赤い糸
赤い糸で首を絞める。
僕は物心ついた時から赤い糸が見えた。皆一様に朱色の淡い光を帯びていて、小指からすっとのびている。
赤い糸は僕だけにしか見えなかった。幼い頃からずっと見えていたから、皆も見えているものだと思っていた。
僕がまだ四、五歳の時、母さんに「この糸ってなあに?」と訊いたら「糸?何処にあるの?」と返ってきた。散々説明しても理解してもらえず、最終的に子供の戯言だと片付けられたことが子供なりに悲しくて、泣き喚いて母さんを困らせたことを憶えている。
母さんだけじゃない。通っていた幼稚園の先生や同級生にも話しても理解してもらえなかったことから、この赤い糸は僕だけにしか見えていないんだと知った。
この赤い糸の正体がわかったのは小学生になってから。本やテレビなど多くの情報源から知識を得るようになって、所謂「運命の赤い糸」という俗信を知り、なんとなくそういうことかなと把握した。所詮小学生、運命の人=結婚相手というイメージが強かったから、赤い糸の先は結婚する人に繋がっているんだと最初は思った。
しかし、親戚の夫婦と会った時、彼等は互いに糸が繋がっていなくて別の方向に糸が引かれていた。もしかして、と思って数年後、彼等は離婚した。それでこの赤い糸が示す運命の人=結婚相手ではないことを知った。
そして中学生にあがると、祖父が亡くなった。その時に祖母に会いに行くと、祖母の小指からのびた赤い糸は祖父の亡骸の小指に繋がっていた。祖母はずっと祖父を大切に想っていた。この時から、少なくとも僕にとって赤い糸が示すのは「一生を懸けて愛し愛される相手」になった。
ただこの赤い糸は、誰にでもあるわけではなかった。赤い糸が伸びている人もいれば、赤い糸がそもそも無い人もいる。僕が今まで見てきた中ではこの二択だけ。赤い糸が誰かしらに繋がっているかそもそも無いかのどちらかだった。
ただし例外が一人だけいた。
その例外は僕だった。皆の赤い糸が見えるのだから自分がどうなっているのかが気になるのは当然。僕の場合は、赤い糸は誰かに繋がってはいなかった。しかし赤い糸が無いわけではない。僕の赤い糸は千切れていた。糸が伸びている人と同じく、僕も小指に糸が通ってきつく留まっているのに、その先を辿ると無理矢理引き千切ったようにほつれて力無く垂れ下がっている。幼い頃はあまり気にしなかったけど、歳を重ねるごとに僕と同じ人がいないことでその特異性に気づいた。高校生になって、繁華街に出て一日中街行く人達を観察したりもしたけど、やっぱり僕と同じように糸が千切れている人は見つからなかった。
そんな僕にも、人並みに彼女は出来た。
高校生になるまでに赤い糸の正体には気付いていたから、自ら恋愛に興味を持つことは無かった。当然だ。赤い糸が見えるということは、つまり誰かを好きになってもその相手に糸が繋がっていなければその人は運命の相手ではないと最初からわかるということだ。攻略条件をネタバレされたゲームをプレイしているようなものだった。事実、「いいな」と思う子がいても、自分の千切れた赤い糸を見てどうせ冷めるんだと思うと、声をかけようという気も失せた。
それでも僕に興味を持ってくれる女の子はいたから、告白されたら付き合う、というスタンスでいた。嫌いなわけではないなら断る理由も無かった。少なくとも向こうは僕に好意を抱いてくれているわけだし。
それでも僕にとって男女交際は冷めたものだった。
僕にはその子の赤い糸は見えているわけで、「好き」と言われてもその子の赤い糸は僕に繋がってはいないし、デートで求められて手を繋いでも相手の小指からのびる赤い糸は揺れるだけで僕の千切れた赤い糸とは繋がらなかった。
人間の抱く好意が一時的なものなのは当然のことだけど、それでも自分への「好き」という言葉を聞く度に、赤い糸が「どうせおまえのことは好きじゃなくなるんだ」と事実をわざわざ突きつけてくるようで目障りだった。
それでも、交際相手の女の子にとって僕に向ける好意は本気なのだから、僕一人の都合でその好意を無碍にしようとは思えなかった。だから付き合っている女の子から「好き」と言われたら、僕もそれらしく「好きだよ」と返すように努めた。おかげで僕は嘘を吐くのが上手になった。
一番きつかったのは「ずっと一緒がいいね」のような未来を語る言葉だった。そんなことを言われたって僕には繋がっていない赤い糸が見えているのだ。僕とその子がずっと一緒にいることは無い。本人にそのつもりは無いとわかっていても、僕には裏切りの言葉にしか聞こえなかった。だから未来を語られても、僕は「そうだね」としか言えなかったし、未来を語らないで欲しかった。未来を語られる度に「ああ、この人も同じだ」と勝手に期待し失望してを繰り返した。
どうやら赤い糸が見える僕だけ糸に触れることが出来るようだった。だから僕はいろんなことを試した。赤い糸を指から抜き取る方法、赤い糸を切る方法、千切る方法、繋げる方法。
先ずは自分の小指に通っている赤い糸を取り除こうとした。繋がっていないなら目障りな千切れた赤い糸なんか取り去ってしまえばいいと思ったのだ。
引っ張ったら案外簡単に取れるんじゃないかと力いっぱいに引っ張ってみた。痛いだけだった。自分の小指に穴を開けて通っている赤い糸の結び目はきつく、引っ張れば引っ張る程に指の肉が千切れそうになり痛すぎて断念した。
今度は横着せずに丁寧に解こうとしてみた。結び目に爪を引っ掛けて緩めようとしたけど、やっぱりきつくて解けない。
鋏を入れれば切れて解けるんじゃないかと裁縫道具の糸切り鋏を取り出して何度も試したけど、こちらも自分の小指を間違えて傷つけるに留まり諦めた。おかげで自分の部屋のカーペットが血で汚れた上に指にいくつも傷痕が残って見苦しくなってしまった。
赤い糸は取れない切れない。じゃあ繋げることも出来ないのだろうかとまたいろいろ考えて試した。
赤い糸を直接物理的にどうこうすることが出来ないなら、交流関係の構築の仕方によって変えられるのではないかと思った。
極端な例を言えば、僕はセックスに走った。思い返せばそんなもので糸が繋がるだなんておかしな考えだけど、身体を重ねれば愛など関係無く糸が繋がるのではないかと僕は考えたのだ。付き合った女の子だけじゃなく、たまたま知り合ったような人でも試した。好きでもない女を抱いた。でも僕の赤い糸は千切れたままだった。絡まりすらしない。するすると離れるだけだった。
そんなことを繰り返して、また新しく他の女の子と付き合うことになった。
彼女は不思議な人だった。
言葉よりも行動で示すような人。僕の傷痕だらけの小指を見て「どうしたの?」と訊いて、僕が「切っちゃった」と答えると「ふーん」とだけ言って指をさすってくれる人だった。少なからず僕は彼女を気に入っていた。
彼女とおうちデートのある日、天気が良くてぽかぽかと気持ち良かったから、僕達は一緒にお昼寝していた。僕の方が先に起きて、彼女の安らかな寝顔を見ていた。
この時、僕は彼女を殺した。僕の千切れた赤い糸で彼女の白く細い首を絞めた。
自らの手で殺めたら赤い糸を繋げられるのか試したかったのだ。だって僕が彼女を殺したら、彼女の記憶は、人生は、僕でその幕を下ろすことになる。そうすれば僕は彼女の圧倒的運命の人になれるのではないかと思った。だから殺した。
眠る彼女の首に僕の千切れた赤い糸を絡めて、力いっぱい糸を引いた。彼女の華奢な首であれば、僕の千切れた赤い糸でも絞め殺すには充分な長さだった。今までの経験で赤い糸が丈夫なのはわかっていた。実際糸は切れなかった。でも糸の通った自分の小指の先が千切れそうな程痛かった。
途中彼女が目を覚ましたけど、彼女は抵抗しなかった。何故か、僕に殺されることをただ受け入れた。
呆気無く彼女の息は止まった。僕は自分の赤い糸の先を辿った。糸は千切れたままだった。
結局、僕は彼女の運命の人になれなかった。彼女だけではない。手にかけても繋げられない千切れた赤い糸を持つ僕は、後にも先にも誰かを愛することが出来ない。これからもずっと先の見えた「好き」を与えられ、宣い続けるのだろう。
そんな時間が続くならと僕は思った。
部屋の上方には横木があった。僕はそこに自分の赤い糸を結んで輪を作った。部屋にあった本を適当に積み上げて足場を作ってのぼる。丁度輪が僕の顔の目の前の高さになる。
僕は彼女を絞め殺した赤い糸の輪に自分の首をくぐらせた。大丈夫、この赤い糸はたちの悪い呪いみたいに丈夫なんだ。苦しまずに終わると思う。これで、彼女と同じ。
積み上げた本を蹴る。視線が落ちる。
意識が途切れる直前、こき、という小気味良い音が聞こえた、気がした。
この短編は「赤い糸で首を絞める」「赤い糸で首を吊る」というフレーズを使いたいが為に書いたものです。
淡々とした主人公の狂気を感じて下されば幸いです。