血と死と愛の先に――
ただ、悲しかった。
燃える戦場。襲い掛かる兵士。切り傷が熱を帯び、激痛を発する。
刀を振るい、敵兵を切り裂き、スロウスは轟音に似た絶叫とともに走る。
赤く染まった月にかぶせるような血飛沫が立ち上り、スロウスは今日何人目か知らぬ敵を切り殺した。
「奴はどこだ!」
「追え、追えぇ!」
どたどたと襲い掛かる二人の兵士を一閃で喉元を切り裂く。
「くそ、キリがねぇ!」
背中が怖い。
前だったら相棒が背中を守ってくれた。だから、警戒する場所は、ただ真正面だけだった。しかし、彼はもういない。どれだけ苦しくても、一人で戦うしかないのだ。
第四次世界大戦の最中の出来事だった。他の者は形勢不利を悟って撤退し、スロウス一人が殿を務めていた。金髪と青の軍服を血に染め、スロウスは咆哮する。
願わくは、唯一愛した男に届くことを願って。
彼――サーシャ・ウィンドと出会ったのは、約一年前、第四次世界大戦の最中のことだった。
補充として派遣されたサーシャは華奢な体つきで、女性だと偽っても通るレベルの美貌を持っていた。年齢も十七と隊士の中ではぶっちぎりで最少年だった。長い髪、儚げな目元、軽やかな声色、秀麗な顔つき。だからこそスロウスをはじめ、他の面々は完全に彼を見くびっていた。
第一の戦場で、彼の恐ろしいほどの強さを見るまでは。
「お前つえーんだな!」
戦いで勝利したら宴会を開き、ワイワイするのが普通だった。けれど、サーシャは宴会から離れ、向こうにひっそりと佇む兵士の墓で黙とうをささげており、輪に混ざろうとしなかった。
彼は本当にそっけなかった。じろりと冷然と見つめた後はすぐにそっぽを向いてどこかに立ち去ってしまう。
誰とも群れず、ただ戦場で敵を機械の如く死に誘う。仲間内から孤立して行くのは、当然の帰結だった。あっという間に功績を立てていくのに、愛想がない。嫉妬と羨望に包まれ一人になった彼に構うのは、いつしかスロウスだけとなっていた。
「なあなあ、お前なんでそんな強いんだ?」
「サーシャぁ、お前クールすぎだぜぇ! これからバーベキューするけど来る?」
「沢山ぶっ殺してるとよぉ、なんか相手が肉の塊にしか見えなくなってくるんだけど、サーシャはどうなんだ」
などなど話しかけて撃沈する日々。確か、向こう一か月ほどは彼に完全無視を決め込まれることがほとんどだった。彼が話すことといえば、戦後の事務処理の時くらいか。もちろん堪えなかったといえば嘘になる。けれどこんな苛烈な環境だ、隣にいた奴が次の瞬間には首だけになるなんてざらにある。
だからこそ、一人一人との対話を大切にしていきたい。たとえ、表面上だけだとしても。スロウスはそういう信念を持っていた。
彼が初めて話しかけてくれたのは、何度目かの戦闘の時だった。
かなり苦戦を強いられており、自軍が撤退の兆しを見せる最中、スロウスは残って他の連中の退路を確保するために暴れていた。敵の兵力が圧倒的だったのもあり、かなり押されていた。
そんな時、不意を突いて俺の背中に切りかかる敵の心臓を潰したのが、サーシャだった。
「気を付けて」
舞踏の如く踊り、敵を屠る様は、まさしく巫女の如く。ちなみに声も綺麗だった。
「あざぁす!」
それから三十分も、俺とサーシャは背中を合わせて敵を撃退していった。普通だったら有り得ないであろう、けれどスロウスはこの戦争を楽しんでいた。
スロウスが捨て身で切りかかり、サーシャは美しく踊る。
一見間反対な戦い方をするスロウスたちは、初めての共闘のはずなのに、連携が取れていないように見えて取れていたのだ。
スロウスが殺し損ねた相手の首をサーシャが刈り取り、サーシャの刀が届かない敵の首をスロウスが突く。
たった二人の、血濡れの世界。
まるで、今の戦いがあの日の再現だなと思い、スロウスは敵兵をなぎ倒す。
唐突に背中に激痛が走る。振り返ると背後に刀を持つ青年がいる。
振り返りざま切り伏せて、視線を泳がせる。
敵は、まだ無数にいる。
「……畜生が」
大きく深呼吸したスロウスは、再び相手に切りかかる。
それからスロウスとサーシャは親密な仲になった。サーシャは人形のように無表情だなと思っていたけれど、案外ころころと表情が変わる愛い奴だった。
「なあなあ、今日の剣術の練習さぼっちまおうぜぇー」
「駄目です。修行を一度でも怠ったら、さぼり癖がついてしまいますから」
「げーサーシャってマジ真面目だよな! じゃ、俺はさぼるぜ」
「え……」
シュン、と下を向くサーシャは、さながら打ち捨てられた子犬のような哀愁をまとっている。
「私は、スロウスと一緒に稽古したい……」
ぼそりと聞こえた一言に、スロウスは仕方ねーな、と頭をかく。サーシャはスロウスの良心を抉るのが得意だった。
「よっしゃ、行くぜサーシャぁ!」
勢いよく道場の道をがつがつ進むと、サーシャはぱああと満面な笑顔になって、ひょこひょこ後ろをついてくるのだ。そんな後輩が可愛いなとスロウスは思いながら、結局サーシャと一緒に夜遅くまで鍛錬を積むことになるのだった。
弟弟子みたいな感じだった。サーシャは独学で剣術を学んできたらしく、粗削りな面が多かったけれど、スロウスに勝るとも劣らない実力を保有していた。対人試合では三十分以上長い間打ちあうことが稀でもないほど。軍最強を誇るスロウスと、そんな彼に太刀打ちできるサーシャは、ほどなくして注目の的となっていった。
「いつも思うんだけどよぉ」
「なんですか?」
休憩時間、バカでかい声のスロウスと相反し、サーシャはいつも凛とした小さな声だった。
「どうして軍に志願したんだ? ほら、第三次世界大戦でありったけの核を使い切って、今では昔みたいに刀や銃で戦うだろ? 超リスクたけーじゃん。なんで好きで戦争に加わったんだ?」
サーシャは聡明な男だった。大学まで出ている彼は、発達した他の惑星に大部分の人とともに移り住むことだって可能だ。核兵器の弊害を被り、ぼろぼろな、人口一億にも満たない地球で支配者になりたいと野心を燃やす者のために不毛な戦争に加わっているのが、いつだって不思議だった。
サーシャはそうですね、と目を瞑る。
「私は別に戦争に加わるのが当たり前、という固定観念を持っていたから、あまり考えたことがないのですが」
目を開いたサーシャは、少しだけ寂しそうに瞬きした。
「昔、戦争で私の親兄弟がみんな死んで、結局は孤独の身になってしまいました。どうして私が生き残っているのか、今でも生かされた意味が分からないんです。だからですかね、ひょっとしたら私は、死に場所を探しているのかもしれません」
「へー」
「スロウスさんはどうなんでしょうか?」
「俺? あーなんでだろーな。なんか惑星に移るのがだるかったし、人殺して金を得られるならやったほうがいいかなーって」
「単純ですね、スロウスさんは」
「というかよ、お前めっちゃ寂しいこと言ってる自覚あるか? 死に場所探しか? は、生きたくても生きられない連中がいる中で贅沢なこった」
「それは、そうかもしれませんね」
「お、おい、そんなしょげるなよ。別に責め立てているわけじゃないんだからよ」
スロウスは溜息をついて、うつむいたサーシャの頭に手を置く。彼はびっくりしたように肩をすくめたが、やがてなされるがままに頭をなでなでされていた。
「まあ、確かにあるわな。俺のダチ――つってももう死んだけど――も同じ理由でここに来た。そういう自分を捨て鉢にしてるやつに限って強いからな、厄介なもんだぜ、ホント」
豪快に見えて心配性なんですね、とクスクスと笑うサーシャ。
「けど、まあ、なんだ、何かあったら頼ってくれよ! それこそ家族みたいに思ってくれたっていいんだからなぁ!」
孤独、か。
まあ、分からないこともない。スロウスは強い。強すぎる。だから大抵の奴らがスロウスの後から入ってきて、そして先に死んでいく。
そんなものだからか、いつの間にか表面上の付き合いだけに執着し、他の人の本質に迫ることを避けていた気がする。
そんなことばかりだったから、家族みたいに接しろとか言う日が来るとは思わなかった、と自分に対して驚いているところもあったり。
サーシャは、そう言うことは女性隊士に言ったほうが喜ばれますよ、と朗らかに笑った。
「……確かに、人間にはそういう休めるところも必要だったのかもしれませんね」
「そりゃそうだろ。こんなくそみたいな環境だ、信用できる人間がいるに越したことはねーだろ」
思えば、スロウスにサーシャが必要以上に固執するようになったのは、この頃だった。
弾丸がスロウスの肩を貫通する。思わず跪いてしまう。この機を敵兵が襲ってくるものの、立ち上がりつつ刀を振り、複数を絶命に追い込む。
そろそろ皆撤退したか?
だとしたら、そろそろ潮時だ。マジで引かねえと。
けれど。
「多すぎる……」
再び背中を切り付けられ、動く気力が失われていく。
もう、駄目か?
荒い息を繰り返しながら、敵を切り伏していくが、そろそろ限界に近い。腕は上がらないし、足もがくがくし始めている。一時間以上ぶった押しで敵と戦い続けているのだ。死傷を問わなければ、恐らく百人ほどと相対している。
「……サーシャ」
多分、そろそろ俺もそっちに行くわ。
サーシャとスロウスは戦闘では先陣切って戦うことが多かった。銃弾を避け、向かう敵を切り伏せ、たった二人で敵陣に乗り込みかく乱させ、主力部隊がその後乗り込んでくる。
「いやっほう! 最高だぜぇえええ!」
「スロウスさん、油断しないでくださいね!」
背中合わせになり、敵陣のど真ん中で暴れ狂う。
普段なら忌むべき惨劇も、彼がいるからこそ、テンションをあげる最高のスパイスとなった。
彼がいるから、スロウスは背中に全く注意を払うことなく戦うことができた。
「スロウスさん!」
スロウスの虚を突いた敵をサーシャが手早く片付ける。
「わりいな!」
「スロウスさん気を付けて!」
「おうよ!」
飛んでくる銃弾を切り崩しながら、再び陣形を整える。
スロウスとサーシャが真っ先に切り込んだ戦闘の勝率は、実に八割以上を占めた。
サーシャと情欲を満たすというありえない出来事が起こったのは、数回目の戦い――今から四か月前のことだった。
「お酒おいしいれすね」
「お前ほろ酔いというレベルじゃねーな」
未成年のサーシャに酒を進めたのは、まぎれもないスロウスだった。戦いに勝った後の宴会中、サーシャはずっとスロウスの横にぴったりついていた。しかも未成年のため、酒を飲むことは憚られる。少しくらいなら大目に見てやろうと宴会後、スロウスの邸宅で少し飲ませてみたのだ。
しかしサーシャはスロウスさんのように沢山飲めると言い出し――負けん気があるからな――、結局アルコールに弱いのに三本も缶ビールをちびちびと飲み切ってしまったのだ。
結果。
「スロウスさんがイケメンに見えますー」
「やめろ引っ付くな」
着物がはだけ、白い鎖骨が浮き彫りになったサーシャは、まるで女性隊士のようでもあった。戦場で染みついた血の臭いと、ほんのわずかな優しい香りが鼻を撫でる。
率直に言って、エロい。遊郭に繰り出しても、これほどの上玉な女――じゃねーか――はいないレベルに、サーシャは美しかった。
火照った頬、情欲的な唇、女のようなさらさらした黒い、長い髪。
そして、とろんとした目元。
「スロウスさん……」
「やめろマジで。理性が飛びそうになるって」
「……私が男だから?」
「女でも同じことを言ってたぜ。体大切にしろよ」
「スロウスさんなら、何されてもいいです……」
ダムが決壊する如く理性が飛んだ。
結局スロウスはぱくりとサーシャをいただいてしまった。
あれから、スロウスとサーシャのお付き合いが始まった。昼は二人で稽古をし、ライバルとして模擬戦闘を行ったり、飯を食いに行ったり、戦いでは血と臓物を体に受け、業を背負い人を斬る。
夜は恋人として、互いを貪り食うように愛し合い、時をゆったりと共有する。
「いつも私が、えっと、受け身ですよね」
「そーだな。確かに」
「たまには、私から攻めたいなーなんて」
事後、布団の中で転がるスロウスの横には、もちろんサーシャがいた。
「お前は攻めるに向いてねーだろ。いつもアンアン喘いでるくせによぉ」
「そ、そんなんじゃありませんよ。私、もう少しお淑やかじゃないですかね」
耳まで真っ赤になるサーシャがおかしくて、ついスロウスは笑ってしまう。
「ぶはははは!」
「なんでそこで笑うんですか!」
もー、と口を膨らませ憤慨するその姿は、初めて戦地で会った時とは全く違い、スロウスに無償の愛を捧げてくれる愛い奴だ。
「サーシャ」
「はい?」
「この戦争が終わったら、一緒に住もう」
サーシャは目をぱちぱちする。
「そしたら、俺がお前の家族になってやる。お前のもともとの家族には程遠いかもしれねーし、俺もう三十代になるだろうし、つーかお前未成年だし。けど」
俺はお前と人生を歩んでいきたい。
そう告げると、サーシャはこくりと息を呑んだ。
「……いいの? 私なんかで」
「お前がいいんだよ、ぼけ」
「私、人を殺すことしか長所がないよ。それでも」
「あーくどいな」
スロウスはサーシャの唇を奪う。驚きつつも、不器用に応じてくれるサーシャに、さらなる庇護欲と独占欲、ついでにいじめたいという願望がブワリと芽吹く。
「お前次第だよ、そんなくっだらねーことで悩むな」
「……お願いします、スロウスさん!」
その日は惜しくも、サーシャの誕生日だった。つまり十八歳。スロウスと結婚できる年齢に達していた。
「指輪、楽しみにしておけよ」
「いいです! 余計な出費になります!」
「同性婚なんて俺らの国じゃできねーんだから! こういう形に残るもんくらい作ってやりてーんだよ」
「……スロウスさんは、人たらしです」
「だけど俺はサーシャ一筋だからな!」
他の戦友に自慢できる、大事なは恋人だ。
けれど、戦争というのは残酷だ。
どれだけ愉しくても、それが来る可能性を考慮できなかったことが、スロウスの失態だった。
ある戦争で、サーシャは死んだ。
投入された機関銃がスロウスを標的とした時に、サーシャが庇ったのだ。
最期に言い残したサーシャの言葉だけが、スロウスの体だけを蝕んでいた。
それからの日々は、空虚だった。
サーシャが死に場所を探しに戦場に来たという言葉の真意が、今分かった。
どうして自分だけ生きているという呵責の念。
サーシャのところに行きたいという気持ち。
「どうして、俺を庇ったんだよ、サーシャ……!」
それからは、ただ自分を犠牲にすることしかしなかった。
誰よりも長く戦場に残り、誰よりも多くの敵を叩き斬り、誰よりも劣勢な場面に居合わせ続けた。
けれど、結局スロウスは、死ぬことができなかった。
死にたくないと本能はささやく。死にたいと願う。
そして、今スロウスはぼろ雑巾のような有様で、今にも死にかけている。
苦しいし、痛いし、吐血するたびに喉がひりひりする。
「……ようやく、俺もそっちに行けるみてーだぜ」
被弾した腕はもう上がらない。視界もたまにぐにゃりとゆがんでしまう。もう少しで、スロウスの命の灯は消え失せようとした。
「やばいな、こりゃ」
刀が折れる。すぐさま死んだ敵の刀を手に取り、必死に応戦する。
けれど、これでいいのだ、とうすうす思っていたのは事実だった。
ここで死ねさえすれば、俺は、サーシャに逢うことができるのだ。
じりじりと追い込まれていく中、スロウスは林になだれ込み、走り出す。道が狭いため、おのずと対峙する相手は一気に減る。一人、また一人と命を刈り取るスロウス。
しかし、もう、両足が動かない。
「……死ぬかもしれない、か」
あの場で本来死んでいたのは、スロウスだったのに。
たった十八で、命を散らしてるんじゃねーよ、バカ野郎。
……つーかもう駄目かもしれない。
目の前にいた敵を殺し、スロウスは両膝をつく。
体が衰弱していくのが分かる。両足はおぼつかず、地面に倒れこんだ。
「……サーシャ」
スロウスはポケットの中から箱を取り出した。
指輪だった。
本来なら、サーシャの細い指に収まるはずだった、結婚指輪。
けれど、これが彼の指に通ることは、永遠に訪れないのだ。
もっと早く、サーシャを戦場から遠ざけるべきだった。サーシャがいない今、もう、スロウスに生きる意味すらない。
ろっ骨が折れた衝撃で呼吸することに激痛が走る。
命の終わりが迫ってくるのを感じる中、スロウスは口元を緩ませた。
「……わりい、な、最後の、お前の、遺言、守れなくってよぉ……」
視界がぐにゃりと歪み、スロウスの意識が暗転に落ちそうになった瞬間だった。
「スロウスさん」
いつだって求めていた、可憐な声に、スロウスの意識が再浮上する。
「さ、サーシャ?」
「スロウスさん、立ってください」
周囲には人の気配がない。ただ、声だけが死にかけの聴覚に、やけにはっきりと響いていた。
「私、言いましたよね、生きてくださいって」
やや咎めるような言い方に、スロウスは苦笑を隠せない。まさかサーシャに初めて説教されるのが、彼の死んだあとなんて。
「私の約束を、反故にするんですか?」
「いや、もう無理だろ。体、本当に動かないわ。それに、これがお前の本望じゃねーのかよ」
「本望?」
「また俺と一緒にいたくねーのか? サーシャ」
「……いてほしいです。けれど」
そこまでして、貴方の命が手折れるのは望みません、とサーシャは言う。
「もう、限界なんだ」
スロウスは微笑する。
「あの日、俺はお前に助けられた。……結果、俺よりも若くて、将来有望だったお前が死んだ。俺に、生きる資格なんてねーだろ」
「じゃあ私は、なんのためにが貴方を守ったのですか!」
「サーシャ?」
「言ってくれたじゃないですか。家族になってくれるって。私は、以前、大切な人を守れませんでした。だから、今度こそ守りたかった。なのに、そんな私の意向を無視して、討ち死になさるおつもりなんですか?」
サーシャが憤慨する。けれど、いつまでたっても彼の姿は見えないままだ。
「お願いですから、足掻いて足搔いて足搔きまくってください! つらいだろうし、苦しいでしょうけど、それでも、生きて、家庭を作って、幸せになってほしいんです! 私に与えようとした優しさを、必要としている誰かに与えてください!」
「けど」
「言いましたよね、私」
血まみれのサーシャを抱え、絶叫するスロウスに、彼は確かに言った。
『生き延びてください、私の分まで』
「私は、ずっとそばにいます。貴方の傍らにいます。ですから、スロウスさんは悲観しないでください。いつも通り、下品に何も考えず、ガハガハと笑っていてください」
サーシャがほほ笑んだ、気がした。
目が覚めた時、敵兵がスロウスめがけて刀を振り上げているところだった。
間髪入れずにスロウスは刀を上へ突き出し、敵を串刺しにする。
「……サーシャの馬鹿野郎」
勝手に死んで、勝手に生きろなんて、不条理の極みだろ。
俺のせいで死んだのに、それなのに、お前は恨みもせず、生きろとか言うのかよ。
ふざけんなよ、体ボロボロだし、吐きそうだし、眩暈するし、骨折れてるし、動けない。
けれど、あいつが、そう望むのならば。
「……生きるしかねーだろ」
地に這いつくばったって生きてやる。サーシャが望むならば、スロウスはそれを達成する。
「ありがとな、サーシャ」
敵兵に再び囲まれたスロウスは、先ほどと違い、殺意に満ちたオーラをまとい、刀を握りなおす。
何十人もの人々が束になってスロウスに襲い掛かる。
「見てろよぉおおおお! サーシャぁああああああ!」
絶叫にも近い、サーシャに生きるという意思を告げるための叫び声とともに、スロウスは敵の群れに飛び込んでいった。
血に染まった世界に、男が立っていた。
すべてが滅びた世界で、たった一人。
絶望した目をしながらも、絶望に潰されていない目をした彼の手には、一つの髑髏と、一組の婚約指輪があったという。
進むしかない。
例えどれだけつらかったとしても。
アイザック・レルガース