新天地にて
一か月後。
東京近辺。かつてのベッドタウン。今は再開発がいつ終わるとはなく続いている。
そこに引っ越していた。
生活はベッドタウン。事務所は別。
事務所は東京の――ミノリには慣れないビル群の中だ。
あまり綺麗な事務所ではない。
元は疚しい事に使われていたらしい、おかげで安い物件だった。
それほど規模の大きくない、税理士、弁護士、司法書士、あたりの事務所と繋がりを作るために奔走し、法的には非合法との境界線あたりの得意先も開拓して回った。
給与の不払いあたりから、何でも受けてはどこかに投げる。回す。
返せない借金、取り立て、DV、稼いだ金を誰かに巻き上げられる。顧客には女性も多かった。
ミノリとしては複雑な所もあったが、扇は女性客に受けがいい。実に複雑だ。
あっと言う間に三か月が経った。
魅美は置いて来てしまった。心得ているようで、「どこに居るのか」という質問はして来ない。今の所暗号化最強、というメッセージングアプリで時々会話する。
簿記と司法書士は資格を取ると言っていた。いずれ機械に代わられるとしても、どちらかだけでも知らないよりは扇の負荷が減る。
「いつかは猫野事務所に来るつもり」だという主張が止まらないので、ミノリはお茶を濁してある。三人、ひょっとすると四人、食べられるくらいには仕事は増えていたけれども。
とある女性の顧客がストーカーになった、という件で、扇が小部屋で話していた。部屋は三室。受付に使っている広い部屋と小部屋が二つ。
ミノリとしては、毎回嫉妬めいた感情を抱く時期は過ぎた――はずだ。
「なーんか女性客だと相談時間長くない?」
独り言を言って、事務所のBGMを「落ち着けるクラシック」に変えた。
「過去、何人か無理矢理付き合った、という筋金入りらしいです。そのストーカーは」
扇がコーヒーを飲むついでに、ミノリに簡単に教えてくれる。
コーヒーメーカーは受付の部屋に有る。
「……なんでそうなっちゃうの?」
「寂しい、つらい、そこに付け込む。追いかけられているうちにストックホルム症候群になる、他にも理由はあります。助けるふりをして第三者が上がり込む、という組み合わせもある。最初から示し合わせてやってるわけですね」
最後のものは殆ど詐欺だ。詐欺系の事案も事務所で扱ってはいる。
大手では面倒だから相談にも乗らない、そういう顧客を相手にしている以上、仕方がない事ではある。
「罠のタイプⅢで行きます。女性が、自室に上げそうになっているんですよ。情が移る前に手を打たないと」
――ということは、とミノリは推測する。裏に別の人はいない。組織でやっているわけではない。
転がり込んでいつか金を巻き上げる、そっちに行く方だ。
方法の細かい所は――部外秘。
バレたら捕まる。代行してくれる誰かが、だ。
二、三回の手数はかかったけれど、ストーカーのスマホは丸見えになった。
そのうちにデータはぐっちゃぐちゃになる。もう、連絡先は消えている。
あれこれ忙殺するのも、手段の一つだ。
ストーカーが女性に何か言いたくても――やればやるほどスマホは壊れる。メッセージ一つ送れない。
店は移ってもらった。そう簡単には見つからない。
――それから二週間ほど。
ようやく――と、単純に喜べるものではないが、「事件」らしいものが舞い込むようになった。遥かに巻風刑事が手を回してくれていた。どこにでも手柄を上げたい人はいる。
扇が相談を二件ばかり片付け、午後のコーヒーを飲んでいる時だった。
電話が鳴った。
意外に廃屋はある、とミノリは驚いていた。こんなに人が多いのに。
「僕らが住んでいるあたりにも廃墟は多いですよ?」
扇は事もなげに言う。
一応現場を見に来ただけだ。あらましは既に坂道碑銘刑事から聞いていた。
坂道刑事は苦労人らしい。派手で報道もされる事案は回ってこない。
「道から外れるとそうなるもんですね」
と、一瞬苦そうな顔をして扇が言った。
現場近くの喫茶店で話をしていた。
「――現場は見て貰えたかな」
坂道刑事はメモを取り始める。
「はい。以前お聞きした通り、出入りは可能ですね」
「そこなんだよ。死因は餓死。身体には外傷らしいものはない」
――扇がミノリを横目で見る。
その程度なら、何でも可能だ。
たぶんそう言いたいのだ、とミノリにはわかる。
まだ、巻風刑事ほど何でも言える関係ではない。丁寧に話を進めているのだろう。
「薬物は? どうでしょう」
「今の所検出はされていないな。何を使うんだ?」
「……いえ、念のためです。被害者はいつでも逃げられるのに餓死した。まず最初のポイントはそこになりますか」
「そうだな」
扇が何か言いたそうにして、途中でやめた。
巻風刑事ならば「わかりました。殺せますね」で通じることもあったのだ。
「概況はわかりました。僕にもそれなら可能……」
ミノリがスーツを引っ張っていた。
「いえ、熟考してみます」
「頼むよ」
それから三十分。扇は事件と関係がありそうなどうでもいい――ミノリの感想だ――話をして、考えるふりを続けていた。
「失礼でしょ。ダメ、最初っから」
ミノリが睨む。帰途についていた。中古車だったけれど、電車の方が便利かもしれないけれど、以前の町では移動は全部車だった。その習慣もあって車で戻っていた。
「犯人から当たった方が早いですね。絞り切れない。――何でもそうですが。僕の頭が悪い」
「何を言ってるの? ……なんか、最近、やってなかったね。特殊能力。……緊張する」
申し訳なさそうに扇はミノリを見る。
「いいから気にしない」
「折角の能力ですからね。僕らの売りはミノリさんですよ」
「複雑だけど……うん。で、最後、カツカレーの話に成った時はどうしようかと思った。よっぽど話が続かなかったんでしょ」
「ルジボーが懐かしいですね。まあ、美味しい店は多いですけどね。事務所の周り」
ビール一ダース。コーヒー6ℓ。事務所の近くで買い込んだ。店が多いのは助かる。
人混みが怖いミノリには、混乱の種でもあるけれども。
「……ねえ、お客さん来たら? どうする?」
「しばらく閉めときますか」
「何でゴザ敷いてるの? 漏らさないよ?」
「なるべく、以前と同じ感じにしようということです。邪魔でしたか?」
「……いいけど。言われてみると懐かしい感触」
大机と椅子は畳んで壁に立てかけてある。
「卓袱台あったほうがいい……頑張るけど」
「買っときます。床にビール置くと雰囲気がないですね」
「ここ狭いから、なんか余計緊張する」
「……無理だったら言って下さい。大体は坂道刑事から話を聞いてあります。ただの雑談じゃなかったんですよ」
「何? あ、そうそう、ヒント」
「三年前からですね、家賃の滞納があって追い出されて、その後どこにいたのか消息不明でした」
「だいたいわかっちゃったけど、確かに犯人は見つけにくい……かも……90%。汗かいてきた」
「今日は珍しく暑かったですか。エアコン使いましょう」
「大丈夫。……集中できてる。ん……無理無理無理無理無理無理……」
事務所のトイレは狭い。ミノリが飛び込んで行った後、名前と住所を扇はメモしていた。
「大体ネットで地図見えるのはいいですね……まぁまぁの家……坂道刑事次第かな」
別件がないと踏み込めない?
扇は暫く天井を見ていた。
坂道刑事を試すようだけれども、そのまま伝えてみるか。ダメならば手伝う。
珍しく、ミノリと、犯人らしい者の住所まで車で向かった。
「家と言うかビルと言うか……半地下付きで実質四階建てですか」
「ナントカ研究所って凄いね。長い名前」
「……見つかると面倒そうですね」
塀の陰から見ていた。
数人、見慣れない白の服を着た誰かが出入りしていた。
「そういうことか。ここからどうするかは坂道刑事に任せる……いや」
扇が足音を殺して、広い庭――ブロック塀で囲まれている――まで近づいた。
何に使うのか分からないくらい長い自撮り? 棒で塀の中の写真を撮る。
塀の上には鉄条網まで有った。
「これなら門を開けさせれば踏み込めますよ」
帰りの車の中で、扇は言った。写真を見ていた。
「人を植えてる……なにこれ」
「首だけ出して埋めるという刑が昔ありました」
「叫べば逃げられるんじゃない? あ、そっか」
「そうですね」
坂道刑事には住所だけを渡した。行けば分かる。
大幅に捜査は短縮できるだろう。
「手付で半金で結構です。解決したら残りを」
そう言って、謝礼を貰って帰った。
今度はかなり高そうな喫茶店だった。むしろ、レストランとでも言うべき場所だった。
「何にも考えられないくらい、気力ナシって感じの写真だったね」
「――具体的にどうやったかは、それこそ無数に手段があります。要するに――」
「絶望。それだけでしょ。似たようなのは昔もあったよね」
「閉じ込めて悪意を浴びせれば、薬なんかいらない。すぐにボロボロになる」
だんだんだん、と事務所のドアが叩かれる。
ミノリは止まりそうな心臓をバクバク言わせて、
「はいMN探偵事務所……魅美じゃない! 電話してから来て。苦情かと思ったわよ」
ドアを開けると、溜息を吐いた。
「休み取って来ました。将来の職場がどうかなって」
「……縮んだ寿命返して。そっと叩いてね、ドア」
「綺麗じゃないすか!」
「そう? 頑張って掃除はしたけど」
「ああもうボク明日から来たい」
「魅美は、植えても叫ぶタイプかな。植えられるまで半年はかかる」
「植える? なんですか扇さん」
「……何でもない」
「泊まりたいんですけど、どの部屋なら寝ていいですか?」
「……事務所には、前みたいに便利な部屋はないの。いいわ。後で家……賃貸だけどね、連れてってあげる」
「そう言われると狭いですね。ここ」
「無駄に広くてもしょうがないでしょ? 二人しかいないのに」
「半年前なら言わなそうなこと言いますねえ。ミノリさん」
「――慣れてないけどね」
「それより、やったんですよボク」
「資格試験? もう?」
「――マラソン大会が開催されて、そこで一位」
「短距離じゃないのあなた。っていうか目立たないでお願いだから」
「目立ったのはごめんなさい。……最近イベントが多くて。賑やかです。あっちも」
「……三か月? 四カ月? でそんなに?」
「一日で一軒、家建ってる感じです。二日くらいかな」
「もう、全然違う場所でしょう?」
「そうでもないですよ。でもショッピングモールは綺麗」
「事件はどう?」
「……もう誰も気にしてないし、新しい事件は起きてないです」
「――そうか。なんか、変な感じ」
もう違う場所だ。会話を聞いていた扇は、コーヒーを啜る。
何もかも変転する。少しばかり加速しなくても、いずれ、新しい町になっていた。
人工的天変地異。人為的驚天動地。
あの「謎の女の子」はどうなっただろうか。
まだ「古きもの」を守る側にいるだろうか。
林立するだろう高層ビルは、新たな「森」だ。「山」だ。叢雲だ。
血で血を洗う戦いではなく、資金の水脈をどこへ溢れ流していくか。
誰が谷間を作り人を集めるか。岩を砕き石を穿つか。
流される前に流れ着いたこの場所でも、同じ事は日々続いている。
ずっと速く。濁流のように。
溺れてしまわないように。扇はミノリと魅美を見詰めた。