

「……どうして亡くなったんですか? 病気、とかですか?」


 ルカが尋ねると、ロイは眉根を寄せたあと、慎重に口を開いた。


「ルカ様。この大陸に悪魔がいないのはご存じですか?」

「はい、このラティア大陸に悪魔はいません。理由は分かりませんが……」


 悪魔。それは学院でも学んだことがある。226年前の大戦により悪魔もまたその多くが死滅したと聞いた。その為、現存する悪魔は稀少生物であり、害悪種として発見次第駆除するべきだとされている。

 だがこのアクアフィール王国があるラティア大陸に悪魔は一体も確認されていない。それこそ悪魔なんて存在は、子どもの絵本の中に出てくるような、架空の存在と成り下がっている。

 だが、それとラゼルの兄が何の関係があるのか?

 ロイは懊悩の末、口を開いた。



「……この地に悪魔がいない理由。それはジュダ様、ラゼル様のお二人が深く関わっているのです」





ここまでお読み下さってありがとうございました!

よければ高評価、ブクマよろしくお願い致します。いつも長くなってすみません……

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