道化の落涙
何か、おかしい。
ルカはラゼルの微かな異変に気付いていた。以前は淡々と国内外の業務をこなし、宮廷内では各部署の状況について検閲し、外交への準備を着々と進めていた。その流れは今も変わりない。けれど明日はグリナ王国との会談の為か。時折、物憂げな表情を薄らとが──周囲はそれに気付いていないようだったが──浮かべるようになっていた。
一体どうしたのだろう。
ルカはレッスンの昼休憩中、ベランダで煙草を吸いながら、眼下に見える訓練所で鍛錬に励むラゼルを見ていた。風のように疾く、けれど的確に相手の急所を狙って、あっという間に相手を打ち倒す。一種の芸術のような動きに、ルカは「すごいなぁ」と独り言を口にした。ラゼルは本当にすごい。どこをとっても完璧で、しかもその心は強く優しく、アクアフィール王国の王子として国を守っている。
そんなラゼルが昨日から何か、おかしい。
朝、顔を合わせた時からその異変にルカは心の中で「あれ?」と首を傾げた。いつもだったら赤い瞳でじっとルカを見詰めて、「相変わらず元気だな」だの何だの口にするのに今朝は違っていた。まず、目を合わせなかった。それからルカのおはように対し「ああ」と短い単語でしか応えなかった。避けられているのだろうかと心配になった。けれど躓きそうになった時は優しく支えられ、怪我がないかと問われた。大丈夫だと答えると、何だか僅かに落ち着きなく「良かった」と言ったけれど。
もしかして、昨日ラゼルから逃げるように部屋に戻ってしまった所為だろうか。
考えてルカはぶんぶんと首を振る。何をうぬぼれているのだろう。ただ、きっと疲れていたのだ。綺麗だ、なんて言葉もお世辞に違いない。そこにラゼルの、特別な感情はのっていない。そんなものだろうとルカは、心の中で思考を切り上げる。
ふと視線に気付いたのか。ラゼルがこちらを見上げてきた。じっと見詰める赤い双眸に、どきりとするが、ルカは平静を装った。それから口の形だけで「が・ん・ば・れ」とラゼルに向かって伝える。するとラゼルは目を見開き、まるで小さな子どものように立ち尽くしていた。その姿が可笑しくて、笑ってルカはベランダを後にした。最近──というより、自分と出会ってからラゼルは案外、笑う人なんだということに気付いた。その笑みは本当に微かなもので人々はあまり気付かないけれど、ラゼルの笑みは、ルカの薄っぺらな嘘つきの笑顔とは違っていて、無垢だった。それがより一層、ラゼルの美しさを際立たせていた。
──どんな人と結婚するんだろうな。
きっと素敵な人だろう。それこそ神様から祝福されたような、とても美しい女性で、心もまた清らかなのだろう。それこそラゼルが弱った時も、隣に寄り添える優しさを持っているのだろう。二人でいれば幸福でいられて、ラゼルはもっと今より笑うようになって、愛する女性を抱きしめ口づけるのだろう。それを想像してずきりと胸の奥が軋む。王宮の長い廊下を歩きながら、空笑いしそうになって、やめた。こんなの、虚しくなるだけだ。今やるべきことに集中しよう。ルカはレッスン室に戻る。丁度休憩時間は終わったころで、マダムコルトンも煙草を押し消したところだった。
今日は明日の会談の為の最終チェックだ。──だが。
「今日の午後のレッスンは無しにしましょう。明日の為に自分なりに復習して、万全の体調で迎えなさい」
意表をつかれてルカは「どうしたんですか!?」と聞きたくなったが、地獄のレッスンの後の会談は正直辛い。素直に「ありがとうございます。頑張ります」と言えば、マダムコルトンは「王子の婚約者としてきちんとした態度をとりなさいよ」と言う言葉が返ってくるだけだった。開いた窓からは爽やかな風が、カーテンを揺らしていた。差し込む日差しが少し眩しかったが、落ちていた静謐は緩やかだった。
マダムコルトンは再び煙草に火をつけた。ゆらりと煙が揺れた。いつも厳しいマダムコルトンがどこか、違う一面を見せている気がした。
「それより」
マダムコルトンは窓際に立ったまま、ルカに問う。
「あんた、隠し事があるでしょう?」
どくん、と心臓が跳ねる。マダムコルトンの瞳はルカを逃さない。いや、問いかけていると言ったほうが正しいのかもしれない。真摯にマダムコルトンは「ルカ・フォン・ランケ」という人間に向き合っていた。マダムの瞳は不思議だ。普段は厳しいのに、今は、頑なだった宝石が柔く溶け出したような、優しい瞳をしている。
ルカはあははと声を上げて苦笑する。
「……マダムは何でもお見通しなんですね」
「お見通しって訳じゃないわよ。単に、誰でも隠し事があるから、あんたもそうだと思っただけ」
「はは……そうですね」
かつてラゼルに言った言葉をマダムコルトンに言われ、ルカは思わず苦笑する。駄目だ。年の功にはどうやら勝てそうもない。マダムコルトンはすうっと煙を吐き出して、優雅に煙草を指に挟んだまま尋ねた。
「それで?」
「え?」
「あんたの隠し事はどんなものなのよ?」
悪夢のことを思い出す。些末なことといえば些末なことだ。他人が聞いたら笑い飛ばして、他の人を探して好きになればいいと言うだろう。実際、その通りだ。そうしたかった。けれど、前世のルカはできなかった。理由は簡単だった。誰かを愛して、切り捨てられるのはもう、嫌だった。
本当にくだらない隠し事だ。ルカはマダムコルトンへと向けて答える。
「大したことではありません。……でも、だからこそ言いたくないんです。くだらないことだからこそ、言いたくないんです」
そう、大したことない。もっと重い苦しみを抱えている人なんて何万といて、自分の苦しみなんてちっぽけなものだ。他人が聞いたら、いい大人が未練たらしいとか、その歳にもなってまだ傷ついているのとか、そう言うだろう。実際、大人になっても誰かを好きになることを怖がるなんて、幼稚でしかない。恥ずべきことだ。愛していると認めることなんて、簡単なことなのに、ルカにはそれができない。仮に愛していると認めても、人知れずルカはその恋を殺すだろう。お前みたいな感情はいらないんだと、自分の首を絞め殺すように。
いっそ、殺せればいいのに。
この胸にある彼の──ラゼルへの気持ちを、殺せれば楽になる。
そうルカが考えたとき。
「ルカ様、あんたは間違っているよ」
マダムコルトンははっきりと告げる。
「確かに他人から見ればくだらないことかもしれない。でも、あんたはそれで苦しんでるんでしょう? だとしたら、誰でもいい。信頼できる誰かに話してみれいばいい。辛いならいっそ笑い話にしてもいい。それでも、そうやって誰かに言えば、救われる部分もあるわ。ねぇルカ様。あんたは今、どんな些末なことでも苦しんでいる。その事実は誰からもケチをつけられるもんじゃない。どう? 私の考えは間違っている?」
真剣なマダムの眼差しに、ルカは言葉を失う。それでいいのか。この気持ちを殺さなくていいのか。この苦しみは、赦されるもなのか。くだないと笑われたり、そんなことでと馬鹿にされたり、誰からも否定されない苦しみでいいのだろうか。この、ちっぽけな苦しみを。
それでも心の中にいるもう一人の自分が、情けない、と嘲るのだ。
恋なんてもので、ここまで傷つくなんて──あまりにも無様だと。
「確かにマダムの言うことに間違いはありません」
けれど、とルカは苦々しく笑う。
「私は、やっぱり、言えません。それを口にしたら今の私は、壊れてしまうんです」
嘘で固められた自分の何もかもが崩れてしまう。つらいときも悲しいときも平気だと笑えなくなってしまう。悪夢を見て眠れなくなった時も笑顔で、誰の助けも借りずに笑って生きているように見せかけなければ、周囲の人を心配されてしまう。心配されてしまう。そうしたら、心の内側を覗かれそうになってしまう。
知られたら、ゲームオーバーだ。
ルカ・フォン・ランケも、小宮瑠華がかつてそうであったように、惨めな道化へと墜ちてしまう。いらない、とまた言われてしまう。前世の恋人はそう言って「瑠華」を捨てた。
それは亡くした「お父さん」と「お母さん」に対する裏切りだ。前世の両親と交わした「幸せになる」という約束。けれど少なくとも、今の自分では「本当の幸福」は見つかりそうもない。だって、苦しみが心の奥に爪を立てるのだから。だからせめて自分は、いかにも「幸福」そうでなければならない。そう振る舞っていれば、いい。
「マダム。私は、酷く愚かな人間なんです。すみません。折角あたたかいお言葉を下さったのに、それを無下にするような形になってしまって」
ルカは笑う。申し訳なかった。マダムコルトンはきっと、もしルカの苦しみを知っても笑い飛ばしたりしないだろう。そういう優しい人だ。それでもルカは、誰にも知られたくなかった。特に、ラゼルにだけは。
マダムコルトンはルカを見詰めたあと、やれやれといったように首を振った。それから新しい煙草を咥えて、言った。
「あんたがそれでいいなら、今はそれでいいんじゃない? ただ、人は皆、それほど強くはないわ。ラゼル様だってね」
「ラゼルも、ですか……?」
「そうよ。特に、あの子は優しすぎるからね」
そう言うとマダムはルカを手招きした。それから煙草を差し出して「あんたも吸うんでしょ」と言った。どこか喫煙者なんて情報が漏れのだろうと思いつつ、ルカはお言葉に甘えてマダムコルトンの隣で煙草に火をつけた。吐き出した煙は窓の外へと消えた。ああ、この感情も、この煙みたく簡単に消えてしまえばいいのに。
「マダム」
「なんだい」
「ありがとうございます」
「それは何に対してだい?」
「私の為に毎日遅くまでレッスンに付き合って下さったことに、です」
「私は根性なしの人間は嫌いだからね。あんたは違ったからしっかり教育してあげただけよ」
その言葉に少し照れ隠しのような色が混じっていて、思わずルカは笑う。
「何笑ってんのよ」
「マダムは優しい人だなって思って」
「……あんたって本当に、変わった子ね」
マダムコルトンはそう言うとルカのほうへと向いて笑った。
「明日、頑張ってきなさいよ。これだけしっかりレッスンしたんだから、ヘマをしたら許さないからね」
「アクアフィール王国の名に恥じないよう、頑張ってきますとも!」
そう言って二人笑い合う。
ルカは紫煙をくゆらせながら考える。ラゼルは一体何をしているのだろう。ラゼルは今、何を考えているのだろう。ラゼルは、無理をしてないだろうか。そこまで考えてルカは気を引き締めていかないといけないなと思う。
──頑張ろう。少しでも、ラゼルの力になる為に。
何故ならラゼルの「婚約者」の名に恥じないようルカ・フォン・ランケは、「婚約者」を演じなければならないのだから。
グリナ王国の王太子たちを迎える前、平気か、とラゼルに問われた。ルカは「正直緊張しているけど頑張るよ」と笑顔で返した。ラゼルは「そうか」とだけ言ったが、その声色は優しかった。大丈夫、頑張ろう、とルカは気を引き締める。緊張して早鐘を打つ心臓を抑えるよう、深く息を吐き出して、背筋をすっと伸ばした。
グリナ王国の王太子フィンベルクと王太子妃フロンティーナは柔らかで優しげだが、王族に相応しい気品を持っていた。
煌めくようなブロンドの王太子と、美しい茜色の髪を結い上げた王太子妃は、まさにお似合いの二人で、実際二人の間には強い信頼と愛情で結ばれていた。和やかな雰囲気で会話を進めると、どうやら公爵令嬢だった王太子妃に一目惚れした王太子から始まった恋らしい。初めて会った時は「素敵な人、くらいにしか思わなかったのよ」と笑う王太子妃はとても幸せそうだった。羨ましいなぁ、とルカは思う。それと同時にこれからも二人が幸福であればいいと願った。
「ラゼル様とルカ様はどんなふうに恋に落ちたのかしら?」
無邪気に笑う王太子妃のフロンティーナに対し、ルカはチラリと隣のラゼルをうかがう。一体何と答えるのだろう。その表情はやっぱり無表情で、とても色恋話をするような姿ではなかった。勿論、これがラゼルの基本的な表情なのだが。
ルカがそうして内心、ひやひやしていると。
「一目惚れです」
ラゼルがはっきりとそう答えた。一目惚れ。その単語に心の内側でルカは硬直する。間違いなく嘘だ。けれど心臓がきゅうと引き絞られたような、甘い痛みが走る。王太子妃フロンティーナだけでなく王太子のフィンベルクも意外そうに目を瞬かせて、ラゼルとルカを交互に見遣っていた。悪意が全くない視線とはいえ、居たたまれない気持ちになってルカは苦笑する。それはそうだ。こんなにも釣り合っていない婚約者同士など、そういないだろう。
フロンティーナはラゼルの恋に相当、驚嘆したらしい。まるで少女のように今度はルカに話を向ける。
「ルカ様は初めてラゼル様に出会った時、どう感じたんですか?」
問われ、記憶の針を逆に回していく。出会い、か。ルカは考えた。最初見た時、とても美しい人だ、と思った。けれど同時に──どうしてこの人は、こんなにも寂しい目をするのだろう、とも思った。
けれどそれを口にするのは流石に気が引けた。ルカは照れくさそうに笑って、それらしく答えた。
「ええっと……実は私も一目惚れで……」
「まぁ! 素敵ですわ。お互いが一目惚れなんて、まるで運命が二人を結びつけたよう」
「こらフロンティーナ。その話はこのあたりにしておきなさい。申し訳ありません、ラゼル様、ルカ様。フロンティーナはこのような話になるとつい歯止めがきかなくなるのです」
「構いません」
ラゼルは何てこともないと言ったように答える。やっぱりさっきのは嘘だったようだ。ルカ自身もそうだよなと納得する。けれどしれっと嘘をつけるラゼルも凄いものだ。普段は嘘なんて一つもつかないのに、やはり外交に於いては駆け引きが必要になるから、嘘というものを武器として置いてあるのだろう。それで一人で戦ってきたのだ。時には辛辣に、時には友愛を持って、他国と交流してきたのか。それも18歳ころから一人っきりで。その中で辛酸を嘗めるようなことも多かっただろう。それでもラゼルのことだ。きっと誰にも弱音なんて言わなかったに違いない。
──せめて、私がその弱さを受け止められたらいいのに。
そこまで考えて、ストッパーが心の中でかかる。小さく、小さくだが笑う。何を考えているんだ。その役目は「本当の」婚約者がやるべきことだ。そんなことを考えている内に、やがて会話は政治に関する話題へと進んでいた。耳を傾けていると、やはりグリナ王国は輸出大国であるツヴィンガー王国の存在を危惧しているようだった。それについてはアクアフィールも同じだとラゼルは肯き、グリナ王国の王太子は困り果てたように言った。
「我が国の輸入割合の三分の一を今やツヴィンガー王国に頼っている状態だ。もし飢饉や疫病が起こった時、ツヴィンガー王国に益々頼らざるを得なくなってしまうかもしれない」
グリナ王国の王太子が憂うのもルカには分かる。三分の一もツヴィンガー王国に頼っているというのに、もしこれ以上頼らざることが起きてしまえば、いつかグリナ王国は表面上は「グリナ王国」であっても、実際はツヴィンガー王国の属国のような立ち位置になってしまうかもしれない。その時、グリナ王国の内政がどうなるのか。国民の生活がどうなるのか。それを若きグリナ王国の王太子は危ぶんでいるのだ。
黒い正装を身に纏ったラゼルは王太子の話に耳を傾けながら、きっとルカと同じことを思ったのだろう。
「確かにフィンベルク様の憂慮は理解できます。他国からの輸入が無くとも自立できる我が国アクアフィールでも、ツヴィンガー王国の存在は看過できません」
そう言うラゼルの瞳は真剣そのものだった。それはそうだろう。どこかの国が勢力を持てば、この平和の均衡は崩れ去る。その時待ち受けるのは、独裁か、戦争だ。王太子のフィンベルクは深刻な表情で言う。
「貴国もでしたか……」
「ええ。私ですらそう考えるのですから、この件に関して懊悩する国は他にもあるでしょう」
久しぶりに聞いたラゼルの「私」や敬語に、改めてこの人は王族なのだと感じ、より一層気を引き締めてルカはこの場に臨む。今、ルカもまたこの場にいる王族と同列の存在なのだ。緊迫した空気の中、先に沈黙を破ったのは王太子であるフィンベルクだった。
「ツヴィンガー王国の件もそうですが……私はもう一つ、危惧していることがあります」
「それはセレン鉱石のことですか?」
「! なぜそれを」
驚くフィンベルクにラゼルは淡々と答える。
「どの国もセレン鉱石という存在ひとつで成り立っています。もし近い未来、セレン鉱石が機能しなくなれば……ということをフィンベルク様はお考えなのでしょう?」
「……そうです。ラゼル様の仰る通りです。おそらく多くの国がその可能性を危ぶんでいます」
「セレン鉱石というエネルギー源が消失すれば、間違いなく世界は混乱を招くことになるでしょう。今は問題なくとも、明日にはどうなっているのか分からない。セレン鉱石が神の御業で与えられたとしてもしなくても、我々にその崩壊を止める術はありません。セレン鉱石に触れられる王族である、私であっても」
「そうなのです。もし先に述べたツヴィンガー王国の件と、セレン鉱石の件が合わさってしまえば、我が国グリナは間違いなく滅ぶでしょう」
そう言ったフィンベルクの顔には沈鬱とした影があった。そんな王太子を労るように王太子妃であるフロンティーナが寄り添う。ラゼルもまた、この問題に関しては答えが明確に提示できないのだろう。厳しい表情で唇を引き結んでいた。
ルカはそんな二人を見て、思う。これじゃあいけない。このまま世界の未来を危ぶんでばかりではいけない、と。
口を開くべきか迷った。なにせ此処にはルカよりもずっと賢く、背負うものの大きさが違う人たちがいるのだ。そんな人たちが思い悩む場で、果たしてラゼルの「婚約者」とはいえ、本来は伯爵令嬢に過ぎない自分が言葉を発していいものか。
ルカは迷った。ラゼルに迷惑をかけるかもしれない。けれど、やっぱりこのままじゃ駄目だ。
ルカは人知れずぎゅっと拳を握りしめ、勇気を奮い立てせて口を開いた。
「皆様がこの先の未来を憂慮するお気持ちは分かります。けれど、悲観してはならないと思うのです」
ルカの言葉に、その場にいたラゼルやフィンベルク、フロンティーナの視線が集まる。けれどもう、引き下がれない。大丈夫。ルカは己に言い聞かせる。「幸福」を演じることには、慣れている。
「もしもこの先、セレン鉱石を失ったとしても、新たなエネルギー源を見付ければ良いのです。例えば豊潤な水に恵まれたグリナ王国でしたら、高低差を利用した水の力でエネルギーをつくりだし、代替すれば良いと思います。水の力を使う為の建築には時間や技術を要するでしょう。ですがセレンを水力で変換できる装置が作れるのなら、不可能ではありません。水力以外にも方法はあります。我が国アクアフィールでしたら風の力を使ってエネルギーを得ることができるでしょう。どちらもこれらは自然に与えられた力であり、今、セレンから与えられている『電気』に値するものです。『ガス』に値するエネルギーについては難しい問題ですが海底に存在するとされるガス田さえ発見することができれば問題ありません。それを採掘し気体化させると同時にパイプラインを設置すれば問題なく各家庭に届くようになります。水についても同様で、幾重にも国中に管を通して巡らせれば、問題ありません。今私が述べたような知識を以て、各国の識者が一丸となってエネルギー問題に早い内から取り組めば発電装置は近いうちに完成するでしょう。万が一、今私が提示した方法全てが徒労に終わったとしても、この世界にはまだまだ私たちの知らぬ物質があります。その未知の物質が、私たちに新たな道を指し示してくれるかもしれません」
ルカはそこまで言うとグリナ王国の王太子と、王太子妃を見据えて言う。
「この私がここまで未来を想像することができるのです。勿論未来を危惧するお気持ちは分かります。けれど、混乱や不安を危ぶむだけでなく、その際にどのような対処ができるか。その方法を世界各国で模索していかねばならないと思うのです。今後どのような苦難が降りかかろうとも、国を牽引するお方が未来を諦めてはならないと私は思うのです。どんなことが起きようとも、民の幸福のために私たちが諦めてはならないのです。……差し出がましい事を口にしてしまって申し訳ありませんでした。ですが、どうか憂いだけでなく、光も見て下さい」
心からの言葉をルカは口にし、その上で謝罪を重ね、頭を下げる。やってしまっただろうか。馬鹿馬鹿しい、幼稚な発言だっただろうか。前世で少し知った程度の知識で、この世界では何の専門知識も持たない自分が、偉そうに陳述するのが誤っていたかもしれない。
何より──ラゼルに迷惑をかけていないか。
それがルカにとっては心配でならなかった。沈黙が下りた。けれどその沈黙は長くは続かなかった。グリナ王国の王太子フィンベルクも王太子妃フロンティーナも、ぽかんとしていた。それから、緊迫していた空気が一気に弛緩したように、声を上げて笑った。その笑いは馬鹿にするようなものではなく、明るい声の笑いだった。
だがどうしてこんなに明るい笑顔でいるのだろうと思っていると、目尻のたまった涙を拭いて未だ笑いながら王太子のフィンベルクは「顔を上げてください」と言う。
「全く貴国のルカ様には驚かされました。まだ若いというにこれほどまでに聡明で、また強い心を持ってして我々が見ていた憂いを拭い去ったのですから。ルカ様の仰る通りです。確かに我々は問題を抱え危惧するばかりでした。けれどそれは間違いで、ルカ様の仰ったように顔を上げて光に満ちた未来を模索しなければなりませんでした。それが王族の務めでした。何事も諦めてはいけないというルカ様のお言葉、胸に響きました」
想像していなかったフィンベルクの言葉に、ルカは驚いたあと、少し苦々しく微笑む。
「私はただ、私の考えを述べただけです。出過ぎた真似をしてしまいました。無作法をお許し下さい」
「そんなまさか! ルカ様の言葉は、私たちに希望を与えて下さいました。感謝します」
グリナ王国の王太子と王太子妃の表情は先程とは変わって明るく、またその目には強い光が宿っていた。良かった、とルカは安堵する。これでこの人たちの憂いを少しでも取り除けた。こんなにも自国の行く末を考える人たちだ。きっとグリナ王国はアクアフィールと同様に、これからも平和が続き、また模索し続けるのだろう。安穏とした、日だまりのような平和が満ちあふれていく未来を想像して、ルカまで心が弾むようだった。
グリナ王国のフィンベルクはルカを見てから、ラゼルを見て笑顔を浮かべた。
「ラゼル様のご婚約者様はとても聡明で美しい方ですね。きっと婚姻を結んだ後も献身的にラゼル様を支えてくださるでしょう。式には必ず参ります」
そう言われたラゼルのピクリと眉が微かに跳ねる。その微細な動きにどんな感情の揺れ動きがあったのかルカは分からなかった。ただラゼルはルカの方を見ると、まるで愛しげなものをみるような目をしていた。その視線に、どきりと心臓が跳ねる。ラゼルは視線をルカからフィンベルクに戻すと答えた。
「ええ。フィンベルク様の仰る通り、私の婚約者は優れた女性です。これからも私と共にアクアフィールの恒久的な平和を維持していくでしょう」
「ああ、そのせいかしら? ラゼル様も随分とお変わりになられましたね」
フロンティーナが穏やかな眼差しで微笑む。ラゼルは微かに眉根を寄せる。決して不快に思っている訳では無く、不思議だというように。
「というと?」
「以前も何事に対しても真摯な方でしたが、今は以前よりもずっと柔らかくなられたように感じます。矢張りルカ様が側にいらっしゃるからでしょうか」
フロンティーナの言葉に賛同するように王太子のフィンベルクが笑う。きっとラゼルはこんなことを言われて嫌だろうな。ルカは内心苦笑する。なにせ自分は仮の婚約者だ。そんな存在に、影響を受けているなんて思われたくないに違いない。
ちらりと隣に座るラゼルを伺う。いつもの無表情だと、そう思った。
けれど、それは違って。
「……ええ」
優しい、小さな微笑み。
その柔らかな表情にルカは思わず目を逸らした。
どくどくと胸の奥が激しく、甘く鼓動している。あんなに優しく笑うことができる、ラゼル。たとえ外交上でも、やっぱりラゼルはもっと笑うべきだとルカは思った。だって、こんなにもあの人の笑顔は、人の冷たくなった心を優しく溶かす。今のルカみたいに。
この人に愛してもらえる人は、なんて幸せなのだろう。
「ルカ様も、ラゼル様と側にいて幸せにみえますわ」
フロンティーナの無垢な言葉に、ルカの二律背反した裂けてその感情たちがささやく。そうだ、確かに側にいることができると幸せだ。けれどそれは、仮初めの幸福だ。だって、ルカは仮の婚約者であって、何より「ルカ・フォン・ランケ」という18歳の女性だからこそ、ラゼルは嫌がらずに仮の婚約者として相手をしてくれるのだ。
けれど、心の底の強い感情には抗えず。
「はい……幸せです」
仮初めという道化なのに、喜びを否定できなかった。否定するどころか、喜びを露わにしてしまった。
けれどそんなルカの心に気付かないグリナ王国の王太子と王太子妃は、まるで祝福するようにこちらを見ていた。事実、きっと二人はラゼルとルカの愛が永遠に続くことを祈ってくれているのだろう。優しい人たちだ、とルカは思った。きっとグリナ王国もアクアフィールと同様に、平和な王国なのだろう。
長いようで短く感じた会談はいつの間にか終わりを告げ、ラゼルとルカはグリナ王国の二人を見送るべく船着き場まで向かった。豪奢で真っ白い船体は最近作られたものらしい。勿論、セレン鉱石からのエネルギーを動力に動く船だ。隣国なので馬車でも構わないのだが、時刻が夕刻ということもあって、海路を選んだようだ。
船の入り口でラゼルは王太子、王太子妃の二人を前に恭しく頭を垂れる。
そうして顔を上げると、王太子であるフィンベルクが嬉しそうに笑った。
「ラゼル様から聞きました。今日という日に備えて、難解とも言われる我が国グリナの言語を学んで下さったんですね。グリナの王子として私は貴女の心遣いがとても嬉しかったです。ありがとうございました。あなたのグリナ語は本当に、素晴らしいものでした。是非今度はグリナへといらっしゃって下さい。フロンティーナも喜ぶでしょう」
そう言うとフロンティーナとフィンベルクは船に乗り込んだ。大型の船がゆっくりと動き出す。すると甲板から二人が姿を見せ、夕刻の美しい空を背景にこちらに向かって手を振ってくれた。それが、なんだか堪らなく嬉しくて、ルカもまた手を振り返す。そして二人の姿が見えなくなるまで、ラゼルとルカはそこにいた。二人の疲労を気にかけたのだろう。すぐにラゼルを警護する軍部兵が馬車の手配をし、「いつでもお帰りになられる準備はできています」と声をかけてくる。ラゼルはそれに頷き、ルカの名前を呼ぶ。けれどルカはすぐに、そちらには振り返られなかった。何でだろう。涙が出そうだ。
「ルカ。どうした?」
心配になったのかラゼルが声をかけてくる。振り返るんだ。笑顔で振り返よう。ルカはぐっと涙を堪えた。
「何でもないよ。ちょっと疲れただけ……あ」
堪えていた筈なのに。
ぽろり、と涙が零れた。
それは次々と落ちて、止まらなくて、どうしていいかルカは分からなくなる。悲しいのか嬉しいのか、それとも緊張の糸が切れて疲れが涙に変わっているのか。わからない。けれど、涙が止まらない。こんな顔を見られたくないのに、顔を逸らす余裕さえなかった。ただそれでも、誤魔化すように涙混じりに言葉を紡ぐ。
「おかしいな、なんで泣いてんだろ、私。疲れたから、かな? ごめんね、急にこんな、泣いて。でも大丈夫だから。帰ろ?」
涙を拭う。もう大丈夫だと自分に言い聞かせて、歩き出そうとする。けれどそれをラゼルの手が引き留める。そしてそのまま、ラゼルはルカを抱き留める。ラゼルの体温や香りが近くなってルカは心臓の奧が熱くなる。どうして、なんで、と思う隙も無く、ラゼルが言う。
「……良くやったな。良く、頑張った」
その言葉にもう、涙が止まらなくなった。
ラゼルは腕の中で泣くルカの頭を優しく撫でていた。ルカはラゼルの服にしがみついて大粒の涙を流していた。毎日のレッスン、その合間を縫うような勉強、忙しい中時折見る悪夢。それでもルカは笑顔で励み、誰にも心配させないよう心がけた。誰にも、良くやったなんて言われなくても良いと思っていた。
でも、本当は違った。ルカは他の誰でもないラゼルに、そう言って欲しかったのだ。
グリナ王国の王太子がルカの努力を認め褒めてくれたように、ルカは何よりもラゼルに褒めて欲しかった。優しいラゼルの心につけ込んで、こんなふうに本当の婚約者みたいに扱ってもらって、それで嘘吐きの幸せを感じる。虚しさと喜びが同時に列挙する。
ああ、本当にこの人の婚約者になれたらいいのに。
愛している、という短い言葉が、認められたらいいのに。
愛している、
好き、
もっと一緒にいたい、
あなたの笑顔がみたい、
あなたと幸せになりたい────……
そんな感情が、本当はあるくせにルカは目を瞑ってずっと気付かないふりをした。自分を瞞した。ラゼルに優しくされた時には、「過去」の自分が「どうせまたいらないと言われるよ」と囁いた。ラゼルの腕の中にいると酷く安心して幸せに思うのに、虚しくて、悲しくて心が痛くなる。ラゼルはルカが仮の婚約者であっても、こんなにも優しくしてくれる。それなのに自分はどうだ? いらないと言われるような女。たとえ前世の記憶とはいえ十も離れている「瑠華」が確かにルカの中に記憶としてある。それなのにあたかも幸福そうに振る舞う18歳の少女が今の自分、「ルカ・フォン・ランケ」だ。いつも笑って、笑って、笑って、笑って──……自分を誤魔化して、大丈夫だよ平気だよと他人への笑顔も付け足して。
だからラゼル。
こんな「嘘」を抱き留めたりなんかしちゃ、駄目だよ。
貴方の腕の中に今いる存在は、幸福者気取りの道化なんだから。
ここまでお読み下さってありがとうございました!ブクマ、評価もありがとうございます!
個人的に悩んでいるんですが、もっと1話1話を短くしたほうがいいんですかね……?アンケート機能がないので、ゆるっと教えて下さる方がいるとありがたいです。




