Prologue
ベッドに横たわる小さな体に視線を送る。すうすうと、安らかな顔で寝息を立てていた。
「――左腕の再生治療は施した。恐らく、問題なく動かせるはずだ」
僕の背中に、凛と透き通った声がかけられる。その声の主は躊躇うような間を開けてから、言いにくそうに続けた。
「……だが、傷跡のほうは時間が経ちすぎていて完全には消せないものがいくつか残っている……すまない」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女を見ていられなくなって、僕は彼女に言葉を返す。
「仕方ないですよ。ミシェルさんの医療技術の高さは、僕もよく知っていますから。そんな顔しないでください」
ミシェル・ラインハット。彼女は僕のパーティのメンバーで、再生魔法と強化魔法に長けている。治せなかったことに申し訳なさそうな顔をしているけれど、彼女が治せないのなら、それは僕なんかには到底治せるようなものではないのだ。並大抵の再生魔法使いでは彼女の腕には及ばない。
「しかしこの子……いったいどこから拾ってきたんだ。とても日常生活でつくような傷の量ではなかったぞ」
「この……この子は、この前の依頼主の……奴隷だった女の子です」
「……そうか」
おおよそ想像はついていたのか、恐る恐る返した僕の言葉に、彼女は一言だけ僕に返した。
僕――柏木玲司は一度死んでいる。ラノベなんかでよくある話だ。「あまりに不幸だった僕の人生を哀れんだ神様が、違う世界に転生させた」と、それだけの説明で事足りる。
元居た日本で僕は、高校陸上部の長距離選手だった。高校もスポーツ推薦で引っ張られたほどだから、それなりに期待はされていたんだと思う。
転機になったのは、高校一年生の秋だった。新人戦を間近に控えたこの日、僕の所属する陸上部は普段より長めに練習をしていた。すっかり暗くなった帰り道の途中。僕が歩道で信号待ちをしていたその目の前で、乗用車二台が衝突した。ぺしゃんこに潰れた車がぶつかったはずみで僕のところに突っ込んできて。経験したことのないような衝撃が体を貫いて、目の前が真っ暗になった。
一命こそ取り留めたものの、僕はその事故による脊髄損傷で首から下が動かせなくなっていた。
医者の口から放たれたその言葉が、僕には死刑宣告のように感じられた。もう走れないと言われたときの絶望感を、僕は一生忘れることができないだろう。
それから僕は喪失感と虚無感に打ち勝つことができずに、心も体も潰れていった。一年と少しくらい経った時限界が来て。心不全だったと、僕を転生させた神様が言っていた。
調度品の一つもない真っ白い壁に囲まれただけの部屋に気が付くと立っていた僕は、自らを神様と名乗るその女性に「あまりに不幸な人生だと思ったから、違う世界でもう一度やり直せるようにした」という旨のことを告げられた。
不幸だったね。僕は何度言われれば済むのだろう。
見舞いに来た親族はみな口を揃えてそう言った。不幸だ。可哀想に。そんな簡単な言葉で全て片付いてしまうのが、僕はどうしても我慢出来なかった。絶望感も、喪失感も、悔恨も、羨望も。全てを憎しみに変えて必死に加害者を憎んで生きてきたのに。不幸だというのなら、誰を憎めばいいというのだ。不幸だったから仕方ないね、で割り切れるほど人生への執着を捨ててはいなかった。
「不幸だったなんて、そんな一言で片付けないでください!」
だから、僕は反射的にそんな言葉を投げつけていた。
怯んでしまった彼女の顔を見て、そう口にしたことを後悔した。
「すみません。つい」
咄嗟に謝ると、彼女は首を振って。
「申し訳ありません。もう少し言葉を選ぶべきでした……それで、転生の件ですが」
申し訳なさそうな顔をした彼女は、僕の返答を促した。
「……お願いします。僕もまだやり残したことはたくさんありますから」
理不尽に他人に人生をめちゃくちゃに狂わされたまま終わってたまるものか。向こうの世界で何が待っていても、それでも願ってもない好機なのは間違いなかった。
僕の返答を聞いて、彼女は神様というより天使のように微笑んだ。
「わかりました。あなたに幸あらんことを――」
部屋が白く輝きだして、僕の意識が遠くなる。
この神様とはもう二度と会うことはないのだろう。それだけ少し、残念に思った。