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仮初めという鎖


「……ぼーっとして、どうしたんだラゼル。お前が珍しい。もしかして例の難問についてか?」


 グリナ王国との会談を終え、王宮の執務室に戻るなり軍部副司令官兼幼馴染みのグラムにそう言われた。

 ラゼルはぼんやりと報告書に目を通しながら答える。


「いや、その答えは出た」

「へぇ、どんな答えが出たんだ」


 わざとらしくグラムはニヤニヤと笑いながら尋ねてくる。ラゼルは少し不服そうに答える。


「……恋」

「正解。正しい答えが出たようで良かったよ。ようやく自覚して安心した」

「お前は最初から分かっていたのか?」

「分かっていなかったらヒントなんて出せるかよ」


 はーっと溜息を吐くグラムに、むっとしてラゼルは言い返す。


「そういうお前は恋というものをしたことがあるのか?」

「あるに決まっているだろ。今だって好きな子がいるよ」


 それにはラゼルはショックを受けた。幼馴染みのグラムが、ずっと自分より先にいるような気がした。実際、経験の数でいったらグラムのほうがずっと上だ。


「お前は凄いな」

「はぁ? 恋することに凄いも何もねぇだろ」

「それでも……」

「はいはい、もういいよ。それより浮かねぇ顔してるけど、また何かあったのか? というかいい加減、お前が熱を上げている女性が誰か教えてくれよ」


 今の婚約者のルカが「仮の婚約者」であることは、幼馴染みのグラムには話してある。だからこそ、ラゼルがルカのことを本気で好きになったという考えが浮かばなかったのだろう。ラゼルは何だか簡単に答えを明かすのも癪で、少し意地悪をする。


「当ててみろ。ヒントはやる。だが身分は言わない」


 するとラゼルの言葉を挑戦状と受け取ったのだろう。グラムはやる気に満ちた声で応える。


「オーケイ。それじゃあまずはヒント無しで当ててやるよ」

「そうか」


 ラゼルが内心間違いなく無理だなと思っていると、グラムは自信満々に答えた。


「ラッセル家の長女、エリアナ・ド・ラッセルだろ! 女神のような美しい顔立ちに豊かな胸、すらりとした長い足、その姿だけじゃなく上品な立ち振る舞い。その上に人々を魅了する明るい笑顔ときた。それにこの前の舞踏会でも珍しくお前が女性とあんなに会話しているのを俺は見ていたぞッ!」

「違う」

「は?」

「違うと言っている」

「それじゃあミディアム家の次女フレイジーか? 彼女もお前に熱心に話しかけていたし、エリアナには及ばないが可憐な令嬢だ」

「違う」

「ノーティアス家の……」

「違う」

「……すまないヒントをくれ」


 目頭を押さえてうんうんと唸るグラムの姿に、ラゼルは少し溜飲が下がったのでヒントを口にする。


「黒髪だ。とても綺麗だ」

「あー、綺麗な黒髪と言えばキャンダル家のティラス嬢か?」

「違う」

「……もっとヒントくれ」

「深いブルーアイズだ。とても綺麗だ」

「黒髪で青い瞳……となるとミスティア家のレナ嬢だろう? どちらも兼ね備えている」

「違う」


 そのラゼルの否定に困り果てたようにグラムがぶすっとした顔で言う。


「あーあー、それじゃあもっと、大きなヒントくれよ」

「お前も知っている女性だ」

「俺が?」


 目を点にするグラムが可笑しくて微かにラゼルは笑う。それを見たグラムが「お前、ここ最近笑うようになったよな」と言う。そうだろうか、とラゼルは口元に手をやる。無意識だったが、もしそうだとしたら間違いなくルカの影響だ。グラムは話を戻す。


「で? 俺が知っているというなら若干範囲は狭くなったが、そのヒントでも難しすぎるぞ……」

「この王宮内にいる」

「はい?」


 全く予想していなかったらしい。グラムは今度こそ腕組みして、真剣な顔をする。


「調理場のエミリーも黒髪だし、財務部にいるクロエも黒髪ブルーアイズだな……あとは……薬草術士のデイジーもそうか。庭師のミチルもそうだし、でも俺が知っているのはそのくらい────あ」


 答えに行き着いたのか。グラムが声を上げる。その顔が間抜け面でつい、ラゼルは口端を上げる。


「漸く気付いたか」

「き、気付いたもなにも! お前とルカちゃんは仮の婚約者同士だろ!?」

「そうだな。仮の婚約者だ」

「本気か?」

「ああ」


 穏やかな声音でラゼルが言うと、グラムは気が抜けたのだろう。だらりと椅子に腰掛けて、そっかぁ、と言った。


「マジでお前が恋して、その相手がルカちゃんとはなー……大変な恋になりそうだな……」

「……そうだな」


 大変という意味をグラムはちゃんと理解しているのだろう。深々と溜息を吐き出す。


「ルカちゃんは優しいからな。お前が求めればイエスと答えるだろうよ。たとえお前のことをどう思っていようと、愛しているふりをして、お前の父親と顔を合わせるだうな。正式な婚約者として」


 そういう子だろ? というグラムの言葉にラゼルは頷く。ラゼルを信頼し、時には頼ってくれることもある。けれど、それが恋慕によるものかラゼルには分からない。ただ王宮で一番に信頼できるのがラゼルだからなのか。眉根に皺を刻む。

 思わず溜息を漏らす。あの時──グリナ王国との会談が終わった後、涙したルカをラゼルは抱きしめた。それをルカは拒絶しなかった。だから、少なくとも嫌われてはいないのだろう。けれど、あの時なぜルカは泣いたのか。よっぽど緊張していたのか。あの涙の理由はラゼルにも分からない。

 考えてみれば、これまでラゼルは二回、ルカの涙を見たことがある。

 1回目は先日のグリナ王国との会談の後、そして2回目は──図書室で聞いた、「ユウト」という名前と共に流れた涙。


「ユウト、か……」


 思わず口に出したしまった名前に、すぐにグラムは反応した。


「ユウト? 誰の名前だ?」


 言うべきか悩んだが、できるだけラゼルは淡々とした口調を装って答えた。


「ルカが居眠りしていた時……口にした名前だ」

「明らかに男の名前だが、ルカちゃんの家族の名前とかか?」

「違う。ランケ家に男はいない。それに……」

「それに?」


 あの冷静なラゼルが、困惑し、言い淀んでいるのが分かったのだろう。グラムは真剣な表情で答えた。


「ラゼル。言いたくなかったら別にいいぜ。ただ……」

「いや、別に構わない。ただ、ルカがその名を口にした時……泣いていたんだ」

「泣いていた?」

「……ああ」

 

 ラゼルは沈鬱とした表情で頷く。これにはグラムも答えに困ったのだろう。「あー」と言って、それから室内に沈黙が流れた。それはそうだろう。グラムもラゼルが言わんとしていることは理解している。

 他の男の名を、眠りのなかで口にして、そして涙している。それはその男に深い思いを抱いているということだ。そうでなければ名前を口にして涙したりはしない。あの時のことを思い出して、苦々しい気持ちになる。胸が苦しくなる。そして、一体「ユウト」という男がルカにとって一体何者なのかという謎がラゼルの心を苛ませる。

 もしユウトがルカの愛する人だったら──今、ラゼルは「仮の婚約者」としてルカを縛っていることになる。

 グラムは深く考えたあと、口を開いた。


「成る程な……難しいな、なかなか。ルカちゃんに直接聞くことは……まぁ、流石にできないか」

「寝ている時に聞いた名前だしな。それに涙するくらいだ。きっと、聞かれたくない筈だ」

「でもお前だって気になるだろう?」


 それはそうだ。当然だ。本当だったら今すぐにでも聞きたい。けれど「ユウト」という人物がルカにとって特別だと知った時、ラゼルは一体どうしたらいいのか。今すぐ婚約破棄して、「ユウト」のもとへと帰すべきなのか。だが、それを自分が許せるのか。ルカが自分の元へ去ることが、耐えられるのか。自問自答する。

 折角、恋をしていると気付いたばかりだというのに、また分からないことがラゼルの中にうまれる。それも、嫌な形で。


「お前、これからどうすんの?」


 重々しい声音で告げられたグラムの問いに、ラゼルは答えに惑いつつ答えた。


「正直、分からないな……」

「まぁ……そうだよな。ただでさえお前、そういうことには疎いのに……折角恋を自覚したところで、他の男の名前が出てくるとはな。こんなの俺だってどうしていいか分からないし、正直言って俺はお前の恋を応援してるけど結ばれるのは難しいと思う。それに……あの子は『あのこと』も知らないしな」


 あのこと、と言われてラゼルは表情を曇らせる。ラゼルの、隠し事。

 目を瞑ると今ででも生々しく蘇る。あの時見た光景も、匂いも、音も──感情も。全て。

 あのことを知るグラムたちは皆、ラゼルに非はなかったと言う。むしろラゼルを憐れみ、ラゼルのしてしまったことを罪だと咎めもせず、それどころか正しかったと言った。けれどラゼル自身はそう思わない。ラゼルは恐ろしい。だからいつだって感情を抑制しようとしているし、それはうまくいっている。けれどもし、この先強く感情が揺さぶられることがあったら、取り返しのつかない事が起きてしまうかもしれない。

 いつか、何処かの文献で読んだ。

 愛は、時に人を殺す、というように。


「おい、言い出した俺が悪かったが、重く考えるのはやめろ。あの日の、あのことは、当然の結果だ」


 グラムが言い聞かせるように言ったが、ラゼルは頷くことはできなかった。


「すまない。外の空気を吸ってくる」

「……分かった。でも俺で良ければいつでも聞くからな」

「感謝する」

「長い付き合いだからな。それくらいは、させてくれよ」


 せめてラゼルの憂いが取れればと思ったのだろう。グラムは明るく笑う。その笑顔に少しだけラゼルは救われる。ラゼルは黒い上着を羽織ると、執務室を後にした。固い廊下に、靴音が冷たく響く。もう夜の帳がすっかり下りた王宮内は静かだった。静かな夜だった。窓の外を見ると、下弦の月がベランダを柔く照らしていた。外へと出るガラス戸に手をかけて、すぐに気付く。ルカがいた。こちらに背を向けて、また煙草を吸っているだろう。煙が揺らいでいるのが見えた。扉を開くと、微かな音に気付いたのか。ルカが振り返る。ラゼルはその青い瞳から少し逃げるように、隣に立つ。


「ラゼル。こんな遅くまで起きてるってことは、仕事の休憩にきたの?」

「ああ」

「そっか。何か手伝えたらいいのになー」


 困ったように言うルカに、ラゼルは首を振る。


「グリナ王国との会談で随分疲れただろう。暫くお前は休んでいろ」

「あ、もしかして泣いちゃったこと、気にかけてくれてる? ごめんね、緊張の糸がぷっつり切れちゃって、安心してつい泣いちゃった」


 まるで子どもみたい、とルカは苦笑する。本当に、そうなのだろうか。ルカの心奥が、ラゼルには分からない。もしかして自分は彼女のことを何も知らないのかもしれないと思った。事実、ラゼルは「ルカ・フォン・ランケ」という少女の表面しか知らない。知らないことが、歯がゆかった。


「お前は……」

「うん?」


 小首を傾げるルカに、ラゼルは開きかけた口を閉じた。一体、自分は何を聞いても良いのだろうか。聞きたいことは沢山あるのに、それはラゼルの口から出ることはなかった。


「いや、何でも無い」

「何でもないって……ラゼル、なんかこの前からおかしいよ? 何かあった?」

「……どうだろうな」


 今のラゼルには曖昧に濁すことしかできなかった。ルカは、それでも心配そうな瞳でラゼルを見る。


「ねぇ、ラゼル。私じゃ頼りないかもしれないけど、いつでも頼ってね。困った時はさ、このオネーサンに任せなさい!」


 おどけるように笑うルカは、とても健気だった。普段のラゼルだったら、そんなルカの笑顔を見てつられるようにして笑っていただろう。けれど今はそうなれなかった。ルカのその優しさが痛かった。愛してもいない自分に無理をして、そうやって笑っているのかと思うと苦しかった。

 何より、ずっと気になっていたこと。


 ルカは本当に──心の底から笑えているのだろうか。


 勿論、心の底から笑えている時もあっただろう。けれど笑顔を絶やさないルカは、まるで何かを隠しているように見えた。実際、ルカは誰しも隠し事を持っていると言っていた。だからルカの場合は、その笑顔の裏に隠しているものがあるのだろう。

 それが、「ユウト」という男の名前と関係しているのだろうか?

 だとしたら、尚更、ルカのことがちゃんと知りたかった。


「ルカ」

「ん、どうしたの?」


 唇から煙草を離して、ルカはラゼルへと視線を向ける。


「もしも、の話だが……」

「うん」

「好きになった相手が、他の誰かを好きだったら、どうする?」


 ルカの煙草から、ほろり、と灰が落ちる。ルカは目を瞬かせて、それから長い沈黙のあと、答えた。


「諦めるよ」


 その声には何の感情もなかった。その横顔は、全てを諦めているような、そんな影が差していた。ラゼルは内心、驚きを隠せずにいた。あの明るくひたむきなルカが、こんな声音で、こんな言葉を放つとは思わなかったのだ。まるで今、目の前にいるルカは普段のルカではないように見えた。


「……何故諦める?」


 ラゼルの問いにくすりとルカは笑う。


「だってそうするしかないじゃん。だって、その人の好きな人は、自分じゃないんだから」

「振り向かせるように努力する、なんて言うかと思ったが」

「無理だよ」


 ふうとルカは煙を吐き出す。


「だってその人の気持ちは、もうその別の誰かにあるんだから」


 どこか諦念したような言い方をする。まるで自分がそれを知っているかのように。ラゼルは、「ユウト」が誰であれ、やっぱりルカにとって忘れられない人なのではないかと思った。若しくは、未だにその男を思っているのかもしれない。

 そんなラゼルの心情には気付くわけもなく、ルカはぱっと明るい表情を浮かべる。


「あ、もしかしてラゼルが最近おかしいのはその所為? 素敵な人に恋しちゃったけど、その人に好きな人がいて困っている、とか?」


 嬉しそうに笑うルカを見ていると苦しくて、ラゼルは視線を遠く見える海へとやった。


「……そうだな」


 その答えが意外だったのかもしれない。一拍の間を置いて、ルカがわぁと明るい声を上げた。


「そっか! でも困ったね。ラゼルがその人のことを本気で好きでも、相手がこちらを向いてくれないとなー……。でも、ラゼルに好きな人が漸くできたんだもん。さっきは諦めるなんて言ったけど、流石にこれは諦める訳にはいかないね。それにラゼルならきっと、その人のことを振り向かせることができるよ。私、一応女だし? 女性が喜ぶことだって教えてあげられるよ? だからさ、一緒に頑張ろうね! 応援してる!」


 ルカの言葉のひとつひとつが、ラゼルの心に突き刺さる。矢張り、ルカはラゼルを「仮初めの婚約者」としか思っていないのだ。実際二人の関係は最初から「仮初めの婚約者」で、最後までそれは変わらないのかもしれない。

 ──なかなか、堪えるな。

 ラゼルは気付かれぬよう小さく自嘲する。そうか、この恋はどうやら見込みがないらしい。なにせこんなにも近くにいるというのに、ルカの気持ちはラゼルに向いていない。それでも、やっぱり好きだ、と想う。けれどその気持ちは虚しく空転するばかりだ。


「どうしたの、ラゼル? 仕事、今日くらいはちょっと休んだら?」

「いや、いい。ただ……」

「ただ?」

「……もう少しだけ、ここにいてくれないか?」


 せめて想われていなくとも。ラゼルはルカへの思いを隠して、告げる。ルカはちょっと意外そうに目を見開いたあと、屈託なく笑った。


「勿論! ラゼルの疲れがとれるまで、ここにいるよ」

「────……たい」


 その時、風がびゅうと強く吹いた。ラゼルにとっては好都合だった。口にした言葉は、風が消してくれた。


「ん? ごめん。聞こえなかった。もう一回言って?」

「……何でもない。ただの独り言だ」

「ふうん? まぁいいけどさ。たまにはこうしてゆっくり休もうか」


 その優しさを含んだ言葉にラゼルは頷く。あの時、言いかけた言葉。


 ──もっとずっと一緒にいたい、という言葉。


 けれどこの言葉はルカには届かない。いや、届くべきではないのだ。願わない思いを口にしたら、一層、虚しくなるだけだ。痛みが増すだけだ。自棄になってこの場で「ユウト」がルカにとってどんな人間なのか、いっそ聞くべきなのかもしれない。そうしたらこの恋は終わる。無駄な期待もせずに済む。ルカがこの王宮を去る。それはルカと出会う以前に戻るだけで、このアクアフィール王国に何の影響を与えやしない。ただ、元に戻るだけ。それだけなのに。

 それが酷く、寂しい。

 無かったことに、できない。


「ラゼル」


 不意にルカが言う。その目は月明かりに照らされる水平線を見ていた。


「幸せになってね」


 その祈りの言葉が、心を抉る。

 ラゼルがどんなにルカを見詰めても、ルカの瞳にラゼルが映ることはない。

 分かっている。


「……ああ」


 分かっている。

 そう幾度も言い聞かせて、ラゼルもまた水平線を見詰めた。

 夜明けまではまだ時間がある。

 いっそ朝なんて来なければいい。


 そうしたら悪夢なんかじゃなく、こんなにも幸せな夢に浸っていられるから。



ここまで読んで下さりありがとうございました!

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